夜明けは、この町では祝福ではなかった。それはただ、凍てつく闇が鉛色の絶望へと塗り替わるだけの、無慈悲な時間の区切りに過ぎない。壁の隙間から染み込んでくる冷気が、ぼろ布同然の囚人服を通して肌を刺す。セレスティナは身じろぎもせず、硬い床の上でその冷たさを受け入れていた。眠っているのか、醒めているのか、その境界さえ曖昧になって久しい。
やがて外から、鉄の扉を乱暴に蹴りつける音と、耳障りな怒声が響き渡る。
「起きろ、蛆虫ども! いつまで寝ている気だ! さっさと広場へ出てこい!」 その声が、一日の始まりを告げる合図だった。セレスティナは、ぜんまいが巻かれた人形のように、ゆっくりと体を起こした。節々が軋むような痛みを訴えたが、彼女の顔には何の表情も浮かばない。痛みはもはや、自分がまだ生きていることを確認するための、鈍い信号でしかなかった。彼女はふらつく足取りで廃屋の外へ出る。灰色の砂埃が舞う町の通りには、同じようにそれぞれのあばら家から、生気の欠けた人々が影のように這い出てきていた。誰もが痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も映してはいない。希望も、怒りも、悲しみさえも、この町ではとうに枯れ果てた感情だった。
彼らは言葉を交わすこともなく、ただ一つの群れとなって、町の中心にある広場へと向かう。セレスティナもその流れの中に身を任せた。彼女の銀色の髪は埃にまみれて輝きを失い、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今は光を映さないガラス玉のように虚ろだった。 他の追放者たちは、もはや彼女に嘲笑や好奇の目を向けることはなかった。当初は元公爵令嬢という物珍しさに囁き合っていた者たちも、彼女の人間離れした無感動さに、次第に得体の知れないものを見るような気味の悪さを感じていた。彼女は「人形令嬢」。心をどこかに置き忘れてきた、美しいだけの空っぽな器。それが、この町での彼女の呼び名であり、誰もが認める彼女の姿だった。その日も、作業は西地区の瓦礫撤去だった。先の戦争で破壊されたまま放置された建物の残骸が、巨大な墓標のように連なっている。セレスティナたちの仕事は、その瓦礫を一つ一つ手で運び出し、荷車に積むという、終わりが見えない単純作業の繰り返しだった。
彼女は監督役人に突き飛ばされるようにして、一つの瓦礫の山へと追いやられた。そして、指示されるままに作業を始める。手枷のせいで満足に力が入らない手で、凍えるほど冷たい石を持ち上げる。ささくれた木材が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。すぐに指先が裂け、血が滲んだ。だが、セレスティナは気にも留めなかった。ただ、目の前の瓦礫を右から左へ動かすという、その行為だけを機械的に繰り返す。汗が額から流れ落ち、泥と混じって頬を伝うのも、拭おうとすらしなかった。昼が近づき、人々の動きが鈍り始めると、監督の兵士が振り回す革鞭がひときわ甲高い音を立てて空気を裂いた。
「何をぐずぐずしている! 動け、この穀潰しどもが!」 鞭が、セレスティナのすぐ隣で働いていた骨ばった背中の老人を打った。老人は獣のような呻き声を上げてうずくまる。周囲の者は、見て見ぬふりをした。下手に同情すれば、次は自分の番だと骨身に染みて知っているからだ。 セレスティナも、その光景をただ見ていた。彼女の心は、静まり返った冬の湖面のように、何の波も立てない。可哀想だとも、酷いとも思わない。それはただ、この灰色の世界で日々繰り返される、ありふれた出来事の一つでしかなかった。彼女は黙々と、自分の作業を続ける。昼餉の時間が来た。それは食事というより、家畜の餌やりに近い。水で薄められ、具の欠片すら見当たらないスープと、石のように硬い黒パンが一つ。人々は地面に座り込み、貪るようにそれを口へと運んだ。
