LOGIN――変化なし。
感情は消えない。
むしろ――
よりはっきりする。「……違うな」
奥田が眉を寄せる。
「距離の問題じゃない」
航平の手がゆっくりと握られる。
「もう繋がってる」
近づいたからではない。
――すでに接続されている。
闇の広がりは、ますます速くなっていた。まるで押し寄せる潮のように、廊下全体を飲み込んでいく。夕陽がひび割れ始める。窓の外の空から、ガラスが砕け散るような音が響いた。神谷澪の姿も、少しずつ透けていく。まるで次の瞬間には、完全に消えてしまいそうだった。――だが、その時。航平が突然、彼のほうへ駆け出した。「航平!?」奥田が反射的に手を伸ばす。けれど、掴めなかった。航平はそのまま、透明になりかけた神谷澪の手首を強く掴む。氷みたいに冷たかった。生きている人間の温度じゃない。神谷澪がわずかに目を見開く。「……何してんの」航平の呼吸は乱れていた。ずっと押し殺していた感情が、もう抑えきれなくなったみたいに。「そんな顔、するなよ」神谷澪が一瞬だけ固まる。航平はまっすぐ彼を見つめた。「自分だけ置いていかれるみたいな顔、するな」空気が、ふっと静まった。神谷澪の唇がわずかに動く。笑おうとしたのかもしれない。でも、うまく笑えなかった。「……でも、事実そうだろ」彼の声は、どんどん薄くなっていく。「生き残った人間は、結局前に進いていく」「死んだ人間は――」「どんどん遠くなるだけだ」その言葉に、航平の胸が強く痛んだ。その瞬間、ようやく気づいてしまったからだ。神谷澪が本当に怖れていたのは、消えることじゃない。――“代わりにされること”。いつか奥田と航平が、何事もなかったみたいに生きて。また笑い合って。また互いを愛して。そして最後には、自分のことを完全に忘れてしまうこと。まるで最初から存在しなかったみたいに。その時、奥田がようやく二人の前まで歩いてきた。黙ったまま立ち止まる。長い沈黙のあと。低い声で口を開いた。「……誰も、お前の代わりになんてしてない」神谷澪がゆっくり顔を上げる。奥田は真正面から彼を見ていた。初めて、逃げずに。「俺は、お前に嫉妬してた」「航平にいつもまとわりついてるお前が、嫌だった」「だってお前は、俺にできないことを簡単にやってたから」空気がかすかに震える。神谷澪が目を見開いた。奥田は続ける。「お前は平気で航平を抱きしめるし」「甘えることもできるし」「当たり前みたいに隣に立てた」「でも俺にはできなかった」声が掠れる。まるで長年押し込めていたものを、無理やり引き裂くみた
空気は、雨音だけを残して静まり返っていた。神谷澪は俯いたまま。もう、自分を支える力さえ失ってしまったみたいだった。――その時。レストラン全体が、突然激しく揺れ始める。照明が狂ったように点滅した。闇と白い光が、何度も何度も入れ替わる。――パッ。――パッ。――パッ。まるで二つの世界が、無理やり重なろうとしているみたいに。航平は咄嗟にテーブルへ手をついた。次の瞬間。耳に入っていた音が、すべて消える。――静寂。死んだような静けさ。再び顔を上げた時。そこにレストランはなかった。代わりに広がっていたのは。夕暮れに染まる学校の廊下だった。西日が窓から差し込み、空気には細かな埃が漂っている。温かくて。優しすぎて。現実感がない。航平は息を呑んだ。なぜなら。廊下の先に、一人の少年が立っていたから。神谷澪。さっきまでとはまるで違う。濡れてもいない。冷たくもない。制服姿のまま、気だるそうに窓辺へ寄りかかっている。まるで何も起きていないみたいに。まるで今も、彼が生きているみたいに。「……」航平は呆然と彼を見つめる。神谷澪は、ふっと笑った。「おかえり」静かな声だった。