LOGINアストライア帝国での生活が始まって、ロレインがリリアに変装し続けて一週間が経った。
「皇后陛下、今日の午後はお茶会の予定が入りました」
「茶会?」 「はい。侯爵夫人の皆様がお会いしたいとのことでして……リリア様は人間の国からいらしたということで、皆様興味深々でいらっしゃるそうです」 「興味深々って……見世物みたいだな」悪気はないのだろうが、珍しい動物を見るような感覚で見られるのかと思うと、少し憂鬱になる。ただでさえ女装がバレないように気を遣っているのに、大勢の前で振る舞わないといけないのは緊張する。
それに、女性だけが参加するお茶会に出席したことなんて、今まで経験がないのだ。レグルス王国にいた時も貴婦人たちとの茶会に参加したことはあったが、それはロレインが男性としてであり、今は女性として参加しなければならない。
ロレインとして参加していた頃は令嬢たちのほうから色んな話題を振ってくれて、見定められるだけだったのである意味楽だったのかもしれない、と苦笑した。
「女性だけの茶会って、どんな話をすればいいんだ……?」
「お相手は主に獣人のご夫人方ですので、アストライア帝国のことを質問してみるのはいかがでしょう? ご夫人方の流行などを知っておくと、私もリリア様のお召し物などの準備がしやすいですわ」 「なるほどな。……自然な感じで会話をできるか、分からないけど」 「大丈夫ですわ、ロレイン様。この一週間、完璧にリリア様を演じていらっしゃいますから。侍女たちの間は今のところ誰も疑っていません」確かに、王宮での生活は思っていたよりも順調だった。シルヴァンは公務で忙しいらしく、食事を一緒にとることもない。そもそもロレインは結婚した翌日からなるべく誰とも顔を合わせまいと、体調不良を理由に自室で食事をしているのだ。
何度かシルヴァンから薬の差し入れがあったが、彼とは結婚初夜にこの部屋で会ったきりである。ロレインが度々修道女の服を着ていることは他の使用人たちにも見られたので、今頃『なぜ二人は新婚なのに床を共にしないのか』という推測で持ちきりだろう。
「では、お支度を始めましょう」
フィオナの手によって、ロレインは薄いピンク色のドレスに身を包んだ。胸元にはレースがあしらわれ、ウエストを絞るコルセットで女性らしいシルエットを作っている。髪は緩やかにカールさせ、小さな花飾りをつけた。鏡に映る自分を見て、ロレインは思わず「本当に女みたいだな」と呟いた。
「そうですね。女の私でさえ圧倒されるほどお美しいですわ」
「良いのか悪いのか……」 「王国でもロレイン様は一番の美男子でしたもの! 今この帝国にロレイン様以上にお美しい方はいません」フィオナに背中を押され、ロレインはお茶会の会場である王宮の庭園に足を運んだ。ロレインが一番最後に到着したのか、何名かの獣人の女性たちがテーブルを囲んで談笑していた。
豪華なドレスに身を包み、当たり前なのだが頭上には動物の耳が生えている。猫や犬、狐などを思わせる多種多様な獣耳が珍しくて会場の外からぼーっと見つめていると、ある一人の女性がハッとして立ち上がった。
「皇后陛下、ご足労いただき感謝いたします」
猫の耳を持つ女性の声に他の貴婦人たちも立ち上がり、深々と頭を下げた。
「皆様、どうぞ楽になさってください。わたくしのほうこそ、このような時間をいただき感謝いたします」
できるだけ上品に、そして優雅に振る舞いながらロレインは席に着いた。
「皇后陛下、この度はご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」 「人間の国からこの帝国へいらしてくださって……最初は不安でいらっしゃいませんか?」猫の耳を持つ貴婦人はシェリー・バーンズと名乗り、猫族の侯爵夫人らしい。猫のような耳と瞳をしているが話し方や仕草は上品で、ロレインが思っていたよりもずっと親しみやすい印象だった。
「はい、最初は緊張いたしましたが……皆様に温かく迎えていただき、とても嬉しく思っております」
「皇帝陛下とはいかがお過ごしですか? 陛下が女性と親しくしている姿をお見かけしたことがありませんでしたので」光り輝く金色の狐耳を持つ貴婦人、エレノア・クイエットの質問にロレインは顎に手を当てて少し考えた。シルヴァンとの関係について聞かれているのだろうが、何と答えればいいのか。
