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第9話 二つの規律

last update 최신 업데이트: 2025-08-10 20:59:06

 狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。

 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。

 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。

 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。

「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」

 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。

「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」

 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。

「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」

「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」

 役人たちは、意味ありげに笑い合った。

 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩ではない。

 だが、その歪みが自分たちのような最底辺の者に何をもたらすのか、彼女にはまだ知る由もなかった。

 事件が起きたのは、その日の夕暮れ時だった。

 一日の過酷な労働が終わり、人々は泥のように疲れきった体を引きずって、それぞれの塒へと帰路についていた。ほんのわずかな駄賃か、あるいは現物支給の黒パンを握りしめ、誰もが俯いて歩いている。広場には、夕食の配給を待つ人々がまばらに集まり始めていた。

 そんな中、広場の入り口で、数人の男たちが大きな笑い声をあげながら立っていた。彼らは辺境伯の兵とは違う、より粗末だがけばけばしい意匠の鎧を身に着けていた。中央のどこかの貴族が私的に雇っている兵、いわゆる私兵である。彼らはこの町では監督役人たちの庇護を受け、治外法権のように振る舞っていた。

 その私兵たちが、杖をつきながらよろよろと歩く一人の老人を取り囲んだ。

「よう、じいさん。今日の稼ぎは良かったみたいじゃねえか」

 リーダー格らしい、顔に刀傷のある男が、下卑た笑みを浮かべて老人の行く手を遮る。老人は怯えたように顔を上げ、後ずさろうとした。

「な、何でもありませんだ。わしは、何も持っておりません」

「嘘つけよ。その震える手で、大事そうに握りしめてる布袋は何だ? ちょっと見せてみろ」

 私兵は老人の腕を掴み、強引に布袋をひったくった。中から、数枚の銅貨と、半分に割られた黒パンが地面に転がる。それは、老人が一日中瓦礫を運んで、ようやく手に入れた命の糧だった。

「ちぇっ、これだけかよ。まあ、無いよりはマシか」

 私兵は銅貨を拾い上げると、自分の懐に入れた。そして、地面に落ちた黒パンを、楽しむように軍靴で踏み潰す。

「や、やめてくだせえ! それだけは!」

 老人は悲痛な声を上げ、地面に這いつくばってパンの残骸に手を伸ばそうとした。だが、別の私兵がその背中を容赦なく蹴りつける。

「うるせえな、汚えじじいが。これは、俺たちがこの町の平和を守ってやってるための、ありがたい税金だ。感謝しろよ」

 げらげらと下品な笑い声が、薄暗い広場に響き渡る。

 周囲にいた人々は、その光景から目を逸らした。ある者は足早にその場を去り、ある者は壁の影に身を隠す。誰もが、次の標的にされることを恐れ、死んだように気配を消していた。見て見ぬふり。それが、この町で生きるための、哀しい知恵だった。

 セレスティナは、その一部始終を、広場の隅から見ていた。

 彼女は動けなかった。手枷のはめられた両手を、ただ固く握りしめる。

 その時、一人の女が意を決したように駆け寄り、近くにいた町の監督役人たちに助けを求めた。その役人は、昼間にライナスの悪口を言っていた、あの肥え太った男だった。

「役人様! お願いです、あの方をお助けください! あの者たちは、毎日こうやって弱い者から食い物を奪っているのです!」

 女は必死に訴えかけた。だが、役人は面倒くさそうに眉をひそめると、私兵たちの方へちらりと視線を送った。私兵のリーダーは、役人に向かって片目を瞑り、にやりと笑う。それは、彼らが共犯者であることを示す、暗黙の合図だった。

 役人は、女の方へ向き直ると、吐き捨てるように言った。

「騒々しい。貴様らのような罪人が、町の治安について口出しするな。これは、彼らなりのやり方で町の秩序を保っているのだ。文句があるなら、俺たちに逆らうということか?」

「そ、そんな…」

 女は絶句した。正義を求めたはずの相手から、逆に脅迫されたのだ。役人は、私兵たちの蛮行を止めるどころか、それを肯定し、庇護している。

 セレスティナは、その光景を目の当たりにして、すべてを理解した。

 これは、単なる私兵の暴走ではない。中央から来た役人たちと、彼らが連れてきた私兵たちが結託し、この町の弱者から組織的に搾取しているのだ。法も、秩序も、ここには存在しない。あるのはただ、強者の都合と、弱者の犠牲だけ。

 彼女がかつて信じていた、父が命を懸けて守ろうとした王国の理念。民を守り、公正な社会を築くという高潔な理想。そのすべてが、目の前で汚泥の中に叩きつけられていた。

 セレスティナの心に、熱い怒りが込み上げてくることはなかった。

 代わりに、彼女の心を支配したのは、どこまでも冷たい、底なしの絶望だった。

 ああ、そうか。これが、この国の真の姿なのだ。

 王都の華やかな社交界も、貴族たちの美しい言葉も、すべては上辺だけの飾り。その皮を一枚剥げば、下からはこのような腐臭を放つ、醜い現実が現れる。父は、この腐敗と戦おうとしていた。だから、ヴァインベルク公爵に疎まれ、陥れられたのだ。

 父の無念が、今、痛いほどリアルな実感となって彼女の胸に突き刺さる。

 彼女は、何もできない自分を見つめた。

 あの老人を助けたい。あの私兵たちを止めさせたい。あの不正を正したい。

 だが、今の自分に何ができる? 罪人という烙印を押され、手枷をはめられ、明日の食事さえ保証されないこの身で。声を上げれば、あの女のように脅され、あるいは老人と同じように蹴りつけられるのが関の山だ。

 無力感。それは、牢獄で感じたものよりも、さらに重く、絶望的な響きを持っていた。

 セレスティナは、踵を返し、その場を静かに離れた。これ以上、見ていられなかった。私兵たちの笑い声と、老人の嗚咽を背中に聞きながら、彼女は自分の塒である廃屋へと歩く。

 足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重かった。

 廃屋に戻り、重い扉を閉める。外の世界から遮断された薄暗い空間で、彼女は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 配給で受け取った黒パンと水が、床の上に虚しく置かれている。食欲など、どこにも湧いてこない。

 彼女は、ゆっくりと自分の両手を持ち上げた。視線の先にあるのは、冷たい鉄の手枷。

 かつてこの手は、父から贈られた美しいレースの手袋に包まれていた。繊細な薬草を摘み、古い文献のページをめくり、婚約者の手に優しく触れた。

 だが今は、この鉄の輪が、彼女の無力を、彼女が罪人であることを、雄弁に物語っている。

 これが、私を縛るもの。

 これが、私から全てを奪った、この世界の理不尽さの象徴。

「狼」への恐怖は、今やより具体的で、より身近な腐敗への、冷え切った怒りと絶望へと変わっていた。心はもう恐怖に震えてはいなかった。ただ、どこまでも深く、静かに、冷えていく。まるで、真冬の夜に凍りついていく湖のように。

 セレスティナは、その手枷を、ただじっと見つめ続けた。

 その虚ろな瞳の奥底で、まだ誰にも見えない、硬く、冷たい光が、ほんのわずかに灯ったような気がした。それは、この理不尽な現実をただ受け入れるだけではない、何か別の道を探そうとする、意志の最初の瞬きだったのかもしれない。

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