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第2話:誰かと思えば

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:08:46

翔太もまた、私を見ていた。

驚いたのは、ほんの一瞬だった。

見開かれた黒い目。

わずかに止まった呼吸。

けれど、それはすぐに消えた。

次の瞬間には、口元に薄い笑みが浮かんでいた。

懐かしさでもない。

喜びでもない。

相手の動揺だけを見て楽しむような、意地の悪い笑い方だった。

「……へえ」

昔より低くなった声が、深夜の廊下へ静かに落ちる。

「誰かと思えば」

その声を聞いただけで、胸の奥がざわついた。

私は夜中の騒音に文句を言いに来た。

それだけだ。

もう少し静かにしてほしい。

明日も仕事がある。

用意していた言葉は、どれも簡単だったはずなのに。

目の前にいるのが翔太だと分かった瞬間、喉の奥で引っかかってしまった。

翔太は扉に片方の肩を預けたまま、私を見る。

視線が顔から、乱れた髪へ。

部屋着の上に羽織ったカーディガンへ。

それから、裸足の足元までゆっくり落ちる。

昔の翔太は、こんな見方をしなかった。

目が合えば、嬉しそうに笑った。

会いたかったと、言葉にした。

好きだという気持ちを隠すこともなかった。

今の視線には、余裕があった。

こちらが何を思っているのか分かっていて、わざと急かさず待っているような余裕。

「久しぶりですね、愛子さん」

その呼び方に、胸の奥が鈍く痛んだ。

昔は違った。

愛子。

名前を呼ぶたび、大事なものに触れるような声だった。

今は、わざとらしいほど丁寧なさん付け。

たった二文字が増えただけで、五年分の距離を突きつけられた気がした。

私はようやく唇を動かす。

「……翔太?」

「覚えてたんだ」

翔太が少し笑う。

目は笑っていなかった。

「音信不通にした元カレのことなんて、とっくに忘れてるかと思ってました」

まっすぐ刺さった。

反射的に眉を寄せる。

「今、その話をしに来たわけじゃないんだけど」

「じゃあ、何ですか」

背後から、女の声がした。

「翔太くん、誰?」

扉の奥から甘い香水の匂いが流れてくる。

見知らぬ女の影。

床に落ちた服らしきもの。

乱れた空気。

そこでようやく、私は自分が何をしに来たのか思い出した。

背筋を伸ばす。

「夜、もう少し静かにしてもらえませんか」

翔太の眉が、ほんのわずかに動いた。

「静かに?」

「隣まで聞こえてます」

声を落ち着かせようとした。

けれど、疲れと苛立ちのせいで、少しだけ硬くなる。

「正直、かなり迷惑です。明日も朝から仕事なので」

翔太はすぐには答えなかった。

私の顔を見たまま、数秒黙っている。

昔なら、すぐ謝ったと思う。

困ったように眉を下げて。

気づかなかった、ごめん。

愛子、怒ってる?

