ライナス率いる精鋭部隊が、城から姿を消して数日が過ぎた。
彼らが向かった北の山脈は、分厚い灰色の雲に覆われ、その向こう側で何が起きているのかを知る術はない。セレスティナは、日々の務めに没頭することで、胸を締め付けるような不安を必死に紛らわしていた。 昼間は薬草園の手入れに精を出し、夜は書庫で新たな交易路が開かれた後の経済政策を練る。彼女は、ただ無力に待つだけの女ではなかった。ライナスが帰還した時、すぐに次の段階へ進めるよう、今できる全ての準備を整えておく。それが、彼を信じて待つということだと、自分に言い聞かせていた。だが、城と町に漂う空気は、日に日に重くなっていた。
交易路の封鎖という現実は、じわじわと、しかし確実に人々の生活を蝕み始めていた。パン屋の棚から小麦粉が消え、市場に並ぶ野菜は日に日に種類を減らしていく。わずかな食料を巡って、隣人同士が怒鳴り合う光景も、珍しくなくなっていた。 人々の不安は、やがて統治者であるライナスへの不満へと姿を変える。「辺境伯様は、一体いつまで山に籠っておられるのだ」「我々を見捨てて、どこかへ逃げたのではないか」「やはり、平民上がりの成り上がり者では、中央の公爵様には敵わぬのだ」 そんな心ない声が、セレスティナの耳にも届くようになっていた。その度に、彼女の胸はナイフで抉られるように痛んだ。彼が、どれほどの覚悟で、どれほどの危険を冒して、皆のために道なき道を進んでいるかを知らないからこそ、人々は無責任な言葉を口にする。 留守を預かるギデオンは、鉄狼団の兵士たちを町に配置し、治安の維持に努めていた。だが、力で押さえつけるだけでは、人々の心の離反を防ぐことはできない。城内にも、先の見えない状況への焦りが、澱のように溜まり始めていた。セレスティナは、このままではいけないと決意した。
彼女はギデオンの元へ赴くと、一つの提案をした。「ギデオン様。町の広場で、炊き出しを行う許可をいただけますでしょうか」「炊き出し、ですか?」「はい。城の備蓄も、無限ではありません。ですが、このままでは民の心は完全に離れてしまう。薬草園で採れたハーブと、備蓄の野菜の切れ端狡猾な商人、ダーヴィト・フォン・ゲルラッハが城に滞在して数日が過ぎた。 その間、辺境伯ライナスは、セレスティナが描いた脚本通り、「金に目が眩んだ無知な蛮族」という役を完璧に演じきっていた。 彼はゲルラッハを伴って、自ら「狼の道」や鉄鉱石の鉱山を案内して回った。その態度は、まるで自分の獲物の価値を自慢げに誇示する、単純な猟師のようだった。「見ろ、ゲルラッハ殿。この鉄鉱石の質は、王国一だ。ここから掘り出される鉄で、俺の鉄狼団の剣は作られている」「おお、これは素晴らしい! まさに、宝の山ですな!」 ゲルラッハは、目を爛々と輝かせながら相槌を打つ。その貪欲な瞳は、鉱石そのものではなく、それが生み出すであろう莫大な富を見つめていた。 ライナスは、そんな彼の欲望をさらに煽るように、言葉を続けた。「お前の言う通り、これだけの宝を俺たちだけで管理するのは骨が折れる。お前のような、王都の大商人の知恵と力が加われば、まさに鬼に金棒だろうな」 その、あまりに無防備で、欲に目が眩んだかのような言葉に、ゲルラッハは内心でほくそ笑んでいた。この成り上がりの狼は、思った以上に御しやすい。自分の掌の上で、面白いように踊ってくれる。彼は、自分の勝利を微塵も疑っていなかった。 その傲慢さは、やがて鉄狼団の幹部たちへも向けられた。 夜の宴席で、ゲルラッハはギデオンをはじめとする幹部たちに、あからさまな買収を持ちかけたのだ。「ギデオン殿。貴殿ほどの武人が、このような辺境で燻っているのは惜しい。