「ここが、本当は僕たちのいるべき場所なんだよ」航平は思わず一歩後ろへ下がる。しかし、その背中が誰かにぶつかった。知っている体温。知っている呼吸。――奥田。彼もまた、この世界へ引き込まれていた。奥田の顔色は悪かった。ほとんど反射のように、航平を自分の後ろへ庇う。「……触るな」神谷澪はその様子を静かに眺める。数秒後。くく、と低く笑った。「何をそんなに怖がってるの?」奥田は答えない。神谷澪はゆっくり歩き出す。夕陽が、彼の影を長く伸ばしていた。「僕が航平を連れていくのが怖い?」「それとも――」小さく首を傾げる。「本当に、僕を選ぶかもしれないって?」空気が、一気に張り詰めた。航平の心臓が大きく跳ねる。奥田の指先が、ぎり、と強く食い込んだ。痛いほどに。「……黙れ」その声には、初めてはっきりとした怒気が滲んでいた。だが神谷澪は、ようやく核心へ触れたみたいに笑みを深くする。「やっぱり分かってたんだ」「君、自信ないんだね」「航平が、本当は誰を一番大事にしてるのか」「――もうやめろ!!」奥田の拳が、勢いよく振
空気が、一瞬で凍りついた。テレビ画面に浮かぶ白い文字。まるで雨に滲んだみたいに、わずかに歪んでいる。【今度こそ。】【僕を、置いていかないでくれる?】航平の呼吸が、ぴたりと止まった。奥田はほとんど反射のように立ち上がる。「見るな」掠れた低い声。だが、もう遅かった。次の瞬間。レストランの照明が一斉に落ちた。――パチン。闇が、すべてを飲み込む。周囲から悲鳴が上がった。「停電!?」「なにが起きてるんだ――!」けれど、その声さえ。何かに引きずられるみたいに、少しずつ遠ざかっていく。最後には。世界に残ったのは、雨音だけだった。そして――足音。……た、……た、……た。水たまりを踏むような音。遠くから、一歩ずつ近づいてくる。航平の全身が強張る。なぜなら今回、その音はテレビの中からじゃない。――すぐ後ろから聞こえていた。奥田が勢いよく振り返る。闇の中。ぼんやりとした人影が、そこに立っていた。濡れきった黒髪。血の気のない白い肌。制服の裾から、ぽたぽたと水滴が落ち続けている。神谷澪。けれど、さっきとは違う。今の彼は。“死者”そのものだった。夕陽もない。笑顔もない。あるのは、静かすぎるほどの冷たさだけ。神谷澪はじっと二人を見つめ、静かに口を開いた。「どうして答えてくれないの?」空気が刺すように冷たい。航平の指先が、かすかに震える。そこでようやく理解した。さっきテレビに映っていた神谷澪は、ただの“記憶”だったのだと。そして、今ここに立っているものこそ。本当に残ってしまった“何か”なのだと。奥田は無意識に航平を庇うように前へ出た。「……澪」神谷澪は小さく首を傾げる。その動きはひどく緩慢で。人間じゃないものの気配を帯びていた。「また、僕を止めるの?」奥田は奥歯を噛みしめる。「……もう終わりだ」「お前は、ここに居続けるべきじゃない」神谷澪は静かに彼を見つめた。数秒後。ふっと笑う。「でも、君たちはまだ僕を覚えてる」――ぽた。水滴が床に落ちた。彼の声は、どこまでも静かだった。「覚えていてくれる限り」「僕は消えない」航平の胸が大きく揺れる。――覚えられている限り、消えない。その瞬間。彼はようやく理解した。なぜ神谷澪が、何度も“異常”を引き起こしていたのか。
