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第3話:忘れたはずだった

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:08:52

次の日は寝不足だった。

それは、鏡を見た瞬間に分かった。

オフィスビルのエレベーターの壁に映る自分を見ながら、私は小さく息を吐いた。

肌のくすみは、コンシーラーでどうにか隠した。

目尻の疲れは、いつもより少しだけ長めに引いたアイラインでごまかした。

リップは血色がよく見える色を選んだ。

最低限、仕事に出られる顔にはなっている。

けれど、目元だけはどうにも重い。

昨日の睡眠時間は、三時間。

原因は仕事ではない。

そこが、何より腹立たしかった。

三十二歳にもなって。

失恋したばかりで。

ようやく新しい部屋で立て直そうとしていたのに。

五年前の元恋人と再会したくらいで。何を動揺しているんだろうと思う。

エレベーターの扉が開いた。

オフィスフロアには、いつも通りの朝があった。

誰かの電話の声。

慌ただしくすれ違う足音。

いつもと同じ場所。

いつもと同じ時間。

それなのに、自分だけが少しだけ世界からズレている気がした。

***

午前中は、忙しかった。

会議、資料確認、クライアント対応。

社内チャット、メール、電話。

次から次へと仕事が流れ込んでくる。

本来なら、ありがたいはずだった。

余計なことを考えなくて済むから。

なのに。

ふとした瞬間に、昨夜の光景が頭をよぎる。

深夜の廊下。

少しだけ開いたドア。

目が合った、あの数秒。

少し長めの黒髪。

昔よりシャープになった輪郭。

ゆるく開いたシャツの襟元。

気怠そうなのに、妙に人の目を引く立ち方。

そして、声。

『久しぶりですね、愛子さん』

その呼び方だけで、胸の奥が変なふうに揺れた。

昔からそうだった。

翔太は顔が良かった。

腹が立つくらいに。

一緒に歩いていると、知らない女の人が振り返ることがあった。

飲みに行けば、私が少し席を外しただけで声をかけられていた。

そういう種類の男だった。

でも、昨日見た翔太は、ただ顔がいいだけではなかった。

余裕があった。

視線も、声も。

こちらの動揺を分かっていて、わざと逃がさないような間も。

私の知っている二十一歳の翔太とは違った。

そこまで考えて、私は慌ててパソコンへ視線を戻した。

違う。

正確には、私が知らなかっただけなのかもしれない。

五年ちょっと前。

私たちは半年だけ付き合っていた。

あの頃の翔太は、私よりずっと若かった。

年下だとは思っていた。

けれど、ある日テーブルの上に置かれた学生証を見て、頭が真っ白になった。

大学名。

生年月日。

二十一歳。

その数字を見た瞬間。

私は初めて、自分がどれだけ危ういものに足を踏み入れていたのかを突きつけられた気がした。

どうして言わなかったの。

その時の私は、本気でそう思った。

騙されたわけじゃない。

翔太が何かを隠していたわけでもない。

私が、ちゃんと聞かなかっただけだ。

今なら分かる。

でも、あの頃の私には受け止めきれなかった。

二十六歳の私は、仕事で精一杯だった。

毎日終電近くまで働いて。

成果を出さなければと必死で。

自分の生活の面倒を見るだけで、息が切れていた。

そんな私の隣で、翔太はいつもまっすぐだった。

会いたいと言う。

寂しいと言う。

好きだと、何の迷いもなく言う。

その素直さが、嬉しかった。

そして、怖かった。

この子はもっと同世代と恋愛した方がいい。

もっと自由に未来を選べる人といた方がいい。

私の忙しさや不安定さに巻き込まれない方がいい。

そうやって、それらしい理由をいくつも並べた。

でも結局、私は逃げただけだった。

ちゃんと向き合うことから。

好きだと言われることから。

誰かの未来に、自分が関わってしまうことから。

そこまで思い出して、私は小さく息を吐いた。

資料へ視線を戻す。

画面の中では、数字も文字もいつも通り並んでいる。

けれど、頭のどこかに、昨夜の翔太の顔が残っていた。

あの頃の危うさは、もうなかった。

少なくとも、私が勝手に心配していた男には見えなかった。

そのことが少しだけ悔しい。

そして、少しだけ腹立たしかった。

***

仕事が終わった頃には、二十一時を回っていた。

駅前のいつもの居酒屋の暖簾をくぐると、さやかがすでにビールを飲んでいた。

「遅い」

「仕事」

「知ってる」

即答だった。

相変わらずすぎて、少し笑う。

席へ座る。

ビールを注文する。

乾杯して、一口飲む。

冷たい苦味が喉を通った瞬間、ようやく肩の力が少し抜けた。

「で?」

来た。

私はグラスを置く。

「何」

「隣の元カレ」

やっぱり、そこだった。

「まだその話するの?」

「するでしょ。隣に元カレ住んでました、なんて聞いて流せるわけないじゃん」

それはそうかもしれない。

私はグラスの氷を揺らした。

カラン、と小さな音が鳴る。

「で、どの元カレ」

「あの、五年前にちょっと付き合ってた。ひたすら顔が良い年下」

「あー、転勤前に音信不通にしたやつか」

「そうなんだけど、顔が良すぎて動揺した」

さやかが吹き出した。

私は額を押さえる。

「五年ぶりに会った元カレがさ、前よりかっこよくなってる必要ある?」

「ないね」

「だよね、こんなことで動揺したくないのに」

そこだけは、本当に理不尽だった。

昔から顔は好きだった。

認めるしかないくらいに。

たぶん今も、顔だけなら今まで付き合った人の中で一番タイプだ。

認めるのは癪だけど、認めない方が嘘になる。

さやかはビールを飲みながら、少しだけ目を細めた。

「でもさ」

「何」

「普通に気まずいよね」

その言い方は、茶化すというより、ちゃんと事情を分かっている人の声だった。

「拓也と別れたばっかだし。しかも翔太くんのことは、愛子が連絡切るみたいな形で終わらせたんでしょ」

私はグラスの縁を指でなぞった。

「うん」

「偶然にしては、ちょっと出来すぎてるな」

「本当にそれ」

「気になる?」

その聞き方は、好きなのか、という意味ではなかった。

たぶん、さやかは分かっている。

私が今、恋愛を始められる状態ではないことも。

拓也との別れで、まだ生活を立て直している途中だということも。

翔太の存在が、未練とは別のところで私を揺らしていることも。

私は少し考えた。

「……気になる、というか」

「うん」

「思ったより、気まずいよね」

「音信不通にしたから?」

「そりゃそうでしょ」

少し笑う。

「それに」

それから、グラスの中の泡を見つめた。

「大学生だったわけじゃん、あのとき」

「あ、確かそれがきっかけで別れたんだっけ。隠してたんだよね、確か」

「そう。なのに、なんか大人になってて」

「かっこよかった?」

「かなり」

さやかはふっと笑った。

「それは、気になるよね。しかも、五年前にちゃんと終われなかった相手なわけだし」

その言葉は、すとんと胸に落ちた。

そうだ。

私は翔太がまだ好きなわけじゃない。

五年も経った。

恋人もいた。

生活も変わった。

仕事も変わった。

住んだ国だって増えた。

今さらだと思う。

本当に。

でも、忘れたと思っていたのは、違ったのかもしれない。

忘れたのではなく。

思い出さないようにしていただけだった。

「お待たせ」

聞き慣れた声がして、顔を上げた。

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