Masuk潮路院・講堂。
帆布越しの光が波の形に揺れ、貝鈴が小さく応える。「準備班の最終選考を始める。」
ユスティアが短く告げ、板に三つの印を描いた。羅針貝(流れを読む者)/秤石(重さを配る者)/結び札(結界と索具を扱う者)。候補に呼ばれた三人は対照的だった。
一人目、エスフォラの漁筏で育った少年ミナト。
潮の目を見る眼が鋭く、足裏が海板のしなりをよく覚えている。字は苦手、鼻歌は得意。二人目、陸の商家出身の少女コルナ。
算盤の音は早く、荷の配分と在庫の回しに強い。船は初めてで、酔い止めの生姜飴を頬張っている。三人目、黒い契約側の元見習いセリオ。
契式の構造と法形に通じ、結び目の理屈も早い。視線は静か、言葉は少ない。「羅針貝は、俺。」
ミナトが一歩踏み出す。「潮の匂いで曲がり角がわかる。」「秤石は、私。」
コルナは震える足で立った。「重さは嘘をつかない。揺れても合う。」セリオは躊躇してから、結び札の前に立つ。
「……向いている。罪滅ぼしも、含めて。」選任はそのまま決まった。
リビアが条件を読み上げ、ネフィラが舞で呼吸を整え、ライハルトが古語の簡潔な誓句を配る。クレインは大鍋を運び込み、「試験の前に温めろ」と笑った。訓練は実地に近い形で行われた。
甲板に描かれた“潮の階”の模擬段を、シハールの刻む拍で上下する。アゼルが基音を敷き、ユスティアが波形を少しずつ変える。「そこ、半拍遅い……。」
ネフィラが指先でコルナの肩を支える。「膝は柔らかく。」「字は読めないけど、潮の字は読める。」
ミナトが低く鼻歌を混ぜると、足元の板が気持ちよく鳴った。セリオは黙々と結びを作り替え、結界札の配置を試す。
カイラムが横で見て、短く言う。「速い。」「&h
雷の国・ヴァンデルを出て、数日。 ようやく嵐の音も静まって、空には晴れ渡る青が戻ってきた。だけど――どこか、胸の奥がざわついていた。「……静かすぎない?」 馬車の中でぽつりと呟くと、 隣のカイラムが腕を組んで頷いた。「だな。風も雷も落ち着きすぎてる。 まるで“地”が息を潜めてるみたいだ。」「“地”が?」「この世界の魔力は風・水・雷・地の四属性で流れてる。 そのうち“地”は根の役割をしている。 もしそれが止まったら――」「全部が、倒れちゃう?」カイラムは黙って頷いた。 ユスティアが記録板を開いて補足する。 「現時点で、地脈の流れは各地で減少しています。 グランフォード領でも、地下水位が下がっている報告が。」「それって……」「はい。次の祠――“地の祠”が、すでに不安定化しています。」 「そっか。最後の祠、だもんね。」 私は深く息をついた。 風、氷、雷。 それぞれの祠には“止まった心”があった。でも、“地”って……止まるというより、 “沈む”感じがする。まるで、眠るように。 やがて地平線の向こうに、 巨大な断層のような亀裂が見えてきた。「……あれが、“地の門”か。」 ユスティアが小さく呟く。 「地表が裂け、祠が沈んだ跡です。 この先に、古代都市《テッラ・ロウ》が眠っています。」「眠る都市……」 「その中心に“地の祠”があるはずだ。」 亀裂の縁に立つと、 地面の下から低いうなり声が響いた。 地鳴りのようでいて、まるで“心臓”の鼓動みたいだった。「……ねぇ、これ、生きてるよね?」 「そう聞こえるな。」カイラムが剣を抜く。 「油断するな。地は優しいようで、いちばん重い。」 亀裂の中へと降りていく。 道は暗く、湿っていて、 壁には古代文字のような刻印が続いていた。「読める?」 「……“根は眠り、芽は夢を見る”」 リビアが呟いた。 「これは“地の神”の古い祈り文。 眠りとは再生、という意味を持つ。」「じゃあ、祠が“眠ってる”っていうのは…… 再生の前兆?」「ならいいんだがな。」カイラムが険しい顔をする。 「問題は“何が夢を見てるか”だ。」 やがて、開けた空間に出た。 広大な地下都市――。 崩れた神殿や石像、 枯れた木の根が天井から垂れ下がっている。