そんな中で、ぽつりと誰かが呟いた。 「新しい辺境伯様とやらが来て、もうひと月になるか。結局、何も変わらねえな」 その言葉は、澱んだ空気に投げ込まれた小石のように、小さな波紋を広げた。疲弊しきった人々にとって、唯一の関心事。それは、自分たちを支配する者の正体だった。 「変わるもんかよ。どうせあいつも、王都から来たお貴族様だろ。俺たちのことなんざ、虫けらとしか思ってねえさ」 若い男が、パンに噛みつきながら吐き捨てるように言った。しかし、顔に大きな傷跡のある、古株らしい男がそれを否定する。 「いや、違うらしい。あいつは貴族の出じゃねえ。俺たちと同じ、平民上がりだって話だ」 「なんだと?」 周囲から、驚きの声が上がる。セレスティナは膝を抱え、ただその会話を音として聞いていた。平民、貴族。そんな言葉も、今の彼女には遠い世界の響きでしかなかった。 「先の戦争で、めちゃくちゃな手柄を立てたんだとよ。それで、前の辺境伯様一家が全滅しちまったこの土地を、厄介払い同然に押し付けられたってわけだ」 「成り上がり者か。だから、俺たちみたいな本物のクズには、余計に厳しく当たるのかもしれんな」 「名は、ライナスとか言ったか」別の男が、記憶を探るように言った。「戦場じゃ『狼』って呼ばれてたらしいぜ。血も涙もない、獰猛な狼だ。味方がすぐ横で死のうがお構いなしで、敵の首だけを狙って喰らいつく。そんな男だってよ」狼。
その単語が、初めてセレスティナの意識の表層に引っかかった。それは、これまで聞き流してきた他の言葉とは、どこか質感が違っていた。彼女の閉ざされた心の扉を、硬い爪で引っ掻くような、ざらりとした感触があった。 父の書斎で読んだ紋章学の書物。そこでは、狼は時に勇猛さの象徴として描かれる一方、多くは野蛮、貪欲、そして制御不能な力の象徴として扱われていた。理性の通じない、本能の獣。 男たちの話は続く。 「あいつが率いてる兵団も『鉄狼団』って呼ばれてる。鉄の心臓を持つ狼の集まり、てな。どいつもこいつも、主に似て人の心を持たねえ連中だ」 「道理で、俺たち罪人への扱いも酷いわけだ。奴らにとっちゃ、俺たちは狩りの獲物くらいにしか見えてねえんだろうよ」 「静かにしろ。その狼に聞かれたら、喉笛を噛み千切られるぞ」 誰かが慌てて制し、囁き声は途切れた。男たちは気まずそうに視線を逸らし、再び黙々と黒パンを齧り始める。 セレスティナは、スープの入った器を両手で持ったまま、動かずにいた。彼女の虚ろな瞳の奥で、今しがた聞いた「狼」という言葉が、意味を持たないままゆっくりと沈んでいく。それはまだ感情ではなかった。ただ、彼女の世界に、これまで存在しなかった異物が混じり込んだという、かすかな違和感だけがあった。その日の労働が終わり、夕闇が町を包み込む頃。人々は一日の糧である、二度目の配給を求めて、役所の前に長い列を作っていた。冷たい風が吹き付け、誰もが身を寄せ合うようにして寒さを凌いでいる。
待っている間、人々はまたしても、あの新しい支配者の噂を始めた。昼間の作業場よりも人が多く、その声はより大きなどよめきとなって渦巻いていた。 「鉄狼団の連中、見たか? 町の見回りをしてる時の、あの目つき。まるで獲物を探す獣だ。絶対に目を合わせちゃいけねえ」 一人の女が、子供をきつく抱きしめながら震える声で言う。 「なんでも、ライナスって男は元々どっかの国の傭兵だったらしい。金次第で仲間さえ裏切るような世界で生きてきた男だ。忠誠心なんざ、これっぽっちもねえに違いねえ」 「そんな奴を、国王陛下はなぜ辺境伯になさったんだ?」 「そりゃあ、使い捨ての駒としてだろうよ」列の先頭の方にいた、事情に詳しそうな商人のなりをした男が、周囲に言い聞かせるように語った。 「先の戦争で、中央の貴族様方は誰もこんな危険な土地に来たがらなかった。そこで、陛下は手柄を立てた平民のライナスに『辺境伯』の地位を与え、厄介な最前線へと放り出した。見事に役目を果たせば儲けもの、もし死んでも惜しくない平民が一人減るだけ。そういう算段よ」 その言葉には妙な説得力があり、周囲の者たちは「なるほど」と頷き合っている。誰もが、自分たちの惨めな境遇を納得させるための物語を求めていた。そして、その物語の中で、辺境伯ライナスは都合の良い悪役として仕立て上げられていく。セレスティナは、その渦の中心に、ただ静かに立っていた。人々の言葉が、今度は意味を持った情報として、彼女の意識に流れ込んでくる。
