狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。
相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。
「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。 「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。 「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」 「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩ではない。 だが、その歪みが自分たちのような最底辺の者に何をもたらすのか、彼女にはまだ知る由もなかった。事件が起きたのは、その日の夕暮れ時だった。
一日の過酷な労働が終わり、人々は泥のように疲れきった体を引きずって、それぞれの塒へと帰路についていた。ほんのわずかな駄賃か、あるいは現物支給の黒パンを握りしめ、誰もが俯いて歩いている。広場には、夕食の配給を待つ人々がまばらに集まり始めていた。 そんな中、広場の入り口で、数人の男たちが大きな笑い声をあげながら立っていた。彼らは辺境伯の兵とは違う、より粗末だがけばけばしい意匠の鎧を身に着けていた。中央のどこかの貴族が私的に雇っている兵、いわゆる私兵である。彼らはこの町では監督役人たちの庇護を受け、治外法権のように振る舞っていた。 その私兵たちが、杖をつきながらよろよろと歩く一人の老人を取り囲んだ。 「よう、じいさん。今日の稼ぎは良かったみたいじゃねえか」 リーダー格らしい、顔に刀傷のある男が、下卑た笑みを浮かべて老人の行く手を遮る。老人は怯えたように顔を上げ、後ずさろうとした。 「な、何でもありませんだ。わしは、何も持っておりません」 「嘘つけよ。その震える手で、大事そうに握りしめてる布袋は何だ? ちょっと見せてみろ」 私兵は老人の腕を掴み、強引に布袋をひったくった。中から、数枚の銅貨と、半分に割られた黒パンが地面に転がる。それは、老人が一日中瓦礫を運んで、ようやく手に入れた命の糧だった。 「ちぇっ、これだけかよ。まあ、無いよりはマシか」 私兵は銅貨を拾い上げると、自分の懐に入れた。そして、地面に落ちた黒パンを、楽しむように軍靴で踏み潰す。 「や、やめてくだせえ! それだけは!」 老人は悲痛な声を上げ、地面に這いつくばってパンの残骸に手を伸ばそうとした。だが、別の私兵がその背中を容赦なく蹴りつける。 「うるせえな、汚えじじいが。これは、俺たちがこの町の平和を守ってやってるための、ありがたい税金だ。感謝しろよ」 げらげらと下品な笑い声が、薄暗い広場に響き渡る。 周囲にいた人々は、その光景から目を逸らした。ある者は足早にその場を去り、ある者は壁の影に身を隠す。誰もが、次の標的にされることを恐れ、死んだように気配を消していた。見て見ぬふり。それが、この町で生きるための、哀しい知恵だった。セレスティナは、その一部始終を、広場の隅から見ていた。
彼女は動けなかった。手枷のはめられた両手を、ただ固く握りしめる。 その時、一人の女が意を決したように駆け寄り、近くにいた町の監督役人たちに助けを求めた。その役人は、昼間にライナスの悪口を言っていた、あの肥え太った男だった。 「役人様! お願いです、あの方をお助けください! あの者たちは、毎日こうやって弱い者から食い物を奪っているのです!」 女は必死に訴えかけた。だが、役人は面倒くさそうに眉をひそめると、私兵たちの方へちらりと視線を送った。私兵のリーダーは、役人に向かって片目を瞑り、にやりと笑う。それは、彼らが共犯者であることを示す、暗黙の合図だった。 役人は、女の方へ向き直ると、吐き捨てるように言った。 「騒々しい。貴様らのような罪人が、町の治安について口出しするな。これは、彼らなりのやり方で町の秩序を保っているのだ。文句があるなら、俺たちに逆らうということか?」 「そ、そんな…」 女は絶句した。正義を求めたはずの相手から、逆に脅迫されたのだ。役人は、私兵たちの蛮行を止めるどころか、それを肯定し、庇護している。 セレスティナは、その光景を目の当たりにして、すべてを理解した。 これは、単なる私兵の暴走ではない。中央から来た役人たちと、彼らが連れてきた私兵たちが結託し、この町の弱者から組織的に搾取しているのだ。法も、秩序も、ここには存在しない。あるのはただ、強者の都合と、弱者の犠牲だけ。 彼女がかつて信じていた、父が命を懸けて守ろうとした王国の理念。民を守り、公正な社会を築くという高潔な理想。そのすべてが、目の前で汚泥の中に叩きつけられていた。セレスティナの心に、熱い怒りが込み上げてくることはなかった。
