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身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った
身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った
Auteur: 炭酸が抜けたコーラ

第1話

Auteur: 炭酸が抜けたコーラ
「……被告人を、無期懲役に処する」

裁判官の宣告が、鼓膜を震わせた。

ブーン、と耳鳴りがする。

深水心愛(しみず ここあ)の体がぐらりと揺らぎ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。

無期懲役……

そんな……

深水俊輔(しみず しゅんすけ)は、自分がずっと見守り、手ずから育ててきた弟なのだ。あの子が人を殺めるなど、あり得るはずがない!

開廷前、桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は何と言ったっけ?

「わがままはよせ、心愛」

眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせず、彼はそう言った。

「葵は海外から戻ったばかりで、専攻は法学だ。これは、彼女が帰国後に名を上げるための初陣だ。勝てば今後のキャリアにも箔がつく。お前の弟の弁護は、葵に任せておけば間違いない」

弟の命運を、明石葵(あかし あおい)などに託してたまるものか。心愛は、即座に反論した。

「貴臣、これは弟の命がかかっているのよ!葵が経歴に箔をつけるための踏み台じゃないわ」

しかし、彼は聞く耳を持たなかった。

その眼差しは次第に冷え、脅しにも似た色が浮かんだ。

「だからこそ、葵に任せるんだ。お前はただ、俺を信じていればいい」

――俺を信じろ、と。

心愛は、そんな彼の言葉を受け入れてしまった。

だが、その結果がこれだ。

法廷での葵は、冒頭陳述を読み上げたきり、その後は俊輔のために弁護らしい弁護をほとんどしなかった。

宇佐美紘(うさみ ひろし)側の弁護士が提示した証拠に対し、葵は反論するどころか、あろうことか相手の主張を認めるかのような素振りさえ見せたのだ。

紘のたった数言の告発に対しても、葵は異議さえ申し立てなかった。

そして、俊輔が無期懲役を宣告されるのを、ただ黙って見ているだけだった。

それも当然だ。俊輔は葵の弟ではない。自分の弟なのだから、彼女が同じ痛みを感じるはずもない。

心愛は、よろめきながら法廷を出た。廊下の冷気が肺を刺し、激しい咳が込み上げる。

前方に、二つの人影が見えた。葵が貴臣に寄り添い、肩を細かく震わせ、涙をぼろぼろと零して泣き崩れている。

「貴臣、ごめんなさい……私、本当に精一杯やったの。でも相手側の証拠の連なりが……あまりにも完璧で、どこにもつけ入る隙がなかった。もしかしたら……俊輔くんは、本当に有罪なんじゃないかって……」

「もういい。お前のせいじゃない」

貴臣の声は、心愛が今まで聞いたこともないほど優しさに満ちていた。彼はスーツの上着を脱ぎ、そっと葵の肩にかける。

「お前が全力を尽くしたことは、俺が一番よく知っている」

すすり泣いていた葵は、視界の端に心愛の姿を捉えると、その表情をさっと怯えたものに変えた。

「心愛さん……この度は、お力になれず、本当に……」

言葉が終わらないうちに、心愛は二人に向かって歩き出した。

彼女が近づいた瞬間、貴臣は反射的に葵を背後へとかばった。

それは、あまりにも自然で、あまりにも無意識の仕草だった。

葵を庇う貴臣の姿に、心愛の瞳に底知れぬ失望が広がる。

葵を抱き寄せる貴臣の腕を見て、心愛は悟った――もはや彼は、かつての貴臣ではないのだと。

それでも、無実の罪を着せられた弟を思うと、葵を睨みつけずにはいられなかった。

「どうして?」心愛の声は乾き、かすれていた。「宇佐美の証言にはあれほど矛盾があったのに、なぜ一言も反論しなかったの?あなたは一体、どっちの代理人なの!?」

葵は貴臣の背後に隠れ、泣き腫らした目だけを覗かせている。その姿は、いかにも無垢で哀れに見えた。

心愛に答えたのは、貴臣だった。

「いい加減にしろ、心愛。事実は明白だ。いつまで騒ぎ立てるつもりだ?」

「事実?」心愛は乾いた笑いを漏らした。「どんな事実よ。俊輔は人を殺してなんかいない!あの子は、ただアルバイトに行っていただけよ。人殺しなんて、できるわけがないじゃない!」

感情は、堰を切ったように溢れ出す。「宇佐美紘がどんな人間か、知らないわけじゃないでしょう?名雲中じゃ、あいつが人の命を弄ぶ道楽息子だって、知らない者はいないわ!前にも、人を弄んで死なせたという噂があったのに……どうして彼を調べないの?どうして彼の戯言を信じるのよ!」

「おっと、そこのお嬢ちゃん、言葉には気をつけろよ」

軽薄な声が、横から割り込んできた。

両手をポケットにねじ込んだまま、紘は階段を悠然と降り、心愛の前で足を止めた。その口元には、あからさまな悪意を孕んだ笑みが浮かんでいる。

「俺が人を死なせた、だと?くだらん噂を鵜呑みにするなよ。証拠もなくそんなことを口走れば、名誉棄損になるぜ。訴えられたくなければ、その口は慎むことだな」

紘は心愛を顎でしゃくるように見下ろした。その眼差しには、隠す気もない侮蔑と挑発の色が滲んでいる。

やがてその視線は心愛を通り越し、貴臣の背後から不安げに顔を覗かせる葵を捉えて交錯した。その一瞬の目配せには、まるで共犯者のような得意げな光が宿っていた。

言いたいことだけ一方的に言い放つと、紘は愉快な見世物でも堪能したかのように口の端を吊り上げ、取り巻きを引き連れて勝ち誇ったように去っていった。

その背中が見えなくなった矢先、誰かが叫び声を上げた。

「おい、見ろ!桐生社長だ!」

「明石弁護士も一緒だぞ!」

その声を皮切りに、瞬く間に大勢の記者が四方八方から押し寄せ、心愛たち三人を幾重にも取り囲んだ。

「明石先生、今回の判決について一言お願いします!」

「鳴り物入りで帰国された初陣が敗訴となりましたが、今のお気持ちは!」

「法廷では弁護に力が入っていなかったとの声もありますが、事実ですか!?」

「桐生社長、なぜこの裁判を明石弁護士に?」

無数のマイクが突きつけられ、容赦ない質問が浴びせられる中、葵の顔が一瞬にして蒼白に染まった。

貴臣の表情もたちまち険しくなる。

彼は怯える葵を強く抱き寄せると、自らの体で無数のカメラレンズから彼女を庇った。そして人垣を押し分けるようにして、一度も振り返ることなく自分の車へと向かう。

その傍らに心愛が立っていることなど、まるで思い出すことすらないかのように。

彼は、記者たちの渦中に、心愛をただ一人置き去りにした。

遠ざかる二人の背中を見つめる心愛の胸に、冷たい痛みがしんしんと込み上げてきた。

貴臣を追うのを諦めた記者たちは、即座に標的を変え、残された心愛へと殺到した。

「そちらの方、あなたは深水俊輔さんのご家族ですか?」

「今回の判決について、お考えをお聞かせいただけますか?」

「明石弁護士の仕事ぶりはいかがでしたか?」

その喧騒の中、一人の目ざとい芸能記者が何かに気づいたように、甲高い声を張り上げた。

「待ってください!あなた……もしかして、桐生グループの社長夫人、深水心愛さんではありませんか!?」

その一言は、静寂に投じられた石のように波紋を広げ、その場の空気を一変させた。

すべてのカメラレンズが、一斉に心愛の顔へと向けられる。

「本当だ、社長夫人だ!」

「ってことは、被告は社長夫人の弟か?とんでもないセレブスキャンダルだぞ!」

そんな喧騒の中に、心愛を氷の底へと突き落とす囁き声が混じっていた。

「じゃあ、さっき桐生社長が庇っていたのが、噂の明石葵か。三年前、桐生社長の元を去ったっていう……彼女こそ、桐生社長がずっと想い続けていたという『本命の元カノ』らしいぜ」

「ああ、だからか!言われてみれば、社長夫人とあの明石葵、どことなく目元が似ている……」

「なるほどな!どうりで深水家が破産した途端、桐生社長が周囲の猛反対を押し切って、ただの養女だった深水心愛と結婚したわけだ。つまり……元カノの『身代わり』を見つけた、ってことか」

身代わり。

その言葉が、雷鳴のように心愛の思考を打ち砕いた。

そうか、そういうことだったのか。

深水家が倒産し、居候の養女だった自分が生活のために三つもアルバイトを掛け持ちしていた、あの頃。雲の上の存在だったはずの貴臣が、なぜ周囲の反対を押し切ってまで自分を妻に迎えたのか。その謎が、今、すべて解けた。

あれは救いだと思っていた。暗闇に差し込んだ、唯一の光だと信じていた。

だが、すべてははじめから、滑稽な茶番に過ぎなかったのだ。

自分はただ、彼の愛した女の面影を宿す、身代わりに過ぎなかった。

心愛はその場に凍りついたように立ち尽くした。無数のフラッシュが白く視界を焼く中、貴臣が冷たく去っていった虚空を見つめ、乾いた笑いが唇からこぼれ落ちた。

この三年間、ひたむきに、すべてを捧げる想いで尽くしてきた結婚生活。

それらすべてが、結局は彼女一人の、滑稽な一人芝居だったというわけだ。

その頃、葵はスマートフォンを手に、自分の名前がSNSのトレンドを駆け上がっているのを確認していた。そしてある番号へ短いメッセージを送ると、すぐさまその送信履歴を削除した。

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