Home / BL / 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年 / 16.歌舞伎町のネオンの手前

Share

16.歌舞伎町のネオンの手前

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2026-01-07 13:50:09

軽トラックのエンジン音が、官舎の駐車スペースに低く響いていた。

荷台には、さっきまで自分の部屋にあった段ボールがぎっしり積まれている。ガムテープで十字に留められた箱の側面には、「本」「衣類」「母」「アルバム」と、黒いマジックの文字が並んでいた。風が吹くたび、段ボールの表面がかすかにざり、と鳴る。

「荷物の方は、俺らのトラックで先に行っちゃうんで」

作業服の男が、キャップを押さえながら言う。

「そちらは、後ろからついて来てもらえれば」

「了解です」

高瀬が答える。

「途中で迷子になんなよ」

「迷子になるほど遠くないですから」

運転手が笑う。軽い冗談に、誰もそれ以上突っ込まなかった。

陸斗は、荷台の段ボールを見上げた。そこにあるものは、すべて自分の生活の断片だ。官舎から切り離され、今から別の場所へ運ばれていく。荷台の鉄の枠が、妙に冷たく見えた。

「乗るぞ」

充の声に振り向く。

高瀬の車は、いつもの署の駐車場で見かける白いセダンだ。今日はスーツではなくジャンパー姿の高瀬が運転席に、充が助手席に乗り込もうとしている。後部座席のドアは、既に半分開いていた。

「すみません、お世話になります」

陸斗が言うと、高瀬は肩をすくめた。

「どうせ新宿方面だから、ついでだよ」

「ついでって距離じゃない気がしますけど」

三浦がぼそっと突っ込み、充が笑う。

「ほら、乗れ」

充に促され、陸斗は後部座席に乗り込んだ。

シートは少しだけタバコと芳香剤の匂いが混ざっていて、まさしく「大人の車」の匂いがした。窓ガラスには、指でなぞったような跡がうっすら残っている。誰かを何度も乗せてきた証だ。

ドアを閉めると、外の風の音がふっと遠ざかる。代わりに、車内特有のこもった静けさと、ラジオの微かな音が戻ってきた。

「シートベルト」

高瀬がバックミラー越しに言う。

「はい」

カチリ、と金属音を立ててベルトを留める。その音ひとつさえ、何かの区切りの合図み

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   18.ベッドと布団の分け前

    窓の外の光が、さっきよりわずかに赤みを帯びてきていた。段ボール運びと簡単な片づけを終えた頃には、午後と呼ぶには少し遅い時間になっている。窓の四角の中で、細切れの空がゆっくりと色を変えながら、ビルの影に押しつぶされそうに挟まれていた。「じゃ、寝るとこ決めるか」充が、腰に手を当てて言った。居間の真ん中には、まだいくつか段ボールが積まれている。その横に、官舎から運び込んだベッドのフレームとマットレスが立てかけられていた。床には、充が今まで使っていたマットレスと薄い布団も丸められている。「寝る…」その言葉を聞いて、陸斗は少しだけ背筋を伸ばした。今日ここに来てから気になっていたことだった。どこで寝るのか。どの部屋を何に使うのか。頭の片隅でずっと鳴り続けていた不安の音に、ようやく手を伸ばせるタイミングが来た感じがする。「この二部屋をどう使うか問題」充が、居間と奥の部屋を隔てる引き戸を指さす。「今、こっちがいちおうリビング兼俺の寝床だったわけよ」居間の片隅に丸められたマットレスを、足先で軽くつつく。「今日からお前もいるから、どっちかを完全に寝室にしちゃって、どっちかをリビングにした方がいいかもなって」「寝室…」奥の部屋に視線をやる。そこは、段ボールがいくつか運び込まれている以外は、まだ何も置かれていない。壁と床だけの、空っぽの六畳。窓もあるが、今はカーテンすらついていないため、外の薄暗い光がそのまま差し込んで、部屋全体を灰色にしている。「リビングをこっちにして、寝室を奥にするか」充が、居間の壁を軽く叩く。「それとも、逆。奥をリビング、手前を寝室。どっちがいいと思う」「…奥の方が、静かそうですけど」陸斗は少し考えてから答えた。居間の窓からは、路地の音が割とはっきり聞こえてくる。呼び込みの声、仕込みの音、遠くの笑い声。奥の部屋からは、さっき覗いた感じだと、それほど音は入ってきていないようだった。

