それは、晩餐の時にマストレットがお父様へ向かって口を開いたのが始まりだった。
「父上、フォクステリア公爵家の書庫には素晴らしい蔵書が豊富に揃っていると聞きました。稀有な書物もあるとか。書庫への出入りをお許し頂けませんでしょうか?」 「マストレット、お前はもう我が家の息子だ。好きな時に行ってみるといい」 「ありがとうございます、父上!」 喜色をあらわにしたマストレットを見て、ダリアも羨ましそうに言い出した。 「お父様、私も書庫の書物を読んでみたいですわ。稀有な書物とは、どのようなものでしょう。子爵家では、珍しいと言えるような書物はありませんでしたから、気になります」 ──駄目。ダリアに禁書を見つけられてしまう危険性があるわ。 ダリアが見つけなくとも、マストレットを経由して手にされる可能性もある。どちらにせよ、危機的な状況よ。 「お前はまだ書庫の書物を読むには早いだろう。もっと家庭教師から学び、基礎知識をつけてからにしなさい」 読み書きは子爵家でも習っていたようだけれど、お父様からすれば十分ではないと判断したようね。 すると、ダリアは不服顔でお父様にねだった。 「お兄様だけ出入りが許されるのは悲しいですわ。私も様々な書物を読んで、公爵家の名に恥じないように、知見を広げたく思いますの。お願いします、お父様」 「父上、ダリアは学習意欲の高い子です。多少難しい書物でも、繰り返し読む事で理解を深められます」 「ふむ……」 この二人を野放しにしていては絶対にいけないわ。お父様も、ほだされそうになっているし、今は危険も承知で先手を打たないと。 「お父様、よろしければ、私が必ず同伴して学びの手助けをする事を条件に、許して差し上げて下さいませ」 ダリアの自由にはさせない。私自身が見張って阻止するより他に仕方ないわ。 「構わんが、お前にも勉強があるだろう」 「妹の為ですもの、自由に使える時間を当てますわ。私が色々と教えて差し上げる事が出来れば、ダリアも良い勉強と気分転換になるでしょう」 そこでお父様は顎髭に手をやった。 「いいだろう。ダリア、書庫に行く時は必ずガネーシャに付き添ってもらいなさい。書庫にはたやすく触れてはならない貴重なものもある。そこはガネーシャに従うように。いいな?」 「……はい、ありがとうございます。お父様。ガネーシャお姉様も、お手を煩わせる事になり申し訳ございませんわ」 全く感情のこもっていない謝辞だわね。自由気ままに見て回れない事が、そんなに不満なのかしら。 ──それとも、既に悪魔召喚の書物に目をつけている? まさか、書庫に入った事もないのに。使用人だって知らないはずの禁書よ。そう考えた時、ベリテが気難しい面持ちで話しかけてきた。 「ガネーシャ、ダリアには裏で手を引く存在があるみたいだ。注視した方がいい」 ──悪魔と契約もしていないのに? 「悪魔だけが問題視すべき存在じゃないんだ。実際、こんな何の変哲もない少女に見えて、ただならぬオーラと匂いを漂わせてるしね」 ──そうだわ、私が見る限りダリアそのものは賢くもない少女なのに、マストレットをだしにして鋭く切り込んできたわね。 「明日にでも、さっそくマストレットとダリアを書庫に案内してやりなさい、ガネーシャ。マストレットも出入りは許したが、初めは詳しい者の案内があった方がいいだろう」 「……はい、かしこまりましたわ。お兄様もダリアもよろしくて?」 「ああ、よろしく頼むよ、ガネーシャ」 ──ベリテ。出来るだけダリアを探ってちょうだい。ダリアに企ませる黒幕を知っておきたいわ。 「分かった。ダリアの目論見が上手くいかなかった事で、晩餐の後に部屋へ戻ったら、何らかのやり取りがあると思うから、監視してるよ」 ──ありがとう、頼むわね。 その相手が、もしベリテを上回る存在ではないのなら、勘づかれる心配もないでしょう。 甘く見てはならない相手と分かってはいるけれど、ダリアの初手からの幼稚なありようを見てきて察するに、少なくとも知性は高くないわ。 そうして私にとっては、ひりつくような緊張感のある晩餐を済ませて部屋に戻ると、離れていたベリテが入浴前に戻ってきた。 さっそく話を聞くと、ダリアは部屋で相手に癇癪を起こしたらしい。 「ポイズニー!いるんでしょう?!出てきなさいよ、この役立ずが!」 ダリアが一人になるなり叫び出すと、青い肌に黒い髪と瞳の──精霊が姿を現したとベリテは聞かせてくれた。 それは、下級の闇精霊が持つ特徴だった。 ポイズニーと呼ばれた闇精霊は悪びれる様子もなく、むしろ不機嫌さを隠そうともせずにダリアを見下ろして言い返したそうだった。 「何だよ、俺がお前の母親に闇の力を仕込んで死なせてやったおかげで、公爵家に入れたくせに。上手く立ち回れないお前が無能なんだよ、こっちのせいにするなよな」 ──死なせた?実母を?公爵家に入る為に? 「あんたが、上手く闇を扱ってくれないから!私は書庫にも自由に出入りさせてもらえない事になってるんじゃない!あそこには例の書物もあるんでしょう?!」 「他力本願も大概にしろよな、お前が子供じみてるから許されなかったんだろ。書物に関しては、それくらい自力で手に入れろよ。俺はもう世界樹に帰る。後は勝手にしてろ」 「何なの?!私と契約しておきながら見捨てる気?!」 ダリアがヒステリックに喚くと、ポイズニーはおもむろに手を伸ばしてダリアの眉間を指で突いたそうだ。 すると、眉間に契約の刻印が現れ、次の瞬間には消えてしまったのをベリテは確かに見たと言う。 「何するの?!」 「契約解除しただけだろ。お子様の我がままに振り回されるのはごめんだよ。じゃあな」 「ちょっと待なさいよ!ポイズニー!ちょっと……!」 すっかり興醒めした呆れ顔で、ポイズニーはダリアを軽蔑しながら消えてしまった。すると、ダリアから感じていた黒いオーラと匂いも消えたらしい。 「何なのよ!あの女、ガネーシャが出しゃばったりするから!あんな温室育ちの女なんかに邪魔されて!ポイズニーめ、私を馬鹿にして!皆くたばればいいのよ!」 部屋に取り残されたダリアは、ソファーのクッションに八つ当たりしていたとか。 「──と、まあ、こんな感じでね」 「ダリアが闇精霊を召喚出来た事に、まず驚くけれど……我欲の為に母親を殺すだなんて、恐ろしい子ね」 「まあ、ね。ある喜劇作家は、身勝手な悪事こそ人間ならではだとも言ったそうだけど。でも、ダリアのした事は許されざるべき罪だよ。証拠さえ残っていたら裁判にかけられたのに」 「闇精霊との契約は切られたものね……」 「精霊は痕跡を残さないからね。──とにかく、今夜はゆっくり湯浴みして休みなよ。明日に備えないと」 「マストレットとダリアの両方に目を光らせていないといけないものね……分かったわ、伝えてくれてありがとう、ベリテ」 「どういたしまして」 私は、好き勝手に動く二人に注意を払う大変さを想像して、思わず溜め息をついた。 でも、ダリアがあてにしていた闇精霊はダリアを見限った事だし、次の行動に出るにはダリアが自力で考え動かなければならない。 そう簡単には事を運べないはず。 侮ってはならない。それは分かっていても、繰り返し生き直してきてベリテの力添えを得た私には、今のダリアはまだぬるすぎる。 ──さながら悪女の蕾、新芽と言ったところかしら……?既に私を逆恨みしているところは、本当に注意していないと危険ね。 「ガネーシャお嬢様、ご入浴のお支度が整いました」 「──ええ。今行くわ」 そういえば私が考えた洗髪粉と石鹸、ダリアにも贈ったけれど、その香りがしてきた試しがないわね。使っていないのかしら。お肌の状態を見るに、前に贈った化粧品も使っていないわね。 それに、選ぶドレスも品がないわ。とにかくフリルを多用するし、無駄に大きくて悪目立ちするリボンをあしらう。 それぞれの品質こそ良くても、バランスが取れていないし、色合わせも考えられていないから、ちぐはぐなのよ。 サーカス衣装でも、あれ程にまでは無駄に飾り立てないわね。お父様もよくまあ、あのように悪趣味なドレスを買い与えていた事。 ダリアを盲目的に可愛がっているのか、それとも偽善の心で見て見ぬふりをしているのかしら? そんな事をふと思い出しながら、ジャスミンを浮かべた湯船に浸かって、ひと時の休息を味わった。 明日は気を遣う。英気を養わないと。 今生でも全面対決は避けられそうにないのだから。パーティー当日。貴族達が続々と入場してくる。私は控えの間で待たされていた。「身に着けている宝石が豪奢過ぎる。所詮はお前もお貴族様だな」そこに王太子殿下が難癖をつけてきた。「高価なルビーを贅沢に使っていながら、民の為を思っていると言えるのか?慈善事業など建て前の偽善で、結局は我が身が一番可愛いのだろう」責め立ててくる王太子殿下の方こそ豪奢な装いなのだけど、ここは控えておくべきね。「これはルビーではなく、上質ではございますがレッドスピネルを代用した物でございます」レッドスピネルはルビーの代わりに用いられる事が少なからずあり、美しさのわりにルビーよりも安価なのよ。でも、王太子殿下はかえって鼻白んだ様子だわ。「お前は私を軽んじてるのか?私との婚約披露の場で安物を身に着けるとは」叱責するような勢いで揚げ足を取ってきた。「質素倹約を美徳としております、レッドスピネルも美しさではルビーに劣りません」私は物静かに受け答えした。「何の宝石を着けるかではなく、己の身に似合う宝飾品を作らせる事、そこに驕りがない事が大事と考えます」「つくづく食えない女性だ、私に口答えするとは己が随分偉くなったと思い込んでいるようだが勘違いするな、生意気過ぎる」王太子殿下は文句を言うばかりね。言い返す事も面倒になっていた、その時に私達が入場する時が来た。王太子殿下も外聞だけは整えようという気持ちがあるのね。腕を差し出され、見た目だけは寄り添い腕を組んで入場する。入場を済ませると、さっそく貴賓が挨拶に来る。外国からの者も多いわ。『ごきげんよう。ドラッド夫人、この度はお越し下さり誠にありがとうございます』『まあ、私の名を知っているだけでなく、国の言葉もお話し出来るのですか?嬉しいわ』『まだ未熟でお恥ずかしい限りですが、ご挨拶だけでもと勉強してまいりました』すると、他の人も話しかけてきた。『王国の王太子妃となる方は勉強熱心ですのね、私ともお話しして下さるかしら?王国について聞きたいですわ。織物がとても繊細だと聞いていますのよ』『ありがとうございます、ファスト皇女殿下。我が国の織物は本日の私のドレスにも用いておりますわ。刺繍のように細やかな模様を織り込めますの』主要国の言葉なら会得しているわ。相手に合わせて言葉を使う事で、喜んでもらえたようね。皆さまとの会話も弾むわ。
婚約披露のパーティーを目前に控えて、私は公爵家主催で十五歳の誕生日を迎える事のお祝いとしてパーティーを開いてもらう事になった。当日は華やかにお祝いする事になるそうで、屋敷の中も活気づいているわ。その流れを断ち切るように、ある夜の晩餐でダリアが切り出した。「お父様、私はガネーシャお姉様へのお祝いとして、公爵家で働く全ての者に栄養豊富なスープを振る舞いたいと思うのです」お父様はダリアが珍しく可愛げのある事を言うから、頷きながら顎髭を撫でているわ。「ああ、下働きの者でもスープに与れるようにしてやりなさい」「ええ、お父様。皆の喜ぶ姿は何よりのお姉様への贈り物に出来ますわ」「まあ、ありがとう。ダリアがそんなに私を思ってくれているだなんて、本当に愛しい妹ね。あなたの優しさと思いやりを誇りに思うわ」私は内心では、どうせ何か企んでいるでしょうけど全て潰してやるわと嘲笑いながら、表ではなごやかに微笑んで晩餐を済ませた。それから事業についての書類を部屋で片付けて、その夜は何かと慌ただしく過ごした。その後、遅めの入浴を済ませてベッドに入り、眠ってしまったけれど……どうもダリアの発言に気が立っていたようで、翌朝は早めに目が覚めてしまった。それを待っていたかのように、ベリテが語りかけてきたわ。「ガネーシャ、多分そこには血が一滴仕込まれている。対策を考えよう」──仕込まれるのが一滴のみだと、なぜ分かるの?「お茶会での失敗を、ダリアは繰り返したくないだろうからね。何より、悪魔の力を借りた血は一滴でも大量でも、効果は同じはずだよ」──なるほどね。でも、全員が飲むスープに一滴で効くのかしら?「そこは仕方ないと思ってるだろうね。何しろ全員分のスープが入った大鍋に混ぜるから、効果は強くならない。まあ、味がおかしくなるほど鍋に入れても結果は変わらないから、つまりは少しでも自分を良く思わせたいだけだろう」──そうなのね。でも、これは血で中和したとても、ダリアがスープを振る舞った事実は消せないでしょう。そこが問題よ。スープを屋敷の厨房で働く者達に作らせるつもりなら、こちらは更なるうわ手に打って出るしかないわね。「それなら食事を振る舞えばいいよ、ガネーシャの涙が混ざった食事をね」──涙?血ではなくて?「ガネーシャの場合、血よりも涙の方が効果的なんだ。聖女の涙は万能薬にな
それから忙しい日々を過ごしている中でも、時間を取って取引先の者や、慈善事業の協力者を屋敷に呼んだ時の事よ。石鹸や洗髪粉の事業報告と、慈善事業についての進捗具合の報告を受けている中で、貧民街に感染病が起きていると知らされたの。「貧民街では医者にもかかれませんし、発熱して衰弱する事を嘆きと諦めで受け入れているようです」「そんな……貧民街の者達だって国の民なのに」きっと衛生面に気を遣う余裕のない貧しい人、栄養が行き届かない弱者から病は始まったんだわ。「それでは、貧民街と救済院宛てに、廉価版の石鹸の他、食糧は穀物だけでなく干し肉や果物も送るようにしてもらえるかしら」「石鹸は庶民に広めた廉価版と仰られても、香料の製造もアロエベラの仕入れも追いつきませんが……」「香料とアロエベラは二の次でいいわ。アロエベラは入れずに、香料は廉価版の半分以下、いえ、三割程度に減らしてもらえるかしら。その代わり、庶民が使う廉価版は品質を落とさないで」「はい、それでしたら可能です。かしこまりました」「ありがとう、よろしくお願いね。あと、麦が高騰しているわ。関税のかけられていない他国から仕入れて流通させて欲しいの」何しろ、国の未来が掛かっている働きだもの。病はぽつぽつと感染が始まったばかりだったのも幸いしたかもしれない。その甲斐あって、前世では国中に蔓延したと記憶している病だったものの、今生では早めに収束させる事が出来たわ。「ガネーシャお嬢様は私達貧民を救って下さった、まるで女神様のようなお方だ!」「本当だよ、こんなに素晴らしいお方が王太子殿下の婚約者様なんだから、国の未来は明るくなるに決まってるね」「貧民街でも、寄贈された石鹸を使って手や体を洗えたり洗濯に使えたりして、そのおかげで病人が減ったって話を聞いたぞ!」「石鹸だけじゃないよ、栄養のある食べ物まで下さったそうじゃないか。痩せこけて土気色だった顔が、薔薇色の頬に変わったって話も聞いたからね」「ガネーシャお嬢様は我々庶民の救世主だ!籠に一杯の麦が銀貨二枚してたのも、銀貨一枚に値下がりしたよ!」そう言って、私を崇敬をもって讃える民も増えた。私は前世で、カビ臭い不潔な牢屋に投獄された。その経験から衛生面や栄養面の大切さを知っていて、行動に出られたのだけれど、それは生き直しを知るベリテにしか話せない。──本当に
日は過ぎて、王太子の立太子と婚約を披露するパーティーを王宮で開催する事になり、準備で王宮も公爵家も慌ただしくなってきた。私には、王室御用達のデザイナーがドレスを作りに来る事になったわ。「まあ、何て美しいデコルテなのでしょう!ウエストも細く締まっておいでで、ドレスが素晴らしく着こなせますわね。敢えてボリュームを出さなくとも、お肌と体形を活かしたドレスで魅せるのもよろしいかと存じますわ」それをダリアは羨んで、何かと「お姉様は特別なお方ですものね、何でも叶うんですわ。それに比べて私の身の上ときたら……」と、嫌味を口にする。完全に妬んでいるわ。「本当に身に余る光栄に浴しているわ。でも、私はあくまでも殿下に添えられた一輪の花よ。分相応な弁えを忘れてはならないわね」こうして私がどこまでも謙虚な態度を崩さないから、攻めあぐねて今度は周りに八つ当たりするようになってしまった。おかげで使用人達は最近、ダリアに近寄りたがらないわ。人間というものは善意と悪意を併せ持っているものよ。そして相反するそれらを葛藤しながらコントロールして他者と向き合い、より良い関係を構築してゆこうとする。けれど、ダリアには善意が欠落しているようね。だからこそ私も、躊躇なく復讐を果たそうと思えているのだけど。──そういえばダリアはお茶会を開きたいとか言い出さなくなったわね。「ガネーシャの目がある場所では無駄だと知ったからだよ。僕が居るからね。向こうは僕の正体を知らないものの、だからこそ警戒しているんだよ」──なるほどね。でもおそらく、パーティーに出られれば暗躍するわ。「何とかして出てくるだろうね」ベリテとそんな言葉を交わした後の晩餐で、ダリアはお父様に甘えた口調でねだったわ。「私もお姉様のご婚約をお祝いする為にパーティーに出たいです」「だが、それにはマナーやダンスを学ばなければ難しいぞ」お父様は難色を示したけれど、ダリアは諦めない。「ならば、お姉様にそれらを教えた家庭教師を私に付けて下さいませ」明らかに企んでいるわ。おおかた、幼い頃からの私について聞き出し、尚かつ自分の可哀想な話をしてみせて、何らかの私に関する悪評を広めさせようと考えているのでしょうね。「私がお世話になった家庭教師というと、サヴァリン夫人ね。夫人からは、基礎から始まって何年もかけて教わったのよ」私は遠回しに
庶民の暮らしぶりを見に行くにも、高位貴族と気づかれないようなドレスは持っていない。まずは馴染みのデザイナーを呼んで、お忍びで出かけられる、装飾をほとんど施さない質素な外出着とローブを作らせた。その際には、宝飾店の者も呼んでメリナとミーナへの贈り物のデザインも考えて依頼しておいたわ。出かける日には間に合うようで、少し嬉しくなった。そして市街地におもむく日になり、お付きのメリナとミーナを伴って私達は屋敷を出たの。メリナとミーナの右手の小指には金細工の指輪がはめられている。細身ではあるものの、細工は一流の指輪よ。市街地の入り口までは馬車で行ったのだけど、メリナもミーナも大切そうに自分の小指を左手で包んでいて、語調も明るい。「ここが、民の暮らす場所なのね……思っていたより活気がないわ」すると、ミーナも首を傾げた。「私めがご奉公に上がる前は、もっと賑やかだったのですが……」街を歩いていると、出店に並ぶ野菜や果物、肉の類が乏しく見える。すると、野辺に咲く花を小さな花束にして売っている女の子がいて、「お花はいかがですか、お花をどうぞ」と声を出して、どこか一所懸命な様子に心を打たれた。「可愛いお花ね、一つ頂くわ」「ありがとうございます、高貴なお方。銅貨二枚です」銅貨という物は見た事もないわ。困惑していると、メリナが代わりに支払ってくれた。「ありがとう、メリナ。金貨しか持っていないのも準備不足だったわね」「お気になさらず、私が賜った一生の宝物へのお礼の、ささやかな手始めでございますので」花は可憐だけれど、摘んで時間が経っているのかしら、どことなく萎れてきている。ミーナは花束を見つめ、また首を傾げた。「私めが洗濯の下女として雇って頂ける事になった頃は、花売りといえば銅貨一枚でしたが……周りの出店を見ても、どれも値上がりしておりますし、致し方ないのでしょうか」──ベリテ。もしかして、野辺の花でさえ貴重になってきているの?「そうだね、枯れた地に咲ける花は少ない」──このお花に元気がないのも、その影響なのかしら?「だろうね。萎れるには時間が早いよ」状況は思いのほか深刻なようだわ。屋敷に戻ってから、出来る事を考えてもいいわね。そう思いながら、その場を離れかけた時、すぐそばの露店から悲痛な声が聞こえてきた。「籠に一杯の麦が銀貨二枚だって?!また値
真っ白な空間で戸惑っていると、光と共に美しい女性が現れた。「新しき導きの星の光に選ばれし乙女、ガネーシャ。私はあなたをずっと見てきたわ」「あの、お美しいお方……あなた様はどなたですか?」躊躇いがちに問いかけると、彼女はふと微笑んだ。「私は先代の聖女だった者であり、輪廻転生から解脱し女神として天界に迎え入れられた者」言われて良く見てみると、波打つ淡いブロンドの髪とラベンダーアメジストの瞳をしている。これは私も同じだわ。聖女の特徴なのかしら?「ここは天界と下界の狭間にある世界。あなたには苦労をかけてきたもの、今生こそ覚醒出来るよう手助けするわ。──ご覧なさい」女神様の言葉と同時に、私達の足元は鮮明な下界の姿が見えるようになった。「ダリアと……これはどういう事でしょうか?黒い羽の……禍々しい者が見えます。これはベリタでしょうか?」「ええ、そうよ。ここでなら下界で見えない悪魔の姿も見えるし、ダリアとベリタのやり取りも聞き取れるわ。相手に気取られる心配もなく」それが本当なら、ベリタの謀略もダリアの言動も全てお見通しになる。有利に事を運べるわ。私が下界の様子を注視すると、ダリアとベリタが話しているのも明確に聞き取れるようになった。「ベリタ!ベリタ、どういう事なの?!なぜティーポットにガネーシャの血が混ざってるのよ!それにガネーシャの血であなたの力が無効化するなんて聞いてない!」「ガネーシャは普通の人間ではないらしいな。本人からも周りからも尋常じゃない気配を感じる。おそらく、これからもお前の血を使ってみたとしたところで、何らかの手を打たれるだろう」「それじゃ動けないじゃないの!何の為にあなたを召喚したのよ!」「召喚した時はベリタ様と呼んで崇めていたのに、打って変わった態度だな。傲慢な人間の醜い感情は見物するには面白いものだが、それを俺に向けられるのは業腹だ」「あの、ごめんなさい……でも、あなたの力が役に立たなかったのは事実じゃないの。血の他に使えるものはないの?」ダリアの高圧的な態度が、指摘されて萎れる。ベリタは少し間を置いてからダリアに言った。「何か青い石はないか?アクセサリーがいい。それも王太子の瞳の色と出来るだけ似ている色だ」「王太子殿下の?お会いした事もないわ。何色なの?青と言っても色々あるじゃない」「そうだな、透明感のあるスカイ
悪魔と契約出来たダリアは、さっそく動き出した。晩餐の席で、「私も友人と呼べる方が欲しくて」と、お茶会を開かせて欲しがったのだ。お父様も、内心ではダリアの去就に思うところがあったようで、「ガネーシャ、お前が一緒になって開催してやりなさい」と言ってきた。私が招待でもしてやらなければ、ダリアに人脈などないからお茶会は開けない。内心では面倒な事を言い出したものだと、ダリアやお父様に舌打ちしたい思いだったけれど、今生では完璧な令嬢を演じなければならないわ。「はい、お父様。ダリアにも親しみやすい方々を招待させて頂きますわ。友人が出来れば、ダリアも社交界に出やすいでしょう」従順に頷いた後、お父様が撫でる顎髭を憎たらしく思いながら、ダリアが同席するお茶会の招待にでも応えてくれる令嬢を考えた。何しろ公爵家に卑しい出自の兄妹が家族として迎え入れられた事は知れ渡っている。本来ならばダリアはそれを逆手に取って哀れに見せて味方を増やすのだけど、そうはさせない。私を好意的に見ていて、同情してくれている令嬢達を念入りに選んで、私は三人の令嬢達へ招待状を送ったわ。それを知ってか知らでか、ダリアは「失敗してガネーシャお姉様にご迷惑をおかけする訳にはいかないもの」と、勇んで茶葉や茶菓子に茶器まで、自ら進んで下女へ指示を出していた。そうして迎えてしまった、お茶会当日。私は何としてもダリアの目論見の通りにはさせまいと思案していた。「メリナ、今日のお化粧は薄くチークを使ってちょうだい」「かしこまりました、ガネーシャお嬢様。昨夜は良くお眠りになれなかったのでございますか?顔色が優れませんわ」「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」気鬱さも感じながら身だしなみを整えていると、仕上げの段階でダリアが私の部屋を訪れた。「ガネーシャお姉様、失礼致します。お出迎えの場までご一緒なさいませんか?」「──ええ、もちろんよ」途中でダリアが何かを企んでも、見落とさないように。けれど、一足遅かった。「ガネーシャ、お茶会のティーポットにダリアが血を一滴仕込んでる」ベリテから耳打ちされて私は焦った。「お嬢様、ご令嬢の皆様の馬車は既に到着して来ておりますので、お急ぎ下さいますように」そこで部屋に来た執事に告げられて窮地に立たされた思いがした。ここで私が離れてティーポットのある所に行くのは無理よ。
いわゆる、お見合いとも呼べる顔合わせの日。お父様と同乗していた馬車を降りて案内の者に従って歩き、お父様と謁見の間に待機していると、国王夫妻と立太子されたばかりのウィリード王太子殿下が厳かに入室して各々の席についた。私は最上級の礼儀でお辞儀をして、玉座から声をかけられるのを、かしこまって待つ。国王陛下は想像していたよりも親しみをこめて語りかけて下さった。「そなたは商いで得た収益で孤児院に多額の寄付を行なっていると聞くが、その若さで大した才覚だ。今後の展開はどう考えておるか?」「恐縮でございます。幸いにも販路は順調に広まっておりますので……今後は貧民街の救済院へ寄付をし、就業支援に着手しようと考えております」「慈善事業も、そこまでゆくと国政で対応するような領域だな。民を案じる心根は美しいと見るぞ」「誠にありがたいお言葉と存じます、国王陛下」すると、王太子殿下が苦々しい口調で水を差したわ。「慈善事業を理由としても、貴族の令嬢が商いで稼ぐ事を考えるなど、少々品位に欠けると思われるが。しかもまだ齢十四にすぎない少女の考える事となると、早熟に過ぎる」なるほど……と私は思った。前世ではダリアが殿下を誑かしていたけれど、そうなる素養が殿下にはあるのだわ。どうやら私は、ダリア抜きにしても殿下から好意的には見られないようね。そこに落胆と諦念、そして達観を交えて無難な言葉を探していると、国王陛下が先に殿下へ問いを投げかけた。「そのように言うお前は、王家の者として民の為に力を尽くした事があるのか?」もっともな言い分だわ。けれど、王太子殿下はつまらなさそうに言い捨てた。「今はまだ力及ばずとも、いずれ王位を継げば私は国を治める為に尽力致します。それで十分でしょう」王妃陛下が扇子で溜め息を隠すのが見えて、私は国王夫妻の苦労を垣間見た気持ちになったわ。仮にも立太子された身なのだから、王太子として国を案じなさいよ。まあ、実際に貧しい国民へ施している私を、身分や性別と年齢にそぐわないと言って蔑む時点でお察しだけれど。「ウィリード、お前はまだ青い。しかし王太子となったからには、王子だった頃のように城を抜け出し、平民を装って市街を見て歩く事は許されなくなる事は覚えておくように」国王陛下が苦虫を噛み潰したような面持ちで告げると、王太子殿下はあからさまな不満顔になった
──気を揉んでいるうちにも季節は移ろい、夏を迎えようとしていた。私が考えた洗髪粉と石鹸は貴族の間で定着し、廉価版が庶民にも広まりつつある。おかげで慈善事業も順調だ。私の名声は称賛をもって広まっていた。その間にも、ダリアは何とかして私に害をなそうとしていたものの、ベリテの力と私が持つ前世の記憶で防げていた。ダリアにはマストレットの他にまだ味方がいないから、出来る事は悪戯じみた悪さだけだ。前世を憶えている私を超える程の知識も経験も持たないダリアでは、太刀打ち出来ない。失敗する度に癇癪を起こすダリアはお父様にとっても頭痛の種ではあったものの、私のお母様を差し置いて愛した、愛人の子が残した娘だ。邪険には扱えないようだった。マストレットといえば、使用人にも卑屈な態度をとっていたが、お父様には誰に対しても謙虚で気遣いある接し方をする息子と捉えられていたらしい。あばたもえくぼとは、この事だ。そうして、ある日の朝餐で、ついに恐るべき時が来た。「マストレット、朝食を終えたら私の執務室に来なさい」「はい、父上。分かりました」二人のやり取りを見たベリテが難しい面持ちで私に告げた。「ガネーシャ、父親はどうやら書庫の鍵をマストレットに渡すつもりらしい」──鍵を?ついにこの時が来てしまったの?出来るだけ先延ばしにしようと頑張ってきていたのに。「マストレットはダリアに自慢するよ。何しろ公爵家の子息として認められたって事を意味するからね」──そんな事をしたらダリアが黙っていないわ。「だろうね。羨むだけじゃ済まない」ダリアも禁書のある書庫に入りたがるはずよ。公爵家の一員として、堂々と。これまでダリアは知り合いも作れずに引きこもっていたけれど、おとなしくしていてくれる訳がないわ。果たして、私が危惧する事は現実となった。その日の晩餐、ダリアが口を開いた。「お父様、マストレットお兄様が書庫の鍵を頂いたと聞きましたわ。ガネーシャお姉様もお持ちですし、私だけ頂けていないのは家族として認められていないようで悲しいです」「ダリア、お前にはまだ難しい書物や扱いの難しい物が多いんだ。理解しなさい」お父様はたしなめたけれど、ダリアは黙らなかった。「ですが、鍵のいらない書庫にさえ私はガネーシャお姉様に同伴して頂かなくては入れないままなのですもの……」ダリアがカトラリーを置