傭兵。裏切り。使い捨ての駒。そして、狼。 そのどれもが、彼女がかつて生きていた世界とは相容れない、荒々しく、血生臭い言葉だった。父を陥れた宰相ヴァインベルクの悪意は、計算高く、冷たく、貴族社会の作法という衣をまとっていた。だが、このライナスという男から連想されるのは、剥き出しの牙であり、暴力そのものだった。 どちらが、より恐ろしいのだろうか。 不意に、そんな問いが彼女の内に浮かんだ。それは、何か月ぶりかに彼女自身の中から生まれた、自発的な思考だった。答えは出ない。ただ、その問いが生まれたこと自体が、彼女の心が完全に死んではいないことの証だったのかもしれない。ようやく配給の順番が回ってきて、彼女は昨日と同じ、硬いパンと濁った水の入った器を受け取った。そして、とぼとぼと自分の寝床である廃屋へと戻る。
扉を閉めると、町の喧騒が遠のき、しんとした静寂が訪れた。彼女は壁際にうずくまり、機械的にパンを口に運ぶ。砂を噛んでいるかのように味はなく、喉を通すのにひどく難儀した。 独りになり、静寂の中に身を置くと、今日一日耳にした噂が、望みもしないのに頭の中で反響した。──ライナス。
──狼。 ──鉄狼団。その言葉は、もはや単なる音や記号ではなかった。それは、この町の絶望をさらに色濃くする、巨大で、得体の知れない影のようだった。自分は今、その影の支配する領域で生きている。この先、自分の運命はその影の気まぐれ一つで、どうにでもなってしまうのだ。
そう思った瞬間、セレスティナの背筋を、ぞくりとした悪寒が走った。 それは、牢獄で婚約者に裏切られた時の絶望とは違う。民衆に石を投げつけられた時の無力感とも違う。もっと本能的で、根源的な感情。 暗い夜の森で、道に迷い、たった一人でいる時に、背後の茂みから獣の気配を感じた時のような。理屈ではない、生存本能が直接揺さぶられるような、純粋な恐怖だった。 彼女は思わず、身を固くした。膝を抱える腕に、力がこもる。凍りついていたはずの心が、恐怖によって無理やりこじ開けられ、鋭い痛みを伴って震え始める。その時だった。
ひゅう、と鳴る風の音に混じって、遠くから何かの音が聞こえてきた。 アオォォーーーン……。 それは、長く、低く、空気を震わせるような雄叫び。本物の狼の、遠吠えだった。 セレスティナは息を呑んだ。全身の血が、急速に引いていくのを感じる。 偶然か。それとも、この町では狼がそれほど身近な存在なのか。 どちらにせよ、その声は、今日一日彼女の心を蝕んでいた「狼」のイメージと完全に重なり、その恐怖を決定的なものにした。 あの辺境伯も、きっとあのような声をあげるのだろうか。獲物を見つけた時、敵を仕留めた時、あのように血も凍るような雄叫びをあげるのだろうか。 想像が、彼女の心を支配する。 彼女は、ぼろ布を頭からきつく被り、ただ小さく体を丸めた。何ヶ月も流れることのなかった涙の代わりに、体の中から激しい震えが込み上げてくる。 灰色の世界に、初めて色が生まれた。それは、血と闇を混ぜ合わせたような、禍々しい色だったが、「人形令嬢」の仮面が、初めて内側からひび割れた夜だった。役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。 翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。 それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。 その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。 冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、
辺境の冬は、容赦を知らない暴君だった。空から絶え間なく降り注ぐ雪は、世界の輪郭を白く塗りつぶし、人々のささやかな希望さえも凍らせていく。飢えと寒さは死の同義語であり、昨日まで言葉を交わした者が、翌朝には冷たい骸となって発見されることも珍しくなかった。 だが、そんな灰色の絶望が支配する町の一角で、ほんの小さな、しかし確かな変化が生まれていた。 セレスティナが寝床とする廃屋。その場所は、いつしか「診療所」のような役割を担うようになっていた。彼女の元には、体調を崩した者やその家族が、途切れることなく助けを求めにやってくる。「お嬢様、どうか私の息子を…! 