もし、この度の契約がうまく運んだ暁には、我が商会が後ろ盾となり、中央のしかるべき騎士団へ推薦して差し上げてもよろしいのですぞ」 その言葉は、武人への侮辱に他ならなかった。だが、ギデオンは主君の命令を思い出し、ぐっと怒りをこらえた。そして、セレスティナに教わったばかりの、貴族的な曖昧な笑みを浮かべて見せる。「はは、それはありがたいお話。ですが、私は閣下にお仕えする身。この辺境こそが、私の骨を埋める場所と決めておりますので」 その、のらりくらりとした返答を、ゲルラッハは「田舎武人らしい、朴訥な忠誠心」としか受け取らなかった。彼は、金と地位をちらつか
辺境復興祭の熱気が、まだ町の空気には残っていた。 あれからひと月、辺境の町はまるで長い冬眠から目覚めたかのように、ゆっくりと、しかし着実に活気を取り戻し始めていた。ヴァインベルク公爵による陰湿な経済封鎖を打ち破った「狼の道」は、今やこの土地の生命線となり、途切れることなく荷駄馬の隊列が中央との間を行き交っている。 市場には、以前の活気が嘘のように蘇っていた。パン屋の店先には焼きたてのパンが並び、その香ばしい匂いが道行く人々の鼻をくすぐる。子供たちの頬には血の気が戻り、その甲高い笑い声が、灰色の町に彩りを添え始めていた。 この劇的な変化をもたらしたのが誰であるかを、町の誰もが知っていた。 絶対的な力で腐敗を断ち切り、民の生活を守る辺境伯ライナス。そして、その傍らに立ち、比類なき知性で道を照らす軍師セレスティナ。二人の存在は、もはや民衆にとって、畏怖の対象ではなく、希望の象徴そのものだった。 その日の午後、城の軍師執務室は、穏やかな陽光で満たされていた。 セレスティナは、机の上に広げられた数枚の羊皮紙から顔を上げ、窓の外に広がる町の景色に目を細めた。煙突から立ち上る炊事の煙、市場の喧騒、そして子供たちのはしゃぎ声。それは、彼女がこの城に来てからずっと夢見ていた、平和な光景だった。「穏やかになりましたわね」 誰に言うともなく、彼女はぽつりと呟いた。「ああ。お前のおかげだ」 低い、落ち着いた声が返ってくる。セレスティナがはっと振り返ると、いつの間にか、ライナスが部屋の入り口に立っていた。彼は、執務机で書類と格闘しているはずではなかったか。「閣下。いつの間に…」「今しがただ。お前があまりに良い顔で外を眺めているものだからな。声をかけるのを、少しだけためらった」 ライナスはそう言うと、無骨な椅子にどさりと腰を下ろした。祭りの夜を経てから、二人の間の空気は明らかに変わっていた。言葉にしなくとも互いの想いを理解し合う、穏やかで、そしてどこか甘い空気が流れている。「民の顔つきが変わった。以前は、死んだ魚のような目をしていた連中が、今は明日を語るようになった。全て、お前が蒔いた種の、成果だ」
祭りの喧騒が、まるで遠い潮騒のように聞こえていた。 広場の隅に置かれた粗末な木のベンチ。そこでセレスティナとライナスは、ただ静かに寄り添い、手を繋いでいた。彼の大きな手に包まれた自分の手は、まるで巣に戻った小鳥のように、安らかで温かい。 人々の熱気と音楽、そして燃え盛る焚き火の光。その全てが、二人だけの穏やかな空間を、優しい薄絹のように隔ててくれている。言葉はなかった。だが、繋がれた手を通して、どんな雄弁な言葉よりも確かな想いが、互いの心を行き来していた。 このままずっと、時が止まってしまえばいい。 セレスティナは、心の底からそう願っていた。復讐も、過去の痛みも、未来への不安も、この瞬間の前では全てが色褪せていくようだった。 その心地よい沈黙を、先に破ったのはライナスだった。「…お前は」 彼は、視線を広場の輪に向けたまま、ぽつりと呟いた。「俺の知らない顔を、たくさん持っているな」「え…?」 セレスティナが顔を上げると、ライナスは少しだけ気まずそうに、彼女から視線を逸らした。