Share

第2話

Author: 炭酸が抜けたコーラ
ポケットの中でスマホが一度、微かに震えた。

取り出すと、画面がぱっと明るくなり、貴臣からのメッセージが表示された。

【葵が帰国して最初に手掛けた案件を、お前たち姉弟が台無しにしたんだ。世間は今、彼女の実力を疑っている。速やかに謝罪と説明動画を公開しろ。そうすれば物議も鎮まる】

画面越しであっても、貴臣の冷え切った眼差しがありありと浮かぶ。

心愛はその一文を、じっと見つめ続けた。指先がかすかに冷たくなる。

台無しにした?

たった一人の弟が濡れ衣を着せられ、投獄されたというのに、貴臣の目には、それは葵のキャリアについた汚点としか映っていないのだ。

その上、自分に謝罪しろと言う。

胸の奥に何かが詰まったようで、返信を一文字打つ気力すら湧かなかった。

彼女は躊躇なく、削除ボタンをタップした。

ふと、祖母・深水文子(しみず ふみこ)の顔が脳裏をよぎる。

俊輔の事件が起きて以来、心愛は文子にだけは事実を伏せ続けてきた。俊輔は遠方で缶詰の研修に行っていて、数か月は帰らない――そう説明してある。

文子は高齢で、心臓も弱い。強い刺激に耐えられない。

これ以上、何かあってはならない。

そう思った瞬間、心愛はタクシーを拾っていた。

「運転手さん、清水町まで」

清水町は旧市街にあり、街灯さえどこか薄暗い。車を降りると、心愛は古びた集合住宅の中へ急いだ。

三階まで一気に駆け上がり、玄関の前に立って鍵を取り出す。

だが、差し込んでも回らない。

中から鍵がかかっている。

胸を撫で下ろす。おばあちゃんは家にいる。

鍵をしまい、ドアを叩いた。

「おばあちゃん、帰ったよ」

返事はない。

もう一度叩き、少し声を張り上げる。「おばあちゃん?私だよ、心愛だよ」

嫌な予感が胸の奥を這い上がる。祖母は少し耳が遠いが、この音に気づかないはずがない。

心愛はスマホを取り出し、文子の番号を押した。

「おかけになった電話は、現在応答がありません……」

諦めきれず何度もかけ直すが、返ってくるのは同じアナウンスばかり。不安が雪だるまのように膨らんでいく。

「おばあちゃん!中にいるの?開けて!おばあちゃん!」

その時、隣のドアが「ギィ」と音を立てて開き、隣人の主婦・田中優子(たなか ゆうこ)が顔を覗かせた。眠たげな目で心愛を見る。

「心愛ちゃん、そんなに叩かなくても……文子さん、家にいないわよ」

心愛は勢いよく振り返った。

「優子さん、おばあちゃん、どこへ行ったんですか?何かご存じですか?」

「さあねえ……」優子はあくびを噛み殺しながら、ふと思い出したように言った。「そういえば、今日の午後、スーツ姿の男の人たちが何人か訪ねてきたのよ。あなたの会社の同僚だって名乗って、何か動画を見せてたわ……」

動画――

心愛の心臓が強く跳ねた。嫌な予感が、確信へと変わっていく。

「文子さん、それを見た途端に慌てて出かけていったの。どこへ行くのか聞いても答えなくて、『俊輔くんに何かあった。心愛ちゃんのところへ行かなきゃ』って……遠ざかる後ろ姿を見たけど、あんなに足腰が弱いのに、ずいぶん必死だったわ……」

