LOGIN翔太もまた、私を見ていた。
驚いたのは、ほんの一瞬だった。
見開かれた黒い目。
わずかに止まった呼吸。
けれど、それはすぐに消えた。
次の瞬間には、口元に薄い笑みが浮かんでいた。
懐かしさでもない。
喜びでもない。
相手の動揺だけを見て楽しむような、意地の悪い笑い方だった。
「……へえ」
昔より低くなった声が、深夜の廊下へ静かに落ちる。
「誰かと思えば」
その声を聞いただけで、胸の奥がざわついた。
私は夜中の騒音に文句を言いに来た。
それだけだ。
もう少し静かにしてほしい。
明日も仕事がある。
用意していた言葉は、どれも簡単だったはずなのに。
目の前にいるのが翔太だと分かった瞬間、喉の奥で引っかかってしまった。
翔太は扉に片方の肩を預けたまま、私を見る。
視線が顔から、乱れた髪へ。
部屋着の上に羽織ったカーディガンへ。
それから、裸足の足元までゆっくり落ちる。
昔の翔太は、こんな見方をしなかった。
目が合えば、嬉しそうに笑った。
会いたかったと、言葉にした。
好きだという気持ちを隠すこともなかった。
今の視線には、余裕があった。
こちらが何を思っているのか分かっていて、わざと急かさず待っているような余裕。
「久しぶりですね、愛子さん」
その呼び方に、胸の奥が鈍く痛んだ。
昔は違った。
愛子。
名前を呼ぶたび、大事なものに触れるような声だった。
今は、わざとらしいほど丁寧なさん付け。
たった二文字が増えただけで、五年分の距離を突きつけられた気がした。
私はようやく唇を動かす。
「……翔太?」
「覚えてたんだ」
翔太が少し笑う。
目は笑っていなかった。
「音信不通にした元カレのことなんて、とっくに忘れてるかと思ってました」
まっすぐ刺さった。
反射的に眉を寄せる。
「今、その話をしに来たわけじゃないんだけど」
「じゃあ、何ですか」
背後から、女の声がした。
「翔太くん、誰?」
扉の奥から甘い香水の匂いが流れてくる。
見知らぬ女の影。
床に落ちた服らしきもの。
乱れた空気。
そこでようやく、私は自分が何をしに来たのか思い出した。
背筋を伸ばす。
「夜、もう少し静かにしてもらえませんか」
翔太の眉が、ほんのわずかに動いた。
「静かに?」
「隣まで聞こえてます」
声を落ち着かせようとした。
けれど、疲れと苛立ちのせいで、少しだけ硬くなる。
「正直、かなり迷惑です。明日も朝から仕事なので」
翔太はすぐには答えなかった。
私の顔を見たまま、数秒黙っている。
昔なら、すぐ謝ったと思う。
困ったように眉を下げて。
気づかなかった、ごめん。
愛子、怒ってる?
そうやって、私の機嫌を取ろうとした。
でも今の翔太は違った。
部屋の中へ顔だけ向ける。
「だってさ」
声の温度は変わらない。
「俺たち、うるさかったみたい」
女が何か返した。
よく聞こえなかった。
聞きたくもなかった。
私はこめかみが引きつるのを感じた。
「分かったなら、気をつけて」
それだけ言って、踵を返そうとする。
これ以上ここにいたくなかった。
翔太の部屋から漂う女の香りも。
昔とは違う目も。
胸の奥で勝手に蘇る記憶も。
全部、早く扉の向こうへ戻してしまいたかった。
「愛子さんって」
背中に声が落ちる。
足が止まった。
「相変わらず勝手ですね」
振り向く。
翔太は扉にもたれたままだった。
笑っている。
けれど、目の奥だけが冷えている。
「自分が言いたいことだけ言って、終わり?」
「今は、隣人として話してるだけ」
「へえ」
翔太の口元が少しだけ歪む。
「便利ですね、隣人って言葉」
「何が言いたいの」
「別に」
そう言いながら、翔太はゆっくり身体を起こした。
扉から離れ、こちらへ半歩近づく。
廊下の狭さが、急に意識に上る。
近い。
触れる距離ではない。
けれど、少し身を引けば、それを翔太に気づかれるくらいには近かった。
翔太がわずかに身を屈め、私と視線の高さを合わせる。
「五年前は恋人やめて」
低い声だった。
「今度は隣人ですか」
呼吸が浅くなる。
「その話は、今じゃないでしょ」
「愛子さんが決めるんですか」
