LOGIN「では、まぁ……お互いに干渉せずに過ごしましょう、ということで……?」
「そうですね。公式な場では妻としての役目をお願いしたいですが」 「それはもちろん……至らない部分があるかもしれませんが、よろしくお願いします」 「はい、こちらこそ。俺は今まで婚約者などがいませんでしたので、女性の扱いに不慣れな部分があります。無神経なことをしたらすみません」そう言いながらシルヴァンはぺこりと頭を下げる。ロレインより3歳年下だと聞いていたけれど、それにしてはしっかりした青年だなと感心した。
違う国から嫁いできた妻を気遣う夫としては満点の態度だろう。ただ、大人しく見えても彼は獣人。狼の大きな耳と牙、鋭い爪を持つ種族のトップなのだ。部屋で二人きりになると確かに少し威圧感はあるので、怒らせないようにしなくてはと考えてしまう自分がいる。
先ほどのジェイクとの話のように、獣人に嫁ぐのは嫌だと思う人間の感情をロレインはやっと少しだけ理解できた。
「わたくしも懇意にしていた男性はいませんでしたので……お互いに無理はせずに夫婦生活を送りましょう」
なんて綺麗な言葉は建前で、正直な気持ちはお互い関わらないようにしよう、という話だ。今は修道女の服を着て、大聖堂で夫婦の契りを交わした相手の中身が男だなんて、シルヴァンは想像もしていないだろう。バレるかバレないかギリギリのラインに立っているロレインはできる限り彼を遠ざけなければ、性別を偽って結婚したとバレると今後このアストライアで命があるかどうか分からないのだ。
「お伝えしようと思っていたのですが、夫婦の寝室はただの飾りですので」
「飾り、というと……?」 「使うことはないと思います。俺たちはお互いに干渉せず、ですよね」 「陛下がそれでよろしいのであれば、こちらにとってはありがたい申し出です」 「俺たちが不仲だとか、子供ができないとか言われるでしょうが……そもそも獣人と人間の婚姻なので、子供が望めるかも分かりません。あなたは世継ぎのことは気にせず、この国に慣れることを第一に考えていただけたらと思います」シルヴァンはドライというより、リリアと同じでこの政略結婚をよく思っていなかったのかもしれない。彼の意思ではなく、大臣たちなどの指示だった可能性が高いなと思えてきた。
だからできるだけお互いに干渉せず、子供も作らず、形式だけの夫婦でいようとシルヴァンからも提案されているのだ。
「では、生活する上で何か不自由なことがあれば執事長のマリウスか、メイド長のヴィクトリアに伝えてもらえたら対応します。二人とも獣人ですがこの国にはうちの宰相と同じように人間もいますから、困りごとにも対応できると思いますので」
「分かりました。ありがとうございます」 「俺はこれで……どうかいい夢を」シルヴァンはロレインの手を取り、手の甲に口付けて部屋を去っていった。
「……めっちゃいいやつじゃね?」
取って食われるかも、と少しでも思ってしまったことを謝りたいくらいには、シルヴァンは紳士的だった。アストライア帝国に来る前にレグルス王国で聞いていた噂では、シルヴァンは人との関わりを避け冷徹な孤高の狼だと聞いていたのだ。やはり噂は噂に過ぎず、自分の目で確かめないと人となりは分からないなと実感した。
「でも修道女作戦は上手くいったな。このままバレなきゃいいんだけど……本当に無理がある設定だよなぁ……」
もしもここが獣人の国ではなく普通の人間が統治している人間だけの国なら、ロレインが女装して嫁いだら一瞬でバレていた可能性のほうが高い。この国にそれを見抜く力のある人がいないというわけではなく、ロレインが男性だとしてもこの国では小さいのが原因だ。
ただ、このまま本当にバレなかったとして。
ロレインが時間を稼いでいる間にヴェストールはリリアを見つけるか、離縁してもいいような打開策を考えると言っていたけれど、それがずっと見つからなかったらどうするつもりだろうか。今日や半年、または一年ほどは『修道女を目指していたから』と言って性行為を拒否できるかもしれないが、段々と不審に思われるのは目に見えている。シルヴァンは『獣人と人間の間に子供が望めるか分からない』と言っていたけれど、周りの人が全員そう考えているとは思えないし、怪しむ人も出てくるだろう。