その先の言葉は、もう心愛の耳に届かなかった。

知られてしまった。

きっと、俊輔が連行される動画を見たのだ。

心愛は通り沿いを二時間以上探し回ったが、文子の姿はどこにもなかった。

どうすればいい。

もはや打つ手はなく、貴臣を頼るしかなかった。

桐生家の別荘に着いた時には、すでに真夜中近かった。

華やかな彫刻が施された鉄門の前に立ち、心愛は自分が惨めな道化に思えた。数時間前、毅然とメッセージを削除し、たった一度くらいは意地を通せると思っていたのに。

現実には、貴臣がいなければ、祖母一人さえまともに探すことができない。

震える手でインターホンを押すと、出迎えたのは桐生家の執事だった。心愛の狼狽ぶりに、何も言わず中へ通してくれる。

リビングは煌々と明るかった。

貴臣はソファに座り、赤ワインのグラスを手に経済ニュースを眺めている。こちらに視線すら向けない。

心愛は靴を脱ぐ間も惜しみ、駆け寄った。焦りで声が震える。

「貴臣……おばあちゃんが、いなくなったの!」

貴臣は顔を上げ、値踏みするように心愛を見た。その狼狽えた姿に、眉をわずかにひそめる。

「年寄りだ。近所に茶でも飲みに行ってるんだろう」淡々とした声。

「違うの!俊輔の件を知られたのよ。誰かに動画を見せられて、午後から出かけたまま帰らない。電話も繋がらない。どこを探してもいないの!」

涙が滲むのを必死に堪え、心愛は訴えた。

「お願い……一緒に探して。あなたなら、いくらでも手だてがあるでしょう……」

その時、階段から軽やかな足音が降ってきた。

「貴臣、ゲストルーム、日当たりが悪すぎるわ。別の部屋に変えてもいい?」

葵がシルクのナイトガウンを纏い、手すりに手を添えてゆっくりと下りてくる。

心愛の視線が凍りついた。

貴臣は葵を見るなり表情を和らげ、立ち上がって歩み寄ると、自分のジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。

「葵は帰国したばかりで、まだ家が決まっていない。数日、うちに泊まる」

衝撃を受けている心愛に向かって、天気の話でもするかのような口調だった。

数日、泊まる?

喉に綿を詰め込まれたような息苦しさを覚える。

だが、今はそれどころではない。心愛の胸は、祖母の安否で埋め尽くされていた。

心愛は深く息を吸い、懇願するように言う。

「貴臣、お願い……先におばあちゃんを探すのを手伝って。高齢で心臓も悪いの。外に一分いるごとに、それだけ危険なの!」

切迫した声に、貴臣はようやく眉を寄せ、頷いた。

「分かった。佐藤に監視カメラを当たらせる」

貴臣は社長補佐の佐藤隆(さとう たかし)に電話をかけ、車のキーを取る。

「俺も出る」

心愛の胸にぶら下がっていた重石が、わずかに軽くなった。

だが、二人で外へ向かおうとした、その瞬間。背後の葵が、苦しげな声を上げた。

「あ……」

次の瞬間、力が抜けたように、その場に崩れ落ちる。

「葵!」

貴臣の反応は速かった。即座に駆け寄り、倒れかかる彼女を抱きとめた。

「どうした?」彼の声には明らかな緊張が滲んでいる。

葵は貴臣の胸に寄りかかって、真っ青な顔で、弱々しく微笑んだ。

「大丈夫……いつもの持病よ。低血糖……今日の出廷で、少し疲れただけ……そっちの用事を優先して……私のことは、気にしないで……」

そう言われるほど、貴臣の眉間の皺は深くなる。

彼は葵を抱いたまま、青白い顔で入口に立ち尽くす心愛を一瞥し、冷酷な口調に戻った。

「ただの年寄りだ。どこかで世間話でもして、スマホの電池が切れただけだろう。大げさなんだよ」

貴臣は、自分の決断が間違っていないと確信するかのように、一拍置く。

「俺は葵を病院へ連れて行く。お前は自分で探せ」

そう言い捨てると、二度と心愛を振り返ることなく、葵を抱えて車庫へと大股で去っていった。

がらんとしたリビングに一人残され、心愛の手足は氷のように冷たくなった。

たった今ともった最後の希望は、貴臣の手によって無慈悲に踏み消された。

結局、祖母と「病気のふりをする女」を天秤にかけ、貴臣は迷わず後者を選んだのだ。

自分も、自分の家族も、貴臣の心の中では取るに足らない存在にすぎなかった。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第142話

    葵は貴臣の説得に成功したことに、内心では有頂天になっていた。声は蜜のように甘く、耳に絡みつく。「貴臣!やっぱり、世界で一番私を大切にしてくれるのはあなただけだって、分かっていたわ!」貴臣は、自分の中にわずかに残っていた情を揺さぶられたことに加え、彼女の背後にある加賀見家との結びつきという将来性も無視できず、ついにはそのわがままを許してしまった。彼はスマートフォンを取り出すと、直接隆へ電話をかける。「明日の朝一番で実家に戻り、俺の戸籍謄本を持ってこい」その口調には、いかなる拒絶も許さぬ強い圧があった。通話を終えた直後、雅子が奥の部屋から姿を現した。どうやら今の会話を聞いていたらしく、探るような視線を向けてくる。「朝っぱらから戸籍謄本なんて、何に使うつもりだい?」隆は隠し通せるはずもなく、頭を下げてありのままを答えた。「社長のご指示です……葵さんが戻られたそうで」葵が戻った?その一言が引き金となり、雅子の思考は瞬時に繋がった。事態が好転する予感が、鋭く胸を打つ。あの孫も、ようやく目を覚ましたらしい。「分かったわ」彼女の表情は一変し、曇りを払うように明るさを帯びた。収納ポーチから貴臣の戸籍謄本を取り出し、隆へ手渡す。その声音には満足と、どこか急かすような響きが混じっていた。「行きなさい。これが無事に済めば、あんたにも相応の褒美を用意してあげるよ」翌朝、隆は貴臣からの連絡を受け、戸籍謄本を直接葵へ届けるよう命じられた。内心では不審を覚えつつも、深く問いただすことはできず、ただ愚直に任務を果たす。加賀見邸の門前でそれを受け取った葵の顔には、隠しきれない勝ち誇った笑みが浮かんでいた。部屋へ戻るや否や、彼女はすぐさまある番号へ電話をかける。「手に入ったわ。計画通りに進めて」受話口の向こうで、紘の声が弾んだ。「やるな、葵!効率が良くて助かるぜ。安心しろ、残りは俺に任せろ。完璧に仕上げてやる!」三日後の深夜、南川埠頭。桐生グループの私有地であるその場所は、人気もなく、ひっそりと静まり返っていた。そこへ一台の白いマセラティが滑り込むように現れ、桟橋の先で停車する。ライトが消えると、運転席に座る葵の端正で冷酷な顔立ちが、闇の中に浮かび上がった。彼女は漆黒の海を見つめながら、苛立たしげにハンドルを指先で

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第141話

    貴臣が今にも怒りを爆発させようとしたそのとき、スマホが別の着信を告げた。画面に表示された名前は――葵。貴臣はすぐさま心愛に対し、苛立ちを隠そうともせず捨て台詞を吐いた。「……最後にもう一度だけチャンスをやる!」そう言い捨てて通話を切り、葵からの電話に出ると、その声は一瞬で柔らかなものへと変わった。「葵、どうした」「貴臣、今夜ようやく名雲に戻るわ。お披露目パーティーの準備も、すべて整ったの」受話口の向こうから、甘く可憐な声が響く。「今夜、時間はある?一緒に食事がしたいの。寂しかったわ」苛立っていたはずの貴臣も、その優しい言葉に毒気を抜かれ、思わず承諾の返事をした。その夜、市街地で最も高級とされる回転レストランは、クリスタルシャンデリアの光に満ちていた。葵は真っ白なワンピースに身を包み、繊細な薄化粧を施している。その姿は、ひとしずくの雨にも散ってしまいそうな白百合のようで、あまりにも儚く、思わず守ってやりたくなるほどだった。彼女は潤んだ瞳で向かいの貴臣を見つめ、かすかに声を震わせた。「……貴臣。私、家族が見つかったというのに、少しも嬉しくないの」「どういうことだ」「お母さんが……私に政略結婚をさせようとしているの」その言葉とともに、葵の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。「相手は年老いていて、頭も禿げた醜い男なの。調べたら、私生活もかなり乱れているって……嫌よ、そんなの!」彼女は貴臣の袖を掴み、それが最後の希望であるかのように縋りつく。「お願い、助けてください。形だけでもいいの、私たちが結婚したことにしてくれない?お母さんには、私にはもう心に決めた人がいるって嘘をつくの。お母さんも、私がずっとあなたを想っていたことは知っているから、きっとそれ以上は無理強いしないはずよ」貴臣は眉をひそめた。「加賀見家の当主は温厚な人物だと聞いていたが。そんなことをするとは思えないが」「私も最初はそう思っていた。でも、家に戻って数日もしないうちに、こんな話を無理やり……」「だが葵。俺はすでに結婚している。心愛が離婚を認めるはずもない」「分かっている、だからこそお願いしているの」葵は即座に言葉を重ねた。その顔には、計算し尽くされた無垢な表情が浮かんでいる。「本当に入籍しようなんて言っているわけじゃないわ。心愛さ