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   17.狭い部屋と「ここでいい」の一言

    玄関を一歩踏み越えた瞬間、空気の匂いが変わった。官舎の、まだ父の洗剤や柔軟剤が残っていた匂いとは違う。ここには、少し湿った木の匂いと、排水口から上がってくるわずかな塩素の匂い、それに柔軟剤と、安い芳香剤の甘い匂いが混ざっている。窓を開けていない時間が長い部屋の空気の重さが、肌にまとわりついた。「狭いから、靴はそこらへんでちゃちゃっと脱いで」充がそう言って、先にスニーカーを脱いで上がる。玄関の段差は低く、靴を置くスペースもほとんどない。二人分の靴を並べたら、それだけでいっぱいになりそうだった。陸斗は、戸惑いながらも靴を脱いで、狭い土間に並べる。かかと同士が触れ合い、少しバランスが悪い。目の前には、小さなキッチンがあった。シンクとコンロが横一列に並び、その下に小さな収納。上には吊り戸棚。シンクのステンレスは、ところどころくもっていて、水垢の跡が白く縁取りになっている。流し台の端には、洗い終わったのかどうか微妙な皿やマグカップが数枚、重ねたまま伏せてあった。コンロは二口で、片方にはフライパンが置きっぱなしになっている。黒いフライパンの内側には、油が薄く残っているような光。コンロ周りの壁には、ところどころ茶色い飛び散りがあった。油だ。何度か拭かれてはいるが、取り切れずに残った跡が、小さな点々を作っている。「…」思わず息を吸い込む。油と洗剤と、何かの残り香が喉にかすかに引っかかった。キッチンの床から、奥に向かってフローリングが続いている。廊下というほどの幅はなく、腰をひねれば壁とキッチンに同時に肩が当たりそうだ。フローリングは安っぽい薄茶色で、ところどころに傷があった。物を引きずったときについたであろう線状の跡、何かを落としたのか、円形にへこんでいるところもある。「とりあえず、中入れ」充が奥へ歩いていく。フローリングが、きし、と小さく鳴る。足音がそのまま板に伝わっていくような感覚だ。廊下を抜けると、六畳ほどの部屋に出た。「こっちがメインの居間、っていうか、俺がだいたい転がってる場所」充が手をひらひらさせる。

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   16.歌舞伎町のネオンの手前

    軽トラックのエンジン音が、官舎の駐車スペースに低く響いていた。荷台には、さっきまで自分の部屋にあった段ボールがぎっしり積まれている。ガムテープで十字に留められた箱の側面には、「本」「衣類」「母」「アルバム」と、黒いマジックの文字が並んでいた。風が吹くたび、段ボールの表面がかすかにざり、と鳴る。「荷物の方は、俺らのトラックで先に行っちゃうんで」作業服の男が、キャップを押さえながら言う。「そちらは、後ろからついて来てもらえれば」「了解です」高瀬が答える。「途中で迷子になんなよ」「迷子になるほど遠くないですから」運転手が笑う。軽い冗談に、誰もそれ以上突っ込まなかった。陸斗は、荷台の段ボールを見上げた。そこにあるものは、すべて自分の生活の断片だ。官舎から切り離され、今から別の場所へ運ばれていく。荷台の鉄の枠が、妙に冷たく見えた。「乗るぞ」充の声に振り向く。高瀬の車は、いつもの署の駐車場で見かける白いセダンだ。今日はスーツではなくジャンパー姿の高瀬が運転席に、充が助手席に乗り込もうとしている。後部座席のドアは、既に半分開いていた。「すみません、お世話になります」陸斗が言うと、高瀬は肩をすくめた。「どうせ新宿方面だから、ついでだよ」「ついでって距離じゃない気がしますけど」三浦がぼそっと突っ込み、充が笑う。「ほら、乗れ」充に促され、陸斗は後部座席に乗り込んだ。シートは少しだけタバコと芳香剤の匂いが混ざっていて、まさしく「大人の車」の匂いがした。窓ガラスには、指でなぞったような跡がうっすら残っている。誰かを何度も乗せてきた証だ。ドアを閉めると、外の風の音がふっと遠ざかる。代わりに、車内特有のこもった静けさと、ラジオの微かな音が戻ってきた。「シートベルト」高瀬がバックミラー越しに言う。「はい」カチリ、と金属音を立ててベルトを留める。その音ひとつさえ、何かの区切りの合図み

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   15.官舎のドアが閉まる音

    朝の光は、いつもと同じようにカーテンの隙間から差し込んでいた。違うのは、その手前に積み上がった段ボールの壁だった。光は茶色い箱の角で切り取られ、床には長方形の影がいくつも並んでいる。陸斗は、その影の一本を枕代わりにしていた腕の上に感じながら、ゆっくりと目を開けた。昨日の夜、布団はもう畳んでしまった。ベッドは解体され、フレームだけが壁に立てかけられている。だから彼は、薄いマットレスの上に寝袋のように布団をかぶって眠った。背中が少し痛い。天井の白い塗装のひびやシミをぼんやり眺める。見慣れたはずの模様なのに、「ここでその模様を見るのは、今日が最後だ」と思った瞬間、胸のあたりがじわりと重くなった。「おはよ」台所の方から、眠そうな声がした。顔だけ横に向けると、キッチンとリビングの境目あたりで、充がコンビニのコーヒーの缶を片手に立っていた。髪は寝癖で少し跳ねている。黒いスウェットとシャツの裾から、かすかに腹が覗いていて、いつもの「夜の店の人」ではなく、ただの若い大人、という感じだった。「おはようございます」声が思ったより掠れている。喉が乾いていた。「起きれるか心配だったけど、意外と起きてるな」充があくびを噛み殺しながら笑う。「今日、引っ越しの日だし」「それでも寝坊するやつはする」そう言って、充はコーヒーを一口飲んだ。缶が唇に当たるかすかな音が聞こえる。甘ったるい香りが、弱く部屋に広がった。部屋の中をぐるりと見渡すと、改めて「出ていく」という現実が目に見える形でそこにあった。テレビ台の上には、もうテレビはない。代わりに、紐で縛られたケーブルとリモコンだけが取り残されている。壁際に立てかけられたベッドフレーム。ソファには粗大ごみシールが貼られ、ひどく場違いな赤い文字が目に刺さる。キッチンのカウンターの下には、ゴミ袋がいくつも並び、ペットボトルと缶が透けて見えている。冷蔵庫の中身はほとんど空で、昨夜、最後の牛乳を飲みきったときの冷たい感触を思い出した。「トラック、九時くらいに来るってさ」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   14.スイッチを落とす前に

    夜になって、蛍光灯の白い光が段ボールの山を均一に照らしていた。窓の外は完全に暗く、官舎の中庭に立つ街灯だけが、ぼんやりと黄色い輪を地面に落としている。さっきまで西日が伸ばしていた影は、すっかり消えていた。代わりに、部屋の中に生まれた新しい影がある。積み上げられた段ボールとゴミ袋が作る、不格好なシルエット。「今日のところは、このくらいで勘弁してやるか」充が、ガムテープを机代わりの段ボールの上に放り出しながら言った。指先には、何度もテープを切ったせいで、うっすらと粘着の感触が残っているように見える。「充分やりましたよ」陸斗は、床に置いたクッションにもたれかかりながら答えた。腕がだるい。肩も重い。身体の色んなところが、じんわりと自分の存在を主張している。荷物を持ったり、しゃがんだり立ち上がったりを繰り返したせいだ。疲労は確かにあるのに、妙に頭だけ冴えている感じが嫌だった。「飯、どうする」充が、腕時計をちらりと見る。「口に入れられるもんなら何でもいいなら、コンビニで一気に済ませるけど」「……外は、やめません?」窓の外を一瞥する。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくるような気がした。「さすがに、今からどっか行く元気ないです」「だろうな」充は、ため息まじりに笑う。「最後くらい、ちゃんとした飯食えよって言いたいとこだけど。ちゃんとした飯って、作るか外行くかの二択だしな。どっちもダルい」「ちゃんとしてなくていいです」陸斗は、少しだけ口の端を上げた。「疲れてるから、逆にコンビニが合ってるっていうか」「お前、意外と適当だな」「適当じゃないと、やってられないじゃないですか」それは半分冗談で、半分本音だった。父が死んでからの数週間、何もかもをきちんとしようとしたら、それだけで潰れてしまいそうだった。食事も睡眠も学校も、完璧なんて目指していられない。最低限生きていけるラインだけ守って、あとは「まあ、いっか」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   13.引き出しの底のアルバム

    西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status