「夜中に女の人を連れ込んで騒いでる人に、昔の話を責められる筋合いはない」
言い返すと、翔太の目が少し細くなった。
怒ったようには見えなかった。
むしろ、少しだけ傷ついたように見えた。
けれど、それも一瞬だった。
すぐに、いつもの薄い笑みに戻る。
「そうですね」
あっさり言う。
「今の俺のこと、愛子さんは何も知らないですもんね」
胸の奥が、微かに揺れた。
知らない。
その通りだった。
五年間。
翔太がどんな生活をして。
どんな仕事をして。
誰と付き合って。
どんなふうに変わったのか。
私は何も知らない。
知ろうともしなかった。
私の中で翔太は、ずっと二十一歳のままだった。
若くて。
真っ直ぐで。
将来を縛ってはいけない相手。
そう勝手に決めて。
彼の言葉を聞く前に、私は逃げた。
けれど、今それを認めるつもりはなかった。
「……あなたこそ、ずいぶん変わったのね」
私が言うと、翔太は少しだけ目を伏せた。
長い睫毛が、頬へ薄い影を落とす。
「愛子さんのおかげで」
冗談の形をした言葉だった。
軽く笑っていた。
けれど、その奥に残った傷までは隠れていなかった。
胸の奥が、ざらつく。
悪かったと思っている。
ずっと。
あの時の終わらせ方は最低だった。
彼のためだと思い込んで。
自分が怖かっただけなのに。
ちゃんと話すこともせず。
連絡を返さなくなって。
海外赴任を理由に、そのまま消えた。
でも。
今ここで謝ったところで、何になるのだろう。
翔太の部屋には別の女がいる。
彼には彼の五年間があって。
私は、別の人と三年暮らして。
つい数日前に、その生活を失ったばかりだ。
昔のことを掘り返す余裕なんてなかった。
「とにかく」
私は声を硬くした。
「静かにしてください」
翔太はしばらく私を見ていた。
さっきまでの意地悪な笑みが、少しだけ消えている。
それから、不意に私の目元へ視線を落とした。
隈。
疲れ。
乱れた髪。
全部、見られた気がした。
「まだ、そんな働き方してるんですね」
その一言に、心臓が小さく跳ねる。
「あなたには関係ない」
すぐに返した。
翔太は少しだけ首を傾ける。
「ないですか」
「ない」
「隣なのに?」
「隣人なら、騒音だけ気をつけて」
「分かりました」
今度は素直だった。
あまりにもあっさりしていて、拍子抜けする。
翔太は一歩下がる。
さっきまで近かった距離が、急に元へ戻る。
「これからは気をつけます」
「……お願いします」
「はい」
それで終わりだった。
責める言葉も。
謝罪を求める言葉も。
五年前の続きも。
何もなかった。
翔太は扉へ手をかける。
「じゃあ」
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「これからよろしくお願いします。隣人として」
その言い方が、妙に引っかかった。
私は返事をしなかった。
そのまま自分の部屋へ戻る。
鍵を開け。
扉を閉め。
すぐに内鍵をかける。
背中をドアへ預けた瞬間、一気に力が抜けた。
「……最悪」
声が小さく漏れる。
本当に、最悪だった。
失恋して。
同棲を解消して。
一人で立て直すために引っ越した部屋の隣に。
五年前、自分が一方的に傷つけた元恋人が住んでいた。
しかも。
昔のように真っ直ぐで、可愛い年下の男ではない。
女を連れ込んで。
余裕ぶって。
私の動揺を全部分かっているみたいに笑う男になっていた。
私は壁を見る。
この向こうに、翔太がいる。
たった一枚隔てた場所に。
五年前に置き去りにしたはずの人が。
息をする音まで届きそうな距離で、普通に暮らしている。
その時だった。
壁の向こうで、かすかな話し声がした。
女の声。
翔太の低い声。
私は反射的に耳を澄ませそうになり、すぐに首を振る。
何をしているんだろう。
関係ない。
本当に。
もう関係ない。
そう思った直後。
隣室の扉が開く音がした。
廊下に、女のヒールの音が響く。
一歩。
二歩。
エレベーターの方へ遠ざかっていく。
やがて、廊下が静かになった。
私は壁を見たまま動けなかった。
苦情を聞いてくれただけだ。
静かにしてほしいと言ったから。
