تسجيل الدخول夜になって、蛍光灯の白い光が段ボールの山を均一に照らしていた。
窓の外は完全に暗く、官舎の中庭に立つ街灯だけが、ぼんやりと黄色い輪を地面に落としている。さっきまで西日が伸ばしていた影は、すっかり消えていた。代わりに、部屋の中に生まれた新しい影がある。積み上げられた段ボールとゴミ袋が作る、不格好なシルエット。
「今日のところは、このくらいで勘弁してやるか」
充が、ガムテープを机代わりの段ボールの上に放り出しながら言った。指先には、何度もテープを切ったせいで、うっすらと粘着の感触が残っているように見える。
「充分やりましたよ」
陸斗は、床に置いたクッションにもたれかかりながら答えた。
腕がだるい。肩も重い。身体の色んなところが、じんわりと自分の存在を主張している。荷物を持ったり、しゃがんだり立ち上がったりを繰り返したせいだ。疲労は確かにあるのに、妙に頭だけ冴えている感じが嫌だった。
「飯、どうする」
充が、腕時計をちらりと見る。
「口に入れられるもんなら何でもいいなら、コンビニで一気に済ませるけど」
「……外は、やめません?」
窓の外を一瞥する。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくるような気がした。
「さすがに、今からどっか行く元気ないです」
「だろうな」
充は、ため息まじりに笑う。
「最後くらい、ちゃんとした飯食えよって言いたいとこだけど。ちゃんとした飯って、作るか外行くかの二択だしな。どっちもダルい」
「ちゃんとしてなくていいです」
陸斗は、少しだけ口の端を上げた。
「疲れてるから、逆にコンビニが合ってるっていうか」
「お前、意外と適当だな」
「適当じゃないと、やってられないじゃないですか」
それは半分冗談で、半分本音だった。
父が死んでからの数週間、何もかもをきちんとしようとしたら、それだけで潰れてしまいそうだった。食事も睡眠も学校も、完璧なんて目指していられない。最低限生きていけるラインだけ守って、あとは「まあ、いっか」で流さないと、呼吸するタイミングさえ見失ってしまいそうだ。
「じゃ、コンビニ行ってくるか」
充が立ち上がる。
「何がいい」
「なんでもいいです」
「それが一番困るやつ」
言いながらも、充の足取りは玄関に向かっていた。
「とりあえず、おにぎりと弁当と、汁物。甘いもんは…今はいいか?」
「どっちでも」
「それも『なんでもいい』の親戚だろ」
ぶつぶつ言いながら靴を履く。玄関の扉を開けた瞬間、廊下からひやりとした空気が流れ込んできた。官舎特有の、少し古びたコンクリートの匂いと、誰かの料理の残り香が混ざった匂い。
「鍵、ちゃんとかけろよ。戸締まり」
「分かってます」
外に出ていく充の背中を見送り、ドアを閉めて鍵を回す。カチャリと金属の音がして、世界がまた一つ閉じた。
部屋に戻ると、静けさが急に濃くなった気がした。
さっきまで、段ボールを動かす音や、ガムテープを引きちぎる音、充の文句やため息が空気を揺らしていた。それがなくなると、時計の秒針の音がやけにはっきり聞こえる。
官舎の壁は薄い。隣の部屋から、テレビの音がうっすらと聞こえる。笑い声の効果音、バラエティ番組の派手な効果音。下の階からは、子どもの足音と、何かを叱る母親の声。
自分の部屋だけが、ぽっかりと空いた島みたいに静かだった。
リビングの真ん中には、段ボールが二つ並んでいる。一つは上に「本・雑誌」、もう一つには「キッチン」と書かれていた。今日の即席のテーブルにするのは、このどちらかだ。
「…こっちかな」
「キッチン」と書かれた方を選ぶ。中には、割れないように包んだ食器や、調味料類が入っている。多少重さはあるが、その分安定感もある。段ボールの上に、さっきまで使っていたコースターを一枚置いてみる。妙な光景だった。段ボールにコースター。テーブル代わりの箱に、形だけでも「普段の食事」の名残を乗せている感じがした。
床にクッションを二つ並べる。ひとつは自分用、もうひとつは充の分。並んだクッションが、小さな食卓の席みたいに見える。