その横顔が、焚き火の光に照らされて、深い陰影を帯びている。「薬草園で土にまみれている顔。書庫で難しい本を読み解いている顔。そして、今夜のような…民の輪の中で、楽しそうに笑う顔。どれも、俺が初めて見る、お前の顔だ」 その声には、嫉妬とも、戸惑いともつかない、複雑な響きがあった。「あの中にお前がいると、少しだけ、遠い存在に思えた。俺の手の届かない、どこかへ行ってしまいそうでな」 それは、彼の弱さの告白だった。 絶対的な力を持つ、孤高の狼。その彼が、自分を失うことを恐れている。その、あまりに人間的で、不器用な独占欲が、セレスティナの胸を、きゅう、と甘く締め付けた。 この人は、ただ強いだけではない。その強さの鎧の下に、誰よりも繊細で、傷つきやすい魂を隠している。戦場で生き抜くために、そうするしかなかったのだ。 彼女は、繋がれた手に、そっと力を込めた。「いいえ。私は、どこへも行きません」 その声は、自分でも驚くほど、はっきりと、そ
セレスティナがライナスの手を取った瞬間、広場を埋め尽くした民衆から、割れんばかりの歓声が沸き起こった。 それは、ただの喝采ではなかった。長い冬の時代を耐え抜き、ようやく掴んだ希望の光。その光の象徴である二人への、心からの祝福と感謝が込められた、温かい声の波だった。 止まっていた音楽が、再び高らかに奏でられ始める。今度は先ほどよりも、もっと陽気で、祝祭にふさわしい華やかな旋律だった。 ライナスは、セレスティナの小さな手を、自分の無骨な手で、壊れ物を包むように優しく握りしめた。そして、人々の視線が集中する踊りの輪の中心へと、彼女をゆっくりと導いていく。 一歩、また一歩と、燃え盛る焚き火の光に近づくにつれて、セレスティナの心臓は、期待と、そして少しの不安で、甘く高鳴った。 人々の視線が、少しだけ恥ずかしい。だが、それ以上に、彼の手の温かさと、自分だけを見つめるその真剣な金色の瞳が、彼女の心を幸福感で満たしていた。 踊りの輪の中心に立った二人は、向かい合った。 ライナスは、どうしていいか分からないというように、その巨躯をわずかに強張らせている。戦場では、千の軍勢を前にしても眉一つ動かさぬこの男が、たった一人の女性を前にして、まるで初陣の若者のように緊張している。その不器用な姿が、セレスティナにはたまらなく愛おしかった。 音楽が、新たなフレーズを奏で始める。「閣下」 セレスティナは、悪戯っぽく微笑みかけると、もう一方の手を彼の肩にそっと置いた。「難しく考える必要はありませんわ。ただ、音楽に身を任せてくだされば、私がリードいたします」「…すまん」 ライナスは、かすれた声でそれだけ言うと、ぎこちない動きで、彼女の細い腰に手を回した。その手が触れた瞬間、ドレスの薄い生地を通して、彼の熱い体温がじかに伝わってくる。セレスティナは、思わず息を呑んだ。 二人のダンスが始まった。 それは、お世辞にも上手いとは言えない、ぎこちないものだった。 ライナスの動きは、硬く、まるで訓練用の木偶人形のようだった。音楽のリズムと、彼の踏むステップは、ことごとくずれている。何度か、彼はセレス
陽が落ちて、辺境の空が深い藍色に染まる頃。町の広場の中央で燃え盛る焚き火は、天にまで届かんとする勢いで、人々の顔を希望の色に照らし出していた。 どこからともなく、素朴だが心躍るような笛の音が響き始める。それに合わせるように、誰かが持ち込んだ古い太鼓が、力強いリズムを刻み始めた。それを合図にしたかのように、それまで焚き火を囲んで談笑していた人々が、一人、また一人と手を取り合い、大きな踊りの輪を作り始めた。 それは、王都の舞踏会で踊られるような、洗練された優雅なダンスではない。