LOGIN広場で老人が私兵に虐げられていた光景は、セレスティナの心に深く、冷たい楔を打ち込んだ。それはもはや、漠然とした恐怖や悲しみではなかった。より明確で、輪郭のはっきりとした絶望。この国そのものが、根底から腐敗しているという、揺るぎない認識だった。
父が守ろうとした正義も、母が信じた慈愛も、そしてアランが囁いた愛さえも、すべてはこの巨大な腐敗の前では、儚い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。 その日を境に、セレスティナの纏う空気はさらに変わった。彼女の中から、最後の人間的な揺らぎさえも消え失せたように見えた。恐怖に震えることもなく、ただ静かに、冷徹な観察者のように、この灰色の町で繰り返される日常を見つめる。 彼女はもはや、ただの「人形令嬢」ではなかった。その人形の硝子の目には、この世界の醜悪な真実が、焼き付くように映り込んでいた。相変わらず、追放者たちの朝は早い。
乱暴な怒声に叩き起こされ、広場へと引きずり出される。そして、その日の労働現場へと、家畜の群れのように追い立てられていく。セレスティナもその無言の行列の中にいた。埃にまみれた銀髪が、鉛色の空の下で鈍い光を放っている。 その日の作業場所は、町の北側、城壁に近い地区だった。ここは他の地区に比べて、瓦礫の撤去がいくらか進んでいるように見えた。崩れた建物の残骸が整然と積み上げられ、再利用可能な木材や石材が分別されている。 そして、その作業を指揮しているのは、これまでセレスティナが見てきた中央の役人やその私兵たちではなかった。 屈強な体つきに、統一された黒鉄の鎧をまとった兵士の一団。彼らこそが、噂に聞く辺境伯直属の兵団、「鉄狼団」だった。セレスティナは、初めて彼らを間近で見た。
その姿は、中央の私兵たちとはあらゆる点で対照的だった。私兵たちがだらしなく着崩した、けばけばしい装飾の鎧とは違い、鉄狼団の鎧は実用性のみを追求した、無駄のないデザインをしている。磨き上げられてはいるが、そこかしこに歴戦の傷跡が刻まれており、彼らが本物の戦場を生き抜いてきた者たちであることを物語っていた。 彼らは作業中、ほとんど私語を交わさない。指揮官の簡潔な命令一下、まるで一つの生き物のように統率の取れた動きで、重い石材を運び、崩れた壁を解体していく。その動きには一切の無駄がなく、驚くほど効率的だった。 そして何より違うのは、彼らが追放者や労働者たちに向ける視線だった。そこには、中央の役人たちのような侮蔑や、私兵たちのような嗜虐的な愉悦はない。ただ、道具を見るような、無機質で無感情な視線を向けるだけだ。彼らは労働者が怠ければ叱責するが、そこに個人的な感情は含まれていないようだった。ただ、作業の遅延という事実に対して、合理的な対処をしているに過ぎない。 セレスティナは、そんな彼らの姿を、瓦礫を運ぶ手の合間に遠巻きに眺めていた。 血も涙もない、鉄の心臓を持つ狼の集まり。 噂は、ある意味では正しかったのかもしれない。彼らは、人間的な感情を排した、ただ任務を遂行するためだけの効率的な殺戮機械。だからこそ、あの戦争で恐るべき手柄を立てることができたのだろう。 彼女は、彼らに対して新たな種類の恐怖を感じた。それは、予測不能な暴力への恐怖とは違う。理解の及ばない、異質な存在に対する、冷たい畏怖だった。昼餉の時間が訪れた。
労働者たちは、それぞれの持ち場で地面に座り込み、配給された硬いパンとぬるいスープを口にする。セレスティナも、少し離れた場所で、壁の残骸に背を預けていた。 鉄狼団の兵士たちも、少し離れた場所で同じように休息を取っていた。彼らは車座になり、黙々と自分たちの携帯食料を口に運んでいる。その様子は、やはり感情というものを感じさせない、規律正しい光景だった。 セレスティナは、彼らから意識的に視線を外し、手の中の黒パンを見つめた。味はしない。ただ、生きるために必要な燃料を、体内に送り込む作業だ。 その時だった。 町の通りから、二人の子供が姿を現した。兄と妹だろうか、十歳にも満たないであろう兄が、さらに幼い妹の手を引いている。二人とも、ぼろぼろの服をまとい、手足は泥にまみれて痛々しいほどに痩せこけていた。この町のどこにでもいる、戦争孤児だった。 子供たちは、労働者たちが食事をしているのを見つけると、おずおずと近づいてきた。そして、物欲しそうな目で、彼らの手元にあるパンをじっと見つめる。だが、誰も彼らにパンを分け与えようとはしなかった。誰もが、自分のことで精一杯なのだ。明日の我が身さえ分からないこの場所で、他人に施しをする余裕など、誰にもなかった。 やがて、子供たちは諦めたように、鉄狼団の兵士たちがいる方へと視線を向けた。 セレスティナは、思わず息を殺した。 まずい。あの狼たちに近づいては。 彼女の脳裏に、先日見た私兵たちの姿が蘇る。彼らなら、物乞いに来た子供など、容赦なく蹴り飛ばし、嘲笑うだろう。この鉄の心臓を持つ狼たちが、それ以上に残酷なことをしないという保証はどこにもない。 子供たちは、何も知らずに、鉄狼団の輪に近づいていく。 セレスティナは、固く目を閉じてしまいたい衝動に駆られた。これから起こるであろう、無慈悲な光景を見たくなかった。だが、予想に反して、怒声も暴力も起こらなかった。
