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12.流される日々の向こう側で

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-09-05 14:36:22

東京の朝は、目覚ましの電子音よりも早く始まる。

窓の外、見上げた空はどこまでも白く、ビルの谷間にこだまする車のクラクションと、せわしない人の足音が遠くから響いてきた。

蓮は薄いシャツ一枚でリビングのソファに座り、コーヒーメーカーの湯気をぼんやりと見ていた。

何もなかったふりをするのは、慣れている。

昨夜までの熱も、旅館の夜の湿度も、東京の乾いた空気がすべてさらっていく。

深呼吸すると、部屋に溶け込んだ焙煎豆の香りが鼻腔をくすぐった。

それでも、指先にほんのわずか残る温度が消えてくれなかった。

朝一番でメールの返信を終え、案件のスケッチをタブレットに描き込む。

次々に入ってくる取引先からの連絡、急ぎの修正依頼、ファイルの添付ミスへの謝罪。

時計の針は八時半。

窓の外には、スーツ姿の人々が絶え間なく歩いている。

旅館から戻ってから、もう三日が過ぎていた。

新幹線の切符も、ホテルのレシートも、机の引き出しの奥にしまい込んだ。

シーツは洗濯し、タオルもすべて新しいものに交換した。

カバンの中に落ちていた旅館のパンフレットだけが、なぜか捨てられずにいた。

午前十時、いつものカフェに足を運ぶ。

カウンターで注文したカフェラテを受け取り、奥の窓際に座る。

ノートパソコンを開き、画面を睨む。

隣の席には、就活中らしい男女が小声で話していた。

斜め向かいでは、サラリーマンが新聞を広げている。

蓮は淡々と、仕事のメールに返信し、クライアントへの資料をまとめた。

グラフィックの色合いが妙に濁って見える。

画面の中のブルーやグリーンに、あの夜の雨の色を重ねてしまう。

そんな自分に気づき、静かに息を吐いた。

忙しいのは、救いだ。

作業に没頭していれば、余計なことを考えずに済む。

誰にも会わずに、誰の名も呼ばずに、ただ自分の手を動かす。

蓮の人生は、そうやってここまで来た。

それでも、ふとした隙間に、夜の記憶が滑り込んでくる。

先日の旅館の露天風呂。

湯気の向こ
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