熱が下がらなくて…」 ぼろ布をまとった母親が、ぐったりとした幼い息子を抱いて駆け込んできた。セレスティナは、その青白い顔を一瞥すると、冷静に、しかし迅速に行動を始める。「こちらへ。とにかく体を温めないと」 彼女は、廃屋の風が一番当たらない隅に、追放者たちが持ち寄ってくれたなけなしの藁を厚く敷き、そこに子供を寝かせた。彼女自身のぼろぼろになった囚人服の上着を脱ぎ、子供の体にかけてやる。「ありがとうございます、ありがとうございます…」 母親は涙ながらに感謝を繰り返す。セレスティナはそれに構わず、石で砕いた解熱作用のある植物の根を、ぬるま湯に溶かして子供の口に含ませた。それは薬と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、彼女の真摯な眼差しと優しい手つきは、それ以上の効果を持っているようだった。 セレスティナの周りには、いつしか数人の女性たちが集まり、彼女の手伝いを申し出るようになっていた。ある者は、雪の下から薬草を探し出すのを手伝い、ある者は、乏しい燃料を分け与えて、病人のための湯を沸かす。 かつては互いに無関心で、自分のことで精一杯だった人々が、セレスティナという存在を核にして、再び失われた絆を取り戻し始めていた。それは、この極寒の地で生き延びるための、小さな共同体の誕生だった。 セレスティナは、人々から「お嬢様」と呼ばれ、いつしかその呼び名は畏敬と親しみを込めたものに変わっていた。「人形令嬢」と囁かれていた頃の、気味悪げな視線を向ける者はもうい
生きる。 母との約束を胸に、セレスティナの中でその決意が確かな形を結んでから、彼女の世界を見る目は変わった。辺境の冬は依然として猛威を振るい、飢えと寒さが絶えず命を脅かす。だが、彼女はもはや、それをただ受け入れるだけの無力な人形ではなかった。その瞳には、かつて書物を読み解いていた時と同じ、鋭い観察力と分析の光が戻っていた。 彼女の視線は、この極限の環境下で生きる人々の、些細な知恵や工夫を拾い集める。どの家の壁が風を防ぎ、どの道の窪みに雪解け水が溜まるのか。誰が一番丈夫な体力を持ち、誰が咳をこじらせ始めているのか。すべてを記憶し、分析する。それは、この過酷な現実という名の書物を、必死に読み解く作業に他ならなかった。 そんなある日の午後、作業の合間のわずかな休息時間だった。 追放者たちは、雪に覆われた瓦礫の山に身を寄せ合い、冷たい風から少しでも身を守ろうとしていた。あちこちから、乾いた咳の音が聞こえてくる。それは、この冬を越せずに命を落としていく者たちの、不吉な前奏曲のようだった。 セレスティナの隣に座っていたのは、まだ若い娘だった。彼女は数日前からひどい咳に悩まされており、その顔色は青白く、呼吸も浅い。娘は、激しく咳き込んだ後、ぜいぜいと苦しげな息をつきながら、地面の雪を掴んで口に含んだ。「やめなさい」 不意に、隣から静かだが、凛とした声がした。 娘が驚いて顔を上げると、そこにいたのは「人形令嬢」と呼ばれていたセレスティナだった。彼女が言葉を発するのを、この町の誰もが初めて聞いた。 セレスティナは、娘の行動を制止しながら続けた。「体を冷やすだけです。それに、その雪には何が含まれているか分からない」 その声には、不思議な説得力があった。娘は、言われるがままに、口に含んだ雪を吐き出す。 セレスティナは、自分のなけなしの配給である、錆びた器に入った白湯を娘に差し出した。「これを少しずつ飲みなさい。気休めにしかなりませんが、雪よりはいい」「あ、あんた…」 娘は戸惑いながらも、その白湯を受け取った。温かいとは言えない液体が喉を通ると、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
