LOGIN葵は貴臣の説得に成功したことに、内心では有頂天になっていた。声は蜜のように甘く、耳に絡みつく。「貴臣!やっぱり、世界で一番私を大切にしてくれるのはあなただけだって、分かっていたわ!」貴臣は、自分の中にわずかに残っていた情を揺さぶられたことに加え、彼女の背後にある加賀見家との結びつきという将来性も無視できず、ついにはそのわがままを許してしまった。彼はスマートフォンを取り出すと、直接隆へ電話をかける。「明日の朝一番で実家に戻り、俺の戸籍謄本を持ってこい」その口調には、いかなる拒絶も許さぬ強い圧があった。通話を終えた直後、雅子が奥の部屋から姿を現した。どうやら今の会話を聞いていたらしく、探るような視線を向けてくる。「朝っぱらから戸籍謄本なんて、何に使うつもりだい?」隆は隠し通せるはずもなく、頭を下げてありのままを答えた。「社長のご指示です……葵さんが戻られたそうで」葵が戻った?その一言が引き金となり、雅子の思考は瞬時に繋がった。事態が好転する予感が、鋭く胸を打つ。あの孫も、ようやく目を覚ましたらしい。「分かったわ」彼女の表情は一変し、曇りを払うように明るさを帯びた。収納ポーチから貴臣の戸籍謄本を取り出し、隆へ手渡す。その声音には満足と、どこか急かすような響きが混じっていた。「行きなさい。これが無事に済めば、あんたにも相応の褒美を用意してあげるよ」翌朝、隆は貴臣からの連絡を受け、戸籍謄本を直接葵へ届けるよう命じられた。内心では不審を覚えつつも、深く問いただすことはできず、ただ愚直に任務を果たす。加賀見邸の門前でそれを受け取った葵の顔には、隠しきれない勝ち誇った笑みが浮かんでいた。部屋へ戻るや否や、彼女はすぐさまある番号へ電話をかける。「手に入ったわ。計画通りに進めて」受話口の向こうで、紘の声が弾んだ。「やるな、葵!効率が良くて助かるぜ。安心しろ、残りは俺に任せろ。完璧に仕上げてやる!」三日後の深夜、南川埠頭。桐生グループの私有地であるその場所は、人気もなく、ひっそりと静まり返っていた。そこへ一台の白いマセラティが滑り込むように現れ、桟橋の先で停車する。ライトが消えると、運転席に座る葵の端正で冷酷な顔立ちが、闇の中に浮かび上がった。彼女は漆黒の海を見つめながら、苛立たしげにハンドルを指先で
貴臣が今にも怒りを爆発させようとしたそのとき、スマホが別の着信を告げた。画面に表示された名前は――葵。貴臣はすぐさま心愛に対し、苛立ちを隠そうともせず捨て台詞を吐いた。「……最後にもう一度だけチャンスをやる!」そう言い捨てて通話を切り、葵からの電話に出ると、その声は一瞬で柔らかなものへと変わった。「葵、どうした」「貴臣、今夜ようやく名雲に戻るわ。お披露目パーティーの準備も、すべて整ったの」受話口の向こうから、甘く可憐な声が響く。「今夜、時間はある?一緒に食事がしたいの。寂しかったわ」苛立っていたはずの貴臣も、その優しい言葉に毒気を抜かれ、思わず承諾の返事をした。その夜、市街地で最も高級とされる回転レストランは、クリスタルシャンデリアの光に満ちていた。葵は真っ白なワンピースに身を包み、繊細な薄化粧を施している。その姿は、ひとしずくの雨にも散ってしまいそうな白百合のようで、あまりにも儚く、思わず守ってやりたくなるほどだった。彼女は潤んだ瞳で向かいの貴臣を見つめ、かすかに声を震わせた。「……貴臣。私、家族が見つかったというのに、少しも嬉しくないの」「どういうことだ」「お母さんが……私に政略結婚をさせようとしているの」その言葉とともに、葵の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。「相手は年老いていて、頭も禿げた醜い男なの。調べたら、私生活もかなり乱れているって……嫌よ、そんなの!」彼女は貴臣の袖を掴み、それが最後の希望であるかのように縋りつく。「お願い、助けてください。形だけでもいいの、私たちが結婚したことにしてくれない?お母さんには、私にはもう心に決めた人がいるって嘘をつくの。お母さんも、私がずっとあなたを想っていたことは知っているから、きっとそれ以上は無理強いしないはずよ」貴臣は眉をひそめた。「加賀見家の当主は温厚な人物だと聞いていたが。そんなことをするとは思えないが」「私も最初はそう思っていた。でも、家に戻って数日もしないうちに、こんな話を無理やり……」「だが葵。俺はすでに結婚している。心愛が離婚を認めるはずもない」「分かっている、だからこそお願いしているの」葵は即座に言葉を重ねた。その顔には、計算し尽くされた無垢な表情が浮かんでいる。「本当に入籍しようなんて言っているわけじゃないわ。心愛さ