ずっと性別を隠し通せるわけはないと思うけれど、この生活をいつまで続けたらいいのかゴールが見えないので悩ましい。
「リリア……」
ヴェストールにリリアを見つけ出してほしいかと問われると、ロレインの気持ちは複雑だった。全く知らなかったけれど、妹には家と縁を切ってでも添い遂げたい相手がいたのだ。
彼女は生まれた時から自分の役割が決まっていて、いつかレグルス王国のために知らない誰かに嫁がないといけない運命が決まっていた。リリアは王女としてその運命を受け入れていたと思うけれど、そう分かっていても誰かを愛してしまったのだろう。
ロレインはリリアが見つけた愛を引き裂いてまで国のために結婚し、ロレインをこの状況から救ってくれと彼女に面と向かって言えるかと問われると、答えはノーだ。
できれば結婚ではなく違う手段でアストライア帝国と同盟を結べればそれが一番いいのだが、その手段がなかったからシルヴァンと結婚の話になったわけである。
「う〜〜〜……かと言って、今の俺は無力だ……リリアになりきるしか術がない……」
大きすぎるベッドにぼふりと身を投げる。柔らかい枕に顔を押し付けると、レグルス王国でロレインが使っていたオイルの香りがして、少しだけ心が落ち着いた。
視線に気がついたシルヴァンは魔王との握手を終えると、ロレインの元へと歩み寄ってくる。その表情は普段の皇帝としての威厳ではなく、一人の男性としての優しさに満ちている気がした。「ロレイン……」「陛下……」「俺からお願いがあります」シルヴァンがロレインの前に立ち、その手を取った。「これからどうか、俺の側にいてください。皇后として、愛する人として、そして俺の番として」「シルヴァン様……」シルヴァンの言葉にロレインの瞳には涙が溜まる。でも、今後のことを考えると本当に自分が側にいてもいいのか悩み、すぐに返事をすることができなかった。「でも、俺は男で、本物の皇后ではありません。それに、今までずっと男だというのを隠し、国民を騙してきた身です……」「それはこれから、俺たちの行動で信頼関係を構築していったらいいんです。あなたはきっと、愛される皇后になります」「陛下……」「確かに始まりはダミアンの策略だったかもしれません。しかし、俺があなたを愛していることに偽りはありません。あなたがいなければ、俺は本当にダミアンの駒になっていたでしょう」ロレインの手をぎゅっと握りしめるシルヴァンの手はとても温かくて安心した。この体温を手放すのは、とても惜しい。もしもロレインがアストライア帝国に留まらずレグルス王国に帰ることを望んだ後、シルヴァンはきっと違う人を皇后に迎えるだろう。そう思うと、言いようのない不安と嫉妬心がふつふつと湧き上がってきた。「……ロレイン、お前の気持ちはよく分かった」「兄上?」「シルヴァン陛下、弟をよろしくお願いいたします」ヴェストールがシルヴァンに向かって深々と頭を下げた。「リリアの身代わりとして嫌々この役目を引き受けてくれたので、弟が望むなら連れて帰ろうと思っていました。ですが、これほど深い愛で結ばれているなら、兄として安心です
応接間の扉を開けると、そこには想像していた恐ろしい魔王の姿はなかった。代わりに、落ち着いた雰囲気の綺麗な顔立ちの青年が立っていた。深い紫色のローブを纏い、頭上には小さな角が生えているものの、その表情は穏やかで知的だった。「シルヴァン皇帝陛下、そして……」魔王ガルバトロクスがロレインを見て、少し困惑したような表情を浮かべた。「ロレイン・エマニュエル・レグルス王子。会談を始める前にお伝えしたいことがあります」「何でしょうか?」「リリア・ローズマリー・レグルス王女のことです」魔王の言葉にロレインの眉がぴくりと動く。ちらりとシルヴァンを見ると、彼はひとつ大きく頷いた。「……リリア王女のこと、とは?」「王女は愛する者と駆け落ちした、という置き手紙を残しておりませんでしたか?」