تسجيل الدخول
段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。
白い壁。 まだ何も掛かっていないカーテンレール。 大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。 職場からタクシーで十分。 築浅で、セキュリティも設備も申し分ない。 一人で住むには、少しだけ背伸びをした部屋だった。 けれど、今の私にはこれくらい必要だと思った。 誰にも気を遣わずに眠れる場所。 三年間暮らした部屋の記憶を、少しずつ薄めていける場所。 三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度、自分の生活を作り直すための場所。 そのはずだった。 「……疲れた」 声に出すと、思っていたより頼りない響きになった。 朝から引っ越し業者の対応をして。 前の部屋の退去立ち会いをして。 不動産会社で鍵を受け取って。 電気とガスを確認して。 ネットの接続に一時間格闘した。 その間にも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。 『確認お願いします』 『今日中に戻せますか?』 『先方が急ぎで見たいそうです』 私はスマホを裏返し、段ボールの上へ置いた。 画面が見えなくなっただけで、少しだけ呼吸が深くなる。 本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。 けれど、目を閉じると、別れた日の拓也の顔が浮かぶ。 三十二歳の誕生日。 予約していたレストランへ向かう前だった。 拓也は私を責めなかった。 声を荒らげることもなかった。 ただ、少し疲れた顔で言った。 「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」 その言葉は、今も胸の奥に残っている。 生きていける。 たしかに、そうかもしれない。 仕事はある。 収入もある。 新しい部屋も、自分で借りられた。 重い荷物だって、業者に頼める。 家具も家電も、自分のカードで買える。 けれど。 生きていけることと、寂しくないことは違う。 強くなりたくて、強くなったわけではない。 ただ、仕事を落とさないようにして。 誰かの期待に応えて。 無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか、誰にも頼らなくて済む女になっていた。 拓也は、そこに疲れたのだと思う。 私が何も言わないことに。 頼らないことに。 一人で何でも決めてしまうことに。 別れる少し前、拓也は何度も将来の話をしようとしていた。 結婚。 子ども。 住む場所。 けれど私は、そのたび仕事を理由に後回しにした。 今じゃなくてもいい。 来月なら。 この案件が終わったら。 そう言い続けているうちに、拓也の方が先に諦めた。 嫌いになったわけではない。 裏切られたわけでもない。 だからこそ、別れたあとに残ったものを、どこへ置けばいいのか分からなかった。 私は立ち上がり、コンビニで買ったハイボールの缶を開けた。 プシュ、と乾いた音がする。 その音だけが、少しだけ新しい生活の始まりらしかった。 窓の外には、東京の夜景が広がっている。 オフィスの明かり。 走る車のライト。 誰かが暮らしている部屋の灯り。 どれも綺麗で、少し遠い。 私は缶に口をつけた。 冷たいアルコールが喉を通る。 この部屋で、やり直そう。 仕事以外の自分を、少しずつ取り戻す。 恋愛は、しばらくいい。 誰かに合わせることも。 期待することも。 期待されることも。 