今夜の食事は、心ゆくまで堪能できるものだった。並べられた料理の数々は、あのとき疲れ切っていた自分の味覚を、的確に癒してくれた。暁が見つけてくれたあの店は本当に素晴らしい。またいつか必ず訪れようと、心愛は胸の内で密かに決めた。……時は少し遡る。暁と心愛が連れ立って店を後にし、路地の角に姿を消した頃――それまで半歩も近づけずにいた店員が、ようやく安堵の息をつき、テーブルの片付けに現れた。若い店員が、ほとんど手つかずのまま残された贅沢な料理を眺め、小声で思わず漏らす。「あの男性、本当に羽振りがいいわね。うちの店、ひとり五桁は下らないのに、一人の女の子のために、まばたき一つせず貸し切りにしちゃうなんて」少し年長の店員が、手際よく食器をまとめながら、からかうように笑った。「羨ましいの?だったらあなたも、それくらいのお金持ちを見つけなさいよ。貸し切りどころか、店ごと買い取ってプレゼントしてくれるような人をね」二人が冗談を言い合っていると、マネージャーがやって来て声をかけた。「何をしているんだ。さっさと片付けて、早く帰りなさい」……十五夜のひとときの休息は、まるで鍵のように、心愛の中で固く閉ざされていたインスピレーションの扉をこじ開けた。マンションに戻っても、彼女はすぐには眠りにつかなかった。目に焼き付いた風景、揺れる灯籠、そして夜空に弾けた花火の一瞬の光と影――それらが脳内で交差し、ぶつかり合い、やがて奔流となって溢れ出す。パソコンを開いたとき、思考はかつてないほど澄み渡っていた。ペンは画面の上を飛ぶように走り、線は滑らかに、これまでにない生命力を帯びて広がっていく。古典的な雲の紋様は解体され、シャープな幾何学ラインと融合する。伝統的なボタンの意匠は大胆に拡大され、極めて現代的なロックのデザインへと昇華された。この夜、心愛はほとんど一睡もしなかった。翌朝――徹夜明けの疲労と、創作後の高揚を抱えたまま出社した心愛が、新たなデザインを会議室のスクリーンに映し出すと、理恵と碧は思わず息を呑んだ。図面の上には、古典的な情緒と現代的な鋭さが完璧に調和していた。激しくぶつかり合いながらも、異様なまでの美しさを湛えた造形がそこにある。碧は口元を押さえ、瞳を羨望に輝かせた。「深水さん、神様でも降りてきたんですか?完
「はっきりした返事を聞かせろ!」「こうしましょう」葵は脳を高速で回転させた。「東海から船で戻ってきて。あちらなら検問もそれほど厳しくないわ。三日後の夜十時、南川埠頭に来て。私が自分で車を出して迎えに行くから。それでいいでしょう?」紘は向こうで算段を巡らせると、満足げに鼻を鳴らした。「……まあ、それならいいだろう。葵、やっぱりお前はいい子だな」電話を切った瞬間、葵の瞳に殺意が閃いた。自分で迎えに行く?ええ、もちろん。私の手で、あの世へ送ってあげるわ。……一方、花火が打ち止めとなり、川辺には再び静寂が戻っていた。暁は心愛を連れ、路地の奥深くにひっそりと佇む創作料理の店を訪れた。店内は広くはなく、いくつかの卓が置かれているだけだが、古色を帯びた佇まいにはどこか雅やかな趣が漂っている。やがて料理が次々と運ばれてくる。鱸の酒蒸し、若鶏と栗の琥珀煮、ずわい蟹の銀あん豆腐――いずれも、かつて心愛が好んでいた味ばかりだった。並べられた皿を見つめ、心愛は呆然と呟いた。「……どうして私の好みが分かったんですか?」暁は彼女のために料理を取り分けていた手を一瞬止めたが、すぐに淡々と答えた。「あなたにあれだけ何度も飯を作ってもらったんです。嫌でも覚えます」そして、珍しく穏やかな口調で付け加える。「以前はあなたが私を世話してくれた。この食事は、そのお返しです」簡潔な言葉だったが、箸を握る心愛の指先には、わずかに力がこもった。凍りついていた心の湖面に、小さな石が投げ込まれ、静かな波紋が広がっていくようだった。食後、暁は車で彼女をマンションまで送り届けた。車が階下に停まると、心愛はシートベルトを外し、そのまま部屋へ戻って残業を再開しようとした。だが、暁が手首を掴み、引き止める。「戻って寝なさい」心愛は手を振りほどこうとした。「ダメです、原稿を仕上げないと」暁は眉を上げ、再び自分の殻に閉じこもろうとする彼女の様子を見て、いつもの毒舌を解禁した。「加賀見グループは社員を搾取するようなブラック企業じゃない。脳が疲れ切れば回転も止まる。あなたが会社で過労死でもしてみなさい、法務の私は徹夜で社員補償協議書の対応に追われることになります。ボーナスを削られるのは御免です」その屁理屈に、心愛は思わず吹き出した。胸の奥に溜まっていた暗雲が、