代わりに、彼女の心を支配したのは、どこまでも冷たい、底なしの絶望だった。 ああ、そうか。これが、この国の真の姿なのだ。 王都の華やかな社交界も、貴族たちの美しい言葉も、すべては上辺だけの飾り。その皮を一枚剥げば、下からはこのような腐臭を放つ、醜い現実が現れる。父は、この腐敗と戦おうとしていた。だから、ヴァインベルク公爵に疎まれ、陥れられたのだ。 父の無念が、今、痛いほどリアルな実感となって彼女の胸に突き刺さる。 彼女は、何もできない自分を見つめた。 あの老人を助けたい。あの私兵たちを止めさせたい。あの不正を正したい。 だが、今の自分に何ができる? 罪人という烙印を押され、手枷をはめられ、明日の食事さえ保証されないこの身で。声を上げれば、あの女のように脅され、あるいは老人と同じように蹴りつけられるのが関の山だ。 無力感。それは、牢獄で感じたものよりも、さらに重く、絶望的な響きを持っていた。セレスティナは、踵を返し、その場を静かに離れた。これ以上、見ていられなかった。私兵たちの笑い声と、老人の嗚咽を背中に聞きながら、彼女は自分の塒である廃屋へと歩く。
足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重かった。 廃屋に戻り、重い扉を閉める。外の世界から遮断された薄暗い空間で、彼女は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。 配給で受け取った黒パンと水が、床の上に虚しく置かれている。食欲など、どこにも湧いてこない。 彼女は、ゆっくりと自分の両手を持ち上げた。視線の先にあるのは、冷たい鉄の手枷。 かつてこの手は、父から贈られた美しいレースの手袋に包まれていた。繊細な薬草を摘み、古い文献のページをめくり、婚約者の手に優しく触れた。 だが今は、この鉄の輪が、彼女の無力を、彼女が罪人であることを、雄弁に物語っている。 これが、私を縛るもの。 これが、私から全てを奪った、この世界の理不尽さの象徴。 「狼」への恐怖は、今やより具体的で、より身近な腐敗への、冷え切った怒りと絶望へと変わっていた。心はもう恐怖に震えてはいなかった。ただ、どこまでも深く、静かに、冷えていく。まるで、真冬の夜に凍りついていく湖のように。セレスティナは、その手枷を、ただじっと見つめ続けた。
その虚ろな瞳の奥底で、まだ誰にも見えない、硬く、冷たい光が、ほんのわずかに灯ったような気がした。それは、この理不尽な現実をただ受け入れるだけではない、何か別の道を探そうとする、意志の最初の瞬きだったのかもしれない。役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。 翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。 それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。 その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。 冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、
