LOGIN次の日は寝不足だった。
それは、鏡を見た瞬間に分かった。
オフィスビルのエレベーターの壁に映る自分を見ながら、私は小さく息を吐いた。
肌のくすみは、コンシーラーでどうにか隠した。
目尻の疲れは、いつもより少しだけ長めに引いたアイラインでごまかした。
リップは血色がよく見える色を選んだ。
最低限、仕事に出られる顔にはなっている。
けれど、目元だけはどうにも重い。
昨日の睡眠時間は、三時間。
原因は仕事ではない。
そこが、何より腹立たしかった。
三十二歳にもなって。
失恋したばかりで。
ようやく新しい部屋で立て直そうとしていたのに。
五年前の元恋人と再会したくらいで。何を動揺しているんだろうと思う。
エレベーターの扉が開いた。
オフィスフロアには、いつも通りの朝があった。
誰かの電話の声。
慌ただしくすれ違う足音。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ時間。
それなのに、自分だけが少しだけ世界からズレている気がした。
***
午前中は、忙しかった。
会議、資料確認、クライアント対応。
社内チャット、メール、電話。
次から次へと仕事が流れ込んでくる。
本来なら、ありがたいはずだった。
余計なことを考えなくて済むから。
なのに。
ふとした瞬間に、昨夜の光景が頭をよぎる。
深夜の廊下。
少しだけ開いたドア。
目が合った、あの数秒。
少し長めの黒髪。
昔よりシャープになった輪郭。
ゆるく開いたシャツの襟元。
気怠そうなのに、妙に人の目を引く立ち方。
そして、声。
『久しぶりですね、愛子さん』
その呼び方だけで、胸の奥が変なふうに揺れた。
昔からそうだった。
翔太は顔が良かった。
腹が立つくらいに。
一緒に歩いていると、知らない女の人が振り返ることがあった。
飲みに行けば、私が少し席を外しただけで声をかけられていた。
そういう種類の男だった。
でも、昨日見た翔太は、ただ顔がいいだけではなかった。
余裕があった。
視線も、声も。
こちらの動揺を分かっていて、わざと逃がさないような間も。
私の知っている二十一歳の翔太とは違った。
そこまで考えて、私は慌ててパソコンへ視線を戻した。
違う。
正確には、私が知らなかっただけなのかもしれない。
五年ちょっと前。
私たちは半年だけ付き合っていた。
あの頃の翔太は、私よりずっと若かった。
年下だとは思っていた。
けれど、ある日テーブルの上に置かれた学生証を見て、頭が真っ白になった。
大学名。
生年月日。
二十一歳。
その数字を見た瞬間。
私は初めて、自分がどれだけ危ういものに足を踏み入れていたのかを突きつけられた気がした。
どうして言わなかったの。
その時の私は、本気でそう思った。
騙されたわけじゃない。
翔太が何かを隠していたわけでもない。
私が、ちゃんと聞かなかっただけだ。
今なら分かる。
でも、あの頃の私には受け止めきれなかった。
二十六歳の私は、仕事で精一杯だった。
毎日終電近くまで働いて。
成果を出さなければと必死で。
自分の生活の面倒を見るだけで、息が切れていた。
そんな私の隣で、翔太はいつもまっすぐだった。
会いたいと言う。
寂しいと言う。
好きだと、何の迷いもなく言う。
その素直さが、嬉しかった。
そして、怖かった。
この子はもっと同世代と恋愛した方がいい。
もっと自由に未来を選べる人といた方がいい。
私の忙しさや不安定さに巻き込まれない方がいい。
そうやって、それらしい理由をいくつも並べた。
でも結局、私は逃げただけだった。
ちゃんと向き合うことから。
好きだと言われることから。
誰かの未来に、自分が関わってしまうことから。
そこまで思い出して、私は小さく息を吐いた。
資料へ視線を戻す。
画面の中では、数字も文字もいつも通り並んでいる。
けれど、頭のどこかに、昨夜の翔太の顔が残っていた。
あの頃の危うさは、もうなかった。
少なくとも、私が勝手に心配していた男には見えなかった。
そのことが少しだけ悔しい。
そして、少しだけ腹立たしかった。
***
仕事が終わった頃には、二十一時を回っていた。
駅前のいつもの居酒屋の暖簾をくぐると、さやかがすでにビールを飲んでいた。
「遅い」
「仕事」
「知ってる」
即答だった。
相変わらずすぎて、少し笑う。
席へ座る。
ビールを注文する。
乾杯して、一口飲む。
冷たい苦味が喉を通った瞬間、ようやく肩の力が少し抜けた。
「で?」
来た。
私はグラスを置く。
「何」
「隣の元カレ」
やっぱり、そこだった。
「まだその話するの?」
「するでしょ。隣に元カレ住んでました、なんて聞いて流せるわけないじゃん」
それはそうかもしれない。