加賀見邸。静香との和やかなアフタヌーンティーを終えたばかりの葵は、自分のために用意されたピンクの部屋へ戻るや否や、顔に貼り付けていた甘やかな笑みを一瞬で拭い去った。窓辺へ歩み寄り、庭で植木職人に何やら指示を出している母の姿を見下ろす。その瞳に、かすかな苛立ちがよぎる。こうして「聞き分けの良い娘」を演じる芝居は、客の相手をするよりもよほど神経をすり減らす。バッグの中でスマートフォンが震えた。非通知設定の暗号化された回線だ。葵はそれを取ると、部屋の奥へ移動し、声を潜めた。「もしもし」受話器の向こうの声は焦りを帯びていた。「葵さん、加賀見本社の技術部が本日午後、デザイン部を一斉点検しました。仕込んでいたプログラムが発見され、真白も解雇されています」「解雇?」葵は眉を上げたが、驚きはほとんど見せなかった。「ええ。木村が自ら処理に当たったようです。対応はかなり迅速でした」葵の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。見つかったところで何だというのか。佳穂のような役立たずは、もとより使い捨ての駒に過ぎない。「構わないわ」彼女は淡々と相手の言葉を遮った。「原稿は手に入った。それで十分よ」電話の向こうの主は、ほっと息をついたようだった。「では、次は……」「私の指示を待ちなさい」そう言い捨てると、葵は一方的に通話を切った。彼女はウォークインクローゼットへと足を運び、壁一面に並ぶオートクチュールのドレスを眺める。今頃、心愛はさぞ火のついた蟻のように右往左往しているだろう。一週間でまったく新しいデザインを仕上げる?――笑わせる話だ。彼女が望んでいたのは、まさにこの状況だった。心愛を窮地に追い込み、絶望の中でもがかせる。その間に、自分は次の計画のための時間を稼ぐ。機嫌よく披露パーティーのドレスを選んでいると、再びスマートフォンが鳴った。画面に表示された「紘」の名を見て、葵は露骨に眉をひそめる。――しつこい、愚か者。出るつもりはなかったが、着信は執拗に鳴り続けた。出なければ、いつまでもかけ続ける気配だ。葵は深くため息をつき、通話ボタンを滑らせた。声は氷のように冷たい。「……何の用?」すぐに、受話器の向こうから紘の酔いの回った愚痴が流れ込んできた。背景には麻雀牌のぶつかり合う音が混じっている。「葵、会いたく
心愛は呆然とした。食事――昨夜の電話で、彼が「明日戻る」と言ったこと、そして一緒に食事をしようと約束したことを、そのときになってようやく思い出した。あれほどはっきりと約束したのに……完全に失念していたのだ。「ごめん……忘れていました」彼女はうなだれた。「昂一から聞いています」暁はそれ以上追及することなく、椅子を引き寄せて彼女の隣に腰を下ろした。そして弁当箱の蓋を開ける。「今日、デザイン部で起きたことは、あなたのせいではありません」彼女の好みの香りが、ふわりと漂った。心愛は彩り豊かな料理を見つめたが、食欲は微塵も湧かなかった。「……食べられません」暁が眉をひそめる。「どうしてです?」「デザインをすべてやり直さなければならないのに、インスピレーションがまったく湧かないんです」心愛は画面上に散乱する素材を見つめた。頭の中はもつれた麻糸のようで、何を掴もうとしても指の間をすり抜けていく。暁はそれ以上、何も言わなかった。彼は立ち上がると、心愛のノートパソコンをぱたりと閉じ、驚く彼女の目の前でその手を迷いなく取った。「来てください」「でも、残業して進めないと間に合わないんです!」心愛は反射的に手を振り払おうとした。だが暁は振り返らず、有無を言わせぬ力で彼女を外へと連れ出した。その沈黙は、どんな言葉よりも強く響いた。車は地下駐車場を出て、夜の車列に溶け込んだ。窓の外を流れるネオンを眺めながら、心愛には彼がどこへ向かっているのか見当もつかない。やがて車が止まったのは、古い街並みが残る一角の入り口だった。多くの人々が行き交い、観月祭を控えた街は、ひときわ賑わいを見せている。暁に手を引かれて車を降りた心愛は、目の前の光景を茫然と見つめた。そしてようやく気づく。今日は、十五夜なのだ。暁が手を離し、彼女に向き直る。道沿いに並ぶ竹灯籠の明かりが、彼の深い瞳に温かな光を落としていた。「仕事のことは一旦忘れなさい」彼は静かに言った。「今日は祭りです」心愛は彼を見つめ、それから周囲に目を向けた。笑顔で行き交う家族連れ。その光景に、胸の奥がそっと温められるような気がした。最後に「祭り」を味わったのは、いったいいつだっただろう。暁は屋台で月見団子を買い、彼女に差し出し