「それをどこで……」ロレインはそう言ったが、別段驚くことでもないのかもしれない。なんせ、ダミアンは最初からロレインの正体を知っていたので、リリアが駆け落ちしたことを魔王が知っているのは当然と言えば当然だ。ただ、彼は難しそうな顔をして額に手を当てて溜め息をついた。「実はリリア王女殿下は、駆け落ちなどしておりません。ダミアンによって誘拐され、我が国に囚われていたのです」「誘拐……!?」「駆け落ちの置き手紙も、ダミアンが偽装したものでした。そして……ヴァルモン魔国がレグルス王国に侵攻しようとしていたことも、全てダミアンの策略だったのです」「えっ?」魔王の口から語られる事実にロレインもシルヴァンも素っ頓狂な声が出てしまう。リリアは駆け落ちしたわけではなくヴァルモン魔国に囚われていて、レグルス王国への侵攻も全てダミアンの企みだと言ったのだ。「我が国の領土拡張政策、近隣諸国への脅威……全てダミアンが私を操って行わせていたのです」「操っていた、というのは…
クラウスの言葉を最後に、応接室に静寂が戻った。クラウスの亡骸、拘束されたダミアン、そして抱き合うシルヴァンとロレイン。陰謀劇の幕切れにふさわしい、重苦しい空気が漂っていた。「陛下、まずは宮廷医を呼びましょう」セレスティアがクラウスの傍らに膝をつき、その瞳を静かに閉じてやった。「それと、ダミアンの身柄を牢獄に移す必要があります」「ああ……頼む」シルヴァンの声は疲労で掠れていた。理性を保ったまま完全変身を成し遂げたとはいえ、その消耗は激しかったのだろう。「シルヴァン様、大丈夫ですか?」ロレインが心配そうにシルヴァンの顔を見上げた。「大丈夫です。それより……あなたが無事で本当によかった」シルヴァンがロレインの頬にそっと触れる。その手は微かに震えていて、ロレインはぎゅっと握りしめた。「俺も……陛下が無事で安心しました」「あなたの声が聞こえていました。『民を守るために授かった力』だと……その言葉があったから、俺は自我を保てたのです」二人が見つめ合っていると、セレスティアが咳払いをした。「お二人とも、申し訳ございませんが、まだやるべきことがあります」セレスティアが魔王ガルバトロクスからの親書を取り出した。「これを読む限り、魔王陛下はダミアンの暴走を知らなかったようです。むしろ、平和的解決を強く望んでおられます」「つまり、交渉のやり直しが可能だということですか?」「はい。ただし、今度は真の代表者との交渉になります。魔王陛下ご自身がこちらに向かっているとのことです」「魔王自らが?」「ダミアンの行為を深くお詫びしたいとのことです。それに……皇帝陛下の完全変身能力について、魔王陛下は大変興味を示しておられます。敵意ではなく、純粋な研究としてですが」「研究……」シルヴァンの表情が曇ったが
「陛下!」セレスティアが血相を変えて飛び込んできた。その後ろには帝国騎士団の騎士たちが続いている。「セレスティア!」シルヴァンの変身が一瞬止まった。ロレインの言葉と、信頼する宮廷魔導師の登場によって、かろうじて理性を保っているようだった。「陛下、その魔法陣から離れてください! 完全変身すれば取り返しがつきません!」「分かっている……だが……!」「まずは私が魔法陣を破壊します!」セレスティアが詠唱を始めると、床に刻まれた魔法陣が不安定に明滅し始めた。「邪魔をするな!」ダミアンが片手でロレインを拘束したまま、もう一方の手で黒い魔法を放った。セレスティアは防御魔法でそれを弾くが、詠唱が中断されてしまう。「くっ……!」「せっかくの楽しみを台無しにしてくれますね」ダミアンがロレインの首筋に鼻を寄せる。その瞬間、ロレインは全身に鳥肌が立った。「やめろ!」シルヴァンの怒りが爆発し、彼は完全に黒き狼の姿になってしまったのだ。牙を剥き出しにし、真紅と琥白の瞳には憎悪が浮かんでいる。まるで『シルヴァン』であることを忘れているような姿に、ロレインはダミアンの腕から逃げようともがいた。「シルヴァン様、だめです! お願いです、止まってください!」ロレインが必死に叫ぶが、愛する人を汚されそうになっている狼の怒りは収まらない。ダミアンに向かって吠えたシルヴァンは真っ黒な毛を逆立てていた。「もう手遅れですね。皇帝陛下は完全に獣となり、私の忠実な駒になるでしょう」ダミアンが勝ち誇ったように笑った時、動けないはずのクラウスが突然動き出した。「貴様……私を騙していたな……」「おや、まだ諦めていませんでしたか」ダミアンが振り返ると、クラウスは憎しみに燃える瞳で睨みつけていた。「私は確かに国を裏切った。だが