今はもう、少し疲れていた。 ただ静かに暮らしたい。 そう思った、その時だった。 ――ドン。 壁の向こうから、鈍い音がした。 私は缶を持ったまま、眉を寄せる。 隣。 数秒後、くぐもった笑い声が聞こえた。 女の声だった。 最初は、テレビか何かだと思った。 築浅の、それなりに家賃の高いマンションだ。 壁が薄いなんて、考えてもいなかった。 けれど、続いて聞こえたのは、明らかに人の気配だった。 ベッドが軋むような音。 低い男の声。 それから、距離の近い女の甘い声。 私は動きを止めた。 「……嘘でしょ」 引っ越し初日。 失恋直後。 同棲を解消して、一人で立て直そうと決めた夜。 その最初のBGMが、隣人の情事。 神様がいるなら、かなり性格が悪い。 私はイヤホンを耳に押し込んだ。 雨音のBGMを流す。 音量を上げる。 さらに上げる。 それでも、壁の向こうの気配は消えなかった。 笑い声。 何かが床に落ちる音。 女が男の名前を呼ぶ声。 聞き取れそうになって、慌てて音量を上げた。 知りたくもない。 私は残っていたハイボールを一気に飲み干した。 今日だけ。 たまたま今日だけかもしれない。 恋人が泊まりに来ているだけかもしれない。 そう自分に言い聞かせ、布団を頭まで被った。 翌朝は、寝不足のまま出社した。 午前中からクライアントミーティングが三本。 昼休みは十五分。 夕方には炎上しかけた案件の火消し。 夜九時を過ぎても、チームチャットは止まらなかった。 帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。 パンプスを脱ぐ気力もなく、玄関へ座り込む。 「……もう無理」 部屋はまだ段ボールだらけだった。 冷蔵庫には水とヨーグルトしか入っていない。 けれど、今日は眠れる。 そう思った。 シャワーを浴び、髪も乾かさずにベッドへ倒れ込む。 その直後。 ――コン。 ――ドン。 私は目を開けた。 数秒後、また聞こえた。 女の笑い声。 昨日とは違う声だった。 昨日より少し高い。 笑い方も違う。 そんなこと、分かりたくもないのに分かってしまう。 私はゆっくり身体を起こした。 二日連続。 しかも、相手が違う。 この部屋の隣には、毎晩違う女を連れ込む男が住んでいるらしい。 管理会社に言うべきか。 でも、入居二日目で騒音相談をするのも気が重い。 何より、具体的に何と伝えればいいのか。 隣の夜の声がうるさくて眠れません。 言えなくはない。 でも、できれば言いたくない。 三十二歳の誕生日に恋人から振られ。 同棲を解消し。 一人で立て直すために引っ越した先で。 隣人の情事に悩まされている。 惨めすぎて、笑えなかった。 私は枕を抱えて壁を睨んだ。 今日だけ。 今日まで。 明日も続いたら、さすがに言おう。 そう決めた。 そして三日目。 午前一時を過ぎた頃。 また、女の声が聞こえた。 今度も、前の二人とは違う声だった。 その瞬間、私の中で何かが切れた。 明日も朝から会議がある。 クライアントへの提案前で、資料の最終確認も残っている。 私は静かに暮らすために、この家賃を払っている。 なぜ私が、他人の恋愛事情を壁越しに聞かされながら眠らなければいけないのか。 怒りが、三日分の疲労を押しのけた。 私はベッドを出た。 部屋着の上にカーディガンを羽織る。 鏡を見ると、髪は乱れ、目の下には隈があった。 けれど、もうどうでもよかった。 怒っている女は、身だしなみより正当性を優先する。 玄関を出る。 深夜の廊下は、妙に静かだった。 足音が床へ小さく響く。 その静けさの中で、隣の部屋だけが別の世界みたいに感じられた。 私は隣室の前に立った。 表札はない。 中から、また低い声が聞こえる。 私は息を吸い、インターホンへ指を伸ばした。 ピンポーン。 音が鳴った。 数秒、沈黙が落ちる。 中で何かを小声で話す気配がした。 足音。 こちらへ近づいてくる。 私は腕を組み、唇を引き結んだ。 夜中にすみません。 でも、もう少し静かにしてもらえませんか。 言うことは決めていた。 できるだけ冷静に。 大人として。 感情的にならないように。 ドアの向こうで鍵が開く。 ガチャリ。 扉が少しだけ開いた。 「……はい?」 現れた男を見た瞬間。 私は、用意していた言葉をすべて忘れた。 最初に目に入ったのは、目だった。 眠気を含んだような、少し気怠げな目。 それなのに、人の奥まで真っ直ぐ見抜くような黒い視線。 無造作に落ちた前髪。 昔より骨張った輪郭。 ゆるく開いた黒いシャツの襟元。 二十一歳だった頃より、肩の線が広くなっていた。 首筋も。 声も。 立ち方さえも。 あの頃より、ずっと大人の男になっていた。 けれど。 変わっていない。 目の前に立った瞬間に分かってしまった。 その目が、驚いたように一度だけ見開かれる。 私の顔を確かめるように、視線が止まった。 ほんの一瞬。 次の瞬間には、もう何もなかったような表情へ戻っていた。 けれど、私は見てしまった。 翔太も、私を見て動揺した。 少なくとも、一瞬は。 扉の奥から、女の声がした。 「翔太くん、誰?」 その名前に。 胸の奥が、強く鳴った。 忘れたと思っていた。 顔も。 声も。 名前を呼ばれた時の感覚も。 全部、ちゃんと過去に置いてきたつもりだった。 それなのに。 目の前に立たれただけで、身体の方が先に思い出してしまう。 島原翔太。 五年前。 私が二十六歳で、彼が二十一歳だった頃。 半年だけ付き合っていた元恋人。 最後まで、ちゃんと別れられなかった人。 私が、一方的に音信不通にした人だった。白いキャンバスに向き合う。久しぶりすぎて、一瞬だけ手が止まった。何から描いてたっけ。どう始めてたっけ。昔はもっと迷わなかった気がする。映画の余韻がまだ身体に残っている。テーマはもう決まっていた。さっき観たホラー映画の中で印象的だった、あの鏡のシーン。暗い廊下。水音。見えているものが本当かどうか分からない、不穏な空気。でも、少しずつ色を選び始めると、不思議と身体が覚えていた。輪郭。空気。感情。気づけば、ただ映画のワンシーンを描くつもりだったのに、頭の中で勝手に意味を足してしまう。暗い青。少し濁った白。細い黒。鏡の中の影。色の置き方も、構図も、少し抽象的になる。結局、自分の絵ってこうなるんだよな。そう思いながら、筆を動かしていた。「久しぶり?」不意に、隣から声が落ちる。翔太だった。グラスを片手に持っている。でも、ちゃんとこちらを見ていた。私は少し考えた。「……かなり」筆を止める。「描けない時間の方が、もう長いかも」諦めてから。本当に、しばらく描いていなかった。好きだったものを、自分から離した感覚。正人に見せた倉庫のことが、少しだけ頭をよぎる。あの白い蛍光灯。積まれたキャンバス。正人の腕。胸の奥が、ほんの少しだけ静かに揺れた。翔太は何も急がない。ただ、少しだけ目を細める。「でも楽しそう」その言い方が、妙に自然だった。観察しているみたいな。昔から、翔太はこうだった。好きなことをしている時の顔を、よく見ていた。自分でも気づいていない変化を、先に見つける。そういう目。「……見すぎ」誤魔化すように言うと、翔太が少し笑った。「バレた?」その笑い方に、少しだけ落ち着かなくなる。ワインが少し進んでいた。店の空気のせいか。久しぶりに描く感覚のせいか。思っていたより気持ちが緩んでいる。一時間くらい経って、それぞれの絵がなんとなく形になり始めた。私は少し離れて、自分の絵を見る。映画のワンシーン。のはずなのに。気づけば感情の比重が強すぎて、抽象画みたいになっている。なんか、上手くない。そう思って少し眉を寄せていると、楓が覗き込んできた。「終わった?」そのまま、自分の絵も見せてくる。雑だった。驚くほど雑。線が勢い任せで、途中から絶対面倒くさくなっている。「パ
アートバーへ着いた頃には、夕方に近かった。ビルの二階。ガラス扉の向こうに、キャンバスと絵具が並んでいる。説明を受ける。絵具。筆。エプロン。小さめのキャンバス。少しだけ懐かしい匂いがした。油絵ではない。もっと気軽なアクリル絵具。それでも、筆を手に取った瞬間、指先が少しだけ緊張した。楓が急に言う。「テーマ決めようよ」無茶振り。私は少し考える。さっきの映画を思い出す。暗い廊下。鏡。水音。見えているものが本当か分からない感じ。「じゃあ……」少しだけ笑う。「あのワンシーン」楓が頷く。「いいね」翔太もキャンバスを見ながら言う。「鏡のやつ?」「うん」「あれ、愛子好きそう」また。当然みたいに言う。私は筆を持ったまま、少しだけ睨む。「なんでも分かった顔しないで」「してない」「してる」「じゃあ、ちょっとだけ」悪びれない。その顔がまた、腹立つほど綺麗だった。久しぶりだな。本当に。筆を持つの。ぼんやり構図を考えていると、翔太がさりげなく聞いた。「どれくらいぶり?」「……しばらくかな」少し笑う。「描けない時の方が長かったし」諦めてから。ずっと。翔太は何も言わなかった。ただ、私の手元を見ている。楽しそうに。でも、茶化さずに。その視線が気になる。何かを評価する目ではない。昔の私を知っている目でもない。今、筆を持ち直そうとしている私を見ている目。その静けさに、少しだけ胸が詰まる。「いや、一番下手だった人の奢りだから」私は誤魔化すように言った。「集中して」翔太が少し笑う。割と本気で。「それ、勝ち目なくない?」その笑顔に、一瞬止まった。あ。久しぶりに見た。こういう顔。少し無邪気で。少し悪い。ちゃんと、好きだった頃の翔太。不意打ちみたいな、ときめきだった。五年前のカフェ。ホラー映画の帰り道。夜のコンビニ。少し生意気に笑う翔太。その記憶が、今の大人になった顔に一瞬だけ重なる。私は慌てて視線をキャンバスへ戻した。「勝ち目ないかは描いてから言って」「はいはい」翔太は笑ったまま、筆を取る。その仕草が、どこか楽しそうで。少しだけ、少年っぽかった。楓が隣で言う。「俺、普通にセンスあるから」「言う人ほど怪しい」「愛子、見てろよ」「見てない」「
映画は、思った以上に面白かった。エンドロールが流れても、しばらく席を立てなかった。余韻がある。怖いというより、考えさせられる怖さ。主人公が最後に選んだこと。途中で出てきた意味深な部屋。誰が本当に見えていたのか。頭の中で、いくつもの場面がつながっていく。ロビーに出てから、私は珍しくパンフレットを買った。久しぶりの映画。久しぶりに、映画の余韻をちゃんと持ち帰りたいと思った。ページをめくる。その時、後ろから影が落ちた。少しだけ近い。翔太が自然に覗き込む。「え、俺こいつ死ぬと思ったのに」指差したキャラクター。私は思わず笑う。「私も同じこと思った」「でしょ?」自然に盛り上がる。考察。伏線。演出。話が止まらない。「あの鏡のシーン、絶対二回目見ると違うよね」「分かる。あれ、あの時点で入れ替わってるっぽい」「でも音だけ先に変わってなかった?」「変わってた。だからたぶん、あの部屋に入る前からおかしい」「だよね」翔太の目が、少し楽しそうに細くなる。こういう時の翔太は、話を合わせているというより、ちゃんと同じ場所で面白がっている。それが伝わる。だから会話が軽い。無理がない。一緒に同じものを見て、同じところで引っかかっている感じ。楓が呆れた顔をした。「なに?」私が聞くと、楓はポップコーンの空箱を持ったまま肩をすくめた。