辺境の冬は、容赦を知らない暴君だった。空から絶え間なく降り注ぐ雪は、世界の輪郭を白く塗りつぶし、人々のささやかな希望さえも凍らせていく。飢えと寒さは死の同義語であり、昨日まで言葉を交わした者が、翌朝には冷たい骸となって発見されることも珍しくなかった。 だが、そんな灰色の絶望が支配する町の一角で、ほんの小さな、しかし確かな変化が生まれていた。 セレスティナが寝床とする廃屋。その場所は、いつしか「診療所」のような役割を担うようになっていた。彼女の元には、体調を崩した者やその家族が、途切れることなく助けを求めにやってくる。「お嬢様、どうか私の息子を…! 熱が下がらなくて…」 ぼろ布をまとった母親が、ぐったりとした幼い息子を抱いて駆け込んできた。セレスティナは、その青白い顔を一瞥すると、冷静に、しかし迅速に行動を始める。「こちらへ。とにかく体を温めないと」 彼女は、廃屋の風が一番当たらない隅に、追放者たちが持ち寄ってくれたなけなしの藁を厚く敷き、そこに子供を寝かせた。彼女自身のぼろぼろになった囚人服の上着を脱ぎ、子供の体にかけてやる。「ありがとうございます、ありがとうございます…」 母親は涙ながらに感謝を繰り返す。セレスティナはそれに構わず、石で砕いた解熱作用のある植物の根を、ぬるま湯に溶かして子供の口に含ませた。それは薬と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、彼女の真摯な眼差しと優しい手つきは、それ以上の効果を持っているようだった。 セレスティナの周りには、いつしか数人の女性たちが集まり、彼女の手伝いを申し出るようになっていた。ある者は、雪の下から薬草を探し出すのを手伝い、ある者は、乏しい燃料を分け与えて、病人のための湯を沸かす。 かつては互いに無関心で、自分のことで精一杯だった人々が、セレスティナという存在を核にして、再び失われた絆を取り戻し始めていた。それは、この極寒の地で生き延びるための、小さな共同体の誕生だった。 セレスティナは、人々から「お嬢様」と呼ばれ、いつしかその呼び名は畏敬と親しみを込めたものに変わっていた。「人形令嬢」と囁かれていた頃の、気味悪げな視線を向ける者はもうい
生きる。 母との約束を胸に、セレスティナの中でその決意が確かな形を結んでから、彼女の世界を見る目は変わった。辺境の冬は依然として猛威を振るい、飢えと寒さが絶えず命を脅かす。だが、彼女はもはや、それをただ受け入れるだけの無力な人形ではなかった。その瞳には、かつて書物を読み解いていた時と同じ、鋭い観察力と分析の光が戻っていた。 彼女の視線は、この極限の環境下で生きる人々の、些細な知恵や工夫を拾い集める。どの家の壁が風を防ぎ、どの道の窪みに雪解け水が溜まるのか。誰が一番丈夫な体力を持ち、誰が咳をこじらせ始めているのか。すべてを記憶し、分析する。それは、この過酷な現実という名の書物を、必死に読み解く作業に他ならなかった。 そんなある日の午後、作業の合間のわずかな休息時間だった。 追放者たちは、雪に覆われた瓦礫の山に身を寄せ合い、冷たい風から少しでも身を守ろうとしていた。あちこちから、乾いた咳の音が聞こえてくる。それは、この冬を越せずに命を落としていく者たちの、不吉な前奏曲のようだった。 セレスティナの隣に座っていたのは、まだ若い娘だった。彼女は数日前からひどい咳に悩まされており、その顔色は青白く、呼吸も浅い。娘は、激しく咳き込んだ後、ぜいぜいと苦しげな息をつきながら、地面の雪を掴んで口に含んだ。「やめなさい」 不意に、隣から静かだが、凛とした声がした。 娘が驚いて顔を上げると、そこにいたのは「人形令嬢」と呼ばれていたセレスティナだった。彼女が言葉を発するのを、この町の誰もが初めて聞いた。 セレスティナは、娘の行動を制止しながら続けた。「体を冷やすだけです。それに、その雪には何が含まれているか分からない」 その声には、不思議な説得力があった。娘は、言われるがままに、口に含んだ雪を吐き出す。 セレスティナは、自分のなけなしの配給である、錆びた器に入った白湯を娘に差し出した。「これを少しずつ飲みなさい。気休めにしかなりませんが、雪よりはいい」「あ、あんた…」 娘は戸惑いながらも、その白湯を受け取った。温かいとは言えない液体が喉を通ると、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