――空が怒っていた。氷の都を後にして数日。私たちは雷の国《ヴァンデル領》へと足を踏み入れた。とにかく、うるさい。空は常にごろごろ鳴っていて、一時間に一度はドンッ!と何かが落ちる。「ねぇ……これ、平常運転なの?」「はい。こちらの国では、雷が日常です。」ユスティアが冷静に答えた。「この地は“天空の導線”と呼ばれるほど雷が集まりやすい場所で、 空と地上の魔力が常に衝突しています。」「つまり、常に感電の危険があるってことね?」「言葉の選び方!」「落ちたらどうするんだよ……」カイラムがため息をつくと、リビアが翼で頭を軽くはたいた。「魔王族に雷ごとき、恐るるな。 焼けたとしても、香ばしくなるだけだ。」「どんな励ましだよ!?」 一行がたどり着いたのは、雷雲に包まれた街――《ストルムシア》。建物のほとんどが金属の避雷装置で覆われ、屋根の上では“雷集め”と呼ばれる儀式が行われていた。巨大な塔の先端に集まった雷が魔石に吸い込まれ、街のエネルギーとして再利用されているらしい。「すごい……雷を飼いならしてるみたい。」「“嵐を制する者が国を制す”――彼らの国是だ。」ユスティアが呟く。「この地の主は、雷公《らいこう》アルディン・ヴァンデル。 代々“嵐の加護”を受け継ぐ家系です。」 雷鳴がひときわ強くなったそのとき、塔の上からひとりの青年が飛び降りた。「うわぁぁぁっ!? 落ちた!? 今人落ちたよね!?」「いや……あれは飛んでる。」雷の光を背に、彼は空中で軽やかに身をひねる。着地と同時に周囲の雷を吸い込み、電撃を羽織るように立ち上がった。「ようこそ、風の国の継承者よ。」鋭い金色の瞳、乱れた銀髪。その全身から“雷”の気配が滲み出ていた。「俺はアルディン・ヴァンデル。 雷鳴の街を統べる者だ。」「かっこよ……」思わず口から出た。「お、おい、惚れるなよ。」カイラムが眉をひそめる。「惚れてないもん! ちょっと電撃走っただけ!」「それが惚れてるって言うんだよ!」「ふふ……賑やかだな。」アルディンが微笑んだ。「歓迎しよう。 ただし――ここから先は、“嵐の誓い”を越えねばならない。」 「“嵐の誓い”?」「この国では、異国の者は“雷の試練”を受けることになっている。 嵐を恐れぬ者のみが、神殿に足を踏み入れられ
風の道を越えて三日。見渡す限りの白銀の大地が広がっていた。「さ、寒いぃぃ……! 鼻が凍るぅぅ……!」私は風除けのマントを首まで引き上げ、凍えながら雪原を進んでいた。「……だから言っただろ、厚着しろって」カイラムが肩に雪を積もらせながら呆れ顔。「その格好じゃ、パンより先に凍るぞ。」「だって荷物多かったんだもん……」「荷物の半分がパンだろ」「焼き立てが恋しいんだもん……」「もん、じゃねぇ」「はいはい、口論は歩きながらでお願いします」ユスティアが軽やかに歩きつつ、冷気でくもる眼鏡を指で拭った。「目的地はもうすぐです。フロステリアの“氷門”。 ここを越えれば、王都ルミア・グラスへ入れます。」 遠く、氷の峡谷の奥に、巨大な半透明の門が見えてきた。「……きれい。」その門はまるで凍った滝のように輝き、陽の光を受けて七色に反射していた。だが近づくにつれ、空気がぴんと張りつめていく。「なんか……静かすぎない?」「うむ。鳥も、風も、止まっておる。」リビアが羽をすぼめ、低く唸る。「氷の精霊の“息”だな。 この門、ただの氷ではない。意志を持っておる。」 そのとき、門の中心に淡い光が集まった。氷の粒が舞い、やがて人の姿をとる。「ようこそ、旅人たち。」その声は風鈴のように澄んでいた。現れたのは、透き通るような白髪と蒼の瞳を持つ少女。肌は雪のように白く、衣は氷の結晶でできているようだった。「私はフロステリアの“氷守(ひもり)”リュミエール。 外の風を運ぶ者たち……あなたたちね?」「え、ええ……たぶん。」「風の国からの報せは届いています。 あなた方が“暁の継承者”だと。 この地の封印を解く資格を持つ者だと。」「封印……?」ユスティアが眉をひそめる。「ここにも、祠が?」「はい。氷の祠《フロストレム》。 けれど、いまは閉ざされています。 百年前の“祈りの凍結”以来、 誰ひとりとして中に入れた者はいません。」 「……凍結?」「祈りが、氷に封じられたのです。」リュミエールの瞳が微かに揺れる。「この国の人々は“永遠の祈り”を望みました。 その結果、祈りは形を得て――時を止めました。」「時を、止めた?」「はい。 人も街も、祈りの瞬間のまま、眠り続けているのです。」 私は息を呑んだ。“沈黙の
――風が帰ってきた。暁の祭壇での継承の儀から三日。サーラディンの砂の海は静かに息を吹き返し、街には久しぶりに“音”が戻っていた。風鈴のように鳴る砂の結晶、街角で回る風車、子どもたちが笑いながら凧を追いかけている。「ねぇカイラム、見て! 砂が喋ってる!」「……いや、喋ってねぇだろ」「喋ってるもん! “風が気持ちいいね”って言った!」「お前がそう聞こえただけだろ」「じゃあ、聞こえたもん勝ち!」「……理屈になってねぇ」私はにこにこしながら風を両手で掬った。砂の粒が光にきらめいて、まるで世界そのものが笑っているみたいだ。 「本当に……あなた方には感謝の言葉もありません。」そう言って頭を下げたのは、ファリード王子だった。以前の彼の眼差しは、どこか責任と緊張に縛られていた。でも今は――柔らかな風のように、穏やかだった。「“沈黙”は完全に消えました。 風の道も再び開通し、各国への風信も再開しています。 まさに、風の復権です。」「よかった~。 これでパンもちゃんと膨らむ!」「そこに帰結するのか……」「パンは平和の象徴なの!」 ユスティアが笑いながら記録板を閉じた。「風脈の流れを解析しましたが、興味深いことが一つあります。 サーラディンを中心に、世界中の風が“循環”し始めている。」「循環?」レーンが首を傾げる。「はい。 それぞれの国の風が、ただ流れるだけではなく“繋がる”んです。 まるで、風同士が互いを呼び合っているみたいに。」「まるで……人間の心みたいだね。」私はぽつりと呟いた。「誰かが笑えば、それが風になって、 遠くの誰かの背中を押すような……そんな感じ。」「……上手いこと言うな」「ふふん、たまにはでしょ?」「“たまには”って言うな」 ファリードが一歩前に出て、手にしていた金色の風晶を差し出した。「これは、“暁の風”の欠片です。 新たに世界を繋ぐ風の象徴。 グランフォードの風として、お持ち帰りください。」「いいの?」「ええ。 この風はあなた方の功績の証です。 そして――約束の印でもあります。」「約束?」「また、風が迷ったとき。 どうかあなたの声で、再び導いてください。」 胸の奥がじんわりと熱くなる。レオニスが消える前に言った言葉が、また静かに心を撫でていった。
砂の都・サーラディンでの戦いから数日後。私たちは再び旅立ちの準備を整えていた。塔の最上部に立つと、風がやさしく頬をなでる。あの沈黙の嵐はもうどこにもない。代わりに、清らかな風が都市全体を包んでいた。「ふぅ~、やっと落ち着いたねぇ!」私は伸びをしながら言う。「お前、戦った翌日からパン祭りしてただろ」「だって平和になったんだもん!」カイラムが呆れた顔をしながらも、パンを一切れ受け取って口に運ぶ。「……相変わらず味は悪くない」「“悪くない”って言い方、なんかムカつく!」「誉めてるんだよ」「ほんとぉ~?」そんな私たちの掛け合いに、周囲の兵士たちが小さく笑う。空気が柔らかい。