辺境の地に、冬が来た。 それは、じわじわと忍び寄る死のように、静かに、しかし確実に町を侵食していった。まず、空の色が変わった。これまで町を覆っていた鉛色の雲は、さらに重く、白く濁った色合いを帯び始める。太陽は日に日にその力を失い、昼間でも地上に届く光は弱々しく、何の暖かさももたらさなかった。 次に、風が変わった。乾いた砂埃を巻き上げていた風は、湿り気と、刃物のような鋭い冷たさを含むようになる。それは壁の隙間や屋根の穴から容赦なく吹き込み、人々の体温を根こそぎ奪っていった。 そしてある朝、セレスティナが目を覚ますと、世界は音を失っていた。 彼女が廃屋の扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、一面の白だった。夜の間に降った雪が、町の汚れた地面も、崩れた瓦礫の山も、すべてを等しく覆い隠している。それは一見すると美しくさえあったが、この町に住む者にとって、雪は死刑執行を告げる白い布告書に他ならなかった。 その日から、追放者たちの労働は、地獄の様相を呈し始めた。 これまでの瓦礫撤去作業に加え、雪かきという新たな苦役が課せられたのだ。粗末な木の板を渡され、凍てつく風雪の中で、積もった雪を道脇へと押しやる。手袋などない。手枷の冷たい鉄が、かじかんだ手首の皮膚に食い込み、感覚を麻痺させていく。指先はすぐに紫に変色し、ひび割れて血が滲んだ。 セレスティナは、他の者たちと同じように、ただ黙々と作業を続けた。彼女の心は、あの鉄狼団の兵士の姿を見て以来、不可解な疑問と混乱のさなかにあった。だが、この圧倒的な自然の猛威と、肉体を苛む苦痛の前では、そんな思考さえも贅沢なものに思えた。今はただ、生きるか死ぬか。その単純な現実だけが、彼女のすべてを支配していた。 食事の配給は、さらに劣悪になった。 水で薄められたスープは、もはやお湯と変わらない。硬い黒パンは、凍てついてさらに硬度を増し、噛み砕くことさえ困難だった。人々はそれを、凍える手で必死に温めながら、少しずつ削るようにして食べた。 飢えと寒さは、着実に人々の体力を奪っていく。 最初に倒れたのは、足の悪い老人だった。彼は雪かき作業の最中、突然その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。監督役の役人
広場で老人が私兵に虐げられていた光景は、セレスティナの心に深く、冷たい楔を打ち込んだ。それはもはや、漠然とした恐怖や悲しみではなかった。より明確で、輪郭のはっきりとした絶望。この国そのものが、根底から腐敗しているという、揺るぎない認識だった。 父が守ろうとした正義も、母が信じた慈愛も、そしてアランが囁いた愛さえも、すべてはこの巨大な腐敗の前では、儚い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。 その日を境に、セレスティナの纏う空気はさらに変わった。彼女の中から、最後の人間的な揺らぎさえも消え失せたように見えた。恐怖に震えることもなく、ただ静かに、冷徹な観察者のように、この灰色の町で繰り返される日常を見つめる。 彼女はもはや、ただの「人形令嬢」ではなかった。その人形の硝子の目には、この世界の醜悪な真実が、焼き付くように映り込んでいた。 相変わらず、追放者たちの朝は早い。 乱暴な怒声に叩き起こされ、広場へと引きずり出される。そして、その日の労働現場へと、家畜の群れのように追い立てられていく。セレスティナもその無言の行列の中にいた。埃にまみれた銀髪が、鉛色の空の下で鈍い光を放っている。 その日の作業場所は、町の北側、城壁に近い地区だった。ここは他の地区に比べて、瓦礫の撤去がいくらか進んでいるように見えた。崩れた建物の残骸が整然と積み上げられ、再利用可能な木材や石材が分別されている。 そして、その作業を指揮しているのは、これまでセレスティナが見てきた中央の役人やその私兵たちではなかった。 屈強な体つきに、統一された黒鉄の鎧をまとった兵士の一団。彼らこそが、噂に聞く辺境伯直属の兵団、「鉄狼団」だった。 セレスティナは、初めて彼らを間近で見た。 その姿は、中央の私兵たちとはあらゆる点で対照的だった。私兵たちがだらしなく着崩した、けばけばしい装飾の鎧とは違い、鉄狼団の鎧は実用性のみを追求した、無駄のないデザインをしている。磨き上げられてはいるが、そこかしこに歴戦の傷跡が刻まれており、彼らが本物の戦場を生き抜いてきた者たちであることを物語っていた。 彼らは作業中、ほとんど私語を交わさない。指揮官の簡潔な命令一下、まるで一つの生き物のように統率の取れた
狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩では