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第8話 狼の噂

last update Last Updated: 2025-08-09 20:54:39

 夜明けは、この町では祝福ではなかった。それはただ、凍てつく闇が鉛色の絶望へと塗り替わるだけの、無慈悲な時間の区切りに過ぎない。壁の隙間から染み込んでくる冷気が、ぼろ布同然の囚人服を通して肌を刺す。セレスティナは身じろぎもせず、硬い床の上でその冷たさを受け入れていた。眠っているのか、醒めているのか、その境界さえ曖昧になって久しい。

 やがて外から、鉄の扉を乱暴に蹴りつける音と、耳障りな怒声が響き渡る。

「起きろ、蛆虫ども! いつまで寝ている気だ! さっさと広場へ出てこい!」

 その声が、一日の始まりを告げる合図だった。セレスティナは、ぜんまいが巻かれた人形のように、ゆっくりと体を起こした。節々が軋むような痛みを訴えたが、彼女の顔には何の表情も浮かばない。痛みはもはや、自分がまだ生きていることを確認するための、鈍い信号でしかなかった。

 彼女はふらつく足取りで廃屋の外へ出る。灰色の砂埃が舞う町の通りには、同じようにそれぞれのあばら家から、生気の欠けた人々が影のように這い出てきていた。誰もが痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も映してはいない。希望も、怒りも、悲しみさえも、この町ではとうに枯れ果てた感情だった。

 彼らは言葉を交わすこともなく、ただ一つの群れとなって、町の中心にある広場へと向かう。セレスティナもその流れの中に身を任せた。彼女の銀色の髪は埃にまみれて輝きを失い、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今は光を映さないガラス玉のように虚ろだった。

 他の追放者たちは、もはや彼女に嘲笑や好奇の目を向けることはなかった。当初は元公爵令嬢という物珍しさに囁き合っていた者たちも、彼女の人間離れした無感動さに、次第に得体の知れないものを見るような気味の悪さを感じていた。彼女は「人形令嬢」。心をどこかに置き忘れてきた、美しいだけの空っぽな器。それが、この町での彼女の呼び名であり、誰もが認める彼女の姿だった。

 その日も、作業は西地区の瓦礫撤去だった。先の戦争で破壊されたまま放置された建物の残骸が、巨大な墓標のように連なっている。セレスティナたちの仕事は、その瓦礫を一つ一つ手で運び出し、荷車に積むという、終わりが見えない単純作業の繰り返しだった。

 彼女は監督役人に突き飛ばされるようにして、一つの瓦礫の山へと追いやられた。そして、指示されるままに作業を始める。手枷のせいで満足に力が入らない手で、凍えるほど冷たい石を持ち上げる。ささくれた木材が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。すぐに指先が裂け、血が滲んだ。だが、セレスティナは気にも留めなかった。ただ、目の前の瓦礫を右から左へ動かすという、その行為だけを機械的に繰り返す。汗が額から流れ落ち、泥と混じって頬を伝うのも、拭おうとすらしなかった。

 昼が近づき、人々の動きが鈍り始めると、監督の兵士が振り回す革鞭がひときわ甲高い音を立てて空気を裂いた。

「何をぐずぐずしている! 動け、この穀潰しどもが!」

 鞭が、セレスティナのすぐ隣で働いていた骨ばった背中の老人を打った。老人は獣のような呻き声を上げてうずくまる。周囲の者は、見て見ぬふりをした。下手に同情すれば、次は自分の番だと骨身に染みて知っているからだ。

 セレスティナも、その光景をただ見ていた。彼女の心は、静まり返った冬の湖面のように、何の波も立てない。可哀想だとも、酷いとも思わない。それはただ、この灰色の世界で日々繰り返される、ありふれた出来事の一つでしかなかった。彼女は黙々と、自分の作業を続ける。

 昼餉の時間が来た。それは食事というより、家畜の餌やりに近い。水で薄められ、具の欠片すら見当たらないスープと、石のように硬い黒パンが一つ。人々は地面に座り込み、貪るようにそれを口へと運んだ。

 そんな中で、ぽつりと誰かが呟いた。

「新しい辺境伯様とやらが来て、もうひと月になるか。結局、何も変わらねえな」

 その言葉は、澱んだ空気に投げ込まれた小石のように、小さな波紋を広げた。疲弊しきった人々にとって、唯一の関心事。それは、自分たちを支配する者の正体だった。

「変わるもんかよ。どうせあいつも、王都から来たお貴族様だろ。俺たちのことなんざ、虫けらとしか思ってねえさ」

 若い男が、パンに噛みつきながら吐き捨てるように言った。しかし、顔に大きな傷跡のある、古株らしい男がそれを否定する。

「いや、違うらしい。あいつは貴族の出じゃねえ。俺たちと同じ、平民上がりだって話だ」

「なんだと?」

 周囲から、驚きの声が上がる。セレスティナは膝を抱え、ただその会話を音として聞いていた。平民、貴族。そんな言葉も、今の彼女には遠い世界の響きでしかなかった。

「先の戦争で、めちゃくちゃな手柄を立てたんだとよ。それで、前の辺境伯様一家が全滅しちまったこの土地を、厄介払い同然に押し付けられたってわけだ」

「成り上がり者か。だから、俺たちみたいな本物のクズには、余計に厳しく当たるのかもしれんな」

「名は、ライナスとか言ったか」別の男が、記憶を探るように言った。「戦場じゃ『狼』って呼ばれてたらしいぜ。血も涙もない、獰猛な狼だ。味方がすぐ横で死のうがお構いなしで、敵の首だけを狙って喰らいつく。そんな男だってよ」

 狼。

 その単語が、初めてセレスティナの意識の表層に引っかかった。それは、これまで聞き流してきた他の言葉とは、どこか質感が違っていた。彼女の閉ざされた心の扉を、硬い爪で引っ掻くような、ざらりとした感触があった。

 父の書斎で読んだ紋章学の書物。そこでは、狼は時に勇猛さの象徴として描かれる一方、多くは野蛮、貪欲、そして制御不能な力の象徴として扱われていた。理性の通じない、本能の獣。

 男たちの話は続く。

「あいつが率いてる兵団も『鉄狼団』って呼ばれてる。鉄の心臓を持つ狼の集まり、てな。どいつもこいつも、主に似て人の心を持たねえ連中だ」

「道理で、俺たち罪人への扱いも酷いわけだ。奴らにとっちゃ、俺たちは狩りの獲物くらいにしか見えてねえんだろうよ」

「静かにしろ。その狼に聞かれたら、喉笛を噛み千切られるぞ」

 誰かが慌てて制し、囁き声は途切れた。男たちは気まずそうに視線を逸らし、再び黙々と黒パンを齧り始める。

 セレスティナは、スープの入った器を両手で持ったまま、動かずにいた。彼女の虚ろな瞳の奥で、今しがた聞いた「狼」という言葉が、意味を持たないままゆっくりと沈んでいく。それはまだ感情ではなかった。ただ、彼女の世界に、これまで存在しなかった異物が混じり込んだという、かすかな違和感だけがあった。

 その日の労働が終わり、夕闇が町を包み込む頃。人々は一日の糧である、二度目の配給を求めて、役所の前に長い列を作っていた。冷たい風が吹き付け、誰もが身を寄せ合うようにして寒さを凌いでいる。

 待っている間、人々はまたしても、あの新しい支配者の噂を始めた。昼間の作業場よりも人が多く、その声はより大きなどよめきとなって渦巻いていた。

「鉄狼団の連中、見たか? 町の見回りをしてる時の、あの目つき。まるで獲物を探す獣だ。絶対に目を合わせちゃいけねえ」

 一人の女が、子供をきつく抱きしめながら震える声で言う。

「なんでも、ライナスって男は元々どっかの国の傭兵だったらしい。金次第で仲間さえ裏切るような世界で生きてきた男だ。忠誠心なんざ、これっぽっちもねえに違いねえ」

「そんな奴を、国王陛下はなぜ辺境伯になさったんだ?」

「そりゃあ、使い捨ての駒としてだろうよ」列の先頭の方にいた、事情に詳しそうな商人のなりをした男が、周囲に言い聞かせるように語った。

「先の戦争で、中央の貴族様方は誰もこんな危険な土地に来たがらなかった。そこで、陛下は手柄を立てた平民のライナスに『辺境伯』の地位を与え、厄介な最前線へと放り出した。見事に役目を果たせば儲けもの、もし死んでも惜しくない平民が一人減るだけ。そういう算段よ」

 その言葉には妙な説得力があり、周囲の者たちは「なるほど」と頷き合っている。誰もが、自分たちの惨めな境遇を納得させるための物語を求めていた。そして、その物語の中で、辺境伯ライナスは都合の良い悪役として仕立て上げられていく。

 セレスティナは、その渦の中心に、ただ静かに立っていた。人々の言葉が、今度は意味を持った情報として、彼女の意識に流れ込んでくる。

 傭兵。裏切り。使い捨ての駒。そして、狼。

 そのどれもが、彼女がかつて生きていた世界とは相容れない、荒々しく、血生臭い言葉だった。父を陥れた宰相ヴァインベルクの悪意は、計算高く、冷たく、貴族社会の作法という衣をまとっていた。だが、このライナスという男から連想されるのは、剥き出しの牙であり、暴力そのものだった。

 どちらが、より恐ろしいのだろうか。

 不意に、そんな問いが彼女の内に浮かんだ。それは、何か月ぶりかに彼女自身の中から生まれた、自発的な思考だった。答えは出ない。ただ、その問いが生まれたこと自体が、彼女の心が完全に死んではいないことの証だったのかもしれない。

 ようやく配給の順番が回ってきて、彼女は昨日と同じ、硬いパンと濁った水の入った器を受け取った。そして、とぼとぼと自分の寝床である廃屋へと戻る。

 扉を閉めると、町の喧騒が遠のき、しんとした静寂が訪れた。彼女は壁際にうずくまり、機械的にパンを口に運ぶ。砂を噛んでいるかのように味はなく、喉を通すのにひどく難儀した。

 独りになり、静寂の中に身を置くと、今日一日耳にした噂が、望みもしないのに頭の中で反響した。

 ──ライナス。

 ──狼。

 ──鉄狼団。

 その言葉は、もはや単なる音や記号ではなかった。それは、この町の絶望をさらに色濃くする、巨大で、得体の知れない影のようだった。自分は今、その影の支配する領域で生きている。この先、自分の運命はその影の気まぐれ一つで、どうにでもなってしまうのだ。

 そう思った瞬間、セレスティナの背筋を、ぞくりとした悪寒が走った。

 それは、牢獄で婚約者に裏切られた時の絶望とは違う。民衆に石を投げつけられた時の無力感とも違う。もっと本能的で、根源的な感情。

 暗い夜の森で、道に迷い、たった一人でいる時に、背後の茂みから獣の気配を感じた時のような。理屈ではない、生存本能が直接揺さぶられるような、純粋な恐怖だった。

 彼女は思わず、身を固くした。膝を抱える腕に、力がこもる。凍りついていたはずの心が、恐怖によって無理やりこじ開けられ、鋭い痛みを伴って震え始める。

 その時だった。

 ひゅう、と鳴る風の音に混じって、遠くから何かの音が聞こえてきた。

 アオォォーーーン……。

 それは、長く、低く、空気を震わせるような雄叫び。本物の狼の、遠吠えだった。

 セレスティナは息を呑んだ。全身の血が、急速に引いていくのを感じる。

 偶然か。それとも、この町では狼がそれほど身近な存在なのか。

 どちらにせよ、その声は、今日一日彼女の心を蝕んでいた「狼」のイメージと完全に重なり、その恐怖を決定的なものにした。

 あの辺境伯も、きっとあのような声をあげるのだろうか。獲物を見つけた時、敵を仕留めた時、あのように血も凍るような雄叫びをあげるのだろうか。

 想像が、彼女の心を支配する。

 彼女は、ぼろ布を頭からきつく被り、ただ小さく体を丸めた。何ヶ月も流れることのなかった涙の代わりに、体の中から激しい震えが込み上げてくる。

 灰色の世界に、初めて色が生まれた。それは、血と闇を混ぜ合わせたような、禍々しい色だったが、「人形令嬢」の仮面が、初めて内側からひび割れた夜だった。

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