そうやって準備をしているうちに、時間はゆっくりと流れていく。時計の針が、一分、一分と進んでいくのを、目で追うこともできた。
インターホンが鳴ったのは、十分ほど経ってからだった。
玄関まで行き、ドアチェーンを外して扉を開けると、充がコンビニのビニール袋を両手に提げて立っていた。冷たい外気が一緒に流れ込んでくる。頬に当たる空気の温度で、夜になってからさらに気温が落ちていることが分かった。
「重かった」
充がぼやく。
「なんか色々買っちまった」
「何買ったんですか」
「見てのお楽しみ」
ビニール袋をキッチンに運び込み、中身をカウンターに並べていく。
プラスチック容器に入った弁当が二つ。生姜焼き弁当と、ハンバーグ弁当。おにぎりが三つ。ツナマヨ、鮭、昆布。カップ味噌汁が二つ。ペットボトルの緑茶と、麦茶。そして、なぜかポテトサラダと唐揚げの小パックまである。
「…多くないですか」
並べられた戦利品を見て、陸斗は苦笑した。
「もう、何が正解か分かんなくなってきてな」
充は、ビニール袋を丸めながら肩をすくめる。
「最後だし、いいだろ。余ったら明日の昼飯」
「最後って…」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
本当の「最後」は、明日の夜だ。官舎で過ごす最後の夜。でも、「ここで二人で飯を食う夜」という意味では、これが最後かもしれない。明日はきっと、引っ越し前夜の慌ただしさで、それどころではなくなるだろう。
弁当のラベルを剥がし、電子レンジに入れる。冷えたプラスチックが、手のひらから熱を奪っていく感触。レンジのターンテーブルが回る音が、静かな部屋に妙に大きく響いた。
「どっち食う?」
充が、弁当を指さして聞く。
「どっちでも」
「またそれ」
呆れたように笑いながら、充は生姜焼き弁当を自分の方に寄せた。
「じゃ、俺こっち。肉が多そうな方」
「どっちも肉ですよ」
「細かいこと言うな。お前、こっちの方が好きそうだし」
ハンバーグ弁当を陸斗の前に置く。確かに、昔からハンバーグは好きだった。父が作ると、決まって真ん中が少し焦げていて、その焦げたところも含めて好きだった。
今、目の前にあるのはコンビニのハンバーグだ。均等な形、きれいな照り。ソースの香りが、プラスチックの蓋越しに鼻をくすぐる。
段ボールの上に、弁当とカップ味噌汁、ペットボトルを並べた。即席の食卓ができあがる。紙の箱がテーブルで、その上に乗せられたプラスチックの容器。それは、どこか安っぽくて、それでいて今の自分たちには不思議としっくりくる光景だった。
「いただきます」
二人で小さく手を合わせる。
箸を割るときの音が、カシャン、と軽く響く。割り箸の木の匂いと、湯気を立てる味噌汁の匂いが混ざる。ハンバーグのソースの甘辛い香り、生姜焼きのタレの香り。コンビニの匂いなのに、それが今夜だけはやけに「家の飯」の匂いに近く感じられた。
最初の一口を口に入れると、舌の上に熱と味が広がった。美味しい、とか、そうでもない、とか、そんな評価をする余裕はない。とにかく「味がする」という事実だけで、今は十分だった。
「なあ」
箸を動かしながら、充が言った。
「マジで最後くらい、ちゃんとした飯…って思ったんだけどな」
「だから、これでいいって言ってるじゃないですか」
ハンバーグを一口食べてから、陸斗は返した。
「外行っても、たぶん落ち着かないし。知らない店で、知らない人の声聞きながら食うより、ここで段ボール囲んでる方がマシです」
「段ボールを囲むって表現、すげえな」
「事実じゃないですか」
部屋を見渡せば、視界のどこを切り取っても段ボールの四角い輪郭が入り込んでくる。「父 服」「母」「アルバム」「本」と、黒いマジックで書かれた字が、所々で目に飛び込んでくる。
「でもまあ、分かる」
充は味噌汁を一口すすった。
「外でうまいもん食うより、こうやって適当に飯かき込んでる方が、落ち着くってときもあるしな」
「夜の仕事の前とかですか」
「そうそう」
彼は、弁当のご飯をかきこみながら頷いた。
「変にいいもん食うと、逆に疲れんだよ。体もだし、気持ちも」
「…分かるような、分からないような」
「そのうち分かるよ」
さらっと言われて、陸斗は箸を止めた。
「そのうち、って」
「うち来たらさ」
充は、ご飯粒のついた箸を宙で止めたまま、ふと視線をこちらに向ける。
「夜の飯、適当になる日も結構あると思う」
「いきなり現実的ですね」
「現実だろ。俺、夜仕事してるし」
彼の声には、少しだけ申し訳なさが滲んでいた。
「毎日『ただいまー』って帰ってきて、手の込んだ料理出てくる、みたいな生活は無理だよ。ドラマじゃねえんだから」
「そんなの期待してないです」
即答すると、充はほっとしたように笑った。
「よかった。じゃ、とりあえず、うちの生活の話を、飯食いながらちょっとしていい?」
「…はい」
箸を動かしながら、耳を澄ます。
「まず」
充は、人差し指を立てた。
「家賃。これは、とりあえず俺が払う」
「とりあえず…」
「今すぐ『折半しろ』って言う気はねえよ。高校生から家賃取るのは、さすがに鬼だと思ってる」
「思ってるんですね」
「一応な」
彼は、少しだけ笑いを含ませる。
「でも、光熱費とか、食費とかは、余裕出てきたらちょっとずつ出してもらえると助かる」
「余裕…」
その言葉が、胃のあたりにすとんと落ちた。
自分が「養われる側」になるのだ、という実感がじわじわと広がる。父と暮らしていたときも、自分は実質的には養われていた。それでも、それは「親に養われる」という、ごく当たり前の関係だった。今度は、血のつながりのない大人に、自分の生活を背負ってもらうことになる。
「バイトするかどうかは…お前次第だな」
充が続ける。
「高校卒業するまでに、一回くらい働いとくのは、悪くないと思うけど」
「バイト…」
今まで、考えたことがないわけではなかった。でも、父が何となく反対だった。「学校ちゃんと行ってろ」と言われ続けた。それに甘えて、バイトというカードを切らずにここまで来た。
「すぐに『やれ』とは言わねえよ」
充は、唐揚げをひとつつまんで口に放り込む。
「とりあえず、この春は環境変わるだけで相当しんどいだろうし。いきなり仕事増やしたら、潰れる」
「…」
「ただ、大学行くなら、どっかのタイミングでバイトしなきゃ、たぶん金がもたねえ」
ストレートな言葉だった。
父の保険金があることは知っている。それが、ある程度の期間は自分たちの生活を支えてくれるのだろう。でも、それに完全に乗っかって生きていくのは、どこか違う気がする。
「保険金はさ」
充が、少しだけ真面目な表情になる。
「できるだけ、手ぇつけねえでおきたいんだよな。…長谷さんも、たぶんそう思ってると思う」
「父が…」
保険の話を具体的にしたことは、あまりない。ただ、昔、「こういうの入ってるから」と、封筒をちらっと見せられたことが一度ある。それを見て、「父が死んだときの金の話をしている」という事実に、妙な居心地の悪さを感じた。
「全部、俺の稼ぎだけで回すってのも、正直きつい」
充は正直だ。
「だから、ある程度は保険金にも頼ると思う。でも、『これ使わないと今日飯食えない』みたいな状況にはしたくねえ」
「…はい」
「そのうち、お前がバイトなりなんなりして稼げるようになってきたら、その分俺がちょっと楽になるし。お互い様ってことで」
「お互い様…」
その言葉は、救いのようでもあり、重さのようでもあった。
「家事は?」
口が勝手に動いた。
「洗濯とか、掃除とか、料理とか」
「うち?」
充は、少しだけ考えるような表情をした。
「現状は、俺が気が向いたときにまとめてやる、って感じ」
「…たぶん、結構悲惨ですよね」
「自覚はある」
彼は、あっさりと認めた。
「だから、お前が来たら、ちゃんと分担しよ。ガキ扱いされたくねえなら、家のことは半分やれ」
「ガキ扱い…」
そこに少しだけ悔しさが混じる。
「ガキじゃないです」
「じゃ、洗濯機回せるな」
「回せます」
「風呂掃除は?」
「できます」
「トイレは」
「それも…」
「じゃ、いけるな」
充が満足そうに頷く。
「俺、夜いないこと多いからさ。朝のゴミ出しとか、洗濯とか、できればお前がやってくれた方が助かる。朝帰ってきてから全部やると、眠るタイミングなくなる」
「夜、いない…」
さっきから何度も聞いている言葉なのに、それが具体的な時間帯のイメージを伴って胸に落ちてくるのは、これが初めてだった。
「仕事って、何時からなんですか」
「日によるけど、だいたい夕方くらいから朝方」
「夕方から朝…」
「短い日もあるし、長い日もある。めちゃくちゃ暇な日もあるし、地獄みたいに忙しい日もある」
彼は、箸を置いてペットボトルの蓋を開けた。緑茶の香りがふわっと立ちのぼる。
「だから、夜の間は、基本いないと思っといて」
「…」
「怖いか?」
問いは、あまりにも率直だった。
少し考えてから、陸斗は正直に答えた。
「…怖い、っていうか」
言葉を選ぶ。
「変な感じです」
「変な感じ?」
「家に自分だけっていうのが、あんまりなかったので」
父は夜勤のある仕事だった。夜いない日もあった。でも、夜勤の前には必ず家にいて、出勤していく姿を見送っていた。朝には帰ってきて、「ただいま」と言う声と一緒に、玄関の扉が開く音が聞こえた。
これからは、自分が「おかえり」と言う側になるのかもしれない。あるいは、寝ていて気づかないこともあるのかもしれない。
「最初は、変だと思うだろうな」
充は、真面目な声で言った。
「でも、すぐ慣れるよ。人間、だいたい何にでも慣れるから」
「慣れたくないことにも慣れますよね」
口にしてから、自分で苦笑する。
「慣れたくないけど、慣れないと死ぬ」
「それも分かるな」
二人の間に、少し沈黙が落ちた。
箸の触れ合う音と、味噌汁をすする音だけが、その沈黙を埋める。蛍光灯の白い光が、容赦なく二人を照らしている。影がはっきりと出ない、均一な光。昼間の西日のようなドラマチックさはないけれど、その代わり、細かいものまで全部見えてしまう。
「鍵のことも、ちゃんと決めとこうな」
充が、ポテトサラダの蓋を開けながら言った。
「鍵?」
「うちの鍵も、ここの鍵も」
彼は、コンビニの袋から小さな封筒を取り出した。中には、金属の光がちらりと覗いている。
「合鍵、作っといた」
「いつの間に」
「昨日。三浦さんに鍵借りて」
そういえば昨日の夕方、一度充が外出して戻ってきた時間があった。そのとき、何をしていたか聞かなかった。
「ここの鍵の合鍵は、俺も一本持っとく。お前がうちに来たら、今度はうちの鍵の合鍵をお前に渡す」
金属の冷たい光が、蛍光灯に反射してきらりと光った。
「…なんか、変な感じですね」
「恋人同士か、って?」
「そこまで言ってないです」
即座に否定すると、充は声を立てて笑った。
「冗談だよ」
笑いながらも、指先で鍵を弄ぶ手つきは真剣だった。
「でもさ。鍵って、けっこうデカいよ」
「デカい?」
「簡単に言うと、『この人には自分の生活空間に勝手に出入りされてもいい』っていう許可だから」
言われてみれば、その通りだ。
「鍵渡すってことはさ。『いつ来るか分かんねえけど、お前が来るならそれでいい』って、半分認めてるようなもんだろ」
「…それ、やっぱり変じゃないですか」
「変だよ」
充はあっさりうなずいた。
「でも、その変さを、今は選ぶしかねえ。どっちにしろ、もう普通の家族構成じゃないんだからさ」
言葉の端に、自分たちの状況を俯瞰しているような冷静さが滲んでいた。
父を失い、血のつながりのない大人と一緒に暮らし始める。世間で「普通」とされる家族像からは、確かに外れている。その外れた場所で、どんなルールを作っていくかは、自分たち次第だ。
「…迷惑じゃないですか」
陸斗は、また同じ質問をしていた。
「俺のこと」
「さっきも聞かれたな、それ」
充は、少しだけ眉を上げる。
「迷惑なら、とっくに逃げてるよ」
「逃げるって」
「こんな面倒くさい手続きとか、引っ越しの段取りとか、わざわざやらねえ」
彼は、弁当の残りのご飯をまとめて口に運んだ。
「俺だって、自分の生活があるしさ。夜の仕事して、朝寝て、起きたら適当に飯食って、また仕事行って。そういう生活を続けようと思えば、続けられた」
「じゃあ、なんで」
「なんでだと思う」
問い返され、言葉に詰まる。
「…父に頼まれたから?」
「半分は」
充は、少し笑った。
「『陸斗を頼む』って言われたとき、正直『ふざけんな』って思ったけどな」
唐突に、その言葉を口に出されたような気がした。あの夜の路地の光景が、陸斗の知らないところでそこにある。
「でも、あれ、嘘で『はい』って言って、そのあと何もしなかったら、たぶん一生、寝つき悪い」
「…」
「だから、やる」
それは、とても単純で、とても真っ当な理屈だった。
「もう半分は」
充が、ちょっとだけ視線を逸らす。
「…俺が勝手にやりたかったからだよ」
「勝手に」
「長谷さんに拾われたの、俺もだからな」
彼は、ペットボトルを握りしめた手に少しだけ力をこめる。
「拾われた側が、今度は拾う側やってみるのも、悪くねえかなって」
その言葉に込められた意味を、全部理解できたとは思わない。それでも、自分のためだけじゃない何かが、彼の中にあるのだということは分かった。
「…それ、ちゃんとした飯よりちゃんとしてますね」
思わず、妙な言い方をしてしまう。
充は、一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「何それ」
「なんか、ちゃんとしたこと言ってるなって」
「ひでえな。たまには言うわ」
笑い声が、蛍光灯の光の下で少しだけ弾んだ。
そのあと、急に言葉が途切れた。
二人とも、箸を止めたまま、なんとなく段ボールの上の弁当を見つめる。さっきまでの会話の熱が、まだ空気の中に残っている。吐いた息の温度が、テーブルの上にかすかな霞みを残しているような感じ。
その沈黙は、気まずさだけでできているわけではなかった。
何かを共有したあとに訪れる、言葉にできない「余韻」のようなものが、その場を満たしている。無理に次の話題を探さなくてもいい、けれど完全には黙っていたくもない、そんな中途半端な温度。
「…そういえばさ」
しばらくしてから、充がぽつりと口を開いた。
「あの人、家じゃこんなんだったの?」
「あの人?」
「長谷さん」
「父ですか」
「そう。仕事のときしか知らねえからな」
彼は、箸で空になった唐揚げのパックをつつく。
「警察署では、ずっと『説教モード』のイメージだからさ。家帰ったら、やわらかくなるのか、それともさらにうるさくなるのか」
「…さらにうるさくなってました」
即答すると、充は笑った。
「だよな」
「朝とか、マジでうるさいですよ」
弁当の中のポテトをつまみながら、陸斗は言葉を続ける。
「目覚ましで起きないと、『起きろー』って扉ドンドン叩いて。無視してると、勝手に入ってきて布団剥がすんですよ」
「うざ」
「そう、うざいんですよ」
口にした「うざい」は、今までと少し違う響きを持っていた。苛立ちよりも、どこか愛着の方が強い。
「あと、カレー作りすぎ」
「カレー?」
「一回作ると、一週間くらいカレー続くんですよ。『作りすぎた』とか言って」
「あるあるだな、それ」
充が頷く。
「『これで二、三日分だな』って言いながら、鍋が風呂桶みたいになってるやつ」
「そう、それです」
思い出して、思わず笑いがこみ上げる。
「しかも、途中で味変しようとして、カレーうどんにしたり、ドリアにしたり…。結局全部カレー味」
「カレー地獄」
「でも、正直嫌いじゃなかったです」
言いながら、ハンバーグの最後の一口を口に入れた。
父の作るカレーの味と、今口の中にあるコンビニのソースの味は、全然違う。それでも、舌の奥と心のどこかで、その二つが少しだけ混ざる。
「休みの日は、無駄にテンション高いし」
「無駄に?」
「朝から掃除機かけて、『掃除は気合だ』とか言って。こっちは寝たいのに」
「ほんと、うるせえ親父だな」
充は、笑いながら言った。
「でも…」
笑いながらも、その声には少しだけ羨ましさが混ざっていた。
「そういう『うるせえ』がさ。今のうちに聞いといてよかったって思う日が来るんだろうな」
「…もう来てます」
自然と、その言葉が出ていた。
「今、『うるさくしろよ』って思っても、もう無理だから」
そこで、また少し沈黙が訪れた。
さっきとは違う種類の静けさだった。笑いと哀しみが、同じ場所で折り重なっている。どちらか一方だけに振り切ることができず、その中間で揺れている。
充は、ゆっくりと味噌汁を飲み干し、空になったカップを段ボールの端に寄せた。
「…悪いけどさ」
ふいに、声のトーンが少しだけ変わる。
「俺、夜は明け方まで仕事なんだよな」
「今夜もですか」
「今夜は、ここ泊まる。この官舎で」
「…あ、ですよね」
一瞬、頭がよく分からないまま反応してしまう。
「今日の夜は、仮に仕事あっても休む。さすがに。明日、朝からまた動かなきゃだし」
「明日…」
退去前の、最後の片づけと搬出。考えるだけで胃が重くなる。
「でも、明日以降はさ」
充は、空になった弁当の蓋をかちりと重ねる。
「基本的に、夕方から朝方まで、俺いない日が多い。週に何回かは、日をずらしたりシフト調整したりすると思うけど」
「はい」
「だから、夜の間は、お前一人で家にいる時間が増える」
その言葉は、さっきも聞いたことのある内容だった。でも、「ここで」「飯食いながら」「今後の話として」聞くのは、また違う重さがあった。
「鍵は、玄関のドアの内側にチェーンもあるから、ちゃんとかけろよ」
充が、玄関の方を顎で示す。
「知らないやつが来ても、絶対開けんな。宅配だろうが何だろうが、『今忙しいんで』って返せ」
「はい」
「俺が帰ってくるのは、日によるけど…朝四時とか、六時とか。もっと遅いときもある」
現実的な数字が並ぶ。
朝四時。外がまだ暗い時間。そんな時間に玄関の鍵が回る音を聞くのは、想像すると少し怖い。
「音で起きても、わざわざ出てこなくていいからな」
充は続ける。
「『ただいま』とか、『おかえり』とか、気力あるときだけでいい」
「…それ、気力あるときには言っていいってことですよね」
「もちろん」
彼は、少しだけ笑った。
「むしろ、言われたら嬉しい」
その一言が、妙にまっすぐに胸に刺さった。
「そういうのって、別に家族じゃなくても、嬉しいもんだしな」
「家族じゃないですか」
口が勝手に動く。
「ああ」
充は、一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「家族…になるのかもな」
「かも、って」
「『家族です』って胸張って言うには、まだちょっと日数足りねえだろ」
確かに、その通りかもしれない。
父が死んでからの日数と、充と一緒にいる時間。それらはまだ、家族と呼べるほど重なっていない。ただ、今、こうやって段ボールの上で弁当を食べながら、これからの生活の話をしている。十分に「奇妙な家族の予備軍」くらいにはなっている。
「…じゃあ」
陸斗は、空になった弁当を重ねながら言う。
「家族になるまでの間、よろしくお願いします」
少しだけ照れ隠しのような言い方になった。
充は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと笑った。
「おう」
その笑い方は、さっきまでのどれとも少し違っていた。からかいも、冗談も混じっていない。ただ、どこか安堵のようなものが見えた。
「家族になってからも、よろしくな」
「…それは、まだ分かんないです」
「ツンデレかよ」
「違います」
くだらないやりとりを交わしながら、二人で空の容器を片づける。
プラスチックの弁当箱をまとめてゴミ袋に入れ、箸とカップ味噌汁の容器も一緒に放り込む。段ボールの上を一通り拭き、ペットボトルを端に寄せる。
食べ終わったあとには、疲労だけでなく、妙な満腹感と、少しだけ心のどこかが満たされたような感覚が残った。
蛍光灯の白い光が、まだ段ボールだらけのリビングを照らしている。その真ん中で、即席の食卓は役目を終え、段ボールは再びただの箱に戻っていた。
それでも、たった今この上で交わされた会話と、流れた沈黙の重さは、紙とガムテープだけでできた箱の中に、うっすらと染み込んでいる気がした。
玄関を一歩踏み越えた瞬間、空気の匂いが変わった。官舎の、まだ父の洗剤や柔軟剤が残っていた匂いとは違う。ここには、少し湿った木の匂いと、排水口から上がってくるわずかな塩素の匂い、それに柔軟剤と、安い芳香剤の甘い匂いが混ざっている。窓を開けていない時間が長い部屋の空気の重さが、肌にまとわりついた。「狭いから、靴はそこらへんでちゃちゃっと脱いで」充がそう言って、先にスニーカーを脱いで上がる。玄関の段差は低く、靴を置くスペースもほとんどない。二人分の靴を並べたら、それだけでいっぱいになりそうだった。陸斗は、戸惑いながらも靴を脱いで、狭い土間に並べる。かかと同士が触れ合い、少しバランスが悪い。目の前には、小さなキッチンがあった。シンクとコンロが横一列に並び、その下に小さな収納。上には吊り戸棚。シンクのステンレスは、ところどころくもっていて、水垢の跡が白く縁取りになっている。流し台の端には、洗い終わったのかどうか微妙な皿やマグカップが数枚、重ねたまま伏せてあった。コンロは二口で、片方にはフライパンが置きっぱなしになっている。黒いフライパンの内側には、油が薄く残っているような光。コンロ周りの壁には、ところどころ茶色い飛び散りがあった。油だ。何度か拭かれてはいるが、取り切れずに残った跡が、小さな点々を作っている。「…」思わず息を吸い込む。油と洗剤と、何かの残り香が喉にかすかに引っかかった。キッチンの床から、奥に向かってフローリングが続いている。廊下というほどの幅はなく、腰をひねれば壁とキッチンに同時に肩が当たりそうだ。フローリングは安っぽい薄茶色で、ところどころに傷があった。物を引きずったときについたであろう線状の跡、何かを落としたのか、円形にへこんでいるところもある。「とりあえず、中入れ」充が奥へ歩いていく。フローリングが、きし、と小さく鳴る。足音がそのまま板に伝わっていくような感覚だ。廊下を抜けると、六畳ほどの部屋に出た。「こっちがメインの居間、っていうか、俺がだいたい転がってる場所」充が手をひらひらさせる。
軽トラックのエンジン音が、官舎の駐車スペースに低く響いていた。荷台には、さっきまで自分の部屋にあった段ボールがぎっしり積まれている。ガムテープで十字に留められた箱の側面には、「本」「衣類」「母」「アルバム」と、黒いマジックの文字が並んでいた。風が吹くたび、段ボールの表面がかすかにざり、と鳴る。「荷物の方は、俺らのトラックで先に行っちゃうんで」作業服の男が、キャップを押さえながら言う。「そちらは、後ろからついて来てもらえれば」「了解です」高瀬が答える。「途中で迷子になんなよ」「迷子になるほど遠くないですから」運転手が笑う。軽い冗談に、誰もそれ以上突っ込まなかった。陸斗は、荷台の段ボールを見上げた。そこにあるものは、すべて自分の生活の断片だ。官舎から切り離され、今から別の場所へ運ばれていく。荷台の鉄の枠が、妙に冷たく見えた。「乗るぞ」充の声に振り向く。高瀬の車は、いつもの署の駐車場で見かける白いセダンだ。今日はスーツではなくジャンパー姿の高瀬が運転席に、充が助手席に乗り込もうとしている。後部座席のドアは、既に半分開いていた。「すみません、お世話になります」陸斗が言うと、高瀬は肩をすくめた。「どうせ新宿方面だから、ついでだよ」「ついでって距離じゃない気がしますけど」三浦がぼそっと突っ込み、充が笑う。「ほら、乗れ」充に促され、陸斗は後部座席に乗り込んだ。シートは少しだけタバコと芳香剤の匂いが混ざっていて、まさしく「大人の車」の匂いがした。窓ガラスには、指でなぞったような跡がうっすら残っている。誰かを何度も乗せてきた証だ。ドアを閉めると、外の風の音がふっと遠ざかる。代わりに、車内特有のこもった静けさと、ラジオの微かな音が戻ってきた。「シートベルト」高瀬がバックミラー越しに言う。「はい」カチリ、と金属音を立ててベルトを留める。その音ひとつさえ、何かの区切りの合図み
朝の光は、いつもと同じようにカーテンの隙間から差し込んでいた。違うのは、その手前に積み上がった段ボールの壁だった。光は茶色い箱の角で切り取られ、床には長方形の影がいくつも並んでいる。陸斗は、その影の一本を枕代わりにしていた腕の上に感じながら、ゆっくりと目を開けた。昨日の夜、布団はもう畳んでしまった。ベッドは解体され、フレームだけが壁に立てかけられている。だから彼は、薄いマットレスの上に寝袋のように布団をかぶって眠った。背中が少し痛い。天井の白い塗装のひびやシミをぼんやり眺める。見慣れたはずの模様なのに、「ここでその模様を見るのは、今日が最後だ」と思った瞬間、胸のあたりがじわりと重くなった。「おはよ」台所の方から、眠そうな声がした。顔だけ横に向けると、キッチンとリビングの境目あたりで、充がコンビニのコーヒーの缶を片手に立っていた。髪は寝癖で少し跳ねている。黒いスウェットとシャツの裾から、かすかに腹が覗いていて、いつもの「夜の店の人」ではなく、ただの若い大人、という感じだった。「おはようございます」声が思ったより掠れている。喉が乾いていた。「起きれるか心配だったけど、意外と起きてるな」充があくびを噛み殺しながら笑う。「今日、引っ越しの日だし」「それでも寝坊するやつはする」そう言って、充はコーヒーを一口飲んだ。缶が唇に当たるかすかな音が聞こえる。甘ったるい香りが、弱く部屋に広がった。部屋の中をぐるりと見渡すと、改めて「出ていく」という現実が目に見える形でそこにあった。テレビ台の上には、もうテレビはない。代わりに、紐で縛られたケーブルとリモコンだけが取り残されている。壁際に立てかけられたベッドフレーム。ソファには粗大ごみシールが貼られ、ひどく場違いな赤い文字が目に刺さる。キッチンのカウンターの下には、ゴミ袋がいくつも並び、ペットボトルと缶が透けて見えている。冷蔵庫の中身はほとんど空で、昨夜、最後の牛乳を飲みきったときの冷たい感触を思い出した。「トラック、九時くらいに来るってさ」
夜になって、蛍光灯の白い光が段ボールの山を均一に照らしていた。窓の外は完全に暗く、官舎の中庭に立つ街灯だけが、ぼんやりと黄色い輪を地面に落としている。さっきまで西日が伸ばしていた影は、すっかり消えていた。代わりに、部屋の中に生まれた新しい影がある。積み上げられた段ボールとゴミ袋が作る、不格好なシルエット。「今日のところは、このくらいで勘弁してやるか」充が、ガムテープを机代わりの段ボールの上に放り出しながら言った。指先には、何度もテープを切ったせいで、うっすらと粘着の感触が残っているように見える。「充分やりましたよ」陸斗は、床に置いたクッションにもたれかかりながら答えた。腕がだるい。肩も重い。身体の色んなところが、じんわりと自分の存在を主張している。荷物を持ったり、しゃがんだり立ち上がったりを繰り返したせいだ。疲労は確かにあるのに、妙に頭だけ冴えている感じが嫌だった。「飯、どうする」充が、腕時計をちらりと見る。「口に入れられるもんなら何でもいいなら、コンビニで一気に済ませるけど」「……外は、やめません?」窓の外を一瞥する。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくるような気がした。「さすがに、今からどっか行く元気ないです」「だろうな」充は、ため息まじりに笑う。「最後くらい、ちゃんとした飯食えよって言いたいとこだけど。ちゃんとした飯って、作るか外行くかの二択だしな。どっちもダルい」「ちゃんとしてなくていいです」陸斗は、少しだけ口の端を上げた。「疲れてるから、逆にコンビニが合ってるっていうか」「お前、意外と適当だな」「適当じゃないと、やってられないじゃないですか」それは半分冗談で、半分本音だった。父が死んでからの数週間、何もかもをきちんとしようとしたら、それだけで潰れてしまいそうだった。食事も睡眠も学校も、完璧なんて目指していられない。最低限生きていけるラインだけ守って、あとは「まあ、いっか」
西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」