大地を踏みしめ、喜びを全身で表現するような、生命力に満ち溢れた民衆の踊りだった。男も女も、老いも若きも、兵士も元罪人も関係ない。皆が同じ輪の中で、同じリズムに身を任せ、ただ笑い合っている。 セレスティナは、少し離れた場所から、その光景を眩しいものでも見るように見つめていた。人々の熱気に当てられ、彼女の頬は興奮でかすかに上気している。「さあ、聖女様も!」「軍師殿も、こちらへ!」 踊りの輪の中から、何人もの手が差し伸べられる。セレスティナは一瞬ためらったが、その温かい手招きに抗うことはできなかった。「で、ですが、私、このような踊りは…」「難しく考えるこたあねえ! 音に合わせて、好きに体を動かせばいいんでさ!」 日に焼けた、たくましい農夫の手に引かれ、彼女は半ば強引に踊りの輪の中へと引き入れられた。 最初は、戸惑うばかりだった。貴族令嬢として叩き込まれた舞踏のステップは、この力強いリズムの前では何の役にも立たない。だが、周りの人々が、手本を見せるように、楽しげにステップを踏んでくれる。その素朴で、裏表のない笑顔に包まれているうちに、彼女の心の中から、いつしか羞恥心や戸惑いが消え失せていた。 セレスティナは、見よう見まねで、ぎこちなくステップを踏み始めた。最初は硬かったその動きも、音楽と人々の熱気に導かれるように、少しずつ、しなやかさを帯びていく。すみれ色のドレスの裾が、炎の光を反射して、ひらひらと夜の闇に舞った。 その姿は、まるで闇夜に舞い降りた、一輪のすみれの花のようだった。 いつしか、彼女は心の底から笑っていた。これまでの人
狼の道が拓かれてから、ひと月が過ぎた。 辺境の町は、まるで長い冬眠から覚めたかのように、ゆっくりと、しかし着実に活気を取り戻し始めていた。ヴァインベルク公爵による陰湿な経済封鎖を打ち破った新たな交易路は、途切れることなく荷駄馬の隊列を町へといざなう。中央から運ばれてくる小麦、塩、布地、そして武具を修繕するための鉄。それらは、人々の生命線そのものだった。 市場には、以前の活気が嘘のように蘇っていた。パン屋の店先には焼きたてのパンが並び、その香ばしい匂いが道行く人々の鼻をくすぐる。物々交換しかできなかった人々が、再び銅貨を手に、必要なものを買えるようになった。子供たちの頬には血の気が戻り、その甲高い笑い声が、灰色の町に彩りを添え始めていた。 この劇的な変化をもたらしたのが誰であるかを、町の誰もが知っていた。 絶対的な力で腐敗を断ち切り、民の生活を守る辺境伯ライナス。そして、その傍らに立ち、比類なき知性で道を照らす軍師セレスティナ。二人の存在は、もはや民衆にとって、畏怖の対象ではなく、希望の象徴となっていた。彼らが統治するこの辺境は、もはや中央に見捨てられた最果ての地ではない。新しい時代を、自分たちの手で築き上げていくべき故郷なのだ。そんな気運が、人々の間に確かに生まれつつあった。 その日の午後、城の軍師執務室は、穏やかな陽光に満たされていた。 セレスティナは、机の上に広げられた数枚の羊皮紙から顔を上げ、窓の外に広がる町の景色に目を細めた。煙突から立ち上る炊事の煙、市場の喧騒、そして子供たちのはしゃぎ声。それは、彼女がこの城に来てからずっと夢見ていた、平和な光景だった。「…穏やかになりましたわね」 誰に言うともなく、彼女はぽつりと呟いた。「ああ。お前のおかげだ」 低い、落ち着いた声が返ってくる。セレスティナがはっと振り返ると、いつの間にか、ライナスが部屋の入り口に立っていた。彼は、執務机で書類と格闘しているはずではなかったか。「閣下。いつの間に…」「今しがただ。お前があまりに良い顔で外を眺めているものだからな。声をかけるのを、少しだけためらった」 ライナスはそう言うと、無骨な椅子