第26話 「蛮族」の作法

　城での生活が始まってから数日が過ぎた。

　セレスティナに与えられた部屋は、彼女の心の傷を癒すには十分すぎるほどの静けさと温もりに満ちていた。毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が失いかけていた人間としての感覚を、ゆっくりと取り戻させてくれた。

　路地裏で受けた傷は、手厚い看護のおかげで日に日に薄れていく。だが、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深く、複雑な様相を呈し始めていた。

　辺境伯、ライナス。

　あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。

　彼は、自分をこの城に置く理由を「使えるからだ」と言い放った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、その一方で示される、不可解なまでの配慮が彼女を混乱させた。

　上質な毛布、栄養のある食事、そして彼女の知識を試すかのような、書物の差し入れ。それらは、ただの駒に対する扱いとしては、あまりに過分だった。

　あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。

　その日の夕刻、マルタがいつものように食事を運んできた後、珍しく部屋に留まり、セレスティナに告げた。

「セレスティナ様。今宵は、閣下が食堂でお待ちです。幹部の者たちとの食事に、同席なされるように、と」

「…わたくしが、ですか」

　思わず、セレスティナは聞き返した。鉄狼団の幹部たちとの食事。それは、想像しただけで身がすくむような光景だった。あの武骨で、粗野な男たちの中に、自分一人が混ざるというのか。

「閣下のご命令です」

　マルタは、それ以上は何も言わず、ただセレスティナが身支度を整えるのを待っていた。その無表情の裏には、拒否は許さないという、鋼のような意志が感じられた。

　セレスティナは、諦めて頷くしかなかった。ライナスの命令は、この城では絶対だ。そして、彼を知るためには、彼の率いる狼たちの群れを、その内側から見る必要があるのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、彼女はマルタの後に続いた。

　城の食堂は、だだっ広く、飾り気のない空間だった。長い木のテーブルがいくつも並べられ、壁には武器の手入れをするための棚が備え付けられている。すでに、二十人ほどの男たちが集まり、思い思いに席に着いていた。彼らが、鉄狼団の幹部なのだろう。誰もが屈強な体つきで、その顔には歴戦の傷跡が刻まれている。彼らが発する、荒々しく、血生臭いほどの生命力が、部屋の空気を満たしていた。

　セレスティナが姿を現すと、彼らの視線が一斉に彼女に注がれた。好奇、戸惑い、そしてわずかな警戒。その視線の奔流に、セレスティナは息を詰める。

　その中で、見知った顔が一つあった。ライナスの側近である、ギデオンだった。彼は、セレスティナの姿を認めると、わずかに眉を上げて驚いたような表情を見せたが、すぐに立ち上がって彼女の元へ歩み寄ってきた。

「これは、セレスティナ様。閣下がお呼びになられたのですな」

「ええ…そのように、伺っております」

「さあ、こちらへ。閣下のお席の隣です」

　ギデオンに促され、セレスティナは食堂の最も奥にある、一番大きなテーブルへと案内された。その上座には、すでにライナスが腰を下ろしていた。彼は、セレスティナを一瞥すると、顎で隣の席を示す。そこに座れ、という無言の命令だった。

　セレスティナは、緊張でこわばる体を引きずるようにして、その席に着いた。ライナスの隣。彼の体温さえ伝わってきそうな距離に、心臓が大きく音を立てる。

　やがて、厨房から大皿に盛られた料理が次々と運ばれてきた。骨付きのまま豪快に焼かれた猪の肉、芋や根菜をごった煮にしたシチュー、そして山と積まれた黒パン。貴族の食卓に並ぶような、繊細な料理は一つもない。ただ、生きるために必要な熱量と栄養を、効率よく摂取するためだけの、無骨な料理だった。

　ライナスが、杯を掲げた。

「食うぞ」

　その一言を合図に、男たちの宴が始まった。

　それは、セレスティナがこれまで経験したどの食事とも、全く違う光景だった。

　男たちは、ナイフで大きな肉の塊を切り分けると、それを手掴みで、獣のように貪り食らう。シチューはスプーンを使わず、器に直接口をつけて啜り、パンで皿に残った汁をきれいに拭う。酒がなみなみと注がれた杯を呷り、満足げに腕で口元を拭う。

　大声で笑い、仲間と肩を叩き合い、時には下品な冗談を飛ばし合う。そこには、セレスティナが知る「作法」など、かけらも存在しなかった。

　彼女は、目の前で繰り広げられる光景に、ただ呆然としていた。

　野蛮。粗野。下品。

　貴族令嬢として受けた教育が、彼らの振る舞いの一つ一つを、そう断罪していた。父の食卓は、いつも静かで、厳格な作法に則っていた。銀の食器が立てるかすかな音と、節度ある会話だけが許される空間。それに比べ、ここはまるで、騒々しい酒場のようだ。

　セレスティナは、思わず眉をひそめた。目の前の料理に、とても手を付ける気にはなれない。

　そんな彼女の様子に気づいたのか、ライナスが低い声で言った。

「食わんのか。口に合わんか」

「い、いえ…そのようなことは」

　セレスティナは慌てて首を横に振った。だが、その表情は硬いままだった。

　ライナスは、そんな彼女の心中を見透かしたように、フッと鼻で笑った。

「まあ、無理もない。王都の姫君が食すような、鳥の餌みてえな料理は、ここにはねえからな」

　その言葉には、明らかな皮肉が込められていた。セレスティナは、頬が熱くなるのを感じる。この男は、自分の心の動きを、全てお見通しなのだ。

　彼女は、意地になるように、ナイフとフォークを手に取った。そして、目の前の肉を、できるだけ小さく切り分けて、ゆっくりと口に運ぶ。肉は硬く、筋張っていたが、噛みしめるほどに、力強い野生の味がした。

