LOGIN「来月には凛ちゃんも3歳になるのよ。みんなでお祝いしましょうね。」
「はい!ありがとございます。」 そうか、今は4月か。前世で事故に遭ったのは3月だったから少し時間はズレているらしい。 母がいる日は母と離れで過ごし、出掛ける日は母屋で過ごす日々の中で、更に状況が分かってきた。 母にはお互いに想い合う恋人がいた。 私を身籠った事をきっかけに、父は海外に住む家族に結婚の報告をするために帰って行った。その途中で事故に遭い長い間昏睡状態だったようだ。意識は戻ったものの今だに寝たきり状態らしい。 母は経済的に自立して、父を養えるようになって結婚する事を目指している。 私にはあの男ではなく、本当の父がいたと言うことを知って救われたような気がした。 前世では、実の父親にあんな虐待をされているのだと思っていた。なぜあそこまで非情になれるのか、あれほど嫌われるほど自分は駄目な子供なのか。そんな思いがどんどん自分を卑屈にしていった。 何だ、そんな事を思う必要は無かったのか。 そもそも虐待などするほうが間違っている。ただ、当事者はそれを理解できないほどに心が弱ってしまっている。 今世を得た私は、もう間違わない。 それにしてもますます解らない。母はなぜあんな男と結婚したんだ。 5月に入り、新緑の頃となった。春の霞がかった空が爽やかな青色となり、若桜家の庭の樹木も鮮やかな緑があちこちに芽吹いていた。 私の誕生日会を翌週に控えていた週末に、祖父母の友人夫妻が孫たちを連れて遊びに来た。 子供たちは、9歳と5歳の男の子と、4歳の女の子の三人だった。 以前にも会った事があるらしく、その日も一緒に遊ぼうと誘ってくれた。 私は、大きなお兄様と小さなお兄様とお姉様という意味で、 おお兄ちゃま、ちい兄ちゃま、お姉ちゃまと呼んでいた。それ以外の記憶はほとんど無いためちょっと不安になりながら応接室に入って行った。すると入るなり、 「凛ちゃん、こんにちは。」 お姉ちゃまが、一番に声を掛けてくれた。 「はい!お姉ちゃま、こんにちは!」 と元気よく挨拶すると、 「今日もかわいいわぁ!お人形さんみたい」 と言って駆け寄ってきて抱っこしようとした。 確かに今日の私は、ツインテールの髪にそれぞれリボンを結び、淡いピンクのワンピースを着て、更に白いフリルたっぷりのかぼちゃパンツを履いていたので、着せ替え人形のような姿だった。 これは叔母さんの好みの服で、正直恥ずかしい。 お姉ちゃまは、さすがに抱っこ出来ずに手を繋いでみんながいるソファまで連れて行ってくれた。祖母が両手を伸ばして、 「おいで、凛華。」 と、呼んでくれたが、おお兄ちゃまが 「大丈夫ですよ。」 と言って、軽々と抱き上げて座らせてくれた。祖母はその様子を見て、 「まぁまぁ、颯生君はいいお兄ちゃんねぇ。ありがとう。」 と笑顔でお礼を言った。 颯生君?祖母のひと言に驚いておお兄ちゃまの方を見た。 頬はふっくらとして少年らしい可愛らしさがあるものの、少し吊り上がった切れ長の目と通った鼻筋や薄めの唇はまさしく颯生だった。ではちい兄ちゃまは?と彼の顔を見ると、はっきりとした二重の大きな目とすっきりと鼻筋が通った整った顔立ちの少年は翔月だった。と言うことは、お姉ちゃまは彩愛(あやめ)さん。彩愛さんは颯生さんの妹で、海外の大学を卒業した後そのまま大学の研究室に残って医学博士への道を目指していた。 颯生さんが何かと気にかけてくれていたのは、こんなに小さい頃から知っていたからだったんだ。 でも、だとしたら夫の翔月は?彼は楓香こそが若桜家の娘だと信じていた。 記憶に無かった事が分かったり、新たな疑問が浮かんだり、中々刺激の多い今世の始まりとなった。「皆さん面と向かっては仰らないでしょうけど、東雲家の令嬢は共に成人を祝ってくれる友人の一人もいないんだわって思われますわよ。」「そうかしら?それで、何のご用でさっきからここに居座っていらっしゃるの?」「意地を張るのもおやめになったら。どうせ私達の衣装も準備されているのでしょう?」「そうよ。一言、“お願いします”って頭を下げてくださったらいいのよ。