로그인夜明けは、この町では祝福ではなかった。それはただ、凍てつく闇が鉛色の絶望へと塗り替わるだけの、無慈悲な時間の区切りに過ぎない。壁の隙間から染み込んでくる冷気が、ぼろ布同然の囚人服を通して肌を刺す。セレスティナは身じろぎもせず、硬い床の上でその冷たさを受け入れていた。眠っているのか、醒めているのか、その境界さえ曖昧になって久しい。
やがて外から、鉄の扉を乱暴に蹴りつける音と、耳障りな怒声が響き渡る。
「起きろ、蛆虫ども! いつまで寝ている気だ! さっさと広場へ出てこい!」 その声が、一日の始まりを告げる合図だった。セレスティナは、ぜんまいが巻かれた人形のように、ゆっくりと体を起こした。節々が軋むような痛みを訴えたが、彼女の顔には何の表情も浮かばない。痛みはもはや、自分がまだ生きていることを確認するための、鈍い信号でしかなかった。彼女はふらつく足取りで廃屋の外へ出る。灰色の砂埃が舞う町の通りには、同じようにそれぞれのあばら家から、生気の欠けた人々が影のように這い出てきていた。誰もが痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も映してはいない。希望も、怒りも、悲しみさえも、この町ではとうに枯れ果てた感情だった。
彼らは言葉を交わすこともなく、ただ一つの群れとなって、町の中心にある広場へと向かう。セレスティナもその流れの中に身を任せた。彼女の銀色の髪は埃にまみれて輝きを失い、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今は光を映さないガラス玉のように虚ろだった。 他の追放者たちは、もはや彼女に嘲笑や好奇の目を向けることはなかった。当初は元公爵令嬢という物珍しさに囁き合っていた者たちも、彼女の人間離れした無感動さに、次第に得体の知れないものを見るような気味の悪さを感じていた。彼女は「人形令嬢」。心をどこかに置き忘れてきた、美しいだけの空っぽな器。それが、この町での彼女の呼び名であり、誰もが認める彼女の姿だった。その日も、作業は西地区の瓦礫撤去だった。先の戦争で破壊されたまま放置された建物の残骸が、巨大な墓標のように連なっている。セレスティナたちの仕事は、その瓦礫を一つ一つ手で運び出し、荷車に積むという、終わりが見えない単純作業の繰り返しだった。
彼女は監督役人に突き飛ばされるようにして、一つの瓦礫の山へと追いやられた。そして、指示されるままに作業を始める。手枷のせいで満足に力が入らない手で、凍えるほど冷たい石を持ち上げる。ささくれた木材が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。すぐに指先が裂け、血が滲んだ。だが、セレスティナは気にも留めなかった。ただ、目の前の瓦礫を右から左へ動かすという、その行為だけを機械的に繰り返す。汗が額から流れ落ち、泥と混じって頬を伝うのも、拭おうとすらしなかった。昼が近づき、人々の動きが鈍り始めると、監督の兵士が振り回す革鞭がひときわ甲高い音を立てて空気を裂いた。
「何をぐずぐずしている! 動け、この穀潰しどもが!」 鞭が、セレスティナのすぐ隣で働いていた骨ばった背中の老人を打った。老人は獣のような呻き声を上げてうずくまる。周囲の者は、見て見ぬふりをした。下手に同情すれば、次は自分の番だと骨身に染みて知っているからだ。 セレスティナも、その光景をただ見ていた。彼女の心は、静まり返った冬の湖面のように、何の波も立てない。可哀想だとも、酷いとも思わない。それはただ、この灰色の世界で日々繰り返される、ありふれた出来事の一つでしかなかった。彼女は黙々と、自分の作業を続ける。昼餉の時間が来た。それは食事というより、家畜の餌やりに近い。水で薄められ、具の欠片すら見当たらないスープと、石のように硬い黒パンが一つ。人々は地面に座り込み、貪るようにそれを口へと運んだ。
そんな中で、ぽつりと誰かが呟いた。 「新しい辺境伯様とやらが来て、もうひと月になるか。結局、何も変わらねえな」 その言葉は、澱んだ空気に投げ込まれた小石のように、小さな波紋を広げた。疲弊しきった人々にとって、唯一の関心事。それは、自分たちを支配する者の正体だった。 「変わるもんかよ。どうせあいつも、王都から来たお貴族様だろ。俺たちのことなんざ、虫けらとしか思ってねえさ」 若い男が、パンに噛みつきながら吐き捨てるように言った。しかし、顔に大きな傷跡のある、古株らしい男がそれを否定する。 「いや、違うらしい。あいつは貴族の出じゃねえ。俺たちと同じ、平民上がりだって話だ」 「なんだと?」 周囲から、驚きの声が上がる。セレスティナは膝を抱え、ただその会話を音として聞いていた。平民、貴族。そんな言葉も、今の彼女には遠い世界の響きでしかなかった。 「先の戦争で、めちゃくちゃな手柄を立てたんだとよ。それで、前の辺境伯様一家が全滅しちまったこの土地を、厄介払い同然に押し付けられたってわけだ」 「成り上がり者か。だから、俺たちみたいな本物のクズには、余計に厳しく当たるのかもしれんな」 「名は、ライナスとか言ったか」別の男が、記憶を探るように言った。「戦場じゃ『狼』って呼ばれてたらしいぜ。血も涙もない、獰猛な狼だ。味方がすぐ横で死のうがお構いなしで、敵の首だけを狙って喰らいつく。そんな男だってよ」狼。
その単語が、初めてセレスティナの意識の表層に引っかかった。それは、これまで聞き流してきた他の言葉とは、どこか質感が違っていた。彼女の閉ざされた心の扉を、硬い爪で引っ掻くような、ざらりとした感触があった。 父の書斎で読んだ紋章学の書物。そこでは、狼は時に勇猛さの象徴として描かれる一方、多くは野蛮、貪欲、そして制御不能な力の象徴として扱われていた。理性の通じない、本能の獣。 男たちの話は続く。 「あいつが率いてる兵団も『鉄狼団』って呼ばれてる。鉄の心臓を持つ狼の集まり、てな。どいつもこいつも、主に似て人の心を持たねえ連中だ」 「道理で、俺たち罪人への扱いも酷いわけだ。奴らにとっちゃ、俺たちは狩りの獲物くらいにしか見えてねえんだろうよ」 「静かにしろ。その狼に聞かれたら、喉笛を噛み千切られるぞ」 誰かが慌てて制し、囁き声は途切れた。男たちは気まずそうに視線を逸らし、再び黙々と黒パンを齧り始める。 セレスティナは、スープの入った器を両手で持ったまま、動かずにいた。彼女の虚ろな瞳の奥で、今しがた聞いた「狼」という言葉が、意味を持たないままゆっくりと沈んでいく。それはまだ感情ではなかった。ただ、彼女の世界に、これまで存在しなかった異物が混じり込んだという、かすかな違和感だけがあった。その日の労働が終わり、夕闇が町を包み込む頃。人々は一日の糧である、二度目の配給を求めて、役所の前に長い列を作っていた。冷たい風が吹き付け、誰もが身を寄せ合うようにして寒さを凌いでいる。
待っている間、人々はまたしても、あの新しい支配者の噂を始めた。昼間の作業場よりも人が多く、その声はより大きなどよめきとなって渦巻いていた。 「鉄狼団の連中、見たか? 町の見回りをしてる時の、あの目つき。まるで獲物を探す獣だ。絶対に目を合わせちゃいけねえ」 一人の女が、子供をきつく抱きしめながら震える声で言う。 「なんでも、ライナスって男は元々どっかの国の傭兵だったらしい。金次第で仲間さえ裏切るような世界で生きてきた男だ。忠誠心なんざ、これっぽっちもねえに違いねえ」 「そんな奴を、国王陛下はなぜ辺境伯になさったんだ?」 「そりゃあ、使い捨ての駒としてだろうよ」列の先頭の方にいた、事情に詳しそうな商人のなりをした男が、周囲に言い聞かせるように語った。 「先の戦争で、中央の貴族様方は誰もこんな危険な土地に来たがらなかった。そこで、陛下は手柄を立てた平民のライナスに『辺境伯』の地位を与え、厄介な最前線へと放り出した。見事に役目を果たせば儲けもの、もし死んでも惜しくない平民が一人減るだけ。そういう算段よ」 その言葉には妙な説得力があり、周囲の者たちは「なるほど」と頷き合っている。誰もが、自分たちの惨めな境遇を納得させるための物語を求めていた。そして、その物語の中で、辺境伯ライナスは都合の良い悪役として仕立て上げられていく。セレスティナは、その渦の中心に、ただ静かに立っていた。人々の言葉が、今度は意味を持った情報として、彼女の意識に流れ込んでくる。
傭兵。裏切り。使い捨ての駒。そして、狼。 そのどれもが、彼女がかつて生きていた世界とは相容れない、荒々しく、血生臭い言葉だった。父を陥れた宰相ヴァインベルクの悪意は、計算高く、冷たく、貴族社会の作法という衣をまとっていた。だが、このライナスという男から連想されるのは、剥き出しの牙であり、暴力そのものだった。 どちらが、より恐ろしいのだろうか。 不意に、そんな問いが彼女の内に浮かんだ。それは、何か月ぶりかに彼女自身の中から生まれた、自発的な思考だった。答えは出ない。ただ、その問いが生まれたこと自体が、彼女の心が完全に死んではいないことの証だったのかもしれない。ようやく配給の順番が回ってきて、彼女は昨日と同じ、硬いパンと濁った水の入った器を受け取った。そして、とぼとぼと自分の寝床である廃屋へと戻る。
扉を閉めると、町の喧騒が遠のき、しんとした静寂が訪れた。彼女は壁際にうずくまり、機械的にパンを口に運ぶ。砂を噛んでいるかのように味はなく、喉を通すのにひどく難儀した。 独りになり、静寂の中に身を置くと、今日一日耳にした噂が、望みもしないのに頭の中で反響した。──ライナス。
──狼。 ──鉄狼団。その言葉は、もはや単なる音や記号ではなかった。それは、この町の絶望をさらに色濃くする、巨大で、得体の知れない影のようだった。自分は今、その影の支配する領域で生きている。この先、自分の運命はその影の気まぐれ一つで、どうにでもなってしまうのだ。
そう思った瞬間、セレスティナの背筋を、ぞくりとした悪寒が走った。 それは、牢獄で婚約者に裏切られた時の絶望とは違う。民衆に石を投げつけられた時の無力感とも違う。もっと本能的で、根源的な感情。 暗い夜の森で、道に迷い、たった一人でいる時に、背後の茂みから獣の気配を感じた時のような。理屈ではない、生存本能が直接揺さぶられるような、純粋な恐怖だった。 彼女は思わず、身を固くした。膝を抱える腕に、力がこもる。凍りついていたはずの心が、恐怖によって無理やりこじ開けられ、鋭い痛みを伴って震え始める。その時だった。
ひゅう、と鳴る風の音に混じって、遠くから何かの音が聞こえてきた。 アオォォーーーン……。 それは、長く、低く、空気を震わせるような雄叫び。本物の狼の、遠吠えだった。 セレスティナは息を呑んだ。全身の血が、急速に引いていくのを感じる。 偶然か。それとも、この町では狼がそれほど身近な存在なのか。 どちらにせよ、その声は、今日一日彼女の心を蝕んでいた「狼」のイメージと完全に重なり、その恐怖を決定的なものにした。 あの辺境伯も、きっとあのような声をあげるのだろうか。獲物を見つけた時、敵を仕留めた時、あのように血も凍るような雄叫びをあげるのだろうか。 想像が、彼女の心を支配する。 彼女は、ぼろ布を頭からきつく被り、ただ小さく体を丸めた。何ヶ月も流れることのなかった涙の代わりに、体の中から激しい震えが込み上げてくる。 灰色の世界に、初めて色が生まれた。それは、血と闇を混ぜ合わせたような、禍々しい色だったが、「人形令嬢」の仮面が、初めて内側からひび割れた夜だった。春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。
辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ
王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと
辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那
湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。 辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。 かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。 それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。 この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。 五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。 最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」 白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」 診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、
夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま