Share

第7話

Author: 炭酸が抜けたコーラ
電話の向こうで、清夏の声は簡潔で、迷いがなかった。

「わかった。私が作っておく。明日の昼十二時、桐生グループ本社の隣にあるカフェで渡すわ」

「桐生の本社から、もう少し離れた場所にできないかな」

心愛は声を潜めて言った。貴臣に見つかりたくない。会社の周辺は、あまりにもリスクが高すぎる。

「どこがいいの?」清夏の語気が和らいだ。

「中央区にある『MOMENT』っていうカフェ」心愛は間髪入れずに答えた。

清夏はまだ何か言い足りない様子だった。

心愛には、清夏が自分を心配してくれているのが分かっていた。だが、すでに巻き込んでしまっている以上、胸の内は申し訳なさでいっぱいだった。

自分が去ったあと、清夏まで被害を受けるのではないかという不安もある。心愛は慌てて「もう寝るね」と告げ、電話を切った。

物置部屋の床は骨身にこたえるほど硬く、心愛は寝返りを打っても眠りにつけなかった。背中の骨が突き上げられるように痛む。

結婚当初、この家のレイアウトはすべて貴臣から任され、自分で設計したことを思い出す。

仕事から帰った彼がぐっすり眠れるようにと、わざわざ甘えてねだり、海外から脊椎構造に合わせた特注のマットレスを取り寄せたこともあった。

それなのに、葵が戻ってきた今では、自分の寝室さえも譲らなければならない。

心愛は自嘲気味に微笑み、胸の奥からこみ上げる切なさを飲み込んだ。もっとも、あのベッドで貴臣が眠ったことなど、結婚してから数えるほどしかなかったのだが。

ほとんど一睡もできないまま、空が白み始めた頃になって、ようやくうつらうつらと意識が沈んだ。

耳を突くアラームが、正確に鳴り響く。

心愛ははっと目を開けた。一瞬、自分がどこにいるのか分からず呆然としたが、部屋の隅に積み上げられたガラクタが視界に入り、完全に意識が覚醒した。

今日は桐生グループに出勤する日だ。

昨日、貴臣と交わした約束である。余計な波風を立てないためにも、今は彼を怒らせるわけにはいかない。

素早く身を起こし、洗面台の鏡に映る青白い顔を見つめる。簡単にメイクを施し、最後に口紅を引くと、ようやく少し血色が戻った。

心愛は階段を下りた。

空気の中には、トーストとコーヒーの香りが漂っている。

貴臣と葵がテーブルを囲んでいた。男は仕立ての良いオーダーメイドのシャツを纏い、腕まくりした袖口から逞しい前腕をのぞかせている。取り箸で黄金色に焼けた目玉焼きを挟み、ごく自然な動作で葵の皿へと置いた。

「もっと食べなさい。痩せすぎだ」

その声は、心愛が一度も聞いたことのないほど穏やかだった。

ピンク色のルームウェアに身を包んだ葵は、目を細めて嬉しそうに笑う。

「わかってるって。貴臣は本当に私に優しいんだから」

二人は、まるで周囲に誰もいないかのような親密な空気を纏い、長年連れ添ってきた夫婦のようだった。

階段の踊り場に立つ心愛は、まるで場違いな存在だった。

心のあった場所にはぽっかりと穴が空き、痛みすら感じない。ただ、静かに微笑んだ。

心愛の足音に気づき、二人が顔を上げる。葵の瞳が一瞬、微かに輝いた。

貴臣は心愛のメイクに目を留めた。普段はすっぴんの彼女が、今日は化粧をしている。

今日から会社に同行することを思い出し、恥をかかせまいとしているのだろうと察したのか、彼の瞳に浮かんでいた冷たさがわずかに緩んだ。

それを見た葵の口角がさらに上がり、勝者の余裕が滲む。

「心愛さん、起きたの?早く朝ごはん食べましょうよ」

そう声をかけると、甘ったるい声で貴臣に向き直った。

「貴臣、私のコーヒー冷めちゃった。新しく淹れ直してくれない?」

貴臣は眉をひそめながらも席を立ち、キッチンへ向かった。

ダイニングには、女二人だけが残される。

葵はナプキンで優雅に口元を拭い、心愛の顔に視線を落としてくすりと笑った。

「心愛さん、これからお仕事?貴臣もひどいわよね、そんな苦労をさせるなんて」

言葉を切り、隠そうともしない得意げな声で続ける。

「そうだ、まだ言ってなかったわね。貴臣が私のキャリアを応援するために、出資して法律事務所を作ってくれたの。都心の一番いい場所に。これから心愛さんに何か法的トラブルがあったら、ぜひ私を頼ってちょうだい」