だから、女性を帰した。
ただ、それだけ。
そう思うのに。
急に静かになった壁の向こうが、さっきよりもずっと気になった。
スマホが震えた。
画面を見る。
さやかからだった。
『新居どう? 落ち着いた?』
私はしばらく文字を見つめる。
それから、短く打った。
『最悪。隣に元カレが住んでた』
すぐに既読がつく。
数秒後。
『は? どの元カレ?』
続けてもう一件。
『ちょっと待って。電話していい?』
私は床へ座り込み、額を膝へ押しつけた。
説明する気力はなかった。
でも。
誰かに言わずにはいられなかった。
五年前に終わらせたつもりだった恋が。
壁一枚向こうで、また音を立て始めていた。
バラバラの材料が、会話の中で整っていく感じ。自分が見ているものを、相手も違う角度から見てくれている安心感。それは恋愛とは別の場所にある信頼だった。でも今は、その信頼ごと、正人を好きになっていくのかもしれないと思う。ふと、正人の視線が少し長く止まる瞬間があった。私がカレーの辛さに少しだけ目を細めた時。水を飲んで、息を吐いた時。会議の話をしながら、身振りで資料の構成を説明した時。正人は何でもない顔をしている。でも、見ている。前からそうだったのかもしれない。ただ、今はその視線に少しだけ意味が乗っているように感じてしまう。気づかないふりをした。まだ少し、恥ずかしかった。カレー屋を出ると、空はほとんど夜になっていた。夕方の橙色はビルの向こうに消えて、街灯の光が歩道に落ちている。少しだけ冷たい風。スパイスで温まった身体には、ちょうどよかった。帰り道。気づけば、当たり前みたいに手を繋いでいた。昨日みたいな確認はない。でも、勝手ではない。二人とも、同じくらい自然に手を近づけて、同じくらい自然に重ねた。少しだけ力がある。信号待ちで、正人の親指が私の手の甲にほんの少し触れる。何気ない動き。でも、その小さな触れ方に、妙に慣れてしまいそうで少し怖い。住宅街へ入ると、急に静かになった。コンビニの灯り。遠くの犬の鳴き声。夜の空気に混じる、どこかの家の夕飯の匂い。実家の近くまで来る頃には、どちらともなく歩く速度が少しだけ遅くなっていた。終わる空気。でも、終わりたくない空気。それが言葉にならないまま、繋いだ手の間に残っている。家の前で立ち止まる。門灯の下で、正人の横顔が少しだけ明るく見えた。「ありがと」私は小さく言った。「今日も」少し笑う。「楽しかった」正人も少し笑った。「うん」少し間。「俺も」それで終わっていいはずだった。おやすみ、と言って、手を離して、家に入る。それだけでいいはずなのに、空気が終わらない。帰るタイミングなのに、どちらも少し動けない。正人が少し視線を落とした。何かを言いかける。でも、やめる。小さく息を吐いて、困ったように笑った。「……いや」「何?」「なんでもない」その言い方が、妙にぎこちなかった。距離を測っている感じ。何かを飲み込んでいる感じ。それが分かったか
表参道から御茶ノ水へ戻る電車の中は、日曜日の夕方らしく少し空いていた。窓の外には、休日の終わりに近づいている街が流れていく。明るかった空は、少しずつ色を薄めていて、ビルの隙間に残る光も、昼間より柔らかい。紙袋を抱えた人。疲れた顔でスマホを見ている人。子どもの手を引く親。日曜日の夕方特有の、楽しかった時間がゆっくり終わっていくような空気が、車内にも静かに漂っていた。でも、隣に座る正人との距離は、昨日より少しだけ自然だった。肩が時々、ほんの少し近づく。電車が揺れた時、腕がかすかに触れる。わざとじゃない。でも、離れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着いた。手は繋いでいない。けれど、その代わりに、身体の距離が少し変わった気がする。隣にいることを、必要以上に意識しなくてもいい。でも、完全に忘れることもできない。話すテンポも、沈黙も、前より少しだけ柔らかい。友達だった時の自然さが残っていて、そこにまだ慣れない甘さが薄く重なっている。少しずつ、恋人になってきている。そんな感覚があった。「眠い?」正人が小さく聞いた。