雨はまだ降っていた。パタ、パタ。レストランの窓ガラスを叩き続けている。けれどテレビが消えたあと。空間全体は、現実感を失うほど静まり返っていた。航平はまだ片膝をついたまま。指先が冷たい。黒く沈んだ画面に映っているのは、自分と奥田の二人だけだった。本当に。もう二人しかいない。なのに、なぜだろう。胸の奥は少しも軽くならなかった。それどころか、何かを突然えぐり取られたみたいに空っぽだった。「……」奥田がゆっくり椅子に座り直す。まるで一気に全身の力が抜けたみたいに。顔色は相変わらず青白い。けれど視線だけは、ずっとあの真っ黒な画面に向けられていた。長い沈黙のあと。彼は低く呟いた。「……終わったのか?」誰も答えない。航平自身ですら、分からなかったからだ。さっきの言葉も。あの記憶も。最後に神谷澪が彼らへ向けた視線も。どれも幻覚とは思えないほど、生々しかった。その時だった。店内の照明がようやく安定して点灯する。止まっていた空気も、急にまた流れ始めたみたいだった。隣の席では客たちが会話を続け、店員が何事もなかったように彼らの横を通り過ぎていく。まるで、本当に何も起こらなかったみたいに。ただ――航平と奥田だけが。まだあの黄昏の中に取り残されていた。航平はゆっくり立ち上がる。長く跪いていたせいで、膝が痺れていた。彼は奥田を見つめ、ふいに問いかけた。「……お前、あいつのこと好きだったのか?」空気が一瞬で静まり返る。奥田は顔を上げない。ただ、指先だけがわずかに強く握られた。長い沈黙のあと。彼は小さく笑った。その笑みは、壊れてしまいそうなほど疲れていた。「分からない。」「あの頃は。」「俺たち三人、ずっと一緒にいたから。」「近すぎて……感情の境界なんて、もう分からなかった。」窓の外で稲妻が走る。白い閃光が、一瞬だけ奥田の横顔を照らした。彼は低い声のまま続ける。「澪はいつもわがままだった。」「欲しいものがあったら、絶対に誰かに自分を見ていてほしがる。」「少しでも放っておかれると、すぐ不機嫌になる。」「でも――」奥田はそこで言葉を止めた。喉仏が小さく上下する。「……あいつ、笑うのが上手かったんだ。」航平は黙ったまま聞いていた。脳裏に。夕焼けの中の神谷澪が浮かぶ。気だるそう
空気は、恐ろしいほど静まり返っていた。神谷澪の声が落ちたあと。まるで世界そのものが、一秒だけ止まってしまったみたいに。航平はその場で硬直する。胸の奥が、理由もなく締めつけられた。――「やっと、俺を見てくれるようになったね」その言葉に。あまりにも生々しい感情が滲んでいたからだ。幽霊なんかじゃない。幻覚でもない。むしろ――ずっと待ち続けていた人間のようだった。だが次の瞬間。奥田が勢いよく航平の前へ立ち塞がる。ほとんど反射のような動きだった。「……見るな」その声は、初めて聞くほど冷たかった。神谷澪はわずかに目を瞬かせる。そして。ふっと笑った。「君、ほんと変わらないね」奥田は画面を睨みつけたまま、低く言う。「……あいつに近づくな」空気が、一瞬で凍りつく。航平は息を呑んだ。なぜなら――その言葉は。以前、“あれ”が口にしていたものと、まったく同じだったからだ。何かに気づいたように。奥田自身も、はっと身体を強張らせる。だが神谷澪は、低く笑い声を漏らした。「やっと気づいた?」小さく首を傾げる。夕陽が彼の影を長く伸ばしていた。「どうして“あれ”が、君たちの言葉を真似してたと思う?」奥田の瞳が大きく揺れる。神谷澪はゆっくり目を上げた。その瞳から。初めて笑みが消えていた。「――だって」「もともと、“あれ”は僕たちの間にいたんだから」次の瞬間。テレビ画面が激しく歪む。耳障りなノイズが爆発した。航平の頭に、鋭い痛みが走る。大量の記憶が、一気に流れ込んできた。――雨の夜。――屋上。――言い争う声。――「行くな」と叫ぶ誰か。そして。神谷澪の声。震えを含んだ、かすかな声。【……二人とも、結局どっちを選ぶの?】航平の呼吸が止まる。次の瞬間。映像は完全に砕け散った。彼は勢いよく目を開く。気づけば床に膝をついていた。テーブルに手をつき、呼吸を乱している。奥田も同じだった。顔色は真っ白だった。そしてテレビの中の神谷澪だけが。静かに彼らを見つめている。まるで。ずっと待っていた答えを、ようやく手にしたかのように。「思い出した?」彼は静かに尋ねた。誰も答えない。なぜなら。二人とも、もう理解してしまったからだ。これまで起きていた異常。“近づけ”という声と、“離れろ”とい
突然、雨音が激しくなった。まるで世界そのものが飲み込まれてしまったかのように。航平の呼吸が、少しずつ浅くなる。「一年前……」彼は低く繰り返した。脳裏に、あの古い写真が徐々にはっきり浮かび上がってくる。ぼやけた新聞の見出し。【本校二年男子生徒、深夜に転落死】そして写真の端には、もう一人の人物が写っていた。――奥田。横顔の半分しか映っていなかった。それでも、航平が見間違えるはずがない。「お前、あいつを知ってるんだな」航平は勢いよく奥田を見た。それは問いではない。確信だった。奥田は長い間、黙っていた。空気まで冷え始めるほどの沈黙。やがて、彼は低く口を開く。「……ああ」その一言が落ちた瞬間。ずっと押し込められていた何かが、ついにひび割れた。航平はゆっくりと拳を握りしめる。「……なんで俺に言わなかった」奥田はすぐには答えなかった。ただ目を伏せ、遠くを見るような表情をしていた。「だって――」「自分でも、忘れたと思ってたからだ」航平は目を見開く。奥田は小さく笑った。だが、その笑みは苦かった。「普通に忘れたんじゃない」「まるで――」「誰かに、あいつに関する記憶だけを、無理やり脳から抉り取られたみたいだった」空気が凍りつく。航平はふと思い出した。これまで感じていた、あの“欠落感”。言葉にできない既視感。あれは、最初から突然生まれたものじゃない。――誰かが、消されていたんだ。その時だった。レストランの照明が再び明滅する。パッ。パッ。接触不良のように、不安定に。そして――突然、テレビ画面が勝手に切り替わった。映し出されたのは、一つの教室。夕暮れ。誰もいない。カメラは固定されたまま、静かにその空間を映している。航平と奥田は同時に硬直した。なぜなら――そこは、記憶の中の教室だったからだ。次の瞬間。教室の扉が開く。誰かが入ってくる。神谷澪。写真の中より、ずっと生き生きとしていた。少し乱れた黒髪。制服の上着を肩に引っ掛けたまま。口元には、気だるげな笑み。そして彼は、カメラを見た。正確には――彼らを見た。「やっと思い出した?」その声が、はっきりとテレビから響く。今度は、無音じゃない。航平の呼吸が止まった。なのにレストランの他の客たちは、誰一人反応しない。まる
西川はゆっくり体を起こし、ベッドサイドのテーブルへ手を伸ばした。スマートフォンを手に取る。画面が点灯した。時刻はすでに零時を回っている。チャットアプリの一覧が、整然と並んでいた。
校舎の裏手にある空き地は、いつもと変わらず静かだった。グラウンドの端から風がゆっくりと吹き抜け、草の先をかすめてかすかな音を立てる。空は澄みきっていて、余計な喧騒もない。わざわざここまで来て邪魔をするような人もいない場所だ。洗い流されたように澄んだ空気の中で、呼吸さえもいつもよりはっきりと感じられる。二人は並んで階段に腰を下ろしていた。夕陽が斜めに差し込み、二人の影を長
「じゃあ……」航平は少しだけ声を落とす。「今のこれは、どんな感じ?」奥田は一瞬だけ考えた。ほんの短い沈黙。そのあとで、静かに答え
ページの角がなだめられると、紙は再び机の表面にぴたりと寄り添った。航平の指先はまだその一角に触れたままだった。すぐには手を離さない。まるで、その感触を確かめるように、ほんのわずかな時間そこに留まっている。彼の視線は、ずっと挿絵に向けられていた。騎士の横顔。風を受けて揺れるマント。