「二人ともなんか似てるね」少し間。「考え方」私は止まる。楓が続ける。「愛子の感性に合うこと、光栄に思いな?」謎のシスコン目線。翔太が少し笑った。「うん、まあ」少しだけ間を置く。それから、私を見る。「貴重だよね。相性の良さってあるし」からかっている。少しだけ。でも、目線がちゃんとこっちを見ている。冗談にして逃がしているのに、言葉の中身は軽くない。私は思わず視線を逸らした。なんで。そんな言い方をするんだろう。少しだけ、照れる。楓がまた空気を読まない。「なんかアートバー前に食べたくない?」「楓さっきポップコーン食べてたよね」「別腹」翔太が少し考える。「美味しいおにぎり屋あるけど行く?」「え、知ってんの?」「近いんで」「最高」楓が即答した。私は翔太を見る。「詳しいね」「この辺、映画のあとによく歩くので」「一人で?」聞いてから、少しだけしま
ホラー映画祭り。上映作品は三本。どれも、それなりに癖が強かった。血。呪い。精神系。ポスターだけで、もうちゃんと怖そうだった。映画館のロビーには、同じイベント目当てらしい人たちがちらほらいる。黒い服の人。カップル。一人でパンフレットを見ている人。休日の昼なのに、ここだけ少し夜みたいな空気だった。三人でポスターの前に立つ。一番最初に指を差したのは楓だった。「絶対これだよね」一番派手なスプラッター系。赤い文字。血まみれの手。いかにも、というビジュアル。私は少し眉を寄せた。「いや、違う」ほぼ同時だった。「いや、違うでしょ」翔太の声も重なった。二人とも、同じ作品を見ていた。少し静かな心理系ホラー。ポスターの色は暗く、顔の見えない人物が、古い部屋の奥に立っている。考察が多そうなタイプ。派手ではない。でも、あとからじわじわ来そうな怖さがある。楓が露骨に嫌な顔をした。「えー、なんで?」翔太が少しだけ笑う。それから、私を見る。「やっぱりね」「……え?」「愛子、これ選ぶと思った」あまりにも自然に言った。分かっていたみたいに。迷いもなく。胸の奥が少しだけ揺れる。「なんで」「なんとなく」翔太は肩をすくめる。「派手に驚かせるやつ、そんな好きじゃないじゃん」図星だった。悔しいくらい。「音でびっくりさせるだけのやつ、あとで文句言うし」「……言うけど」「でしょ」翔太は少しだけ得意そうに笑った。その顔が、腹立つほど自然だった。楓が納得いかない顔をする。「俺だけ仲間外れなんだけど」「多数決」私は即答した。「姉って冷たい」「楓が空気読めないだけだよ」「ホラーに空気読むとかある?」「ある」翔太が横で低く笑った。「まあ、楓くんの選んだやつ、たぶん一番疲れる」「翔太まで」「三本目ならあり」「今日一本しか観ないでしょ」「じゃあ今日はなし」楓は不満そうにしながらも、最後には諦めた。結局、二対一。映画は決まった。席は自然と私が真ん中になった。楓。私。翔太。映画館特有の少し冷えた空気。暗くなる前のざわつき。スクリーンには予告編が流れ、客席のあちこちでポップコーンの袋が鳴っている。楓が嬉しそうにポップコーンを抱えていた。「これマジ美味いから」「いや、自分で食べるっ
映画館が近づいてくる。休日の人混み。大きなポスター。チケットカウンターの前に並ぶ人。館内へ入った瞬間、空気が変わった。外より少し冷たい。私は思わず肩をすくめた。その時だった。翔太が自然にパーカーを脱いだ。何も言わずに、一度自分の腕にかける。それから私の方を見る。「寒いでしょ」当たり前みたいに言って、肩にかけてくる。反射的に受け取ってしまった。少し大きい。柔軟剤の匂い。少しだけ残る香水。なんとなく落ち着く匂い。妙に心臓がうるさい。「いや、いいよ」返そうとすると、翔太は私の手首の近くで軽く布を押さえた。触れたのはほんの一瞬だった。でも、その一瞬だけで、距離が近い。