LOGINインターホンの音に私と蒼の体が同時にビクッとする。
私、何を思い出して……。
「誰か来たみたいだ。出てくる、一人で大丈夫か?」
「……うん」
この状況で初めの日を思い出している自分が恥ずかしくて俯いてしまったが、蒼はそれを我慢している思ったようで「すぐに戻る」と言ってバスルームを出ていった。
……恥ずかしい。
「副社長」
知らない女の人の声、誰だろう。
「朝霧様のお着替えをお持ちいたしました」
「どうやって?」
「李支社長がなんかやったようです」
まるで凱が犯罪でも犯したかのような口ぶりで話している……あの凱に嫌悪を示す女性は初めて。
どんな人だろう。
「陽菜、聞こえたと思うけれど着替え……陽菜?」
鍵を閉めたから、バスルームの扉は開かない。
さっきの状況と、服を渡すという理由を考えれば、私が鍵をかけると思っていなかったようで蒼は不思議そうな声を出した。
「白川茉莉の子どもは、蒼の子どもなの?」
扉の向こうにいるけれど、蒼が緊張するのを感じた。
面と向かってはいないけれど、正面から問いただしたのはこれが初めて。
蒼の子どもだと思っていたから、「そうだ」と言われるのが嫌だった。
「違う、俺の子じゃない」
どうして、蒼が自分の子どもだと誤解させたままだったのか。
なんで私には、秘密だよって、言ってくれれば……。
はあ。
過去に「こうしてくれていたら」と考えるとキリがない。
あくまでも結果論でこの状況、選択が違えば過程や結果が変わり、違う今がある。
この今だから出てくる「こうしてくれたら」は、過去の選択を責め
「何を言っているのかしら……分かるでしょう?」「分かりませんわ」私はにっこり笑って見せた。「藤嶋さんと仲がいい? 体を使って誘惑している? お友だちと悪口三昧、これは私は白川さんに恋のライバルと思われているのですか?」それなら仕方がない、という風に私はため息を吐いてみせる。「恋は戦争ですものね。他人を蹴落として上に行こうとするその姿、ナイスガッツとも言えますわ」優雅さを売りにしている白川茉莉にとって「ナイスガッツ」は痛恨だったらしい。白川茉莉の顔が赤く染まった。 「白川さん、あなたは私と藤嶋さんの関係を完全に誤解しています」「どういうこと? まさか蒼さんとも兄妹というつもり?」「まさか」なかなか面白い白川茉莉の言葉を私は笑い飛ばした。あれは、断罪する悪役令嬢の気分だった。「私と蒼は元夫婦よ」「…………え?」白川茉莉の唇がハクハクと動いた。呼吸すらままならないようだったのに、言葉はなぜかしっかりしてはいた。「元夫婦……つまり、妻? あなたが、蒼さんの、妻?」「離婚したての、ホカホカの元夫婦よ」周囲のざわめきが大きくなった。 「最近離婚って、副社長は浮気していたってこと?」「白川様って副社長の愛人だったんだ」「愛人のくせに次期社長夫人って顔してたんだ」 「それならあのご子息は?」「愛人の子ってことだろ……うわあ、修羅場だな」「だから離婚したんだろ」 一夫一妻制の日本において、妻は敬意を払われるが愛人は軽蔑される。手のひら返した「愛人扱い」に白川茉莉の顔はどんどん赤くなり、警備員の手を振り払うと取り巻きを見捨てて一人で立ち去った。そのあとを失笑が追っていった。 白川茉莉が去っても、蒼は一人で周囲の批難を聞いていた。
「蒼さん! 私にこんな真似をして、許さないから!」藤嶋建設に行くと、ロビーは騒然としていた。誰もが騒ぎの中心に夢中で、私は誰にも気づかれることなく騒ぎの中心に向かうことができた。そこは、修羅場だった。白川茉莉は両側を警備員に挟まれ、蒼に向かって喚いていた。取り巻きの四人も、それぞれ警備員につかれて顔を青くしている。 蒼はそんな白川茉莉に目を向けることなく、身を護るように小さく丸まっていた田山さんに「もう大丈夫、ゆっくり呼吸をしなさい」と優しく声をかけていた。蒼の気遣いは分かるけれど、田山さんの性格は例えるなら小動物。暴君竜の蒼が近づくだけで「ゆっくり呼吸」なんて無理な話。 「田山さん!」周囲を囲む人垣から内側に入ると、あちこちから「朝霧陽菜だ」という声が聞こえた。まるで何かの舞台のようだった。蒼が顔をあげたけれど、首を横に振って何も話させなかった。ただ持っていたスマホを振って、あらかた事態は把握していることは伝えた。「朝霧先輩……」「田山さん……全く、慣れないことをして……」田山さんの無事な姿に、思わず涙が浮かんだ。「名探偵はじめましたって……そんなの始めちゃだめよ、危ないでしょう」「だって、毎日この人たちここで朝霧先輩の悪口を言っていて、我慢できなくて……」とうとう堪忍袋の緒が切れてライブ配信したのだというが、それにしてはタイトルもサムネイルもしっかりしていた。それを言うと「準備はしておいて損はないと教えられたから」と田町さんは泣き笑いで応えた。「ありがとう」後先考えなかったことについては、ちょっと言いたいことがあるけれど、田町さんにはいまも感謝している。へへっと笑う田山さんの目尻にある涙を私はハンカチで拭った。 「朝霧……さん!」「……パーティー以来ですね、白川さん」白川さん。
【名探偵ごっこ、はじめました】普段は20分でできる時短料理を紹介していて、私もフォローしている藤嶋建設の後輩の田山さんがそんな動画を投稿した。しかも、ライブ投稿。タイトルもだけど、タグに「#朝霧陽菜」とあって、このタグでSNSが私に“おすすめ”してきたのだと思いながら再生した。 《そうそう、朝霧陽菜さんってそういう方なのよね》引きこもっていたホテルの部屋に響いたのは白川茉莉の声。映像は周囲を撮り、私には藤嶋建設の受付の傍にある打ち合わせスペースだと分かった。《昔は施設で育った不幸な身の上話で男性を誘惑して、いまはSNSでご兄弟を自慢なさって……きれいな方だから甘えられれば男性のほうも悪い気はしないでしょう?》白川茉莉の声は、明らかに盗み聞きと分かるもので、私は急いで出かける準備を始めた。 《そんなことをしているから、男性に暴行されたりするのよ》《街中で突然攫われたりします? しないですよね? つまり、そう言う如何わしい場所にいたに違いありませんわ》白川茉莉の声はなかったけれど、白川茉莉の取り巻きらしい女性たちの同意する声が続いた。《もしかしたら、朝霧陽菜さんのほうが誘ったのかも》《藤嶋さんも、男性だからああいう女性にころりといくのも仕方がないのかもしれませんけど、ねえ》《でも、白川様への裏切りですわ!》《やめて頂戴》白川茉莉の声で、全員が静かになる。《蒼さんはそういう方ではないわ。それに、ちょっとよそ見しているだけですもの》白川茉莉の言葉のあと、周りの賛美する声が続く。劇場型というか……芝居を見ているようだけれど、この人たちはその芝居を何人もが見ていることを知らないだろう。 《朝霧陽菜さんも必死なのよ。働いてお金を稼がなくちゃいけないから》視聴者数も、コメント数もすごい勢いで増えている。働
イライアス、ノア、ルカ。母親はそれぞれアメリカ人、オーストラリア人、ジョージア人。蒼は多国籍だなと呆れていた。同感。 *イライアスは都市再生プランナーで、『建築政策アドバイザー』という肩書きも持っていた。私たち兄弟の中で最も年上の彼はニューヨークで生まれ育ち、幼少期に住んでいた地区が再開発で姿を変えたことが原体験となり奨学金でMITの都市計画学科へ。現在は国際機関や都市政府と連携して「誰もが住みやすい都市空間」を設計していると聞き、私と凱は藤嶋とのプロジェクトの臨時アドバイザーとしてイライアスに協力を頼んだ。冷静で理知的で「お兄ちゃんだな」と思わず感想を漏らしたら、自分は違うのかと凱が不機嫌になったけど兄オーラみたいなものは凱にはない。年齢的にイライアスは私たちの長兄なのだけど、まだ見つかるかもしれないので「長兄」とはしていない。お母さんが舞台美術家でメルボルンで育ったというノアは建築ビジュアライザーで、アーサーがヘッドハンティングして現在はキャメロットで建築プレゼンや展示空間の演出を担当している。感性派で社交的なノアは、妹の私には優しくて愉快な兄だが、同い年の弟である李凱とはデザインの話でよく議論している。海を見る目は二人ともキラキラしていてそっくりで、どちらも華やかなイケメンなので双子に見えなくもない。ルカは私たちの中で最年少で、ルカは藤嶋建設でいま働いている。トビリシで育った彼は旧ソ連時代の建物の老朽化に危機感を抱き、奨学金でドイツの工科大学に留学して構造工学を専攻。目標は高層建築の構造解析のスペシャリストになることで、耐震・免震設計、地震多発地域の建築安全などから日本の建築に興味があったらしい。元看護師のお母さん、タマルさんも一緒に来日。タマルさんはいま蓮さんの看護師として西山家に滞在している。看護師と聞いたときはクリストファー・アシュフォードの体調はこの頃から悪かったのかもしれないと私たちは少ししんみりしたけれど、彼女は外科の看護師でクリストファー・アシュフォードとは彼がぎっくり腰で病院に来たのをきっかけに知り合ったらしい。凱とノアは「ヤリ過ぎだ」と、同じ表情を浮かべて呆れていた。私たち五人兄妹はイギリスのアシュフォード邸で会い、クリストファー・アシュフォードの写真を真ん中に写真を撮った。更新したSNSは評判に、
目覚めた蓮さんは、長く昏睡状態にあったため動くことはもちろん、意思疎通をするためにもリハビリが必要だった。目覚めてからすぐはYESかNOの視線反応しかできなかったが、意識は明瞭で周囲を認識できていること、事件当時の記憶があること、そして判断力や理解力などの認知機能に問題がないことから、蓮さんの証言次第では転落事件の犯人として白川茉莉を再調査できる可能性が出た。 *私を誘拐したあの犯人たちは公務執行妨害で逮捕された。公務執行妨害では一時的な足止めでしかなく、私は急いで彼らを訴える準備を始めたが三奈子さんにストップをかけられた。犯罪に慣れていた男たちなら他に余罪があるかもしれない、すぐに訴えなくても公訴期間があるから様子を見たほうがいいと言われた。三奈子さんの予想通り、公務執行妨害で逮捕された男たちは、事件の数日前に都内のクラブで若い男性を暴行、金銭を奪っていたことが警察の捜査で判明。また過去に似たような暴行罪で逮捕されていたことから、西山さんの知人の検事さんがガンガン攻めて執行猶予なしで3年の懲役になった。 ――これで共犯者は動くわ。そうすれば白川茉莉さんまでの太い線ができる。三奈子さんにそう言われたとき、その場にいた蒼も凱も驚いていたのに、翠さんは三奈子さんの言葉に深く同意していた。――事件のことを陽菜さんが沈黙しても白川茉莉がSNS上で吹聴するわよ。翠さんの言葉に、自分の罪を煽るような馬鹿な真似をするわけがないと反論したが、私も、三奈子さんも翠さんの言葉に賛成だった。ちなみにお祖母様と伯母様も同意見。――こういう女性は24時間主人公じゃなきゃ嫌なのよ。伯母様のこの一言は名言だと思う。 三奈子さんによれば公訴時効は3年だが、海を騒ぎにできるだけ巻き込みたくないので早めに仕掛けることにした。白川茉莉は何かを我慢して耐えるような性格はしていない。煽ればボロを出す。喧嘩は派手に、白川茉莉が得意とするSNSを合戦の舞台に選んだ。お祖母様と
「きょうのおやつ、バナナかな? バナナじゃないかな、じゃあね、バナナじゃなくてもいいかな、でもやっぱりバナナがいいな」海の取り留めないお喋りを、ソファに座る自分の膝にのせて聞いている蒼の顔は優しい。擬音語満載で、気を抜くと全然違う話になっていて理解できない話なのに蒼は優しい顔で聞いている。部下に対しては「簡潔に、さっさと話せ」と暴君なのに差がすごい。「陽菜」蒼のその目が私に向くと、純粋に優しいだけの目に甘いものが灯る。おはようのキスよりよほど甘い。「海、ママが着替えてきたぞ。海もバッチリな姿を見せてやれ」海は蒼の足から降りて、準備のできた姿を私に見せてくれる。その姿は凛々しく見えなくもないのかもしれないけれど、蒼の膝から降りるときの、お尻を振って降りる姿こ可愛らしさが強烈過ぎて凛々しく見えない。 「おばあちゃんにあげるの」海の小さな手には例のドングリ。おばあちゃんとは翠さんのこと。海は宝物を惜しみなくあげるくらい翠さんが大好きで、今日は翠さんと一日遊ぶのだとずっと前から楽しみにしていた。 *私と蒼は離婚した。海の親権は私が持つことになったが、離婚する前に海の出生届に自分と私を父母として出したいと蒼に言われた。海の戸籍に『認知』という言葉を残し、海を非嫡出子にしたくない。海のためを思った提案であるし、できる男の黒崎さんが認知手続きを『面倒くさい』と分かる感じにまとめた資料を寄越し、それが決定打になった。当人同士が良ければいいじゃないと凱に愚痴ったら、拗れに拗れて周囲を喧嘩に巻き込んだ夫婦がいう台詞じゃないと呆れられた。蒼と離婚したあとは『朝霧陽菜』に戻る手続き。運転免許証、銀行や証券などの金融商品の名義、クレジットカードやネット通販のアカウント情報、『藤嶋陽菜』が意外とあった事実に、それに気づかぬままでいたという事実に苦い思いがこみ上げた。 私のパスポートが『朝霧陽菜』に戻るのを待って