「陛下は……とても優しいお方です。わたくしのような未熟者にも丁寧に接してくださいます」
「まあ、そうなんですね。素敵ですわ!」 「皇帝陛下は普段はとても厳格でいらっしゃるから、皇后陛下の前では違うお姿をお見せになるのでしょうね」そういえば、ロレインが聞いていたシルヴァンの印象は冷徹な一匹狼というイメージだったのだけれど、初夜に見たシルヴァンは冷たい印象ではなかった。むしろ気遣いができる紳士的な人物で、好感を抱いたものだ。
「ところで皇后陛下、お子様のご予定は?」
突然の質問にロレインは紅茶を飲もうとしていた手を止めた。
「お、お子様……?」
「はい。帝国民の皆様も、皇太子殿下の誕生を心待ちにしておりますのよ」 「そ、そうですね……神様のご意志に従うまでかと……」 「皆様、いけませんわ。まだご結婚されて一週間ですもの……二人きりの時間も必要ですわよね」 「それに種族が違えば難しいと聞きますから」シェリーが頬に手を当てながら残念そうに言葉をもらす。やはりシルヴァンが言っていたように、獣人と人間が子供を作るのは簡単ではないらしい。ただ、それはロレインにとっては吉報だ。これでしばらくは『なかなか授からなくて』と、修道女の次の手として言い訳ができる。
「皆様、大体は同じ種族同士でご結婚なさるんですか?」
「ええ、そうですわ。それが種族の存続に繋がりますから」 「存続……そうですよね」 「中でも狼族は特別で、歴代の皇后や側室はそれはもう血眼で……」 「シェリー様! ここでそれ以上は……!」 「いけない、私ったら……お忘れください、皇后陛下」シェリーが言いかけた『血眼で』の続きが気になる。エレノアから制止されてしまったのはシェリーは口をつぐんでしまったし、この場に参加している他の夫人たちの雰囲気が少しピリッと張り詰めたのがロレインにも分かった。
視線に気がついたシルヴァンは魔王との握手を終えると、ロレインの元へと歩み寄ってくる。その表情は普段の皇帝としての威厳ではなく、一人の男性としての優しさに満ちている気がした。「ロレイン……」「陛下……」「俺からお願いがあります」シルヴァンがロレインの前に立ち、その手を取った。「これからどうか、俺の側にいてください。皇后として、愛する人として、そして俺の番として」「シルヴァン様……」シルヴァンの言葉にロレインの瞳には涙が溜まる。でも、今後のことを考えると本当に自分が側にいてもいいのか悩み、すぐに返事をすることができなかった。「でも、俺は男で、本物の皇后ではありません。それに、今までずっと男だというのを隠し、国民を騙してきた身です……」「それはこれから、俺たちの行動で信頼関係を構築していったらいいんです。あなたはきっと、愛される皇后になります」「陛下……」「確かに始まりはダミアンの策略だったかもしれません。しかし、俺があなたを愛していることに偽りはありません。あなたがいなければ、俺は本当にダミアンの駒になっていたでしょう」ロレインの手をぎゅっと握りしめるシルヴァンの手はとても温かくて安心した。この体温を手放すのは、とても惜しい。もしもロレインがアストライア帝国に留まらずレグルス王国に帰ることを望んだ後、シルヴァンはきっと違う人を皇后に迎えるだろう。そう思うと、言いようのない不安と嫉妬心がふつふつと湧き上がってきた。「……ロレイン、お前の気持ちはよく分かった」「兄上?」「シルヴァン陛下、弟をよろしくお願いいたします」ヴェストールがシルヴァンに向かって深々と頭を下げた。「リリアの身代わりとして嫌々この役目を引き受けてくれたので、弟が望むなら連れて帰ろうと思っていました。ですが、これほど深い愛で結ばれているなら、兄として安心です