私は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。「ちょっと」「歩いたしね」「正人は?」「俺も少し」そう言いながら、正人は全然眠そうな顔をしていなかった。姿勢は変わらず綺麗で、膝の上に置いた手も落ち着いている。でも、よく見ると、目元だけがほんの少し柔らかい。休日の正人。仕事の時とは違う、余計な力が抜けた横顔。それを隣で見られることが、まだ少し不思議だった。彼氏。また、その言葉が頭の中で小さく転がる。今朝よりは少しだけ慣れた気がする。でも、完全にはまだ馴染まない。馴染まないまま、その違和感ごと少し嬉しい。御茶ノ水駅を出る頃には、空が少し橙色になっていた。ビルの隙間から夕方の光が斜めに落ちて、駅前の人の流れを薄く照らしている。昼間より風が冷たい。春の光なのに、夜へ向かう気配だけはちゃんと残っていた。正人がふと口を開く。「好きなカレー屋あるんだけど」私は顔を上げる。正人は少しだけ前を向いたまま、自然な声で続けた。「軽くディナー食べてく?」その言い方は、本当にさりげなかった。無理に引き止める感じではない。でも、ほんの少しだけ、もっと一緒にいたい、が滲んでいる。私がそれに気づく前に、正人
本屋を出たあと、少し歩いてカフェに入った。大通りから一本入った、静かな店だった。向かいの席も空いていたのに。 なぜか自然と、隣に座る。メニューを一緒に覗く。肩が近い。それだけのことを、まだ少し意識してしまう。正人がメニューをこちらへ傾けた。「これ、好きそう」「また?」「また」「見すぎじゃない?」「彼氏なので」最近、そればかりだ。でも言われるたび、少し照れる。コーヒーが届き、ケーキを半分ずつ分ける。話は自然と学生時代のことになった。サッカー。 本。 ピアノ。知っているつもりだった正人に、まだ知らない部分がいくつもある。「絶対モテたでしょ」何気なく言うと。 正人がコーヒーを飲みながら、少し困ったように笑った。「普通に友達のノリでそこまで聞かれると」カップを置く。「今、ちょっと答えづらいな」そこで、気づいた。あ。そうか。彼氏なんだ。昨日までなら、軽く聞けた。 元カノの話だって、友達なら笑って聞けたかもしれない。でも今は。 答えによっては、自分が傷つく側にいる。「……ごめん」「謝るほどじゃないよ」正人は笑った。それから、少しだけ私を見る目を細める。「愛子、まだ友達の聞き方するよね」「え?」「距離感が、たまに親友のまま」柔らかい声だった。責めているわけじゃない。 ただ、曖昧にはしない。「それはそれで愛子らしいけど」正人がカップへ手を伸ばす。「俺、今は彼氏だから」胸の奥が、小さく跳ねた。「……慣れてないだけ」「うん。知ってる」すぐに返ってくる。少し安心したところで。「だから、慣らす」顔を上げる。正人は何でもない顔でコーヒーを飲んでいた。「それ、昨日も言ってた」「何回でも言う」「強い」「彼氏なので」笑ってしまった。でも。正人の言葉は、胸の中に残った。友達の距離。 彼氏の距離。私はまだ、その違いをうまく掴めていない。正人は急かさない。 けれど、友達のままでいるつもりもない。「正人って、恋愛観とかある?」聞くと、正人は少しだけ窓の外へ目を向けた。しばらくして。「俺、相手に合わせすぎるんだよね」さっきまでより、声が落ち着いていた。「合わせようとして、無理して」少し苦笑する。「自分でダメにすること、多かった」それ以上を軽く聞いてはいけな
日曜日になった。少しだけ遅く起きた朝だった。実家のリビングは静かで、楓も母もいない。 窓から入る春の光だけが、床にぼんやり落ちていた。何も起きていない朝。なのに、私の中だけが少し落ち着かない。昨日、別れ際に繋いだ手。思い出そうとしているわけでもないのに、ふとした瞬間、その熱だけが蘇る。少し大きかった手。 思っていたより骨ばっていた指。 信号待ちで、ほんの少し強くなった力。『思ったより、嬉しい』正人の低い声まで思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。付き合うと決めた。 