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隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる
隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる
Author: Sunny

第1話:隣の男は、最悪の元カレ

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:08:39

段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。

白い壁。

まだ何も掛かっていないカーテンレール。

大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。

職場からタクシーで十分。

築浅で、セキュリティも設備も申し分ない。

一人で住むには、少しだけ背伸びをした部屋だった。

けれど、今の私にはこれくらい必要だと思った。

誰にも気を遣わずに眠れる場所。

三年間暮らした部屋の記憶を、少しずつ薄めていける場所。

三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度、自分の生活を作り直すための場所。

そのはずだった。

「……疲れた」

声に出すと、思っていたより頼りない響きになった。

朝から引っ越し業者の対応をして。

前の部屋の退去立ち会いをして。

不動産会社で鍵を受け取って。

電気とガスを確認して。

ネットの接続に一時間格闘した。

その間にも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。

『確認お願いします』

『今日中に戻せますか?』

『先方が急ぎで見たいそうです』

私はスマホを裏返し、段ボールの上へ置いた。

画面が見えなくなっただけで、少しだけ呼吸が深くなる。

本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。

けれど、目を閉じると、別れた日の拓也の顔が浮かぶ。

三十二歳の誕生日。

予約していたレストランへ向かう前だった。

拓也は私を責めなかった。

声を荒らげることもなかった。

ただ、少し疲れた顔で言った。

「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」

その言葉は、今も胸の奥に残っている。

生きていける。

たしかに、そうかもしれない。

仕事はある。

収入もある。

新しい部屋も、自分で借りられた。

重い荷物だって、業者に頼める。

家具も家電も、自分のカードで買える。

けれど。

生きていけることと、寂しくないことは違う。

強くなりたくて、強くなったわけではない。

ただ、仕事を落とさないようにして。

誰かの期待に応えて。

無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか、誰にも頼らなくて済む女になっていた。

拓也は、そこに疲れたのだと思う。

私が何も言わないことに。

頼らないことに。

一人で何でも決めてしまうことに。

別れる少し前、拓也は何度も将来の話をしようとしていた。

結婚。

子ども。

住む場所。

けれど私は、そのたび仕事を理由に後回しにした。

今じゃなくてもいい。

来月なら。

この案件が終わったら。

そう言い続けているうちに、拓也の方が先に諦めた。

嫌いになったわけではない。

裏切られたわけでもない。

だからこそ、別れたあとに残ったものを、どこへ置けばいいのか分からなかった。

私は立ち上がり、コンビニで買ったハイボールの缶を開けた。

プシュ、と乾いた音がする。

その音だけが、少しだけ新しい生活の始まりらしかった。

窓の外には、東京の夜景が広がっている。

オフィスの明かり。

走る車のライト。

誰かが暮らしている部屋の灯り。

どれも綺麗で、少し遠い。

私は缶に口をつけた。

冷たいアルコールが喉を通る。

この部屋で、やり直そう。

仕事以外の自分を、少しずつ取り戻す。

恋愛は、しばらくいい。

誰かに合わせることも。

期待することも。

期待されることも。

今はもう、少し疲れていた。

ただ静かに暮らしたい。

そう思った、その時だった。

――ドン。

壁の向こうから、鈍い音がした。

私は缶を持ったまま、眉を寄せる。

隣。

数秒後、くぐもった笑い声が聞こえた。

女の声だった。

最初は、テレビか何かだと思った。

築浅の、それなりに家賃の高いマンションだ。

壁が薄いなんて、考えてもいなかった。

けれど、続いて聞こえたのは、明らかに人の気配だった。

ベッドが軋むような音。

低い男の声。

それから、距離の近い女の甘い声。

私は動きを止めた。

「……嘘でしょ」

引っ越し初日。

失恋直後。

同棲を解消して、一人で立て直そうと決めた夜。

その最初のBGMが、隣人の情事。

神様がいるなら、かなり性格が悪い。

私はイヤホンを耳に押し込んだ。

雨音のBGMを流す。

音量を上げる。

さらに上げる。

それでも、壁の向こうの気配は消えなかった。

笑い声。

何かが床に落ちる音。

女が男の名前を呼ぶ声。

聞き取れそうになって、慌てて音量を上げた。

知りたくもない。

私は残っていたハイボールを一気に飲み干した。

今日だけ。

たまたま今日だけかもしれない。

恋人が泊まりに来ているだけかもしれない。

そう自分に言い聞かせ、布団を頭まで被った。

翌朝は、寝不足のまま出社した。

午前中からクライアントミーティングが三本。

昼休みは十五分。

夕方には炎上しかけた案件の火消し。

夜九時を過ぎても、チームチャットは止まらなかった。

帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。

パンプスを脱ぐ気力もなく、玄関へ座り込む。

「……もう無理」

部屋はまだ段ボールだらけだった。

冷蔵庫には水とヨーグルトしか入っていない。

けれど、今日は眠れる。

そう思った。

シャワーを浴び、髪も乾かさずにベッドへ倒れ込む。

その直後。

――コン。

――ドン。

私は目を開けた。

数秒後、また聞こえた。

女の笑い声。

昨日とは違う声だった。

昨日より少し高い。

笑い方も違う。

そんなこと、分かりたくもないのに分かってしまう。

私はゆっくり身体を起こした。

二日連続。

しかも、相手が違う。

この部屋の隣には、毎晩違う女を連れ込む男が住んでいるらしい。

管理会社に言うべきか。

でも、入居二日目で騒音相談をするのも気が重い。

何より、具体的に何と伝えればいいのか。

隣の夜の声がうるさくて眠れません。

言えなくはない。

でも、できれば言いたくない。

三十二歳の誕生日に恋人から振られ。

同棲を解消し。

一人で立て直すために引っ越した先で。

隣人の情事に悩まされている。

惨めすぎて、笑えなかった。

私は枕を抱えて壁を睨んだ。

今日だけ。

今日まで。

明日も続いたら、さすがに言おう。

そう決めた。

そして三日目。

午前一時を過ぎた頃。

また、女の声が聞こえた。

今度も、前の二人とは違う声だった。

その瞬間、私の中で何かが切れた。

明日も朝から会議がある。

クライアントへの提案前で、資料の最終確認も残っている。

私は静かに暮らすために、この家賃を払っている。

なぜ私が、他人の恋愛事情を壁越しに聞かされながら眠らなければいけないのか。

怒りが、三日分の疲労を押しのけた。

私はベッドを出た。

部屋着の上にカーディガンを羽織る。

鏡を見ると、髪は乱れ、目の下には隈があった。

けれど、もうどうでもよかった。

怒っている女は、身だしなみより正当性を優先する。

玄関を出る。

深夜の廊下は、妙に静かだった。

足音が床へ小さく響く。

その静けさの中で、隣の部屋だけが別の世界みたいに感じられた。

私は隣室の前に立った。

表札はない。

中から、また低い声が聞こえる。

私は息を吸い、インターホンへ指を伸ばした。

ピンポーン。

音が鳴った。

数秒、沈黙が落ちる。

中で何かを小声で話す気配がした。

足音。

こちらへ近づいてくる。

私は腕を組み、唇を引き結んだ。

夜中にすみません。

でも、もう少し静かにしてもらえませんか。

言うことは決めていた。

できるだけ冷静に。

大人として。

感情的にならないように。

ドアの向こうで鍵が開く。

ガチャリ。

扉が少しだけ開いた。

「……はい?」

現れた男を見た瞬間。

私は、用意していた言葉をすべて忘れた。

最初に目に入ったのは、目だった。

眠気を含んだような、少し気怠げな目。

それなのに、人の奥まで真っ直ぐ見抜くような黒い視線。

無造作に落ちた前髪。

昔より骨張った輪郭。

ゆるく開いた黒いシャツの襟元。

二十一歳だった頃より、肩の線が広くなっていた。

首筋も。

声も。

立ち方さえも。

あの頃より、ずっと大人の男になっていた。

けれど。

変わっていない。

目の前に立った瞬間に分かってしまった。

その目が、驚いたように一度だけ見開かれる。

私の顔を確かめるように、視線が止まった。

ほんの一瞬。

次の瞬間には、もう何もなかったような表情へ戻っていた。

けれど、私は見てしまった。

翔太も、私を見て動揺した。

少なくとも、一瞬は。

扉の奥から、女の声がした。

「翔太くん、誰?」

その名前に。

胸の奥が、強く鳴った。

忘れたと思っていた。

顔も。

声も。

名前を呼ばれた時の感覚も。

全部、ちゃんと過去に置いてきたつもりだった。

それなのに。

目の前に立たれただけで、身体の方が先に思い出してしまう。

島原翔太。

五年前。

私が二十六歳で、彼が二十一歳だった頃。

半年だけ付き合っていた元恋人。

最後まで、ちゃんと別れられなかった人。

私が、一方的に音信不通にした人だった。

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