「クラウス卿……」急いできたのだろう、肩で息をしているクラウスを見るダミアンが冷ややかな笑みを浮かべた。「お疲れ様でした。もうあなたの出番はありませんよ」「何を言っている? 我々の計画では……」「計画?」ダミアンが顎に手を当て、宙をぼんやり見つめる。そして何かを思い出したようにパチンッと指を鳴らし、今度はにこっと人懐こい笑みを向けた。「ああ、あの幼稚な人間至上主義の妄想のことですか? 子供が描いた絵本のような題材の」くっくっと喉を鳴らしながら笑うダミアンをクラウスは真っ青な顔をして見つめていて、やはりクラウスはただ利用されていただけなのだなとロレインは確信した。「貴様……まさか……」「はい、その通りです。最初からあなたを利用するだけして、あとは捨てるつもりでした。あなたが提供してくれた帝国内部の情報、皇帝陛下の秘密、軍事機密……全て有効活用させていただきました。感謝しておりますよ」「裏切ったのか……!」「裏切り? とんでもない。最初から対等な関係など結んでいません」クラウスがいつからヴァルモン魔国と手を結んでいたのか定かではないが、シルヴァンとリリアの結婚すら仕組まれていたことなので、ずいぶん前からこの日を計画していたのだろう。ただ、クラウスは完全に嵌められ、計画していた『人間至上主義』の理想郷は一瞬して崩れ去った。「人間ごときが魔王陛下と対等だと思っていたのですか? 身の程知らずにも程がありますね」「人間ごとき……だと?」「そうです。我々魔族にとって、人間も獣人も等しく支配すべき対象でしかありません。あなたが獣人を見下していたように、我々はあなた方全てを見下しているのです」ダミアンは抑揚のない冷たい声でそう言い放ち、ロレインの体には氷のような冷気が付き纏う感触がした。「特に、自分の種
朝の準備を済ませた二人は、食事を済ませた後にシルヴァンの執務室へ向かった。しかし今日は普段と全く違う。クラウスの裏切りを知った今、彼と顔を合わせなければならないのだ。「陛下、大丈夫ですか?」ロレインがシルヴァンの手を握ると、彼の手のひらがいつもより熱いことに気づいた。「少し緊張しています。何年も信頼していた人を演技で騙すなんて……」「わたくしも緊張しています。でも、一緒なら乗り越えられます」執務室の扉を開けると、そこには何食わぬ顔でクラウスが待っていた。いつものように恭しく頭を下げる姿を見て、ロレインは心の中で複雑な気持ちになった。「陛下、皇后陛下、おはようございます」「おはようございます、クラウス」シルヴァンは平静を装って挨拶したが、その声はわずかに硬い。「昨夜はよく眠れましたでしょうか? 本日は重要な決断の日でございますから」「ええ、おかげさまで」ロレインも自然に振る舞おうとしたが、この男が陰で糸を引いていたと思うと、どうしても声が震えてしまう。「皇后陛下、お顔の色が優れないようですが……」クラウスが心配そうな表情を作った。その演技の上手さに、ロレインは背筋が寒くなる。「少し緊張しているだけです。今日の件で、故郷のことが心配で……」「ごもっともです。ヴァルモン魔国からの最終回答は正午でしたね」クラウスが時計を見ながら言った。時計の針が正午を指すにはまだまだ遠いが、この部屋の中にいる全員が緊張しているのがロレインの肌に伝わってきた。「軍の準備は整っております。陛下のご決断をお待ちしている状況です」「そうですね……」シルヴァンが重々しく頷いた時、侍従が慌ただしく駆け込んできた。「陛下! ダミアン外務大臣が緊急面会を求めております!」クラウスの表情が一瞬変わったのを、ロレインは見逃さなかった。ただロレインが不審に思