辺境の地に、冬が来た。 それは、じわじわと忍び寄る死のように、静かに、しかし確実に町を侵食していった。まず、空の色が変わった。これまで町を覆っていた鉛色の雲は、さらに重く、白く濁った色合いを帯び始める。太陽は日に日にその力を失い、昼間でも地上に届く光は弱々しく、何の暖かさももたらさなかった。 次に、風が変わった。乾いた砂埃を巻き上げていた風は、湿り気と、刃物のような鋭い冷たさを含むようになる。それは壁の隙間や屋根の穴から容赦なく吹き込み、人々の体温を根こそぎ奪っていった。 そしてある朝、セレスティナが目を覚ますと、世界は音を失っていた。 彼女が廃屋の扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、一面の白だった。夜の間に降った雪が、町の汚れた地面も、崩れた瓦礫の山も、すべてを等しく覆い隠している。それは一見すると美しくさえあったが、この町に住む者にとって、雪は死刑執行を告げる白い布告書に他ならなかった。 その日から、追放者たちの労働は、地獄の様相を呈し始めた。 これまでの瓦礫撤去作業に加え、雪かきという新たな苦役が課せられたのだ。粗末な木の板を渡され、凍てつく風雪の中で、積もった雪を道脇へと押しやる。手袋などない。手枷の冷たい鉄が、かじかんだ手首の皮膚に食い込み、感覚を麻痺させていく。指先はすぐに紫に変色し、ひび割れて血が滲んだ。 セレスティナは、他の者たちと同じように、ただ黙々と作業を続けた。彼女の心は、あの鉄狼団の兵士の姿を見て以来、不可解な疑問と混乱のさなかにあった。だが、この圧倒的な自然の猛威と、肉体を苛む苦痛の前では、そんな思考さえも贅沢なものに思えた。今はただ、生きるか死ぬか。その単純な現実だけが、彼女のすべてを支配していた。 食事の配給は、さらに劣悪になった。 水で薄められたスープは、もはやお湯と変わらない。硬い黒パンは、凍てついてさらに硬度を増し、噛み砕くことさえ困難だった。人々はそれを、凍える手で必死に温めながら、少しずつ削るようにして食べた。 飢えと寒さは、着実に人々の体力を奪っていく。 最初に倒れたのは、足の悪い老人だった。彼は雪かき作業の最中、突然その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。監督役の役人
広場で老人が私兵に虐げられていた光景は、セレスティナの心に深く、冷たい楔を打ち込んだ。それはもはや、漠然とした恐怖や悲しみではなかった。より明確で、輪郭のはっきりとした絶望。この国そのものが、根底から腐敗しているという、揺るぎない認識だった。 父が守ろうとした正義も、母が信じた慈愛も、そしてアランが囁いた愛さえも、すべてはこの巨大な腐敗の前では、儚い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。 その日を境に、セレスティナの纏う空気はさらに変わった。彼女の中から、最後の人間的な揺らぎさえも消え失せたように見えた。恐怖に震えることもなく、ただ静かに、冷徹な観察者のように、この灰色の町で繰り返される日常を見つめる。 彼女はもはや、ただの「人形令嬢」ではなかった。その人形の硝子の目には、この世界の醜悪な真実が、焼き付くように映り込んでいた。 相変わらず、追放者たちの朝は早い。 乱暴な怒声に叩き起こされ、広場へと引きずり出される。そして、その日の労働現場へと、家畜の群れのように追い立てられていく。セレスティナもその無言の行列の中にいた。埃にまみれた銀髪が、鉛色の空の下で鈍い光を放っている。 その日の作業場所は、町の北側、城壁に近い地区だった。ここは他の地区に比べて、瓦礫の撤去がいくらか進んでいるように見えた。崩れた建物の残骸が整然と積み上げられ、再利用可能な木材や石材が分別されている。 そして、その作業を指揮しているのは、これまでセレスティナが見てきた中央の役人やその私兵たちではなかった。 屈強な体つきに、統一された黒鉄の鎧をまとった兵士の一団。彼らこそが、噂に聞く辺境伯直属の兵団、「鉄狼団」だった。 セレスティナは、初めて彼らを間近で見た。 その姿は、中央の私兵たちとはあらゆる点で対照的だった。私兵たちがだらしなく着崩した、けばけばしい装飾の鎧とは違い、鉄狼団の鎧は実用性のみを追求した、無駄のないデザインをしている。磨き上げられてはいるが、そこかしこに歴戦の傷跡が刻まれており、彼らが本物の戦場を生き抜いてきた者たちであることを物語っていた。 彼らは作業中、ほとんど私語を交わさない。指揮官の簡潔な命令一下、まるで一つの生き物のように統率の取れた
狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩では