Share

第2話

Author: 白瀬桃香
心乃は、蒼真に連れられて邸宅へ戻った。

ここはもともと、二人が結婚後に暮らすはずだった新居だった。

家具や壁画のような大きなものから、ローテーブルのコースターのような小さなものまで、すべて彼女が心を込めて選んだものばかりだった。

それなのに、彼女がほんの一週間いなかっただけで、すべてがすっかり入れ替わっていた。

蒼真はどこか気まずそうに言い訳した。

「清香はもっと落ち着いた雰囲気が好きなんだ。

お前が選んだものは、どれも子どもっぽすぎたから、とりあえず片づけただけだ」

心乃はうなずいた。

「新しい家だもの。

もちろんここに住む人の好みに合わせて整えるべきよね」

もう、自分はここに住む人ではない。

どう飾ろうと、好きにすればいい。

「またそうやって嫌味を言うのか?

清香は体が弱い上に、最近は新作発表会の準備で忙しいんだ。

ここは彼女のアトリエにも近いから、しばらく泊まらせているだけだ。

その目はなんだ。

そんな薄汚い考えは、さっさと引っ込めろ!」

蒼真は眉をひそめ、不満をあらわにしたその口調で、彼女を押しつぶさんばかりだった。

心乃は目をそらした。

自分が薄汚い?

では、婚約披露の席で彼に不意打ちの口づけをした清香は、いったい何だというのか。

「いいから、早く着替えてこい。

そんな汚れた格好をして」

蒼真はうんざりしたように手を振った。

これ以上一秒でも彼女を見ていたくないとでもいうように。

心乃は言い返さなかった。

もう何日も、まともに風呂に入っていなかったのだ。

彼女は主寝室の扉を開けた。

すると、ベッドの上には清香が横たわっていた。

「清香……?

どうして、ここにいるの?」

清香は目をこすった。

その動きに合わせてシルクのネグリジェの肩紐がずり落ち、あらわになった肌には、いかにも情事の痕跡を思わせる赤い痕が残っていた。

心乃は拳をぎゅっと握りしめた。

「聞いてるの?

どうしてここにいるの!」

ここは、自分と蒼真の寝室だ。

幾つもの夜を、この部屋で、互いを求め合って過ごしてきた。

どうして、この女がこのベッドで眠っているの――

「ここは蒼真の家よ。

私がどこで寝るかなんて、もちろん蒼真が許したからに決まってるでしょう?」

清香は唇をゆがめ、わざと首元の痕を見せつけるようにした。

「蒼真って体力あるのよ。

でも、前は私の体を気遣って無茶できなかったから、そのはけ口をあなたに求めてただけ。

ご苦労さま、心乃」

「あなたたち……っ」

心乃は壁に手をつき、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。

そのとき、階段から蒼真の足音が聞こえてきた。

心乃が問いただそうと口を開きかけた瞬間、不意に清香が彼女の腕を強くつかんだ。

「心乃、どうして戻ってきたの?

まだ諦めきれないから?

だったら見せてあげる。

蒼真にとって、いちばん大事なのが誰なのか!」

心乃の胸に、理由のわからない不安が走った。

「何をする気――?」

清香は突然、心乃の手をつかむと、自分の腹に押し当てた。

「心乃、チーフデザイナーの座は返してあげる。

だからお願い、私を追い出さないで!

きゃあ――!」

蒼真が顔を上げた、その瞬間。

ちょうど、心乃が清香を階段から突き落としたように見えた。

「清香――!」

清香は血のにじむ額を押さえ、苦しげな顔で言った。

「蒼真……心乃は、わざとじゃないの。

どうか、心乃を責めないで……」

蒼真は清香を抱き上げると、真っ赤に染まった目で心乃を射抜いた。

その視線は、まるで鋭い矢のようだった。

「心乃、お前の悪辣さを俺は見くびっていた。

清香に何かあれば、絶対に許さない」

庭先から車の走り去る音が聞こえてきても、心乃はその場に立ち尽くしたままだった。

さっき、自分は手など出していない。

それなのに、清香の一方的な言葉だけで、蒼真は自分が突き落としたのだと決めつけた。

「私って……あなたの中では、そんなにも醜い存在だったのね……」

心乃は壁に飾られた大きなウェディングフォトを、長いこと見つめていた。

やがてそれを引きはがし、床へ叩きつける。

全部、嘘だった。

こんなものを見ても、幸せだった記憶なんてもう少しも蘇らない。

あるのは、痛ましい皮肉だけ。

その日の午後、彼女は半日かけて、邸宅に残っていた自分の持ち物をすべてゴミ捨て場へ運んだ。

どうせ人生を入れ替えるのだ。

もう、何ひとつ残しておく必要はない。

ただ――

心乃はしゃがみこみ、ずっと足元をくるくる回っていた小さな犬をそっと撫でた。

「ポン太、私と一緒に行きたい?」

ポン太は、心乃と蒼真が学生時代に拾って飼い始めた犬だった。

蒼真はこの数年ずっと会社のことで忙しく、心乃に寄り添ってくれたのは、いつもポン太だけだった。

本当は手放したくない。

けれど、自分と一緒にさすらい、つらい思いをさせるわけにはいかなかった。

「いい子にしてて。

仕事が見つかったら、迎えに来るから」

ポン太は「ワン」と二度鳴き、その場におとなしく伏せたまま、彼女を見送った。

心乃は振り返り、夕闇に沈む邸宅を最後に見つめた。

「さようなら、蒼真」

そのとき、一台のロールスロイスが猛然と突っ込んできて、彼女の二十センチ手前で急停車した。

車から降りてきた藤崎啓介(ふじさき けいすけ)は、いきなり彼女の頬を張り飛ばした。

「心乃、お前、よくも清香を階段から突き落としたな!

今すぐ病院へ来い。

そして清香に土下座して謝れ!」

心乃は頬を押さえ、口の中に広がる血の味をどうにか飲み込みながら、かすれた声でつぶやいた。

「兄さん……?」

啓介は、今にも彼女を引き裂かんばかりの形相だった。

「俺を兄と呼ぶな!

お前が初めて清香を陥れたその時から、俺はもうお前の兄じゃない!」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 遠ざかる愛を抱いて   第22話

    蒼真は床に跪いていた。叫び、泣き、彼女のドレスの裾をつかんで、行かないでくれとすがりついた。心春ははさみを手に取り、ためらいなくその裾を断ち切った。そして一度も振り返ることなく、そのまま外へと歩き出す。背後にあるのは、蒼真の胸を引き裂くような慟哭。前方に広がるのは、彼女自身の光あふれる未来。彼女と彼は、もう二度と会うことはない。それからずいぶん後になって、心春は人づてに聞いた。蒼真は彼女の結婚式からほどなくして重い病を患い、亡くなる前に成瀬グループの全財産を、かつて二人が通っていた高校へ寄付したのだという。さらに、「心真」と名づけた奨学金まで設立したらしい。その話を聞いたあと、勇信は彼女を腕の中へ引き寄せ、耳たぶを強くも弱くもない力で指先に挟んだ。「お腹に気をつけなさい」心春は笑って彼を軽く叩き、自分の腹部をそっとかばいながら、甘えるように言う。「もうすぐパパになる人が、そんなことでまでやきもち焼くの?」勇信は奥歯を軽く噛んだ。「明日にでも『心信』奨学金を作ってやる。あいつが出した額の倍出すよ」「もう……」心春は人差し指で彼をつついた。勇信は一本の電話を受けるために席を外し、心春は一人で階下へ降りて夕食をとることにした。妊娠しても彼女の好みはほとんど変わらず、食卓には昔から好きだった料理が並んでいる。ポン太は彼女の足もとに寝そべり、靴下を甘噛みしていた。しばらくして勇信がやって来ると、小さな体をくるりとひねって、丸々とした腹を見せる。「どうしたんです?」勇信の顔色があまりよくないことに気づき、心春は少し不安になった。「藤崎家で問題が起きた」心春の手から箸が滑り落ちた。次の瞬間には、冷えた彼女の手を、勇信がしっかりと握っていた。「聞きたくないなら、言わない」夜中、彼女が何度か「お母さん」と寝言を口にするのを聞いたことがある。だからこそ彼は、この話を伝えることにしたのだ。向き合うかどうかは、彼女自身に任せるつもりだった。心春は小さく息を吐いた。「……何があったんです?」「半年前くらいから、啓介が賭博にのめり込んで、高利貸しに百億以上の借金を作ったらしい。三日前、取り立てが家に来たが、澄子が泣きわめいて金を出そうとしなかった。それ

  • 遠ざかる愛を抱いて   第21話

    空がようやく白み始めたころ、心春は熱のこもった腕の中で目を覚ました。身じろぎした拍子に、自分がずっと勇信の腕を枕にしていたことに気づいた。しかも二人の身体は、背中と胸がぴたりと重なるほど密着していた。心春の耳先が、そっと赤く染まる。彼女は息をひそめるように、そろそろとベッドから抜け出した。昨日、勇信はひどく酔っていた。普段は無口で言葉数も少ないくせに、酔うとまるで別人だった。彼は彼女をつかまえてなかなか放さず、泣き言まじりに「君は薄情だ」と訴えたかと思えば、今度は引き出しをひっくり返して紙とペンを探し出し、自分の長所を全部書き出すと言って聞かなかった。小学生の時に算数のコンクールで三等賞を取ったことまで、褒めろと迫ってくる始末だ。最後には、心春も本当に手に負えなくなり、人を呼んで彼を寝室まで運んでもらうしかなかった。それでも勇信は彼女を帰そうとせず、仕方なく、心春はそのまま残って彼を寝かしつけた。けれど――確か自分は椅子に座っていたはずなのに、どうしてベッドの上にいたのだろう。心春は火照った頬を軽く叩き、こっそり部屋を抜け出そうとした。その時、視界の端に、床へ落ちたしわくちゃの紙が映る。身長185センチ、腹筋あり、生活習慣は規則正しい、悪い癖なし、家族に遺伝病歴なし……ずらりと並んだその最後の一行には、こんな言葉まで書かれていた。一途で誠実。心春だけを愛している。心春は小さく息をつき、引き寄せられるようにベッドで眠る男の顔へ視線を向けた。黒い羽のようなまつげが目元を覆い、すっと通った鼻筋の下で、薄い唇が静かに結ばれている。――こんなにも素敵な人が、自分を深く愛してくれている。心春が部屋を出ていくと、ベッドの上の男はゆっくりまぶたを持ち上げた。床に落ちていた紙は、もうなくなっている。勇信は眉を上げ、黒い瞳に笑みを浮かべた。この家で、彼の酒の強さを知らないのは心春だけだ。彼は昨夜、母から送られてきた贈り物を開いた。中に入っていたのは、布地の少ない、かなり大胆な女性用の下着だった。勇信の目が一瞬だけ深く沈む。だがすぐにそれをしまい込み、低くつぶやいた。「……まだ早い。俺たちは、ゆっくり少しずつでいい」……ウェディングドレス店。勇信は会社で急な

  • 遠ざかる愛を抱いて   第20話

    夜風には少し冷たさが混じっていた。勇信は手すりにもたれかかり、その足もとには空になった酒瓶が四、五本、あちこちに転がっている。彼は、心春を迎えに行った時と同じTシャツをまだ着たままだった。上着を持ってきたほうがいいだろうか――心春がそう迷っていた時、不意に勇信が大きくげっぷをした。「……薄情な鈍感め……!」かなり酔っているらしく、勇信は手すりに突っ伏したまま大声で叫ぶ。「君のために、身代わり婚約なんてベタで安っぽい展開までやったのに、まだあのクズ男のことを引きずってるのかよ!見る目のないやつめ!」少し離れたところに立っていた心春は、彼のまわりに漂う酒気にあてられたのか、自分まで頭がぼんやりしてくるのを感じた。どうにか彼の言う鈍感が自分のことだとわかると、今度は別のことが気になった。「……身代わり婚約って、何ですか?」勇気を振り絞ってそう尋ねる。そこでようやく勇信は彼女の存在に気づいた。まずふっと笑い、それから口をへの字に曲げると、足もとをふらつかせながら彼女のそばまで歩いてきて、耳たぶを軽くつまんだ。「ほらな、やっぱり鈍感だ。俺がどうして篠宮家のあの娘と婚約したか、わかる?君に似てたからだよ。どうせ君は成瀬社長と婚約してたんだ。俺は誰を娶ったって同じだった。でも、あの子は君に顔が似ていただけじゃない。家に認めてもらえない想い人までいた。成瀬社長が君を大事にしてないと知って、俺は少し手を回して、あの子に人生交換のことを教えた。そうして、君と入れ替わることに同意させたんだ」勇信は両手で彼女の顔を包み込み、まっすぐその目をのぞき込んだ。「鈍感。君、俺が君を十年も好きだったって、本当にわかってないのか?」二人の距離は、息が触れ合うほど近い。酒の匂いをわずかに含んだ彼の熱い息が鼻先にかかり、心春は、自分まで本当に酔ってしまったような気がした。頭上には満天の星。その下で、自分の手の中には月がある。どれほど鈍い彼女でも、ようやく気づく。勇信は昔から自分を知っていて、自分の知らない場所で、ずっとひそかに想い続けていたのだと。「……勇信さん」心春は指先を動かし、落ち着きなく揺れる彼の頭をそっと自分の肩に引き寄せた。「私たち、どうやって知り合ったんですか?」勇

  • 遠ざかる愛を抱いて   第19話

    蒼真は追い出された。それでも帰り際まで、なおも取り乱したように叫び続けていた。「奥様!もう一度よく見てください!彼女は本当に篠宮心春じゃないんです!俺の婚約者、藤崎心乃なんです!本当の心春さんは、きっとあいつにどこかへ隠されてます!お嬢さんは今ごろ、どんな目に遭ってるかわからないんですよ!それでも心配じゃないんですか!心乃!出てこい!俺と一緒に帰るんだ――!」二階。心春は蒼真が引きずるように連れ出されていくのを見つめ、小さく息をついた。――これで、ひとまず切り抜けられた……?「心春」振り向くと、雅子が無表情のまま背後に立っていた。「ちょっと、こちらへ来なさい」張りつめていた神経はまだ解けきっていない。だが心春は敏感に察した。いまの雅子の表情は、先ほど自分が帰ってきた時とはもう違っている。ようやく緩みかけていた指先が、再びぎゅっと強く握られた。心春はそのあとに従い、書斎へ入った。「……お母さん?」篠宮社長の姿はない。書斎には二人きりだった。「座りなさい」そのひと言で、心春は悟った。――もう、気づかれている。「……奥様」心春はすぐに呼び方を改めた。何を言うべきか慎重に考えようとしたが、少し遅れて気づく。いまさら何を口にしても、きっとふさわしくはない。結局、彼女は口をつぐみ、相手の言葉を待つことにした。十分ほどの沈黙のあと、ようやく雅子が口を開く。「……あの子は、幸せにしているの?」誰のことを尋ねているのか、心春にはすぐわかった。彼女はおとなしくうなずく。「はい。好きな人と一緒にいて、彼女がずっと望んでいた暮らしをしています」雅子はしばらく何も言わなかった。心春はそっと様子をうかがった。気のせいだろうか。名門の奥方らしく隙ひとつ見せないその人の目に、かすかに涙の気配がにじんでいるように見えた。心春は少し迷ってから、静かに口を開く。「……どこにいるのか、知りたくはないのですか?」意外なことに、雅子はふっと笑った。「知りたいに決まっているでしょう。でも、人生を入れ替えるなんて大ごとを、あの子は私に何ひとつ知らせなかったのよ。そんな子が、今さら自分の居場所を私に教えてくれると思う?」そう言って立ち上がると、心春に

  • 遠ざかる愛を抱いて   第18話

    「篠宮様、お身体の数値はどれも正常です。こちらが検査結果になります」心春はそれを受け取り、軽く頭を下げた。「ありがとうございます、先生」今日は術後の再検査で来ていたのだ。診察室を出たあと、心春は帰りが少し遅くなると勇信に連絡しようと、スマホを取り出しかけた。だが顔を上げた瞬間、そこに立っていた蒼真の姿に息をのむ。「奇遇ですね、篠宮さん」蒼真は笑みを浮かべていたが、その目はまったく笑っていなかった。「いや……心乃と呼ぶべきか?」心春の胸がひやりと冷えた。「何を言っているのかわかりません。どいてください」男は動かない。高い背が行く手をふさぎ、まるで威圧する壁のように立ちはだかっていた。人気のない廊下で、医師や看護師がこちらに気づく気配もない。今ここで助けを呼んでも、間に合わないかもしれない。心春は恐怖を押し隠しながら、思わず脅すように言った。「成瀬さん、忘れないでください。私は勇信さんの婚約者です。あなたが私に無理をしたと知ったら、あの人がどうするか……想像できますよね?」「婚約者?」蒼真は冷たく笑い、言葉を繰り返した。「お前は本当にあいつの婚約者なのか?それとも、俺の婚約者なのか?心乃、言ったはずだ。俺が認めない限り、お前は一日だって俺のもとを離れられない」言い終わるより早く、蒼真は一気に踏み込み、彼女の腕を乱暴につかんだ。「何するの、放して!」蒼真は心春をエレベーターに引きずり込み、そのまま地下駐車場へ向かう。「本当のことを言わない。九条社長っていうあの狂った男までお前をかばう。いいさ、だったら篠宮家へ行ってはっきりさせようじゃないか。篠宮社長と奥様が、自分たちの本当の娘を選ぶか、それともお前を選ぶか――」車は勢いよく走り出し、心春の鼓動も喉元までせり上がった。手術を受けてから、彼女はまだ一度も篠宮家の人間に会っていない。だが、聞いている限りでは、この身体の中身が別人に入れ替わっていることを、篠宮家はまだ知らない。そんなところへ蒼真が突然自分を連れて行けば、気づかれないとは限らない。もしバレたら、すべてが終わる。けれど彼女は車内に閉じ込められ、スマホも取り上げられていた。誰にも連絡できない。頭の中は混乱でいっぱいだったが、それでもひ

  • 遠ざかる愛を抱いて   第17話

    午前三時ちょうど、心春はようやく納得のいくラフを描き上げた。もう遅い時間だったため、彼女はそのまま作業部屋で少し仮眠を取ることにした。以前、成瀬グループで働いていた頃は、こうして何日もぶっ通しで仕事をすることも珍しくなかった。もう慣れている。ところが、うとうとしかけたその時、衣擦れのような足音が聞こえてきた。心春は半分眠ったまま、ポン太が来たのだと思い込み、ぼんやりとつぶやく。「いい子だから、いたずらしないで……」その言葉に、勇信の手がぴたりと止まった。「心春?」心春は一気に目を覚まし、飛び上がるようにして身を起こした。「どうしてここにいるんですか?」「仕事が終わったなら部屋に戻って寝ろ。そんなふうに丸まって寝たら、体に悪い」白目に浮かぶ赤い血筋を見て、勇信の胸は痛んだ。彼は有無を言わせず彼女の腕を取り、立ち上がらせる。「戻るぞ」六、七時間も座りっぱなしだった心春は、引き上げられた拍子に足の裏に鋭い痛みが走り、よろめいて前へ倒れ込んだ。「危ない!」覚悟した痛みはやってこなかった。勇信が、とっさに彼女を受け止めたのだ。二人の呼吸が重なる。心春の手は彼の胸元に触れ、その下で上下する筋肉は硬く、力強かった。その感触に、彼女の心は不意に震えた。「ごめんなさい、足がしびれて……」心春は慌てて離れようとしたが、しびれはまだ抜けきっていない。頭がぐらりと傾き、そのまま勇信の胸に倒れ込んでしまった。男は低く笑った。「心春、これは俺の胸に飛び込んできたってことか?」心春は言葉を失った。――誓って、そんなつもりじゃない。彼女は慌てて転がるように離れ、壁際に立つ。今度は学習したのか、二度と転ばないよう椅子の背をぎゅっとつかんで離さなかった。腕の中からやわらかなぬくもりが消えると、勇信は空になった自分の腕を見下ろし、どうにもやりきれない気持ちになった。ふと、ある言葉が脳裏をよぎる。脇役なら、なおさら奪いにいくべきだ。彼女の世界には、この二十二年間、蒼真しかいなかった。確かにその中で自分は、取るに足りない脇役でしかなかったのだろう。だが、もう違う。今の自分は、もう彼女の目の前まで来ている。――今度こそ、自分のために手を伸ばそう。勇信はそう決め

  • 遠ざかる愛を抱いて   第6話

    夜明けが近づくころ、ようやくポン太の熱は下がった。心乃は一晩中つきっきりで看病し、ようやく少しだけ休めそうだと思った。けれど、目を覚ましたときには、ポン太の姿が消えていた。彼女は病院中を探し回ったが、どこにも犬の姿はない。「すみません、茶色い小型犬を見ませんでしたか?これくらいの大きさで、頭に白い毛が少しある子なんです」心乃は手当たりしだいに尋ねて回り、ようやく、三十分ほど前にある女性がポン太を連れて行ったと聞かされた。「その人、自分はあなたの従妹で、高梨という姓だって言ってましたよ。先に犬を家に連れて帰るから、目が覚めたら自分を訪ねてくるようにって」高梨―

  • 遠ざかる愛を抱いて   第4話

    「……今、何て言った?」蒼真は一瞬、動揺を浮かべた。すぐに心乃の手をつかもうとしたが、空を切る。心乃は一歩後ろへ下がり、彼との距離を取った。「言ったでしょう、蒼真。私はあなたとの婚約を解消するって。今この瞬間から、私はもうあなたの婚約者じゃない。これで満足?」――もう決めたのだ。手術を受ける前に、婚約だけは終わらせる。そうすれば、たとえこの古い体のまま目覚めたとしても、もう誰かの婚約者ではなく、ただの自分としていられる。それだけ言い残すと、心乃は背を向けて部屋へ戻った。蒼真も、その怒りも、すべて背後に置き去りにして。「心乃!開けろ!自分が何を言ってる

  • 遠ざかる愛を抱いて   第3話

    病室では、藤崎家の人々が清香のベッドを取り囲み、入れ代わり立ち代わり気づかっていた。「清香、これはおばさんがあなたのためにわざわざ煮込んだスープよ。熱いうちに飲んでちょうだい。ほんとに、全部心乃の疫病神のせいだわ!安心して、あの子にはきっちり償わせるから!」そう言ったのは、心乃の実の母である――藤崎澄子(ふじさき すみこ)だった。清香はスープを少しずつ口に運び、聞き分けのいい笑みを浮かべた。「おばさん、心乃を責めないでください。悪いのは私なんです。私、寝室に入ったのも、置き忘れたデザイン画を取りに行こうとしただけなんです。ただ、まだ心乃に説明する前に、い

  • 遠ざかる愛を抱いて   第5話

    心乃は、ポン太を連れて動物病院へ駆け込んだ。「先生、この子の傷……大丈夫でしょうか?」「傷がかなり深いですね。それに赤く腫れて膿も出ています。すぐに点滴をしたほうがいいでしょう。このままだと細菌感染を起こすおそれがあります」心乃はひび割れた唇をなめ、ためらいがちに尋ねた。「点滴をすると……いくらかかりますか?」「六千円です。先に会計を済ませてきてください」心乃は伝票を握りしめたまま、動かなかった。六千円。一週間前の自分なら、こんな金額で困ることなどなかった。けれど家を追い出されたとき、あの人たちは彼女の支払い手段をすべて凍結した。今の彼女が持っている

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status