LOGIN「鉄血令嬢」――意志を貫く豪胆さを持つ鉄面皮の令嬢。それはゼーレ神聖帝国の名門ロートリンゲン大公家の令嬢レオノーレの通り名だ。 愛嬌のカケラもなく、笑わない令嬢レオノーレの政略婚約は、ある夜会の場で、皇太子ジークフリートによって一方的に破棄、国外追放にされる。 屈辱を押し付けられた彼女は、ガリカ王国大使館の外交顧問への「栄転」という名の左遷に。 だが、敗北も屈辱も、彼女にとっては次なる戦いの糧に過ぎない。 今、愛と陰謀、戦と激情が交錯する壮大なロマンス・ファンタジーの幕が上がる。
View Moreゼーレ神聖帝国、リーベンブルク宮殿。
ここ数百年にわたり帝位を守り続ける白亜の宮殿に、今宵、波乱の鐘が鳴ろうとしている。領邦諸侯と貴族たちが大広間に集い、年に一度の「帝国統治祭」の開会を飾る夜会が始まる。
楽団が演奏を始め、身分の低い者から順に貴族が入場し始めた。
「殿下は、またエスコートに来ないようだな」
「想定どおりです。今に始まったことではありませんから」 皇太子の婚約者・レオノーレ・フォン・ロートリンゲン=アイゼンシュタットは、父・コンラート宰相に無味乾燥な口調で答える。その鋭い紫紺の瞳からも、感情はうかがえない。彼女は父にエスコートされて入場する。
スカイブルーのシンプルなドレスを纏い、銀白の長髪をなびかせたレオノーレ。その姿は、まるで冷たい彫像のように美しかった。それは長身でスリムな体形を際立たせ、冷たい美貌とあいまって、ファッションモデルであるかのようだ。それでいて、静かで 周囲が
後から入場してきた皇帝マクシミリアンは、この様子を見て目を丸くし、言葉を失っている。
片や皇后アマーリエは、薄い笑いを浮かべていた。「皇太子殿下。それは両陛下のご承認あってのことでしょうか?」
レオノーレは、眉一つ動かさずに淡々と言葉を紡ぐ。「黙れ! 女の分際で、俺に逆らう気か!」
「殿下の独断だと? 次期皇帝の婚姻は国の大事。これを陛下の承認なく殿下が専断なさってもよろしいのですか?」 喚く皇太子と対照的に、あくまでも冷静にレオノーレは問い質す。「女は男の言うことを素直に聞いていればいいんだ! それが女の美徳というものだ」
「まったくもって非論理的ですね。殿下は、従順と盲目をはき違えておいででは?」 辛辣な言葉が、感情に乏しい氷の美貌を引き立たせる。「そればかりではない。きさまは、ここにいるリーベンブルク公爵令嬢に何度も難癖をつけた挙句、
「難癖とは、ご令嬢の都合の良い偏見では? 私は公爵令嬢にあるまじきふるまいに、何度かご忠告申し上げただけです。剃刀なども、送り主へ返送したまでですが……」
「おのれ、口先ばかりのでまかせを……詭弁で逃れられると思うな! 犯罪に対して、まったく罪の意識がないなら、我にも考えがある。 きさまを国外追放の刑に処す!」「それも殿下の独断ですか?」
「悪いか! これは次期皇帝の決定である!」一瞬の気まずい沈黙……。
「御意に従います、殿下」
レオノーレは一切表情を変えず、悠然と答える。 会場がざわつく中、彼女は視線だけをわずかに下げた。ジークフリートはニヤリと酷薄な笑みを浮かべる。貴族たちへ向き直ると――、
「代わって、我はリーベンブルク公爵令嬢フローラと婚約することを、ここに宣言する!」と意気盛んに告げた。 「謙虚に務めます」と、芝居がかった声でフローラが応える。諸侯たちがざわめく。
「鉄血令嬢が……」「失脚か?」「帝国の外交は大丈夫なのか?」という声が交錯する。一部の軍官や外政担当者の顔は青ざめているが、口をつぐんでいる。
皇帝マクシミリアンは、皇后アマーリエに向かって口をパクパクさせている。けれども皇后は意に介さず、裏のありそうな笑みを浮かべている。 長男ジークフリートの幼馴染フローラは、皇后のお気に入りでもあった。そもそも、レオノーレの婚約は、皇帝マクシミリアン主導で決まったものだ。皇后は一度折れたが、不満を抱えていたのだろうか?
騒動が冷めやらぬ中、レオノーレは無言で退席した。 その背を見て、「鉄血令嬢」の真の姿を知る者たちに不安がよぎる。☆ ★ ☆
リーベンブルク宮殿の一室。
父コンラートとレオノーレは一時退いた。コンラートは、疲れた様子でドサリとソファーに腰を下ろすと、頭を抱えた。
「バカ皇子めが! あの様子では、婚約破棄について一切事前調整していないだろう。ローラを有責とする根拠もないというのに! しかも、司法総局をすっ飛ばして、独断で罪を宣告するとは! 皇太子が率先して法秩序を無視してどうする! 次期皇帝として失格だ! そもそも、ローラが犯罪を犯すはずがないだろう!」 数々の不満が口をついて出る。冷徹な戦略家にあるまじき動揺ぶりだ。レオノーレは対面に背筋を伸ばして座り、父の姿を眺めていた。すこしだけ目じりを下げながら。
「内容が空虚であれ、権威ある者の決断が下されたのです。衆人環視の中で発言した以上、帝国の面目にかけて取り消せようはずもありません。もはや、賽は投げられたのです」 と、静かに客観的な事実を述べる。その言葉で、コンラートは一気に現実に引き戻された。まじまじと娘を見つめる。
「……それもそうだな。しかし、ローラは侮られたままでいいのか?」 「たかだか国外追放です。命を懸けて抗うほどのことではありません」「そうか……ローラにしては、引き際が良すぎるようだが?」
「身一つで退くつもりはありません。私の息がかかった者は、すべて引き上げます」一呼吸おいて……、
はーっ、とコンラートは大きなため息をつく。 「ローラが帝国に貢献する義理がなくなったのは確かだ。……しかし、ローラの力がなくなるのは大きな痛手だ。痛すぎる。 表立ってはいないから、宮中伯や幹部級の官僚には想像もできないだろうが……まして、実務を顧みない殿下なら、なおさらだ」コンラートは視線を落とし、床をボーっと見つめる。
やがて目をつぶり、黙考した……。 寸刻ののち、再び口を開く。「当面は、外交顧問としてガリカ王国の大使館へ滞在するのがいいだろう。そこならば、私の目も届く。ローラも土地感があるだろう?」
コンラートは、過去に長年ガリカ大使を務めており、レオノーレも少女時代の数年を同国ですごしていた。
「私も、そう考えていました」 「……すまないな。こんなことしかできなくて」 「いえ。これは、むしろ好機です。私はもう、殿下に遠慮して“装う”必要がなくなりますから」それは、追放に等しい“栄転”だった。ガリカ王国へは“亡命”的に派遣されるに過ぎない。口にこそ出さないが、二人の共通了解だった。
だが、レオノーレの目には、もう光が戻っていた。☆ ★ ☆
帰り際、廊下でフローラと邂逅した。もっとも、待ち構えていた可能性も否定はできないが。
彼女はレオノーレを呼び止め、勝ち誇ったように囁く。「人形みたいに冷たい女より、ちょっとくらい泣いたり笑ったりできる女のほうが、男心をつかむものよ。その程度のことが、わからないの?」
「……貴女のような小芝居は、私には不要です。それを人は、”あざとい”と言うのです──これにて失礼します」 フローラの反応も待たずに、彼女はクルリと振り返る。「天の加護と、光ある道があなたにありますように」
と、フローラの目も見ずに付け足しのように述べると、レオノーレは泰然として去っていく。宮殿の馬車寄せでは、見送りに出た若い近衛士官たちが、遠くから敬礼した。
レオノーレはそれに微かに頷き、馬車に乗り込む。 馬車の扉が閉まる音が、静まり返った夜の宮殿に響いた。馬車の窓の外に、冷たい夜風が吹いていた。
帝都の石畳に蹄の音が反響し、静けさの中にだけ、微かな余韻を残す。 レオノーレは無言のまま、揺れるカーテン越しに空を見上げた。 ──星の位置が、昔と少しだけ違う。 あの国の空は、もっと広く澄んでいた。少女だった日々。慣れない言葉、異国の風。 けれどあの地では、誰よりも自分が“自分らしく”いられた気がした。レオノーレは、ガリカ王国へ思いをはせる。
十年前──彼女がまだ少女だったころ。
あの宮廷庭園で出会った、名も知らぬ少年。 優しさに満ちた眼差しと、幼いのにどこか威厳を帯びていた。それでいて、ちょっと腕白で意地悪だった。
何度か向かってきたが、一度も負けてやらなかった。――今思えば、大人げなかったかな。
でも、前世の記憶があるとはいえ、自分も子どもだった。感情は、どうしても体に引きずられてしまう。
もし、彼がまだあの国にいるのなら── 今度は私が名乗る番になるのかな……?ガリカ王国・ヴェルル城宮殿。 シャルルⅢ世・ド・サン=クレール国王は、王宮枢密院において重臣らとゼーレ神聖帝国の使節団に対する対処方針を会議中だった。 国王シャルルⅢ世の傍らには、今なお政治の実権を握る母・王太后ブランシュが鎮座していた。 前王の早世に伴い、彼が王に即位したのが一二歳のとき。前王の遺言によりブランシュが摂政として政務を取り仕切った。 摂政の座こそ退いたが、ブランシュの影響力は今なお王宮に絶大である。 母の深い愛を理解しつつも、シャルルは、常に実権を手にしてきた母には頭があがらない。 それが自らの「王としての自由」を奪っていることを自覚しているが、誰にも打ち明けられずに苦悩していた。 外交庁長官・ヴァンサン=ルイ・ド・モントレイユは、ガリカ王国の核心的な問題を包み隠さず提起した。「アルビオン連合王国はヴォヘルン王国との同盟を探っている。おそらくは、かの国にエリュセア戦線を任せることで、自らは植民地戦争に集中するのが狙いだろう。ならば、ヴォヘルン王国との関係は切るべきだ。 植民地競争に関して、我が国は後手に回っている。これ以上の後退は世界の覇者からの脱落を意味する」「……つまり、“敵の敵は味方”というやつですか?」 若手出席者の一人がからかい気味に言った。 途端に、冷徹に断じたモントレイユ長官の眼鏡がギラリと光を放つ。 ――ここは理論をもって議論する場だ! そんな言外の圧力がある。「まあ、いいではないか。そういう言い方も、当たらずと雖も遠からずだ。 結論を言えば、ヴォヘルン王国には、ゼーレ神聖帝国をもって当たらせるのだろう。かの女帝も、戦の匂いには目を輝かせるだろうな」 と、ギヨーム=バティスト・ド・ラ・ヴァレット=アルシーヌ王立軍事参議会議長がとりなした。金の肩章と多数の従軍勲章を飾った軍務礼装姿は、いかにも威厳に満ちている。 「しかし、帝国とは何百年も対立してきたのですよ。戦争になったことも数しれない。そんな国と、今さら同盟を組めるとでも?」
父コンラート夫妻に子どもは一〇人いたが、息女は三人だけ。武術の才能があったのはレオノーレだけで、おまけに頭もよかったので、彼女は溺愛された。 武門貴族の家に生まれながら、父コンラートは珍しく文官の道を選んだ。ガリカ王国大使として実績を積み、現在は宰相だ。 長兄アレクシウスは父と同じ外交官のエリートコースを歩んでいる。 ブルニア系ロートリンゲン家で叔父のレオンハルトは、宮廷軍事庁長官。 次兄のルーベルトは、宮廷軍事庁参謀総監と帝国近衛軍第一軍団司令官を兼ねる。 レオノーレは、幼いころから、これら優秀な父、叔父、兄たちに付いて回った。海外交渉の場までも。ほかでは望めない経験を積んだのだ。 そして、彼らを陰ながら支え、掲げた意見を絶対に曲げない彼女の姿を評して、人々はこう呼んだ――「鉄血令嬢」と。 ☆ ★ ☆ 帝国統治祭の翌日、リーベンブルク宮殿では内密の会議が招集された。 レオノーレの息のかかった外交官・軍人・法官の中堅官僚たちは、皇太子の《暴挙》に頭を抱え、混乱の渦中にあった。 「ロートリンゲン大公令嬢は、本当に国外追放を実行に移すつもりか? 今からでも、殿下に謝罪すれば……」「おまえ、《鉄血令嬢》の意味をわかって言っているのか? 彼女は『御意にしたがいます』と言った。その言葉は、バカ皇子の何倍も重い」「我らは、直接間接を問わず、《鉄血令嬢》に多くを頼っていた。今後、帝国の行政はどうなる? 軍事・外交に留まる話ではないぞ」 結局、会議は不安を高めただけで、何の成果もなかった。 軍部でも同様の動きがあるようだった。 しかし、数日が過ぎて……、 特に優秀な官僚たちには、レオノーレ名義でガリカ王国大使館からの招聘文書が届いていた。 そのほかの中核を担う官僚たちには、ロートリンゲン大公国への出仕を勧誘する文書が届く。 いずれも、家族が生活する宿舎は完備している。福利厚生は、むしろ王都よりも環境が整っているくらいだ。 程なくして――、
皇太子ジークフリートは、今日も顔を紅潮させてアレクシウスの部屋を訪れると、机を叩かんばかりの勢いで訴えた。「ロートリンゲン卿。交渉はいつになったら始まるのだ。我の出番がまったくないではないか。まさか、わざと我を差し置いているのではあるまいな」 アレクシウスは、舌打ちしたいのを耐えながら、昨日と同じ答えを繰り返す。「殿下。何度も申し上げているとおり、外交交渉を成功させるには、必要な段取りを踏まねばなりません。一番身分が高い殿下の出番は、本交渉のときのみ。 今は、水面下での情報収集と、事務レベルの非公式な接触を通じて、相互に《落としどころ》を探りあっている段階。へたに動かれて、こちらの情報が漏れても困ります。 準備が整うまで、殿下は社交活動にでも勤しんでいてください。……せっかくヴァイセンベルク公爵令嬢も連れてこられたのですから、彼女の出番も作ってあげればよろしいのではないですか?」 言い終わったときには、アレクシウスの眉間に深い皺がよっていた。「おお! 社交活動とは、いい考えだな。フローラもさぞ喜ぶことだろう」 ジークフリートは、パッと目を輝かせると、勢いよく部屋を出て行った。 うまく乗せられて情報を漏らすな、と本来ならば釘を刺したかったところだが、気力が続かなかった。 アレクシウスは、机に肘をつくと、こめかみを押さえて項垂れた。「まったく……頭の痛いことだ……」 社交活動といっても、舞踏会や晩餐会、オペラやコンサートの鑑賞、狩猟会や乗馬会、上流貴族の私邸で催されるサロンなど多様だ。 さすがに、皇太子を相手に勝手に行けとは言えない。アレクシウスは手配を部下に丸投げする。結果、二人はオペラ鑑賞へ行くことになった。 ☆ ★ ☆ レオノーレは、《夜の従僕》や使い魔を使って独自に情報収集するとともに、他の外交事務官たちとともに、ガリカ王国の事務官への非公式な接触を試みていた。だが、少し困ったことになっていた。 外交顧問として事務官たちに同行し
この世界は、前世の近世ヨーロッパの状況に似ている。 既に蒸気機関は発明されており、応用が進みつつあるところだ。 前世の例を踏襲するならば、これから本格的に産業革命が進行する。 その結果、経済活動が第一次産業から第二次産業へと大きくシフトする。それに伴って、社会構造も大きく変わる。 その変化は、王・特権身分(貴族や聖職者)と封建制度を中核とするAncien Régime(旧体制)を大きく脅かす。 対応を誤れば、ロートリンゲン大公家の者とて断頭台の露と消えかねないだろう。 前世の例からみて、数十から百年後には、フランス革命ににた社会変革が発生してもおかしくない。 つまりは、身分などは体制に支えられなければ、ただの名目だ。 この場合、ものを言うのは財産である。 前世において、MBAで得たスキルは多岐にわたる。 経営戦略、マーケティング、財務・会計、組織論・人事管理、オペレーション管理、統計・データ分析、起業・ベンチャー経営、交渉・プレゼン力など……。 さらには、政治学、行政学、法務などの知識も併せて学んだ。 どうせ、いつかはバレてしまうし、来るべき社会変革に備えて、財産は蓄えておくべき。 よって、彼女は幼少期から前世の知識を出し惜しみしなかった。 注意すべきは、公私を明確に分けること。 ロートリンゲン大公国の財産と、レオノーレの個人財産は明確に分けた。大公国や帝国が倒れても、個人財産が守れるように腐心する。 会社制度は始まっていたので、レオノーレは自らが経営する会社としてノイエ・オリジン商会を設立した。 会社へ知識・技術を提供し、これを通じて大公領へ貢献することにする。 この世界ではありえない知識を次々と開示するレオノーレを、人々は神童と呼ばざるを得なかった。 様々な事業を立ち上げ、現在の個人年収は大公領の税収に迫るほどになった。 十数年前からまき続けた種は次々と花開き、大公領は、今や空前絶後の活況を呈している。ノイエ・オリジン商会も、倍々ゲームで成長し