私はグラスの氷を揺らした。
カラン、と小さな音が鳴る。
「で、どの元カレ」
「あの、五年前にちょっと付き合ってた。ひたすら顔が良い年下」
「あー、転勤前に音信不通にしたやつか」
「そうなんだけど、顔が良すぎて動揺した」
さやかが吹き出した。
私は額を押さえる。
「五年ぶりに会った元カレがさ、前よりかっこよくなってる必要ある?」
「ないね」
「だよね、こんなことで動揺したくないのに」
そこだけは、本当に理不尽だった。
昔から顔は好きだった。
認めるしかないくらいに。
たぶん今も、顔だけなら今まで付き合った人の中で一番タイプだ。
認めるのは癪だけど、認めない方が嘘になる。
さやかはビールを飲みながら、少しだけ目を細めた。
「でもさ」
「何」
「普通に気まずいよね」
その言い方は、茶化すというより、ちゃんと事情を分かっている人の声だった。
「拓也と別れたばっかだし。しかも翔太くんのことは、愛子が連絡切るみたいな形で終わらせたんでしょ」
私はグラスの縁を指でなぞった。
「うん」
「偶然にしては、ちょっと出来すぎてるな」
「本当にそれ」
「気になる?」
その聞き方は、好きなのか、という意味ではなかった。
たぶん、さやかは分かっている。
私が今、恋愛を始められる状態ではないことも。
拓也との別れで、まだ生活を立て直している途中だということも。
翔太の存在が、未練とは別のところで私を揺らしていることも。
私は少し考えた。
「……気になる、というか」
「うん」
「思ったより、気まずいよね」
「音信不通にしたから?」
「そりゃそうでしょ」
少し笑う。
「それに」
それから、グラスの中の泡を見つめた。
「大学生だったわけじゃん、あのとき」
「あ、確かそれがきっかけで別れたんだっけ。隠してたんだよね、確か」
「そう。なのに、なんか大人になってて」
「かっこよかった?」
「かなり」
さやかはふっと笑った。
「それは、気になるよね。しかも、五年前にちゃんと終われなかった相手なわけだし」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
そうだ。
私は翔太がまだ好きなわけじゃない。
五年も経った。
恋人もいた。
生活も変わった。
仕事も変わった。
住んだ国だって増えた。
今さらだと思う。
本当に。
でも、忘れたと思っていたのは、違ったのかもしれない。
忘れたのではなく。
思い出さないようにしていただけだった。
「お待たせ」
聞き慣れた声がして、顔を上げた。
バラバラの材料が、会話の中で整っていく感じ。自分が見ているものを、相手も違う角度から見てくれている安心感。それは恋愛とは別の場所にある信頼だった。でも今は、その信頼ごと、正人を好きになっていくのかもしれないと思う。ふと、正人の視線が少し長く止まる瞬間があった。私がカレーの辛さに少しだけ目を細めた時。水を飲んで、息を吐いた時。会議の話をしながら、身振りで資料の構成を説明した時。正人は何でもない顔をしている。でも、見ている。前からそうだったのかもしれない。ただ、今はその視線に少しだけ意味が乗っているように感じてしまう。気づかないふりをした。まだ少し、恥ずかしかった。カレー屋を出ると、空はほとんど夜になっていた。夕方の橙色はビルの向こうに消えて、街灯の光が歩道に落ちている。少しだけ冷たい風。スパイスで温まった身体には、ちょうどよかった。帰り道。気づけば、当たり前みたいに手を繋いでいた。昨日みたいな確認はない。でも、勝手ではない。二人とも、同じくらい自然に手を近づけて、同じくらい自然に重ねた。少しだけ力がある。信号待ちで、正人の親指が私の手の甲にほんの少し触れる。何気ない動き。でも、その小さな触れ方に、妙に慣れてしまいそうで少し怖い。住宅街へ入ると、急に静かになった。コンビニの灯り。遠くの犬の鳴き声。夜の空気に混じる、どこかの家の夕飯の匂い。実家の近くまで来る頃には、どちらともなく歩く速度が少しだけ遅くなっていた。終わる空気。でも、終わりたくない空気。それが言葉にならないまま、繋いだ手の間に残っている。家の前で立ち止まる。門灯の下で、正人の横顔が少しだけ明るく見えた。「ありがと」私は小さく言った。「今日も」少し笑う。「楽しかった」正人も少し笑った。「うん」少し間。「俺も」それで終わっていいはずだった。おやすみ、と言って、手を離して、家に入る。それだけでいいはずなのに、空気が終わらない。帰るタイミングなのに、どちらも少し動けない。正人が少し視線を落とした。何かを言いかける。でも、やめる。小さく息を吐いて、困ったように笑った。「……いや」「何?」「なんでもない」その言い方が、妙にぎこちなかった。距離を測っている感じ。何かを飲み込んでいる感じ。それが分かったか