応接間の扉を開けると、そこには想像していた恐ろしい魔王の姿はなかった。代わりに、落ち着いた雰囲気の綺麗な顔立ちの青年が立っていた。深い紫色のローブを纏い、頭上には小さな角が生えているものの、その表情は穏やかで知的だった。「シルヴァン皇帝陛下、そして……」魔王ガルバトロクスがロレインを見て、少し困惑したような表情を浮かべた。「ロレイン・エマニュエル・レグルス王子。会談を始める前にお伝えしたいことがあります」「何でしょうか?」「リリア・ローズマリー・レグルス王女のことです」魔王の言葉にロレインの眉がぴくりと動く。ちらりとシルヴァンを見ると、彼はひとつ大きく頷いた。「……リリア王女のこと、とは?」「王女は愛する者と駆け落ちした、という置き手紙を残しておりませんでしたか?」「それをどこで……」ロレインはそう言ったが、別段驚くことでもないのかもしれない。なんせ、ダミアンは最初からロレインの正体を知っていたので、リリアが駆け落ちしたことを魔王が知っているのは当然と言えば当然だ。ただ、彼は難しそうな顔をして額に手を当てて溜め息をついた。「実はリリア王女殿下は、駆け落ちなどしておりません。ダミアンによって誘拐され、我が国に囚われていたのです」「誘拐……!?」「駆け落ちの置き手紙も、ダミアンが偽装したものでした。そして……ヴァルモン魔国がレグルス王国に侵攻しようとしていたことも、全てダミアンの策略だったのです」「えっ?」魔王の口から語られる事実にロレインもシルヴァンも素っ頓狂な声が出てしまう。リリアは駆け落ちしたわけではなくヴァルモン魔国に囚われていて、レグルス王国への侵攻も全てダミアンの企みだと言ったのだ。「我が国の領土拡張政策、近隣諸国への脅威……全てダミアンが私を操って行わせていたのです」「操っていた、というのは…
クラウスの言葉を最後に、応接室に静寂が戻った。クラウスの亡骸、拘束されたダミアン、そして抱き合うシルヴァンとロレイン。陰謀劇の幕切れにふさわしい、重苦しい空気が漂っていた。「陛下、まずは宮廷医を呼びましょう」セレスティアがクラウスの傍らに膝をつき、その瞳を静かに閉じてやった。「それと、ダミアンの身柄を牢獄に移す必要があります」「ああ……頼む」シルヴァンの声は疲労で掠れていた。理性を保ったまま完全変身を成し遂げたとはいえ、その消耗は激しかったのだろう。「シルヴァン様、大丈夫ですか?」ロレインが心配そうにシルヴァンの顔を見上げた。「大丈夫です。それより……あなたが無事で本当によかった」シルヴァンがロレインの頬にそっと触れる。その手は微かに震えていて、ロレインはぎゅっと握りしめた。「俺も……陛下が無事で安心しました」「あなたの声が聞こえていました。『民を守るために授かった力』だと……その言葉があったから、俺は自我を保てたのです」二人が見つめ合っていると、セレスティアが咳払いをした。「お二人とも、申し訳ございませんが、まだやるべきことがあります」セレスティアが魔王ガルバトロクスからの親書を取り出した。「これを読む限り、魔王陛下はダミアンの暴走を知らなかったようです。むしろ、平和的解決を強く望んでおられます」「つまり、交渉のやり直しが可能だということですか?」「はい。ただし、今度は真の代表者との交渉になります。魔王陛下ご自身がこちらに向かっているとのことです」「魔王自らが?」「ダミアンの行為を深くお詫びしたいとのことです。それに……皇帝陛下の完全変身能力について、魔王陛下は大変興味を示しておられます。敵意ではなく、純粋な研究としてですが」「研究……」シルヴァンの表情が曇ったが
「陛下!」セレスティアが血相を変えて飛び込んできた。その後ろには帝国騎士団の騎士たちが続いている。「セレスティア!」シルヴァンの変身が一瞬止まった。ロレインの言葉と、信頼する宮廷魔導師の登場によって、かろうじて理性を保っているようだった。「陛下、その魔法陣から離れてください! 完全変身すれば取り返しがつきません!」「分かっている……だが……!」「まずは私が魔法陣を破壊します!」セレスティアが詠唱を始めると、床に刻まれた魔法陣が不安定に明滅し始めた。「邪魔をするな!」ダミアンが片手でロレインを拘束したまま、もう一方の手で黒い魔法を放った。セレスティアは防御魔法でそれを弾くが、詠唱が中断されてしまう。「くっ……!」「せっかくの楽しみを台無しにしてくれますね」ダミアンがロレインの首筋に鼻を寄せる。その瞬間、ロレインは全身に鳥肌が立った。「やめろ!」シルヴァンの怒りが爆発し、彼は完全に黒き狼の姿になってしまったのだ。牙を剥き出しにし、真紅と琥白の瞳には憎悪が浮かんでいる。まるで『シルヴァン』であることを忘れているような姿に、ロレインはダミアンの腕から逃げようともがいた。「シルヴァン様、だめです! お願いです、止まってください!」ロレインが必死に叫ぶが、愛する人を汚されそうになっている狼の怒りは収まらない。ダミアンに向かって吠えたシルヴァンは真っ黒な毛を逆立てていた。「もう手遅れですね。皇帝陛下は完全に獣となり、私の忠実な駒になるでしょう」ダミアンが勝ち誇ったように笑った時、動けないはずのクラウスが突然動き出した。「貴様……私を騙していたな……」「おや、まだ諦めていませんでしたか」ダミアンが振り返ると、クラウスは憎しみに燃える瞳で睨みつけていた。「私は確かに国を裏切った。だが