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第140話

    今夜の食事は、心ゆくまで堪能できるものだった。並べられた料理の数々は、あのとき疲れ切っていた自分の味覚を、的確に癒してくれた。暁が見つけてくれたあの店は本当に素晴らしい。またいつか必ず訪れようと、心愛は胸の内で密かに決めた。……時は少し遡る。暁と心愛が連れ立って店を後にし、路地の角に姿を消した頃――それまで半歩も近づけずにいた店員が、ようやく安堵の息をつき、テーブルの片付けに現れた。若い店員が、ほとんど手つかずのまま残された贅沢な料理を眺め、小声で思わず漏らす。「あの男性、本当に羽振りがいいわね。うちの店、ひとり五桁は下らないのに、一人の女の子のために、まばたき一つせず貸し切りにしちゃうなんて」少し年長の店員が、手際よく食器をまとめながら、からかうように笑った。「羨ましいの?だったらあなたも、それくらいのお金持ちを見つけなさいよ。貸し切りどころか、店ごと買い取ってプレゼントしてくれるような人をね」二人が冗談を言い合っていると、マネージャーがやって来て声をかけた。「何をしているんだ。さっさと片付けて、早く帰りなさい」……十五夜のひとときの休息は、まるで鍵のように、心愛の中で固く閉ざされていたインスピレーションの扉をこじ開けた。マンションに戻っても、彼女はすぐには眠りにつかなかった。目に焼き付いた風景、揺れる灯籠、そして夜空に弾けた花火の一瞬の光と影――それらが脳内で交差し、ぶつかり合い、やがて奔流となって溢れ出す。パソコンを開いたとき、思考はかつてないほど澄み渡っていた。ペンは画面の上を飛ぶように走り、線は滑らかに、これまでにない生命力を帯びて広がっていく。古典的な雲の紋様は解体され、シャープな幾何学ラインと融合する。伝統的なボタンの意匠は大胆に拡大され、極めて現代的なロックのデザインへと昇華された。この夜、心愛はほとんど一睡もしなかった。翌朝――徹夜明けの疲労と、創作後の高揚を抱えたまま出社した心愛が、新たなデザインを会議室のスクリーンに映し出すと、理恵と碧は思わず息を呑んだ。図面の上には、古典的な情緒と現代的な鋭さが完璧に調和していた。激しくぶつかり合いながらも、異様なまでの美しさを湛えた造形がそこにある。碧は口元を押さえ、瞳を羨望に輝かせた。「深水さん、神様でも降りてきたんですか?完

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第139話

    「はっきりした返事を聞かせろ!」「こうしましょう」葵は脳を高速で回転させた。「東海から船で戻ってきて。あちらなら検問もそれほど厳しくないわ。三日後の夜十時、南川埠頭に来て。私が自分で車を出して迎えに行くから。それでいいでしょう?」紘は向こうで算段を巡らせると、満足げに鼻を鳴らした。「……まあ、それならいいだろう。葵、やっぱりお前はいい子だな」電話を切った瞬間、葵の瞳に殺意が閃いた。自分で迎えに行く?ええ、もちろん。私の手で、あの世へ送ってあげるわ。……一方、花火が打ち止めとなり、川辺には再び静寂が戻っていた。暁は心愛を連れ、路地の奥深くにひっそりと佇む創作料理の店を訪れた。店内は広くはなく、いくつかの卓が置かれているだけだが、古色を帯びた佇まいにはどこか雅やかな趣が漂っている。やがて料理が次々と運ばれてくる。鱸の酒蒸し、若鶏と栗の琥珀煮、ずわい蟹の銀あん豆腐――いずれも、かつて心愛が好んでいた味ばかりだった。並べられた皿を見つめ、心愛は呆然と呟いた。「……どうして私の好みが分かったんですか?」暁は彼女のために料理を取り分けていた手を一瞬止めたが、すぐに淡々と答えた。「あなたにあれだけ何度も飯を作ってもらったんです。嫌でも覚えます」そして、珍しく穏やかな口調で付け加える。「以前はあなたが私を世話してくれた。この食事は、そのお返しです」簡潔な言葉だったが、箸を握る心愛の指先には、わずかに力がこもった。凍りついていた心の湖面に、小さな石が投げ込まれ、静かな波紋が広がっていくようだった。食後、暁は車で彼女をマンションまで送り届けた。車が階下に停まると、心愛はシートベルトを外し、そのまま部屋へ戻って残業を再開しようとした。だが、暁が手首を掴み、引き止める。「戻って寝なさい」心愛は手を振りほどこうとした。「ダメです、原稿を仕上げないと」暁は眉を上げ、再び自分の殻に閉じこもろうとする彼女の様子を見て、いつもの毒舌を解禁した。「加賀見グループは社員を搾取するようなブラック企業じゃない。脳が疲れ切れば回転も止まる。あなたが会社で過労死でもしてみなさい、法務の私は徹夜で社員補償協議書の対応に追われることになります。ボーナスを削られるのは御免です」その屁理屈に、心愛は思わず吹き出した。胸の奥に溜まっていた暗雲が、