表参道から御茶ノ水へ戻る電車の中は、日曜日の夕方らしく少し空いていた。窓の外には、休日の終わりに近づいている街が流れていく。明るかった空は、少しずつ色を薄めていて、ビルの隙間に残る光も、昼間より柔らかい。紙袋を抱えた人。疲れた顔でスマホを見ている人。子どもの手を引く親。日曜日の夕方特有の、楽しかった時間がゆっくり終わっていくような空気が、車内にも静かに漂っていた。でも、隣に座る正人との距離は、昨日より少しだけ自然だった。肩が時々、ほんの少し近づく。電車が揺れた時、腕がかすかに触れる。わざとじゃない。でも、離れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着いた。手は繋いでいない。けれど、その代わりに、身体の距離が少し変わった気がする。隣にいることを、必要以上に意識しなくてもいい。でも、完全に忘れることもできない。話すテンポも、沈黙も、前より少しだけ柔らかい。友達だった時の自然さが残っていて、そこにまだ慣れない甘さが薄く重なっている。少しずつ、恋人になってきている。そんな感覚があった。「眠い?」正人が小さく聞いた。私は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。「ちょっと」「歩いたしね」「正人は?」「俺も少し」そう言いながら、正人は全然眠そうな顔をしていなかった。姿勢は変わらず綺麗で、膝の上に置いた手も落ち着いている。でも、よく見ると、目元だけがほんの少し柔らかい。休日の正人。仕事の時とは違う、余計な力が抜けた横顔。それを隣で見られることが、まだ少し不思議だった。彼氏。また、その言葉が頭の中で小さく転がる。今朝よりは少しだけ慣れた気がする。でも、完全にはまだ馴染まない。馴染まないまま、その違和感ごと少し嬉しい。御茶ノ水駅を出る頃には、空が少し橙色になっていた。ビルの隙間から夕方の光が斜めに落ちて、駅前の人の流れを薄く照らしている。昼間より風が冷たい。春の光なのに、夜へ向かう気配だけはちゃんと残っていた。正人がふと口を開く。「好きなカレー屋あるんだけど」私は顔を上げる。正人は少しだけ前を向いたまま、自然な声で続けた。「軽くディナー食べてく?」その言い方は、本当にさりげなかった。無理に引き止める感じではない。でも、ほんの少しだけ、もっと一緒にいたい、が滲んでいる。私がそれに気づく前に、正人
本屋を出たあと、少し歩いてカフェに入った。大通りから一本入った、静かな店だった。向かいの席も空いていたのに。 なぜか自然と、隣に座る。メニューを一緒に覗く。肩が近い。それだけのことを、まだ少し意識してしまう。正人がメニューをこちらへ傾けた。「これ、好きそう」「また?」「また」「見すぎじゃない?」「彼氏なので」最近、そればかりだ。でも言われるたび、少し照れる。コーヒーが届き、ケーキを半分ずつ分ける。話は自然と学生時代のことになった。サッカー。 本。 ピアノ。知っているつもりだった正人に、まだ知らない部分がいくつもある。「絶対モテたでしょ」何気なく言うと。 正人がコーヒーを飲みながら、少し困ったように笑った。「普通に友達のノリでそこまで聞かれると」カップを置く。「今、ちょっと答えづらいな」そこで、気づいた。あ。そうか。彼氏なんだ。昨日までなら、軽く聞けた。 元カノの話だって、友達なら笑って聞けたかもしれない。でも今は。 答えによっては、自分が傷つく側にいる。「……ごめん」「謝るほどじゃないよ」正人は笑った。それから、少しだけ私を見る目を細める。「愛子、まだ友達の聞き方するよね」「え?」「距離感が、たまに親友のまま」柔らかい声だった。責めているわけじゃない。 ただ、曖昧にはしない。「それはそれで愛子らしいけど」正人がカップへ手を伸ばす。「俺、今は彼氏だから」胸の奥が、小さく跳ねた。「……慣れてないだけ」「うん。知ってる」すぐに返ってくる。少し安心したところで。「だから、慣らす」顔を上げる。正人は何でもない顔でコーヒーを飲んでいた。「それ、昨日も言ってた」「何回でも言う」「強い」「彼氏なので」笑ってしまった。でも。正人の言葉は、胸の中に残った。友達の距離。 彼氏の距離。私はまだ、その違いをうまく掴めていない。正人は急かさない。 けれど、友達のままでいるつもりもない。「正人って、恋愛観とかある?」聞くと、正人は少しだけ窓の外へ目を向けた。しばらくして。「俺、相手に合わせすぎるんだよね」さっきまでより、声が落ち着いていた。「合わせようとして、無理して」少し苦笑する。「自分でダメにすること、多かった」それ以上を軽く聞いてはいけな
日曜日になった。少しだけ遅く起きた朝だった。実家のリビングは静かで、楓も母もいない。 窓から入る春の光だけが、床にぼんやり落ちていた。何も起きていない朝。なのに、私の中だけが少し落ち着かない。昨日、別れ際に繋いだ手。思い出そうとしているわけでもないのに、ふとした瞬間、その熱だけが蘇る。少し大きかった手。 思っていたより骨ばっていた指。 信号待ちで、ほんの少し強くなった力。『思ったより、嬉しい』正人の低い声まで思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。付き合うと決めた。 手を繋いだ。 彼氏になった。まだ、どれも少し現実味がない。スマホが震えた。正人だった。『おはよう』 『13時くらい、表参道で大丈夫?』いつも通り、余計な飾りのない文章。でも。彼氏。その言葉にはまだ慣れないのに。 会うのが楽しみだと思っている自分には、ちゃんと気づいていた。*休日の表参道は人が多かった。交差点の少し外側。 街路樹の近くに、正人は立っていた。白いシャツ。 濃いネイビーのパンツ。 袖を二回だけ無造作に折っている。休日なのに、姿勢が綺麗だ。通り過ぎる女の人が、一度だけ正人を見る。たぶん、普通にモテる。派手ではないのに目に留まる。 本人がそれを武器にしていないところも、たぶんずるい。けれど今日は、いつもと少し違った。時々スマホを確認しては、人混みへ視線を戻している。あ。緊張してる。そう気づいた瞬間。 正人も私を見つけた。目元が、分かりやすく緩む。「おはよ」「おはよう。待った?」「いや」少しだけ視線が逸れる。「ちょっと早く着いただけ」思わず笑った。「何、その言い方」「待ってた感じ出るの、何か悔しいじゃん」「別に、待ってたでいいじゃん」正人が苦笑する。「彼女のこと待ってた、って?」自分で言って、自分で照れたみたいに笑うから。 今度は私が視線を逸らした。「……慣れない」「俺も」交差点を渡る。昨日までと同じように隣を歩いているだけなのに。 正人の腕や、シャツの袖から覗く時計が、妙に目に入る。今まで見ていなかったわけじゃない。ただ。 意味を持たせていなかっただけなのかもしれない。青山通り沿いの本屋が見えて、私は足を止めた。「ちょっと寄っていい?」「また?」「この前の続き」
「……ちょっとくらい」小さく笑う。でも、その声には、さっきまでの照れとは違う温度があった。「彼女として、距離近くなってもいいのかなって思う」胸が少しだけ跳ねた。風が吹く。髪が揺れる。さっきまでのジャズバーの煙草の匂いが、まだ少しだけ正人に残っていた。その匂いが、妙に近い。少しだけ大人っぽくて。少しだけ、ずるい。私は思わず視線を逸らした。正人が少し苦笑いする。「愛子が嫌なことはしないけど」その声は静かだった。当たり前みたいに言う。でも、その当たり前が胸に触れる。急がない。勝手に踏み込まない。ちゃんと確認する。その丁寧さが、思ったより温かい。そして、ふとよぎる。危機感なさすぎ。翔太に言われた言葉。強引だった距離。急だった熱。考えないようにしていたこと。でも、隣にいる正人は違う。近づきたいと思っていても、ちゃんと止まる。確認する。私が困らないように、先に逃げ道を作る。その距離の作り方に、少しだけ安心する。同時に、その安心がまた少しだけ苦しい。正人を選んだのは、この優しさがあるからだ。そう思いたい。でも、それだけではなくて、私はきっと、正人のこういう丁寧さに救われている。正人が、空気を軽くするみたいに少し笑った。「でも」少し間。今度は少しだけ軽く。「手くらいは握ってもいいでしょ」その言い方は、少しだけずるかった。冗談みたいに聞こえる。でも、ちゃんと聞いてくれている。それでいて、少しだけ本音も見える。私は少し止まった。聞くんだ。ちゃんと。そのことに、少し驚く。そして、少しだけ嬉しい。「……いいよ」小さく答えると、正人が少しだけ目を伏せた。「よかった」本当に小さい声だった。でも、少しだけ安心したみたいだった。なのに、すぐには触れない。少し沈黙がある。二人で歩幅を合わせながら、ゆっくり歩く。何も変わらないみたいに。でも、さっきより少しだけ距離が近い。ふと、指先がかすかに触れる。離れる。また、少しだけ近づく。まるで確かめるみたいに。正人の手が、すぐ隣にある。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。緊張しているのか、夜風のせいなのか分からない。それから、少し間を置いて。躊躇うように。でも、もう離したくないみたいに。そっと、手を包まれた。
「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を