「いいから」低い声。強くはない。でも、拒ませない温度。「映画館、冷えるし」視線が合う。その目が、少しだけ真面目だった。優しさを冗談にしない時の顔。私は何も言えなくなって、パーカーを肩にかけたまま小さく頷く。「……ありがとう」翔太の目元が、ほんの少し緩む。「どういたしまして」楓が普通に言う。「翔太、いい身体してるよね」一瞬で空気が壊れた。「楓」「いや、褒めてる」「黙って」「肩とか腕とか、結構鍛えてるよね」「見なくていい」「愛子も見てたじゃん」「見てない」即答した。でも、見てしまっていた。パーカーを脱いだ翔太は、黒のTシャツ一枚になっている。肩。腕。首元。ラフな服の下にあった身体のラインが、思っていたより男っぽい。細いわけじゃない。無駄に大きく見せる感じでもない。ちゃんと鍛えている人の身体。その自然さが、また困る。周りの視線も少しだけ集まっている。翔太はたぶん、それに気づいている。でも興味がない。キャップのつばを少し触り、楓の言葉を軽く流す。「ジム行ってるだけですよ」「やっぱり」楓が納得した顔をする。「俺も東京いる間、どっか行きたい」「近くにありますよ」「まじ?」「まじ」二人がまた普通に話し始める。私はその横で、肩にかかったパーカーの重みを意識していた。翔太は楓と話しながらも、ふとこちらを見る。「寒くない?」自然に聞いてくる。その温度だけ、少し違う。楓へ向ける顔とは違う。人懐っこく笑っているのに、私を見る時だけ、目が少し静かになる。近い。なんか今日、ちょっと近い。
休日。目が覚めた時には、時計は十一時を少し回っていた。カーテンの隙間から、春の日差しが斜めに差し込んでいる。昨日飲んだハイボールのせいか、少しだけ頭が重い。でも。それ以上に、胸の奥がなんとなく落ち着かなかった。倉庫。正人の腕。抱きしめられた時の熱。見ないで、と誤魔化した声。好き、と少し困ったみたいに笑った顔。昨日だけで、感情が動きすぎた。ぼんやりしたままスマホを見る。通知。翔太。心臓が少しだけ跳ねる。<起きた?><頑張って早めに起きたけど><楓さん何時に来る?>思わず少し笑ってしまう。頑張って早めに起きたって。休日感がすごい。少し前まで仕事帰りで疲れていたくせに。でも、なんだかんだちゃんと起きてくるところが翔太らしい。私はベッドの上で少し考えてから返信する。<楓、もう近くまで歩いてきてるらしい><コーヒー買って公園少し歩いてから行こ>数秒で既読。<了解>相変わらず短い。必要なことだけ。でも、それが妙に落ち着く。準備をしながら、鏡を見る。今日はラフでいい。映画だし。楓もいる。ただそれだけ。なのに。なぜか少しだけ、服を迷った。白の薄手ニット。黒のパンツ。スニーカー。張り切りすぎていない。でも、ちゃんと外に出られる格好。鏡の前で髪を整えながら、昨日のエレベーターを思い出す。疲れた顔。少し低い声。自然と近い距離。見透かすみたいな視線。――なんかあった?あの感じが、まだ頭に残っている。考えるのをやめる。違う。今日は普通に遊ぶだけ。翔太と。楓と。それだけ。待ち合わせは、マンション近くの公園前だった。休日の昼。犬の散歩をする人。ベンチで本を読む人。小さい子どもがシャボン玉を追いかけている。少し風が強い。でも、春っぽい空気だった。先に見えたのは楓だった。キャップ。サングラス。無駄に目立つ。高身長。タトゥーの入った腕。芸能人か海外アーティストみたいな空気なのに、やっていることはただのシスコン。「おっせー」「十分早い」「日本って待ち合わせ厳しくない?」「楓が適当すぎるだけ」「愛子、朝から厳しい」「昼です」そんなやり取りをしていると、後ろから声がした。「おはようございます」振り向く。少しだけ、止まる。翔太だった。ラフだった。