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第138話

    加賀見邸。静香との和やかなアフタヌーンティーを終えたばかりの葵は、自分のために用意されたピンクの部屋へ戻るや否や、顔に貼り付けていた甘やかな笑みを一瞬で拭い去った。窓辺へ歩み寄り、庭で植木職人に何やら指示を出している母の姿を見下ろす。その瞳に、かすかな苛立ちがよぎる。こうして「聞き分けの良い娘」を演じる芝居は、客の相手をするよりもよほど神経をすり減らす。バッグの中でスマートフォンが震えた。非通知設定の暗号化された回線だ。葵はそれを取ると、部屋の奥へ移動し、声を潜めた。「もしもし」受話器の向こうの声は焦りを帯びていた。「葵さん、加賀見本社の技術部が本日午後、デザイン部を一斉点検しました。仕込んでいたプログラムが発見され、真白も解雇されています」「解雇?」葵は眉を上げたが、驚きはほとんど見せなかった。「ええ。木村が自ら処理に当たったようです。対応はかなり迅速でした」葵の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。見つかったところで何だというのか。佳穂のような役立たずは、もとより使い捨ての駒に過ぎない。「構わないわ」彼女は淡々と相手の言葉を遮った。「原稿は手に入った。それで十分よ」電話の向こうの主は、ほっと息をついたようだった。「では、次は……」「私の指示を待ちなさい」そう言い捨てると、葵は一方的に通話を切った。彼女はウォークインクローゼットへと足を運び、壁一面に並ぶオートクチュールのドレスを眺める。今頃、心愛はさぞ火のついた蟻のように右往左往しているだろう。一週間でまったく新しいデザインを仕上げる?――笑わせる話だ。彼女が望んでいたのは、まさにこの状況だった。心愛を窮地に追い込み、絶望の中でもがかせる。その間に、自分は次の計画のための時間を稼ぐ。機嫌よく披露パーティーのドレスを選んでいると、再びスマートフォンが鳴った。画面に表示された「紘」の名を見て、葵は露骨に眉をひそめる。――しつこい、愚か者。出るつもりはなかったが、着信は執拗に鳴り続けた。出なければ、いつまでもかけ続ける気配だ。葵は深くため息をつき、通話ボタンを滑らせた。声は氷のように冷たい。「……何の用?」すぐに、受話器の向こうから紘の酔いの回った愚痴が流れ込んできた。背景には麻雀牌のぶつかり合う音が混じっている。「葵、会いたく

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第137話

    心愛は呆然とした。食事――昨夜の電話で、彼が「明日戻る」と言ったこと、そして一緒に食事をしようと約束したことを、そのときになってようやく思い出した。あれほどはっきりと約束したのに……完全に失念していたのだ。「ごめん……忘れていました」彼女はうなだれた。「昂一から聞いています」暁はそれ以上追及することなく、椅子を引き寄せて彼女の隣に腰を下ろした。そして弁当箱の蓋を開ける。「今日、デザイン部で起きたことは、あなたのせいではありません」彼女の好みの香りが、ふわりと漂った。心愛は彩り豊かな料理を見つめたが、食欲は微塵も湧かなかった。「……食べられません」暁が眉をひそめる。「どうしてです?」「デザインをすべてやり直さなければならないのに、インスピレーションがまったく湧かないんです」心愛は画面上に散乱する素材を見つめた。頭の中はもつれた麻糸のようで、何を掴もうとしても指の間をすり抜けていく。暁はそれ以上、何も言わなかった。彼は立ち上がると、心愛のノートパソコンをぱたりと閉じ、驚く彼女の目の前でその手を迷いなく取った。「来てください」「でも、残業して進めないと間に合わないんです!」心愛は反射的に手を振り払おうとした。だが暁は振り返らず、有無を言わせぬ力で彼女を外へと連れ出した。その沈黙は、どんな言葉よりも強く響いた。車は地下駐車場を出て、夜の車列に溶け込んだ。窓の外を流れるネオンを眺めながら、心愛には彼がどこへ向かっているのか見当もつかない。やがて車が止まったのは、古い街並みが残る一角の入り口だった。多くの人々が行き交い、観月祭を控えた街は、ひときわ賑わいを見せている。暁に手を引かれて車を降りた心愛は、目の前の光景を茫然と見つめた。そしてようやく気づく。今日は、十五夜なのだ。暁が手を離し、彼女に向き直る。道沿いに並ぶ竹灯籠の明かりが、彼の深い瞳に温かな光を落としていた。「仕事のことは一旦忘れなさい」彼は静かに言った。「今日は祭りです」心愛は彼を見つめ、それから周囲に目を向けた。笑顔で行き交う家族連れ。その光景に、胸の奥がそっと温められるような気がした。最後に「祭り」を味わったのは、いったいいつだっただろう。暁は屋台で月見団子を買い、彼女に差し出し

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status