　彼女は、黙々と食事を続けながら、男たちの会話に、意識を集中させた。彼らが何を話し、何を考えているのか。それを知ることが、この場所で生き抜くための、そしてライナスという男を理解するための、唯一の手がかりに思えた。

　男たちの会話は、ほとんどが戦の話だった。

「おい、ギデオン。先日の盗賊団の残党狩り、見事だったな。お前の指揮は、相変わらず冴えてるぜ」

「ふん。当たり前のことをしたまでだ。それより、お前こそ、あの隘路での伏兵は見事だった。敵は完全に、お前の罠に嵌っていたぞ」

　彼らは、互いの武功を、何のてらいもなく称え合っていた。そこには、貴族社会にありがちな、嫉妬や、相手を貶めるような陰湿な響きは一切ない。ただ、仲間への純粋な敬意と信頼だけがあった。

　また、ある者は、自分の部下のことを、心配そうに話していた。

「うちの隊の若いのが、この前の戦で腕をやられてな。もう剣は握れねえかもしれん。だが、あいつは計算が得意だから、これからは兵站の方で力を発揮してくれるだろう。閣下も、そうおっしゃってくださった」

　その言葉に、ライナスは黙って頷いた。彼は、部下一人一人の能力を正確に把握し、その者が最も輝ける場所を与えているようだった。使い捨ての駒ではない。かけがえのない、仲間として。

　セレスティナは、その会話を聞きながら、胸の内に奇妙な感覚が広がっていくのを感じていた。

　粗野で、野蛮。だが、彼らの間には、偽りのない、固い絆がある。互いを認め合い、信頼し、命を預け合う。それは、金や地位で繋がった、脆い関係ではない。共に死線を乗り越えてきた者たちだけが持つ、本物の繋がりだった。

　不意に、彼女の脳裏に、別の食卓の光景が蘇った。

　それは、アルトマイヤー家が断罪される、ほんの数日前に開かれた、王都の夜会でのことだった。

　きらびやかなシャンデリアの下、美しいドレスと軍服に身を包んだ貴族たちが、洗練された作法で食事を楽しんでいる。会話は、常に穏やかで、知的だった。芸術について、詩について、そして隣国の情勢について。

　だが、その美しい言葉の裏側で、何が渦巻いていたか。

　セレスティナは、見てしまったのだ。

　婚約者であったアランが、別の令嬢と、柱の陰で楽しげに談笑しているのを。その令嬢は、宰相ヴァインベルクの遠縁にあたる娘だった。アランは、セレスティナに見せるのと同じ、甘い笑顔で、その令嬢の手を取り、指先に口づけていた。

　そして、他の貴族たちの会話。

「アルトマイヤー公爵も、近頃は少し出過ぎではないかな。陛下のご信任が厚いのを、良いことに…」

「全くですわ。清廉潔白も、度が過ぎればただの偽善ですもの」

　彼らは、セレスティナの父の前では、満面の笑みで賞賛の言葉を口にしながら、陰では嫉妬と悪意に満ちた言葉を囁き合っていた。

　洗練された作法。優雅な言葉遣い。その全てが、醜い本心を隠すための、上辺だけの仮面だった。

　彼らは、互いを牽制し、探り合い、隙あらば蹴落とそうと狙っている。その食卓は、見えない毒と刃が飛び交う、もう一つの戦場だった。そして、その戦場で、父は敗れたのだ。

　目の前の光景と、記憶の中の光景が、セレスティナの頭の中で重なり合う。

　手掴みで肉を食らい、大声で笑う、鉄狼団の男たち。

　銀の食器を使いこなし、美しい言葉で他人を貶める、王都の貴族たち。

　どちらが、本当に「野蛮」なのだろうか。

　どちらが、本当に「下品」なのだろうか。

　答えは、もはや明白だった。

　セレスティナは、気づいた。自分がこれまで信じてきた「品性」や「作法」というものが、いかに空虚で、欺瞞に満ちたものであったかということを。

　本当の品性とは、所作の美しさではない。その魂の在り方だ。

　この男たちは、粗野で、無学かもしれない。だが、彼らの魂は、裏表がなく、仲間への信頼と、主君への忠誠心に満ちている。それは、どんなに着飾った貴族よりも、遥かに気高く、そして美しい。

　その瞬間、セレスティナの中で、これまで彼女を縛り付けていた価値観が、音を立てて崩れ落ちた。

　それは、世界が反転するような、鮮烈な体験だった。

　彼女は、無意識のうちに、口元にかすかな笑みを浮かべていた。それは、自嘲と、そして新たな発見への、皮肉な笑みだった。

「こちらの方が、よほど上品だわ」

　誰にも聞こえないほどの、小さな声で呟く。

　その変化に、隣に座るライナスだけが気づいていた。彼は、驚きとも、満足ともつかない複雑な表情で、セレスティナの横顔を見つめる。

　彼女のすみれ色の瞳に、再び、かつての聡明な光が戻りつつあることを、彼は見抜いていた。だが、その光は、以前の無垢な輝きとは違う。絶望の淵を知り、世界の真実を見た者だけが持つ、強く、そしてどこか冷たい光だった。

　セレスティナは、もはや戸惑うことなく、ナイフで肉を切り分けると、それをしっかりと口に運んだ。

　もう、味気ないとは思わなかった。

　この力強い味こそが、この場所で生きていくための、本物の味なのだ。

　彼女は、この狼の巣で、初めて、自らの意志で食事をした。それは、彼女の再生の始まりを告げる、ささやかな、しかし決定的な一歩だった。