手を繋いだ。 彼氏になった。まだ、どれも少し現実味がない。スマホが震えた。正人だった。『おはよう』 『13時くらい、表参道で大丈夫?』いつも通り、余計な飾りのない文章。でも。彼氏。その言葉にはまだ慣れないのに。 会うのが楽しみだと思っている自分には、ちゃんと気づいていた。*休日の表参道は人が多かった。交差点の少し外側。 街路樹の近くに、正人は立っていた。白いシャツ。 濃いネイビーのパンツ。 袖を二回だけ無造作に折っている。休日なのに、姿勢が綺麗だ。通り過ぎる女の人が、一度だけ正人を見る。たぶん、普通にモテる。派手ではないのに目に留まる。 本人がそれを武器にしていないところも、たぶんずるい。けれど今日は、いつもと少し違った。時々スマホを確認しては、人混みへ視線を戻している。あ。緊張してる。そう気づいた瞬間。 正人も私を見つけた。目元が、分かりやすく緩む。「おはよ」「おはよう。待った?」「いや」少しだけ視線が逸れる。「ちょっと早く着いただけ」思わず笑った。「何、その言い方」「待ってた感じ出るの、何か悔しいじゃん」「別に、待ってたでいいじゃん」正人が苦笑する。「彼女のこと待ってた、って?」自分で言って、自分で照れたみたいに笑うから。 今度は私が視線を逸らした。「……慣れない」「俺も」交差点を渡る。昨日までと同じように隣を歩いているだけなのに。 正人の腕や、シャツの袖から覗く時計が、妙に目に入る。今まで見ていなかったわけじゃない。ただ。 意味を持たせていなかっただけなのかもしれない。青山通り沿いの本屋が見えて、私は足を止めた。「ちょっと寄っていい?」「また?」「この前の続き」
「……ちょっとくらい」小さく笑う。でも、その声には、さっきまでの照れとは違う温度があった。「彼女として、距離近くなってもいいのかなって思う」胸が少しだけ跳ねた。風が吹く。髪が揺れる。さっきまでのジャズバーの煙草の匂いが、まだ少しだけ正人に残っていた。その匂いが、妙に近い。少しだけ大人っぽくて。少しだけ、ずるい。私は思わず視線を逸らした。正人が少し苦笑いする。「愛子が嫌なことはしないけど」その声は静かだった。当たり前みたいに言う。でも、その当たり前が胸に触れる。急がない。勝手に踏み込まない。ちゃんと確認する。その丁寧さが、思ったより温かい。そして、ふとよぎる。危機感なさすぎ。翔太に言われた言葉。強引だった距離。急だった熱。考えないようにしていたこと。でも、隣にいる正人は違う。近づきたいと思っていても、ちゃんと止まる。確認する。私が困らないように、先に逃げ道を作る。その距離の作り方に、少しだけ安心する。同時に、その安心がまた少しだけ苦しい。正人を選んだのは、この優しさがあるからだ。そう思いたい。でも、それだけではなくて、私はきっと、正人のこういう丁寧さに救われている。正人が、空気を軽くするみたいに少し笑った。「でも」少し間。今度は少しだけ軽く。「手くらいは握ってもいいでしょ」その言い方は、少しだけずるかった。冗談みたいに聞こえる。でも、ちゃんと聞いてくれている。それでいて、少しだけ本音も見える。私は少し止まった。聞くんだ。ちゃんと。そのことに、少し驚く。そして、少しだけ嬉しい。「……いいよ」小さく答えると、正人が少しだけ目を伏せた。「よかった」本当に小さい声だった。でも、少しだけ安心したみたいだった。なのに、すぐには触れない。少し沈黙がある。二人で歩幅を合わせながら、ゆっくり歩く。何も変わらないみたいに。でも、さっきより少しだけ距離が近い。ふと、指先がかすかに触れる。離れる。また、少しだけ近づく。まるで確かめるみたいに。正人の手が、すぐ隣にある。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。緊張しているのか、夜風のせいなのか分からない。それから、少し間を置いて。躊躇うように。でも、もう離したくないみたいに。そっと、手を包まれた。
「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を