まるで風そのものが笑っているみたいだった。 「エリシア陛下。」声をかけてきたのはファリードだ。彼は以前よりもずっと穏やかな表情をしている。「風の塔の修復が完了しました。 そして……“暁の祭壇”の準備も整いました。」「暁の祭壇?」「はい。 風が最初に生まれた場所。 この世界に“風”という概念が誕生した、最古の聖域です。」ユスティアが説明を引き継ぐ。「古代の地図にも断片的に記録があります。 勇者と魔王が初めて“共に祈った場所”……。」「へぇ……そんな伝承があったんだ。」「風の流れが安定した今なら、 あの地への道が再び開くでしょう」とファリードが続ける。「ですが――そこには、“継承の儀”が残っています。」「継承……?」「ええ。 あなたが“風を継ぐ者”であるなら、 その力はまだ“半ば”なのです。 暁の祭壇で、真に風を繋ぐ資格を問われるでしょう。」 「……試されるってこと?」「そうです。」「よし!」私は胸を叩く。「受けて立とうじゃないの!」カイラムが苦笑を浮かべた。「お前、試されるの好きだよな」「成長イベント大好きだから!」「イベント扱いかよ……」 ファリードが小さく笑い、その瞳に尊敬の色を浮かべる。「あなた方がこの地に吹かせた風は、確かに私たちを変えました。 どうか、次の風も……あなたの手で。」「うん、任せて!」私はにっこりと笑って、風を掴むように手を伸ばした。 ――翌朝。サーラディンの外れ、砂丘の果て。そこに、暁の祭壇への道が口を開いていた。金色の砂がまるで流れる川のように蠢き、光の筋が
――風が、止まった。あの“沈黙の終わり”を祝福するかのように鳴っていた砂上の風が、突如として凍りついたように静止した。「……いまの、聞こえた?」ユスティアが眉をひそめる。彼の耳が、僅かに震えていた。「聞こえたって……何も、聞こえないけど?」私が問い返すと、ユスティアは頭を振る。「そう、それが“聞こえた”んです。 ――音が、一瞬で消えた。」その瞬間、塔の壁に埋め込まれていた金色の砂が黒ずんでいく。音を失った空気が、重くのしかかる。まるで世界全体が“息を止めた”かのようだった。「まさか……“影の風”が、もう……!」ファリードが青ざめた顔で呟いた。「ファリード、説明を!」カイラムが詰め寄る。「“影の風”とは、かつて我々が封印した“風の反響”。 風が流れる限り、そこに生じる“抵抗”―― それが積もり積もって、沈黙として現れる。 風の祭儀で二つの風を重ねたことで……それが、解放されたのです。」「つまり、私たち……また封印を解いちゃったってこと!?」私の声が裏返る。「だが、今度は“自然発生”ではない」カイラムが低く言った。「誰かがこの流れを狙っていた――“風の力”そのものを。」「……まさか、“魔導連邦”が動いてるのか?」リビアが羽をたたみながら低く唸った。「奴ら、風の塔を利用すれば、世界の気流を操作できる。 戦争を始める前に、風を奪えば物流も国境も麻痺する……。」「そんなの、許せない!」私は拳を握りしめる。「風は、誰のものでもない! 世界みんなの息そのものよ!」「……まさかお前からそんな名言が出るとは」カイラムが呆れ気味に笑う。「パンの焼き加減の次は、風の平等か?」「うるさいわね! でも真面目なんだから今!」 ファリードが塔の外を見上げる。空には、黒い霞のような帯が浮かび上がっていた。それは風の流れを逆流させる“影の気流”。「……早い。 これほどの規模、すでに“風脈”そのものが汚染されています。」「風脈?」「はい。 世界中の風を繋ぐ巨大な魔力網。 古代の勇者たちが築いた“循環の地図”の根幹……。 その一部が、今このサーラディンを中心に反転しているのです。」「勇者の……地図……」私は息をのむ。「じゃあ、この現象、私の中の“記録”と関係してる?」ファリードが頷いた。「おそらく。 あ