そうやって、私の機嫌を取ろうとした。

でも今の翔太は違った。

部屋の中へ顔だけ向ける。

「だってさ」

声の温度は変わらない。

「俺たち、うるさかったみたい」

女が何か返した。

よく聞こえなかった。

聞きたくもなかった。

私はこめかみが引きつるのを感じた。

「分かったなら、気をつけて」

それだけ言って、踵を返そうとする。

これ以上ここにいたくなかった。

翔太の部屋から漂う女の香りも。

昔とは違う目も。

胸の奥で勝手に蘇る記憶も。

全部、早く扉の向こうへ戻してしまいたかった。

「愛子さんって」

背中に声が落ちる。

足が止まった。

「相変わらず勝手ですね」

振り向く。

翔太は扉にもたれたままだった。

笑っている。

けれど、目の奥だけが冷えている。

「自分が言いたいことだけ言って、終わり?」

「今は、隣人として話してるだけ」

「へえ」

翔太の口元が少しだけ歪む。

「便利ですね、隣人って言葉」

「何が言いたいの」

「別に」

そう言いながら、翔太はゆっくり身体を起こした。

扉から離れ、こちらへ半歩近づく。

廊下の狭さが、急に意識に上る。

近い。

触れる距離ではない。

けれど、少し身を引けば、それを翔太に気づかれるくらいには近かった。

翔太がわずかに身を屈め、私と視線の高さを合わせる。

「五年前は恋人やめて」

低い声だった。

「今度は隣人ですか」

呼吸が浅くなる。

「その話は、今じゃないでしょ」

「愛子さんが決めるんですか」

「夜中に女の人を連れ込んで騒いでる人に、昔の話を責められる筋合いはない」

言い返すと、翔太の目が少し細くなった。

怒ったようには見えなかった。

むしろ、少しだけ傷ついたように見えた。

けれど、それも一瞬だった。

すぐに、いつもの薄い笑みに戻る。

「そうですね」

あっさり言う。

「今の俺のこと、愛子さんは何も知らないですもんね」

胸の奥が、微かに揺れた。

知らない。

その通りだった。

五年間。

翔太がどんな生活をして。

どんな仕事をして。

誰と付き合って。

どんなふうに変わったのか。

私は何も知らない。

知ろうともしなかった。

私の中で翔太は、ずっと二十一歳のままだった。

若くて。

真っ直ぐで。

将来を縛ってはいけない相手。

そう勝手に決めて。

彼の言葉を聞く前に、私は逃げた。

けれど、今それを認めるつもりはなかった。

「……あなたこそ、ずいぶん変わったのね」

私が言うと、翔太は少しだけ目を伏せた。

長い睫毛が、頬へ薄い影を落とす。

「愛子さんのおかげで」

冗談の形をした言葉だった。

軽く笑っていた。

けれど、その奥に残った傷までは隠れていなかった。

胸の奥が、ざらつく。

悪かったと思っている。

ずっと。

あの時の終わらせ方は最低だった。

彼のためだと思い込んで。

自分が怖かっただけなのに。

ちゃんと話すこともせず。

連絡を返さなくなって。

海外赴任を理由に、そのまま消えた。

でも。

今ここで謝ったところで、何になるのだろう。

翔太の部屋には別の女がいる。

彼には彼の五年間があって。

私は、別の人と三年暮らして。

つい数日前に、その生活を失ったばかりだ。

昔のことを掘り返す余裕なんてなかった。

「とにかく」

私は声を硬くした。

「静かにしてください」

翔太はしばらく私を見ていた。

さっきまでの意地悪な笑みが、少しだけ消えている。

それから、不意に私の目元へ視線を落とした。

隈。

疲れ。

乱れた髪。

全部、見られた気がした。

「まだ、そんな働き方してるんですね」

その一言に、心臓が小さく跳ねる。

「あなたには関係ない」

すぐに返した。

翔太は少しだけ首を傾ける。

「ないですか」

「ない」

「隣なのに?」

「隣人なら、騒音だけ気をつけて」

「分かりました」

今度は素直だった。

あまりにもあっさりしていて、拍子抜けする。

翔太は一歩下がる。

さっきまで近かった距離が、急に元へ戻る。

「これからは気をつけます」

「……お願いします」

「はい」

それで終わりだった。

責める言葉も。

謝罪を求める言葉も。

五年前の続きも。

何もなかった。

翔太は扉へ手をかける。

「じゃあ」

それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「これからよろしくお願いします。隣人として」

その言い方が、妙に引っかかった。

私は返事をしなかった。

そのまま自分の部屋へ戻る。

鍵を開け。

扉を閉め。

すぐに内鍵をかける。

背中をドアへ預けた瞬間、一気に力が抜けた。

「……最悪」

声が小さく漏れる。

本当に、最悪だった。

失恋して。

同棲を解消して。

一人で立て直すために引っ越した部屋の隣に。

五年前、自分が一方的に傷つけた元恋人が住んでいた。

しかも。

昔のように真っ直ぐで、可愛い年下の男ではない。

女を連れ込んで。

余裕ぶって。

私の動揺を全部分かっているみたいに笑う男になっていた。

私は壁を見る。

この向こうに、翔太がいる。

たった一枚隔てた場所に。

五年前に置き去りにしたはずの人が。

息をする音まで届きそうな距離で、普通に暮らしている。

その時だった。

壁の向こうで、かすかな話し声がした。

女の声。

翔太の低い声。

私は反射的に耳を澄ませそうになり、すぐに首を振る。

何をしているんだろう。

関係ない。

本当に。

もう関係ない。

そう思った直後。

隣室の扉が開く音がした。

廊下に、女のヒールの音が響く。

一歩。

二歩。

エレベーターの方へ遠ざかっていく。

やがて、廊下が静かになった。

私は壁を見たまま動けなかった。

苦情を聞いてくれただけだ。

静かにしてほしいと言ったから。

だから、女性を帰した。

ただ、それだけ。

そう思うのに。

急に静かになった壁の向こうが、さっきよりもずっと気になった。

スマホが震えた。

画面を見る。

さやかからだった。

『新居どう? 落ち着いた?』

私はしばらく文字を見つめる。

それから、短く打った。

『最悪。隣に元カレが住んでた』

すぐに既読がつく。

数秒後。

『は? どの元カレ?』

続けてもう一件。

『ちょっと待って。電話していい?』

私は床へ座り込み、額を膝へ押しつけた。

説明する気力はなかった。

でも。

誰かに言わずにはいられなかった。

五年前に終わらせたつもりだった恋が。

壁一枚向こうで、また音を立て始めていた。

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