セレスティナが恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。 鉄狼団の兵士の一人が、立ち上がっていた。彼は、この辺境では見慣れないほど背の高い、屈強な男だった。顔には大きな十字の傷跡があり、一見すれば子供が泣き出しそうなほどの強面だ。 その男が、子供たちの前に無言で立ちはだかった。子供たちは、その威圧感に怯えたようにびくりと体を震わせ、後ずさろうとする。 男は何も言わず、ただじっと子供たちを見下ろしていた。その無表情の裏で何を考えているのか、全く読み取れない。 長い、沈黙の時間。 やがて、男は不意に、周囲を素早く見回した。他の兵士たちや、遠巻きに見ている労働者たち、そして物陰にいるセレスティナの存在にも気づいているのかもしれない。誰かの視線がないことを確認すると、彼は素早く自分の懐に手を入れた。 セレスティナは、彼が武器を取り出すのではないかと身構えた。 だが、男が取り出したのは、剣ではなかった。 それは、彼の私物であろう、布に包まれた携帯食料だった。男は無言のまま、その包みの中から、一枚の大きな乾パンと、干し肉の塊を取り出した。そして、子供たちの前に無造作に差し出す。 兄妹は、目の前で起こったことが信じられないというように、ただ呆然と男の顔と、差し出された食料を見比べている。 男は、少し苛立ったように、子供たちの小さな手に、それを半ば押し付けるように握らせた。 そして、その強面の顔に、ほんのかすかな、困惑とも照れともつかないような表情を浮かべると、自分の唇に人差し指を一本、とんと当ててみせた。 誰にも言うな。 その無言のメッセージを、子供たちは正確に理解したようだった。兄の方は、はっと我に返ると、妹の手を取り、何度も何度も、声にならないお辞儀を繰り返す。そして、大切な宝物を抱えるようにして、一目散に路地の向こうへと走り去っていった。 男は、その小さな背中を見送ることもなく、何事もなかったかのように自分の仲間たちの輪に戻り、再び黙々と食事を再開した。他の兵士たちも、その一連の出来事を見て見ぬふりをしている。まるで、それが彼らの間での、暗黙の了解であるかのように。セレスティナは、その場に座り込んだまま、動けなかった。
頭が、ひどく混乱していた。 今、目の前で起こったことは何だったのだろう。 血も涙もない、鉄の狼。それが、彼らの評価ではなかったのか。 だが、あの兵士の行動は、どう見ても「血も涙もない」人間のそれではない。見返りを求めるでもなく、誰かに賞賛されるためでもなく、ただ、空腹の子供を憐れんで、自分の食料を分け与えた。それは、紛れもない、人間的な情の発露だった。 なぜ? 気まぐれだろうか。それとも、あの兵士が、鉄狼団の中では例外的な存在なのだろうか。あるいは、彼らの冷徹さは、すべて見せかけで、本当は……。 思考が、ぐるぐると同じ場所を巡る。 彼女の凍りついていた心に、初めて「なぜ」という、純粋な疑問が、熱い鉄を押し当てられたようにじりじりと音を立てて生まれた。 それは、希望ではなかった。彼らへの恐怖が消えたわけでもない。 ただ、これまで白と黒、光と闇、善と悪で単純に割り切っていた彼女の世界に、説明のつかない、灰色の領域が生まれた瞬間だった。 父を陥れたヴァインベルク公爵の悪意は、純粋な黒だった。婚約者だったアランの裏切りも、保身という分かりやすい動機があった。中央の役人や私兵たちの腐敗も、強者の欲望という、醜いが理解できる論理に基づいている。 だが、鉄狼団の行動は、理解できなかった。 彼らは、噂通りの冷酷さで効率的に作業をこなし、規律を乱す者には容赦しない。その一方で、誰にも知られないように、最も弱い者へ慈悲を見せる。 その矛盾は、セレスティナの心をひどくかき乱した。 彼女は、何ヶ月ぶりかに、自分の内側から湧き上がる強い感情に戸惑っていた。それは怒りでも悲しみでもない。もっと知的な、真実を知りたいという渇望に近い感情だった。その日の午後の作業中も、セレスティナの頭からは、あの光景が離れなかった。