これは警告だった。自分がいれば、貴臣は自分だけを見る。すべては思い通りになる。それに比べ、心愛は追い出されるのを待つだけの敗者だという宣告。

昨日までなら、その言葉に深く傷ついていたかもしれない。

だが今の心愛は、静かに椅子を引いて腰を下ろし、パンを一枚手に取ると、淡々と口を開いた。「そうなの。それはおめでとう」

葵のほうを見ることもなく、今日の天気を語るような素っ気ない口調だった。

「でも、仕事のことは貴臣が自分で承諾したことよ」

顔を上げ、わずかに表情を強張らせた葵をまっすぐ見据える。

「今日から私は社長秘書として、彼と一緒に通勤することになっているの」

彼女もまた、葵を不愉快にさせたかった。

案の定、葵の顔色が変わった。手にしたフォークを握りしめ、言い返そうとした、そのとき――貴臣がコーヒーを持ってキッチンから戻ってきた。

彼は丁寧にコーヒーを葵の前に置き、その曇った表情に気づくと、心愛へ向ける視線に露骨な不満を滲ませた。

心愛は言い訳をする気もなかった。彼がどう思おうと、もう重要ではない。この朝食は、今日一日を乗り切るためのエネルギー補給に過ぎなかった。

食事を終えると、葵は立ち上がり、貴臣の腕に絡みついて甘えた。「貴臣、事務所まで送って。初日だから、私が社長椅子に座る姿を一番に見てほしいの」

「いいだろう」貴臣は即座に答えた。

二人は連れ立って玄関へ向かう。靴を履き替える際、葵はふと思い出したように振り返り、ダイニングに残る心愛へ挑発的な視線を送った。そして、去り際にわざと大きな声で言う。

「心愛さん、悪いけど会社へは自力で行ってね」

心愛は牛乳を一口飲んだ。もともと一睡もしていない。去ると決めた以上、こんな些細なことで心を乱されたくはなかった。

もしまだ貴臣に未練があったなら、葵の稚拙な揺さぶりも効いたかもしれない。だが今の彼女にとっては、どうでもいいことだった。

離婚後、祖母をきちんと養うためでなければ、こんな茶番に付き合う気など毛頭ない。

朝食を終えて別荘地を出てから、ようやくタクシーを捕まえた心愛は、結局初日から遅刻した。

雲を突くような桐生グループのビルに入り、ロビーへ向かうと、受付嬢がすぐに内線電話をかけた。ほどなくして、金縁の眼鏡をかけ、傲慢な雰囲気を纏った男が歩み寄ってくる。

貴臣の筆頭特別補佐、林瑞樹(はやし みずき)だった。

「深水さん、こちらへ」

瑞樹の口調は事務的で、遅刻に対する不満を隠そうともしなかった。

人事部で手続きを進める際、彼は一式の書類を差し出した。

「こちらに記入してください」

周囲の社員たちが、こそこそと視線を送り合い、ひそひそと囁く。

「誰、あの人?林補佐の態度、すごく冷たいけど」

「新しく入った社長秘書だって。社長の……親戚かな?」

「親戚なもんか。どうせコネでしょ。じゃなきゃ、いきなり社長秘書なんてなれるわけない」

「いや、どうかな。あの林さんの苛立った感じ、明らかに歓迎されてないよ。本当にバックが強い相手なら、あんな態度取れるわけないもん」

その陰口は、はっきりと心愛の耳に届いていた。彼女は無表情のままペンを取り、一画一画、書類に自分の名前――深水心愛――を書き込んだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第470話

    「やっぱりな」静香は彼を見た。「やっぱりって、何が?」「結局、頼りにならないってことだ」正国は声を抑えていたが、その不満は隠そうともしなかった。「口ではどれだけ立派なことを言っても、夜通し誰かが付き添わなきゃならない場面になれば、結局お前一人をここに残して行くじゃないか」「あの人は会社で急用が入ったのよ」静香は思わずかばうように言った。だが、言い終えた本人ですら、その言葉に説得力があるとは思えなかった。「会社に急用があることは理解できる」正国は静香を見つめた。「だが、理解できることと納得できることは別だ。帰るのは構わない。だが、その前に代わりの人間を手配して、介護士を呼び、お前を説得して帰らせるくらいはできたはずだ。それなのに実際はどうだった。あいつが帰ったあと、お前は一人でベッドのそばに座ったまま眠り込んでいたじゃないか」静香は黙り込んだ。その指摘には、反論のしようがなかった。正国は考えれば考えるほど胸の内が重くなり、冷ややかな声で言った。「これが、あいつの言う『面倒を見る』なのか」「もうやめて」静香は彼の腕を軽く引いた。「ここは病院よ」「これでも十分、あいつの顔を立ててやっている」正国は病室のドアへ視線を向けた。「昔の俺なら、こんなことで黙って引き下がったりはしない」静香は小さくため息をつき、静かな声で言った。「今はあの人のことはいいわ。それより、心愛が無事でいてくれること。それが何より大事なんだから」「分かっている」正国は静香を支えながら、エレベーターホールへ歩き出した。「だが、この件だけは絶対に忘れない」静香は横目で彼をちらりと見ただけで、それ以上は何も言わなかった。廊下の照明は変わらず灯り続けている。二人の足音だけが静かに響いた。背後には、付き添いのいる病室。前方には、深夜の静まり返ったエレベーターホールが広がっていた。この夜は、まだ終わっていない。だが、二人の胸の中では、ある決意がゆっくりと、しかし確かに形になり始めていた。夜はさらに更けていく。病院の外では街灯がまだ淡く灯り、駐車場から一台の黒いセダンが足早に走り去っていった。テールランプが一度だけ赤く瞬き、交差点を曲がると、その姿はすぐに夜の闇へと消えていった。静香は結局、正国に

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第469話

    静香は彼女を見つめ、明らかにまだ少し迷っている様子だった。「うちの子は夜中も注意しなきゃいけないことが多いの。あなた、全部把握しているの?」介護士は頷いた。「先ほどナースステーションの方から一通り引き継ぎを受けております。点滴の管理、体位変換、夜間の体温観察など、どれも慣れている作業です。もしご不安でしたら、中へ入ってからもう一度看護師と確認いたします」傍らにいた正国が言葉を挟んだ。「病院側が推薦してくれた人材だ。身元もしっかりしているし、経験も十分だよ」静香はまだ眉をひそめていた。「でも、もし夜中にあの子が目を覚まして、知らない人がいたら」「それでも、お前がベッドに突っ伏して夜を明かすよりはマシだ」正国は彼女の言葉を真っ向から遮った。「自分の体調まで犠牲にするような真似はよせ」「そんな――」「そんな、じゃない」正国は彼女を見据えた。「心愛が目を覚ました時、お前がひどくやつれた顔でそばにいるのを見たら、あの子がどう思うか考えてみろ」その一言は、静香の胸の急所を突いた。彼女は黙り込んだ。正国はさらに声を潜めて続ける。「あの子はただでさえ敏感なんだ。今夜これだけのことがあって、心の中は十分に乱れている。そこへお前が今にも倒れそうな姿を見せれば、あの子はさらに自分を責めることになるぞ」静香は唇を微かに動かしたが、しばらくしてようやく低い声で絞り出した。「私はただ、あの子のそばにいてあげたいの」「そばにいるにしても、やり方があるだろう」正国の口調が少し和らいだ。「まずはお前自身が体を労らなきゃならない。明日の昼間だってここへ来るんだろう。今帰って休まなければ、明日どうやってあの子の相手をするつもりだ」静香は答えなかった。表情は明らかに少し緩んだが、それでもまだ名残惜しそうだった。「それなら、もう少しだけ残るわ。この点滴が終わるまで」「もう少し残ったら、お前はまた帰らないと言い出す」正国は静香の性格を知り尽くしている。「いいから、ごちゃごちゃ言うんじゃない」「そんなことないわ」「いや、今してるじゃないか」傍らに立つ介護士は、夫婦のやり取りを見守りながら、軽々しく口を挟むこともできず、ただ静かに待っていた。静香はしばらく座っていたが、やがてため息をつき、諦めたように言った。「分かったわ、帰る」そう言

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第468話

    「心配だからって、あの子がお前にこんな無理をさせると思うか」「無理なんかしてないわ」静香は小さな声で反論した。「この子のそばにいる方が、私も安心なのよ」正国は彼女を見つめた。口調は荒くなかったが、その態度は頑なだった。「お前が安心でも、俺が安心できない」静香はハッとして、顔を上げて彼を見た。正国はそれ以上何も言わず、手を伸ばして彼女を立たせた。その動きはとても優しく、ほとんど半ば抱きかかえるようにして彼女を椅子から引き上げた。「とりあえず外で話そう」静香は立ち上がったものの、視線はすぐにベッドへ向かい、明らかに離れたがっていない様子だった。彼女は視線で合図を送った。その意味は明白だ。心愛はどうするの、と。正国はそれを悟り、低い声でなだめた。「あの子はぐっすり眠っているから、大丈夫だ」静香はまだ動こうとしない。「もし夜中に目が覚めて、そばに誰もいなかったら、この子パニックになってしまうわ」「誰もいないなんてことはない」「どうしてよ」静香は眉をひそめた。「桐生はいないし、私まで帰ったら、ここには誰もいなくなるじゃない」正国は「桐生」という言葉を聞いて、胸の奥でまた怒りがこみ上げたが、どうにかそれを押さえ込んだ。「いいから、まずは俺と一緒に外へ出なさい」「嫌よ」「静香」正国は彼女を見据え、さらに声を潜めた。「ここで意地を張るな。今の自分の顔色がどうなっているか、分からないのか」静香は言葉に詰まり、ついに意地を張るのをやめ、彼に支えられながら外へ向かうしかなかった。ドアのところまで来ると、彼女はたまらず振り返った。ベッドの上の心愛は依然として眠ったままで、目を覚ますことはなかった。病室のドアが静かに閉まる。廊下は病室の中よりも少し冷房が効いており、外へ出ると静香の頭も随分とすっきりした。彼女は振り返りざまに尋ねた。「どうしてこんな時間に来たの、会社の仕事は終わったの?」「ああ、終わった」正国は彼女を一瞥した。「俺が来なかったら、お前がこんな風に付き添っていることなんて分からなかったからな」「私が付き添っていて何が悪いっていうの」静香は低い声で言った。「あの子は私の娘よ」「付き添うなとは言っていない」正国は彼女を支えながら、傍らの椅子に座らせた。「付き添うにしても、やり方が

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第467話

    道中の交通事情はわりと順調で、街角のネオンが次々と後方へ流れ去っていく。車内に音楽は流れておらず、ただエンジンの低い駆動音だけが響いていた。正国はハンドルを握りながら、頭の中では今日病室で起きたことばかりを反芻していた。雅子が取り乱し、貴臣がしくじり、心愛が気を失う。そして、静香がベッドの傍らで目を真っ赤にしながら必死に堪えていた姿。それら一つ一つの出来事が、すべて重くのしかかってくる。考えれば考えるほど、彼の顔色は暗く沈んでいった。桐生家の連中は、やはりもう二度と信用できない。二十分ほど後、車は病院の駐車場に停まった。正国は車を降りると、足早にエレベーターへ向かい、病室のある階まで真っ直ぐに上がった。廊下はすでに静まり返っており、夜勤の看護師たちも極力足音を立てないように動いていた。冷たい白みを帯びた照明が、誰もいない廊下を空々しく照らし出している。病室のドアの前まで来ると、彼の足取りはふいにゆっくりになった。ドアはきっちりと閉まっておらず、わずかな隙間が空いていた。彼は無意識に、その隙間から中を覗き込んだ。病室の照明はかなり落とされており、ベッドサイドのランプだけが灯っている。心愛はすでに眠りについていた。彼女は横を向き、微かな寝息を立てている。点滴スタンドからは、まだゆっくりと液が落ちていた。顔色は相変わらず青白いが、昼間よりは少し落ち着いて見え、眉間の皺も消えている。どうやら安らかに眠れているようだった。そしてベッドの傍らには、静香が突っ伏していた。おそらく最初は少し寄りかかるだけのつもりだったのだろうが、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。片手はベッドの縁に置かれ、その指先は心愛の手に触れそうなほど近くにあった。眠りに落ちる直前まで、娘を気に掛けていたことが窺える。正国はドアの前に立ち尽くし、途端に眉をひそめた。胸の奥でくすぶっていた怒りの炎が、一気に燃え上がるのを感じた。貴臣のやり方というのは、こういうことか。口では面倒を見ると立派なことを言っておきながら、結局本人は姿を消し、静香を一人でこんな風に眠り込むまで付き添わせている。静香はこの数日間ろくに休めておらず、日中はあちこち駆け回り、夜は病室で夜明かしをしているのだ。こんな生活を続けていれば、娘が回復する前に彼女自身