「クラウス卿……」急いできたのだろう、肩で息をしているクラウスを見るダミアンが冷ややかな笑みを浮かべた。「お疲れ様でした。もうあなたの出番はありませんよ」「何を言っている? 我々の計画では……」「計画?」ダミアンが顎に手を当て、宙をぼんやり見つめる。そして何かを思い出したようにパチンッと指を鳴らし、今度はにこっと人懐こい笑みを向けた。「ああ、あの幼稚な人間至上主義の妄想のことですか? 子供が描いた絵本のような題材の」くっくっと喉を鳴らしながら笑うダミアンをクラウスは真っ青な顔をして見つめていて、やはりクラウスはただ利用されていただけなのだなとロレインは確信した。「貴様……まさか……」「はい、その通りです。最初からあなたを利用するだけして、あとは捨てるつもりでした。あなたが提供してくれた帝国内部の情報、皇帝陛下の秘密、軍事機密……全て有効活用させていただきました。感謝しておりますよ」「裏切ったのか……!」「裏切り? とんでもない。最初から対等な関係など結んでいません」クラウスがいつからヴァルモン魔国と手を結んでいたのか定かではないが、シルヴァンとリリアの結婚すら仕組まれていたことなので、ずいぶん前からこの日を計画していたのだろう。ただ、クラウスは完全に嵌められ、計画していた『人間至上主義』の理想郷は一瞬して崩れ去った。「人間ごときが魔王陛下と対等だと思っていたのですか? 身の程知らずにも程がありますね」「人間ごとき……だと?」「そうです。我々魔族にとって、人間も獣人も等しく支配すべき対象でしかありません。あなたが獣人を見下していたように、我々はあなた方全てを見下しているのです」ダミアンは抑揚のない冷たい声でそう言い放ち、ロレインの体には氷のような冷気が付き纏う感触がした。「特に、自分の種
朝の準備を済ませた二人は、食事を済ませた後にシルヴァンの執務室へ向かった。しかし今日は普段と全く違う。クラウスの裏切りを知った今、彼と顔を合わせなければならないのだ。「陛下、大丈夫ですか?」ロレインがシルヴァンの手を握ると、彼の手のひらがいつもより熱いことに気づいた。「少し緊張しています。何年も信頼していた人を演技で騙すなんて……」「わたくしも緊張しています。でも、一緒なら乗り越えられます」執務室の扉を開けると、そこには何食わぬ顔でクラウスが待っていた。いつものように恭しく頭を下げる姿を見て、ロレインは心の中で複雑な気持ちになった。「陛下、皇后陛下、おはようございます」「おはようございます、クラウス」シルヴァンは平静を装って挨拶したが、その声はわずかに硬い。「昨夜はよく眠れましたでしょうか? 本日は重要な決断の日でございますから」「ええ、おかげさまで」ロレインも自然に振る舞おうとしたが、この男が陰で糸を引いていたと思うと、どうしても声が震えてしまう。「皇后陛下、お顔の色が優れないようですが……」クラウスが心配そうな表情を作った。その演技の上手さに、ロレインは背筋が寒くなる。「少し緊張しているだけです。今日の件で、故郷のことが心配で……」「ごもっともです。ヴァルモン魔国からの最終回答は正午でしたね」クラウスが時計を見ながら言った。時計の針が正午を指すにはまだまだ遠いが、この部屋の中にいる全員が緊張しているのがロレインの肌に伝わってきた。「軍の準備は整っております。陛下のご決断をお待ちしている状況です」「そうですね……」シルヴァンが重々しく頷いた時、侍従が慌ただしく駆け込んできた。「陛下! ダミアン外務大臣が緊急面会を求めております!」クラウスの表情が一瞬変わったのを、ロレインは見逃さなかった。ただロレインが不審に思