彼女は、鉄狼団の兵士たちを、これまでとは違う目で観察し始めている自分に気づいた。彼らの無駄のない動きの一つ一つに、何か意味があるのではないか。彼らの無表情の仮面の下に、どんな顔が隠されているのか。 作業が終わり、追放者たちの列がそれぞれの塒へと戻っていく。セレスティナも、その流れに従いながら、町の景色を目で追っていた。 昨日までと同じ、灰色の町。だが、彼女の目には、昨日までとは少し違って見えていた。 道の隅で横行する私兵たちの理不尽な暴力。それを黙認する役人たちの腐敗した笑み。そして、町の城壁の周りを、規律正しく巡回する鉄狼団の黒い影。 この町は、二つの全く異なる規律によって支配されている。 一つは、腐敗と暴力という、無秩序の規律。 もう一つは、鉄の規律と、その下に隠された不可解な慈悲。 そして、その頂点にいるのが、辺境伯ライナス。「狼」と呼ばれる男。 彼は、一体どちらの規律を体現する存在なのだろうか。 セレスティナは、自分の寝床である廃屋に戻ると、扉を閉め、その場に座り込んだ。 配給されたパンを手に取るが、食べる気にはなれない。 彼女の心は、久しぶりに激しく揺れ動いていた。 「人形令嬢」の仮面に、また一つ、大きな亀裂が入る。その亀裂から、ほんのわずかだが、外の世界の光が差し込んできたような、そんな予感がした。それはまだ、頼りなく、不確かな光だったが、彼女がこの灰色の町に来てから初めて感じる、未知の色をしていた。辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら
王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件や、その背後で蠢く巨大な陰謀など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのようだった。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。 その巣の主は今、珍しくその完璧な平静を失っていた。「…と、いう次第でございます。シラー伯爵は、我々の再三の出兵要請にも、『領内の治安維持を優先する』との一点張りで、応じる気配を見せませぬ。それどころか、先日より、辺境との国境警備を名目に、兵を増強しているとの報せも…」 腹心の部下からの報告を聞きながら、ヴァインベルクは窓の外に広がる王都の景色に背を向け、黙って立っていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「さらに、王都の商人ギルドの一部が、辺境との独自交易を模索する動きを見せております。『辺境伯ライナスは、公正な取引相手である』などという、馬鹿げた噂を信じ込んでいるようでして…」 シラー伯爵の離反。そして、経済界の動揺。 セレスティナという小娘が放った、見えざる矢。それは、ヴァインベルクが数十年かけて築き上げてきた、盤石のはずだった支配体制の、まさに心臓部へと、静かに、しかし確実に突き刺さっていた。 彼は、自分が放った刺客たちが、ことごとく失敗に終わったことよりも、この静かなる内部崩壊の方に、より大きな屈辱と、そして得体の知れない恐怖を感じていた。 あの女は、戦い方を知っている。 自分たち貴族が、何を最も恐れ、何を最も重んじるかを、骨の髄まで知り尽くしている。そして、その知識を武器に、最も痛い場所を、最も効果的なやり方で攻撃してくる。「…下がれ」 ヴァインベルクは、低い声で命じた。部下が、安堵とも恐怖ともつかない表情で一礼し、
作戦司令室の空気は、燃え尽きる寸前のロウソクの炎だけが揺れる、深い静寂に包まれていた。 壁に掲げられた巨大な地図も、山と積まれた防衛計画の図面も、今はその意味を失っている。この部屋の全世界は、今、セレスティナの小さな両手の中にあった。 ずしり、とした重み。 黒曜石を削り出して作られた辺境伯の印章。そのひんやりとした感触が、彼女の熱を帯びた掌に、絶対的な現実として食い込んでくるようだった。 それは、ただの石ではなかった。 この辺境に生きる、数万の民の命。鉄狼団の兵士たちの、揺るぎない忠誠。そして、何よりも、目の前に立つ、不器用で、愛おしい男の、魂そのものの重み。 ライナスは、彼女の返事を待っていた。 彼は、自分という存在の全てを、差し出したのだ。その金色の瞳は、戦場で敵の大軍を前にしても決して揺らぐことのない、絶対的な王の瞳。だが、その奥の奥に、ほんのかすかな、答えを待つ男の不安が揺らめいているのを、セレスティナは見逃さなかった。 その、あまりに人間的な弱さの現れが、彼女の胸を、愛しさで締め付けた。 涙が、再び瞳の縁に熱く込み上げてくる。だが、彼女はそれを、決してこぼしはしなかった。 今、この男が自分に求めているのは、涙ではない。共に戦う、パートナーとしての覚悟だ。 彼女は、その重い印章を、まるで大切な宝物を抱きしめるように、そっと胸に当てた。どくん、と、自分の心臓の鼓動が、硬い石を通して指先に伝わってくる。「…確かに、お預かり、いたします」 彼女の声は、涙で濡れていた。だが、その響きには、どんな困難にも揺るがない、鋼のような強さが宿っていた。「あなたの、その魂。この私が、この命に代えましても、必ずやお守りいたします」 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。「ですから、あなたも。必ずや、ご無事で、私の元へお帰りください」 その、あまりに真っ直ぐな言葉と、すみれ色の瞳に宿る絶対的な信頼。 ライナスは、彼女のその気高い魂の輝きに、完全に心を奪われていた。 ああ、俺は、とんでもない女を見つけ