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第466話

    彼はそう言い終えると、一拍置いて、静かに言葉を継いだ。「用が済み次第、すぐ戻ってきます」静香は「お好きに」とも、「もう戻ってこなくていい」とも言わなかった。ただ淡々と告げる。「この子には私がついているから」その言葉の意味は、十分すぎるほど明白だった。――あなたはあなたの用事を済ませなさい。――ここには、しばらくあなたの出る幕はない。貴臣にも、その意図が分からないはずはなかった。彼は病室のドアへちらりと目を向けた。その瞳に一瞬ためらいがよぎる。だが、会社からの連絡は明らかに先送りできる内容ではない。今夜だけでも、彼はほとんどの時間を病院で過ごしている。このまま会社の対応を後回しにすれば、混乱はさらに広がるだけだ。やがて彼は、低い声で言った。「では、心愛のことをよろしくお願いします」静香は短くうなずいた。「行きなさい」貴臣はもう一度だけ病室のドアを見つめた。中へ入って一言声をかけたい――そんな思いが見え隠れしていたが、少し考えた末、結局ドアを開けることはなかった。心愛は食事を終えたばかりだ。このまま眠りにつくはずだし、今ここで自分が入れば、余計な会話をさせてしまうだけだ。そう判断すると、彼はようやく踵を返し、その場を後にした。足音が少しずつ遠ざかっていく。静香はその場に立ったまま、彼がエレベーターホールへ向かい、その姿が見えなくなるまで見送っていた。そしてようやく、小さく息をつく。本当は、どう言いくるめてでも彼を帰らせようと考えていたのだ。それがどうだろう。会社からの一本の電話のおかげで、ずいぶん手間が省けた。静香は軽く首を振り、小さくつぶやく。「これでいいわ」少なくとも今夜くらいは、病室もようやく少し静かになるだろう。……夜の闇は、刻一刻と深さを増していた。加賀見家の書斎には、まだ明かりが灯っている。机の上には数部の書類が広げられ、パソコンの画面には、閉じられていない会議の議事録が映し出されたままだ。正国はデスクの向こうに座り、眉間を指で揉みほぐすと、ようやく最後の一本の電話を切った。「この件はいったん保留だ。結論は明日の朝の会議で出す。それから、西宮区のあのプロジェクトだが、今夜は誰も手をつけるな。俺が明日そっちへ行くまで待て」受話口の

  • 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った   第465話

    だが静香は、あえて意地悪な態度を貫いていた。耳障りな言葉を浴びせることも、彼を追い出すこともしない。ただ、彼の目の前で、「あなたは引っ込んでいてちょうだい」という意思を、これでもかというほど態度で示していた。食事が半分ほど進んだ頃、ついに貴臣が耐えきれず口を開いた。「今夜はあまり食欲がないようです。胃に負担をかけてもいけませんし、無理にたくさん食べさせない方が……」静香は顔を上げた。「分かっているわ」「検査を終えたばかりですし、お医者様も――」静香は低い声で、その言葉を遮った。「分かっていると言ったの。この子の今の状態は、私が一番よく見て判断するわ」そう言われ、貴臣は再び口を閉ざした。心愛は二人を交互に見つめ、小さな声で呼んだ。「お母さん」静香はすぐに応じた。「どうしたの?」「あまり彼にきつく当たらないで」静香の手にあったスプーンがぴたりと止まった。「私がきつく当たった?」「少しだけ」「あの人に何か言われたの?」心愛は柔らかな声で首を振った。「ううん。ただ、彼も今日はすごく疲れているみたいだから」その言葉を聞いた静香は、胸がぎゅっと締めつけられるような思いに駆られた。やはりそうだ。娘の心は今も、無意識のうちに貴臣へと向いてしまっている。静香はスプーンを差し出しながら言った。「まずは自分のことを心配しなさい。他人が疲れているかどうかは、その人自身が何とかすればいいのよ」傍らに立っていた貴臣は、その言葉を聞いて苦笑すべきか、ため息をつくべきか分からなかった。結局、低い声で一言返すしかなかった。「俺なら大丈夫です」静香は取り合うことなく、そのまま心愛に食事を運び続けた。心愛はやはり食欲があまりないようで、最後には小さく首を横に振った。「もう十分」「本当に?」「うん。これ以上は入らない」静香は彼女の顔色を確かめ、無理をしている様子がないことを確認すると、ようやくお椀を置き、ティッシュを一枚取り出して口元を優しく拭ってやった。「それなら、今日はここまでにしましょう。お昼になったら、また別のものを作って持ってきてあげるわ。今は眠ることが一番大事なの。いいわね?何も考えなくていいし、誰が来ても無理に相手をする必要なんてないのよ」そう言いながら、静香は意味ありげに貴臣

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status