そしたら私達、今までの事は水に流してまた一緒に活動して差し上げてもいいのよ。」「今日だって一緒に〈目覚め〉を演奏してあげるわよ。音楽教室の先生方とお約束なさっているのでしょう?今日こそ全曲披露するって。今あの曲を演奏できるのは私達だけなのだから。」終始上から目線で話し掛けてくる彼女達に、彩愛が尋ねた。「不思議なのだけど、聞いてもいいかしら。」「何かしら?」「大学のコンサートで一緒に演奏なさった方ってどなた?何処でお知り合いになられたの?」彩愛の問いかけに、彼女達は呆れたように笑った。「何を惚けていらっしゃるの?彼女はあなたと同じ音楽教室の、非常勤講師じゃない。練習でスタジオを借りる時に何度か会ううちに話しかけてくれたのよ。それで初めて知ったのよ。あなたが彼女から曲を奪ったって。」「彼女がレッスンで使っていたら、いい曲だから自分も使わせて欲しいって。なのに払うと言った使用料も支払わず、それどころか教室からの使用料は独り占めしているって仰っていたわ。」彩愛は呆れて言葉が出なかった。しかし、何とか一言を絞り出した。「そのお話はどなたからお聞聞きになったの?」「宗像(むなかた)楓華さん御本人に決まっているでしょう。いつまで惚ける気?」ドアの外で話を聞いていた凛華は、耳を疑った。「宗像……楓華?まさか……。」凛華が呆然としている間に、話は続いた。「彼女はとても優秀な方よ。まだ18歳なのに飛び級で今年の4月から医学部の3年生に進むらしいわよ。」「そう。聞かせてくれてありがとう。せっかくだけど、あなた達にお願いする事はもう何もないわ。すぐに帰ってくださる?」女性達は彩愛がまだ強がっていると思ったのか、本気にせずに、しつこく催促してくる。「もうあまり時間もないのよ。強がりはやめて早く頭を下げなさい。」「言葉が分からない?あなたたちとは11月の末で縁が切れているの。それもあなた達からの希望で。だか
凛華は思わず彼らの名をを呼んだ。 「フローデ、ビョルン!あなた達なの?」 2人の客は凛華の声に反応してすぐに立ち上がって振り返った。 「「凛華!」」 2人はあっと言う間に凛華に駆け寄り、手を取り合って再会を喜び合った。僅か2週間余りぶりでしかないのだが、2人はやや興奮状態で話しかけた。 「凛華!君って昔から”事件持ち“だよね。目を離すとすぐによからぬことに巻き込まれるんだから。」 「大切な曲を盗まれてショックだっただろう。僕たちが来たからにはもう大丈夫だからね!あの曲限定だけど、僕達は現在世界最高峰の演奏者だからね。」 「ビョルン、フローデ。どうしてあなた達まで日本に来たの?」 「凛華、その言い方は酷いんじゃない。」 「そうだよ!グム叔父様が伝手を使いまくって最速で来たのに!」 「お父さんが?」 「そう。こっちのおばさまからの報告を聞いて激怒しちゃって、すぐにビザや航空券の手配をしたんだ。年末年始でちょっと時間かかっちゃったらしいけど、すぐに行って本物は誰か見せ付けて来いって。」 「あなた達、学校は?」 「数日位問題ない。」 S国語で話し合っている三人を暫くポカンとして見ていた彩愛が、ようやく勇真に尋ねた。 「あの子達、だあれ?」 勇真はにこやかに答えた。 「凛華の親衛隊。」 「!?」 「凛華の従弟のフローデとその親友のビョルン。幼馴染だよ。」 「そうだったの。どうして彼らが?」 「彼らは凛華のチェロの練習パートナーなんだよ。凛華がチェロで曲を創ってると聞いて一緒に演奏する為にわざわざ習い始めたんだ。三人の演奏は今じゃ中々のものなんだよ。」 「そうなの?それは頼もしいわね。早く聴いて見たいわ。」 一頻り話をして落ち着いた2人は、改めて彩愛と勇真に挨拶をした。2人は流暢な日本語で、 「ご挨拶が遅れてすみません。僕は凛華の従弟のフローデ・ロックスマンです。」 「初めまして。僕はフローデの友人のビョルン・エーヴェルスです。よろしくお願いします。」 と、頭を下げてお辞儀をしながら挨拶をした。 彩愛は、亜麻色のくせっ毛に青い瞳のフローデと濃い茶色の髪と瞳でがっしりとした体格のビョルンが日本語を話し、丁寧にお辞儀をする姿にすっかり魅了されてしまった。 「初めまして。私
大柄な男性が凛華を見て人懐こい笑顔で挨拶をした。「おはよう。君が最後の一人のようだね。私は トーレ・シェルベリだ。主に移植外科とリハビリについて学ぶ予定だ。」続いて細身の男性カスペリ・サンドヴァルと凛華が自己紹介をした。お互いに連絡先を交換して、これから協力し合う約束をした。佐藤博士や、直接所属する部署の人達との顔合わせも済んで11日から本格的に仕事始めになるそうだ。不安だった職場は、意外とスムーズに受け入れられそうでほっとした。彩愛の成人祝のパーティーは15日の金曜日の夜の予定だ。市の成人式は10日の日曜日に行われる為に、9日の土曜日に久しぶりに彩愛と一緒に演奏の練習をすることにした。東雲邸には防音設備の整った練習室がある。約束の10時に間に合うように早めに部屋に入り準備をしていると、扉が開いて勇真が入って来た。「おはよう、凛華。早いね。」「えっ?勇真さん?どうして?」「どうしてって?彩愛のお祝いの演奏に僕が参加しないなんてありえないよ。」「でも、最近はA国でお仕事されてるって聞いていましたけど。」「そんな事、関係ないよ。彼女を傷付けた馬鹿がいたと聞いては黙っていられない。念の為、追加の候補曲のアレンジと練習、しといて良かったよ。」「えっ、そんな事もしていたんですか?」「当然だよ。ついでに友人の演奏者達も呼んでおいたよ。」「友人ってどなたですか。」「来たら紹介するよ。」「わかりました。」そんな話をしていると、彩愛が部屋に入って来た。「勇真さん、お久しぶり。凛ちゃんも今日はよろしくね。」「久しぶり、彩愛。体調は大丈夫か?」「ええ。漢方の先生のおかげですっかり元気よ。」「それは良かった。」「でもまだ無理はしないでくださいね。」「ええ。ありがとう、凛ちゃん。」三人はまず今回演奏する曲の打ち合わせから始めた。「構成はヴァイオリン2人とビオラとチェロとピアノのクインテット。エルガーの〈愛の挨拶〉と凛ちゃんのオリジナルのエチュード5番〈フラワーガーデン〉と例のエチュード1〜3番〈目覚め〉の3曲でいいかな。」「ええ。私もそのつもりで練習しているわ。」「私も大丈夫です。でも、ご友人達の方は後の2曲間に合うんですか?」彩愛も心配そうに尋ねた。「私もそれは気になるわ。勇真さんたら勿体ぶって教えてくれないのよ。」「心配
三人は、これからはそれぞれの望むメンバーを見つけて活動して行きたいと言って楽譜を突き返してきた。彩愛は一瞬何を言われているのかわからなかった。元々ソロで活動をしていた彩愛に、自分たちの方からメンバーへの参加を依頼して来たのに。当時の彼女たちの技術は未熟で、今までいろいろとサポートをしてきた。その上、彩愛の実力や知名度のおかげで彼女たちだけではとても得られない演奏の場を得てもいた。そうしてようやく今の実力を手に入れたのにも関わらず、まるで彩愛が面倒を見てもらっていたかのような言いように心底がっかりした。こんな事は 子供の頃から何度か経験してきたことだった。なのにまた信じてしまった自分の甘さを反省して、この件は忘れる事にした。それなのに!クリスマスコンサートで、彼女達は自分の代わりに別の女子学生を入れて、その彼女のオリジナル曲として凛華の曲を演奏した。それが、あまりに下手だった。曲は三部構成で、徐々に高度な演奏技術を必要とする。だから、子供達の練習用には第一部だけを提供してきた。コンサートの舞台で新入りの女子学生は堂々と言った。「この曲は私が何年もかけてようやく昨年完成させたものです。第一部は既に多くの方に親しまれているようですが、本日初めて全曲を披露できることを心から嬉しく思います。」会場は期待で大いに沸いた。しかし、第二部、第三部と進むにつれ演奏ミスが頻発し始めた。何とか最後まで演奏を終えたものの曲への感動は何もなかった。会場のあちこちでは、曲への失望の声が聞こえて来た。彩愛は激しい怒りと失望で暫くは身動き出来なくなった。本当の作者である凛華や、5人で演奏した大切な思い出をズタズタに汚された怒りは、瞬時に彩愛の健康を奪ってしまったのだった。話終えた彩愛はまた怒りが込み上げてきて、たまらず後ろに倒れ込んでしまった。彩愛はぐったりしながらも腹立たしげに言い捨てた。「今回はね、”怒り心頭に発する“を体感したわ。これって名言ね。」真剣な顔で言う彩愛を見ているうちに、凛華は不謹慎ながら笑いが込み上げてきた。今回の彩愛の体調不良の原因が、余りに下手な演奏を聴かされた怒りだったとは……。その根底にあるのは凛華たちへの確かな想いだ。凛華は心が温かくなるのと同時に、彩愛らしい反応に益々彼女への親愛の思いが込み上げてきて、何故か笑いとなっ
澪那は暫く躊躇った後、不安そうな瞳で凛華を見つめた。「凛ちゃんはお医者様になる勉強中なのよね。」「はい。」「ちなみに、何科が専門なの?」「まだ正式ではないですけど脳神経外科志望です。」「そうなのね。」「何か?」澪那は再び俯いて少し考えた後、静かに話始めた。「実はね、彩愛の様子がおかしいの。」「いつから、どんなふうにですか。」「先月の終わり頃からたまに元気のない日があったのよ。」澪那によると、先月末頃から食欲がなく夕食を食べずに部屋に籠もったり、大学を休む日があったそうだ。今世の彩愛は、前生とは違い法律を学んでいる。一方で音楽活動も熱心で、アマチュアの演奏家として主に病院や施設などでの慰問コンサートに参加している。大学でも友人達とグループを結成し、あちこちで演奏を披露している。そう言ったこともあり、成人祝いのパーティーでも演奏を披露する案が出たのだ。ところがどういった訳か大学祭の後、一緒に活動してきた仲間がグループの解散を申し入れてきたのだそうだ。彩愛はソロでの演奏もできるし、恩師たちに頼めばすぐにメンバーも集めて貰える。なので、寂しくはあったが受け入れた。その後、凛華との演奏が実現するとあってとても張り切っていた。それなのに……。25日の大学でのクリスマスコンサートを鑑賞して帰って来た途端、糸が切れたように倒れてしまった。何を聞いても答えず、医師に診てもらっても原因は分からない。もう、四日も部屋で寝たり起きたりの状態なのだそうだ。「お話を聞く限り、精神的なダメージが身体に悪影響を与えているのでしょうね。」「そうだと思うわ。でも、理由が分からないの。今さらメンバー解散が理由とも思えないし……。何度尋ねても答えてくれないし。」「わかりました。どうなるか分からないですが、私がお話を聞いてみます。」凛華は澪那の案内で彩愛の部屋を訪れた。「お姉様、凛華です。少しよろしいですか。」「凛ちゃん?……ええ、どうぞ。」いつもの彩愛に似合わない、弱々しい声が聞こえて来た。中に入ると、ベッドの上で何とか身体を起こそうとしている彩愛の姿が見えた。凛華は急いで枕元に行き、横になるように勧めた。「無理しないでください。横になったままで大丈夫ですよ。」「いいえ、大丈夫よ。起こしてちょうだい。」きっぱりと言われ、仕方なく身体を起
凛華は自然な動作で華織にハグをして軽くチークキスをした。華織は少し驚いたようだが、すぐに自分からも凛華にハグを返して嬉しそうに言った。「凛華もすっかり大人になったわね。私もとっても嬉しいわ。さぁ、早く中に入ってみんなでご飯にしましょう。」華織に促されてリビングに入って行くと、祖父と叔父も中で待っていてくれたらしく、笑顔で迎えてくれた。「凛華、お帰り。寒かっただろう。早く手を洗ってきなさい。温かいものを食べよう。」 前生での凛華にとっての若桜家の人達とは、あの偽両親と楓華だけだった。しかし、本当はこんなに温かい家族がいたのだ。今更ながら前生での奪われたものの大きさを感じた。しかし、ここは凛華が改めて得た本来の人生だ。何も怯えることはない。そう思い、空港で感じた不安や緊張を払拭していった。食事の後、お土産を披露したり近況報告をしたりして話も一段落した頃、清麗が凛華に尋ねた。「凛ちゃん、仕事の予定はどうなっているの?」「明日にでも到着の報告と挨拶に行くつもりです。その時にこれからの詳しい予定を確認してきます。勤務はおそらく年明けの仕事始めからだと思います。「そうなのね。だったら明後日にでも一緒に彩愛ちゃんに会いに行きましょう。」「叔母様、一緒に行ってくれるのでですか。」「勿論よ。お姉さんからしっかりお願いされているの。こんなに可愛い姪を着飾るお手伝いができるなんてもう、楽しみで。」そうだった。清麗は可愛い装いが大好きだった。「叔母様、主役はお姉様ですからね。ほどほどでお願いします。」「わかっているわ。ちゃんと澪那さんと相談して決めるから安心して。」翌日凛華が所属する予定の研究所に行ってみると、意外に時間がかかる事が分かった。電車を使うと2回も乗り換えが必要で、1時間以上かかってしまう。車でも何箇所か渋滞に掛かりそうな箇所があり同じくらいかかりそうだ。これでは通勤は難しいだろう。急いで近くに家を借りなければ、と考えていると、案内をしてくれた研究所の事務の人が尋ねてきた。「ところでロックスマンさん、宿舎の申請が出ていないようですが、住む場所は決まっているのですか。」「母の実家に住まわせて貰おうと思っていたのですが、今日実際に来てみると、予想以上に時間がかかりそうです。今からではもう空きはないですか。」「そうですか。お母様は日本
冷たい水が口の中をすっきりさせて、喉の奥にスーッと流れ込んできた。するとさっきまでの不快感が消え去っていった。「ありがと。」凛華がお礼を言うと、その女性は安心したように微笑んで、「どういたしまして。今日の凛ちゃんはとってもお利口さんね。」と言ってまた優しく頭を撫でてくれた。凛華はこの女性を知っている。だが、自分の記憶にあるこの女性はもっと窶(やつ)れて暗い顔をしていた。声も小さく弱々しかった。今の白くてシミ一つない美しい肌も、大きくて澄んだ瞳もふっくらとした花びらのような唇も遠い昔のものだったはず。こんなふうに若々しく美しかったのは、まだ自分がほんの物心ついた頃のことのはず。
「辞令を見ても何も言わなかったじゃないか。」「言ったら撤回してくれたのですか?」「もう決まった事だ。しつこいとクビにして無一文で若桜家に送り返すぞ。それが嫌なら大人しく言うことを聞け。颯生さんにも余計なことは言うな。」「何で……何でいつも勝手に決めてしまうんですか!家でも会社でも命令ばかり!私にも心はあるんです。少しは尊重してくれてもいいんじゃないですか!」「そんなに契約違反をしたいのか。何なら明日にでも離婚して家に返そうか?ご両親の反応が楽しみだな。たっぷり躾けられた後何処かの爺さんの後妻にでも売られるんだろうよ。そう言えばお前まだ処女だったな。さぞかし高く売れるだろうよ。これが最
凛華は元は東雲グループのイベント企画会社に就職していた。しかし、就職間もなく楓香の事情に巻き込まれて翔月と契約結婚する事になった。その時、どうしても働き続けたいと言う凛華の意向を受けて、翔月は監視を兼ねて彼が社長を務める商社の秘書室に出向させた。結婚の話が出た時、東雲家からは会社は辞めて家で家事に専念するように言われた。が、そんな事をしたら離婚後また若桜家に戻って家政婦のように働かされ、その内誰かと政略結婚をさせられるに違いない。凛華としてはそれは絶対に避けたかった。そのためにはちゃんとした仕事を確保しておく必要があった。離婚後こそは自立してようやく自分らしく生きていくのだ。3日後、待ち
「わかっています。あと2週間、外面的には完璧で従順な妻でいます。夫以外の異性と親しくしません。もし破ったら若桜家からの独立はあきらめます。財産分与は一切なしで東雲家を出ていく事に同意します。あなたも忘れないでください。私が約束を守ったら、契約通り2週間後には正式に離婚してください。慰謝料として、自立に必要な家と現金三千万をいただきます。」「もちろんわかっている。お互いに望む所だからな。」二人でそんな話をしている間、他の者たちは楓香を中心にパーティーを楽しんでいた。この異常な婚姻関係を結ばざるを得なかった原因はこの楓香なのに、と思うと無性に腹が立つが仕方ない。六歳のあの時、自分のひと言