LOGIN株主総会の翌朝、ネクストリンク本社には奇妙な静けさがあった。
嵐が去った後の静けさではない。
次の工事が始まる前の静けさだった。
高瀬美咲は、もう取締役ではない。
桐谷健吾は、営業本部長としての権限を失っている。
株主総会では、全議案が賛成九三%、反対七%で可決された。
反対したのは、高瀬美咲の五%と、桐谷健吾の二%だけ。
その他株主は全員、会社側についた。
それは当然だった。
会社の金を流し、社員を黙らせようとした役員を、株主が守る理由などない。
午前八時。
社長室には、六人が集まっていた。
代表取締役社長、高瀬悠真。
副社長、七瀬蒼真。
取締役CFO、水城莉央。
取締役CLO、大槻沙織。
取締役CHRO、宮園千晴。
秘書室長、神谷玲奈。
机の上には、三種類の書類が並んでいる。
現実は、判決文よりも先に届く。 裁判官が罪と責任を言い渡すより前に、損害賠償の請求書や納税通知書が届く。家族との会話が途切れ、昨日まで当たり前に使っていた肩書きが消え、誰からも頭を下げられない朝が来る。 桐谷健吾にとって、その現実は、朝五時の冷たい空気と、まだ履き慣れない長靴の重さを伴って届いた。 茨城県にある農業法人、川田アグリファーム。 その事務所前に立つ桐谷の周囲には、東京の朝を形作っていたものが何一つなかった。 高層ビルのガラスへ反射する光も、駅前へ連なるタクシーも、早朝から開いているカフェもない。 見渡す限りの畑と、作業開始を待つ軽トラック。昨日の雨を含んだ土の匂いと、遠くから聞こえる農機具のエンジン音だけがある。 桐谷は、作業着の袖口を引いた。 会社から支給された作業着は、まだ体に馴染んでいない。軍手も長靴も新品に近く、長く現場で働いてきた人間の道具とは明らかに違った。 つい数か月前まで、桐谷健吾はスーツを着ていた。 ネクストリンク株式会社の営業本部長として、役員会議へ出席し、営業本部の中央で部下たちへ指示を出していた。 年収は一千五百万円を超えていた。 自分の予定を管理する部下がいて、接待の店を予約する社員がいて、取引先が到着すれば若手が先に頭を下げた。 高級ホテルのラウンジで商談し、内容をよく知らないワインでもラベルを見ながら感想を述べた。相手の予算や弱点を見抜き、自分が優位に立っていることを楽しんでいた。 しかし、今の桐谷に営業本部長という肩書きはない。 事務所の扉が内側から開き、川田一郎が姿を現した。 五十八歳。 日に焼けた顔と太い腕を持ち、背はそれほど高くない。それでも、長く土の上で働いてきた体には、簡単には揺らがない重さがあった。 川田は、桐谷の父である桐谷正臣の古い知人だった。 桐谷を雇ったのは、事件を起こした人間へ同情したからではない。桐谷正臣が
人は、逮捕された瞬間に地獄へ落ちるわけではない。 本当の地獄は、その後に来る。 留置場の壁は冷たい。 取調室の机は固い。 弁護士の言葉は重い。 だが、それらはまだ始まりでしかない。 桐谷健吾にとって本当に重かったのは、数字だった。 慰謝料。 養育費。 損害賠償。 返還請求。 納税。 延滞税。 重加算税。 弁護士費用。 そして、これから先の生活費。 それらは、感情では消えない。 謝罪でも消えない。 泣いても消えない。 裁判所の紙と、国税の通知と、会社側の請求書は、人の後悔に同情しない。 午前九時。 東京拘置所へ移送される前の接見室で、桐谷健吾は刑事弁護人の赤羽和人と向かい合っていた。 アクリル板越しの顔は、数週間前とは別人だった。 頬がこけている。 目の下が黒い。 髪は乱れ、声は乾いていた。 赤羽和人は、机の上に資料を並べた。「桐谷さん。刑事事件とは別に、民事と税務がかなり重いです」「分かってます」「分かっている、では足りません。数字で見てください」 赤羽は一枚目を指差した。「ネクストリンクからの請求です。現時点では、直接損害七千二百四十万円。調査費用、弁護士費用、フォレンジック費用、監査費用などを含め、会社側は一億二千万円台で請求を組む可能性があります」 桐谷は顔を歪めた。「一億……」「主犯と見られている以上、全額請求される可能性があります。共同不法行為として、黒川亮介さん、青柳拓人さん、西岡大輔さん、山城直人さん、小田切修さんにも請求は行くでしょう。ただ、会社は回収できるところから回収しよ
会社が大きくなる時、一番先に変わるのは社長室ではない。 会議の数だ。 報告の線が増える。 確認すべき数字が増える。 判断を待っている人間が増える。 そして、放置すれば、そこからまた穴が空く。 高瀬悠真は、その穴がどれほど危険かを知っていた。 桐谷健吾は、穴から入ってきた。 黒川亮介は、その穴を広げた。 青柳拓人は、その穴を隠すための箱を作った。 西岡大輔と山城直人は、穴に紙を貼った。 小田切修は、穴を見ないふりをした。 高瀬美咲は、穴を塞ごうとした雨宮彩乃を黙らせようとした。 だから、ネクストリンクはもう、穴を感覚で塞がない。 仕組みで塞ぐ。 午前八時三十分。 ネクストリンク本社、二十七階大会議室。 壁面モニターには、全国八支社の映像が並んでいた。 愛知。 北海道。 広島。 大阪。 高知。 長野。 青森。 鹿児島。 その中央に、東京本社。 今日から始まるのは、全国支社常設会議だった。 参加者は、本社経営陣と八支社の支社長、副支社長。 支社長八名。 副支社長八名。 合計十六名。 毎週月曜午前。 売上、採用、顧客、監査、契約、経費、労務、リスク、地域貢献、AI開発連携、支社間連携を確認する。 会議は長くなる。 だが、長くなるべき会議だった。 まず、愛知支社。 支社長、伊吹達也。 四十二歳。 製造業クラウド、東海営業、開発支援の責任者。 副支社長、久世拓真。
高瀬凛は、朝から忙しかった。 少なくとも、本人はそう思っている。 父親である高瀬悠真から見れば、同じマンションの中を上下に行ったり来たりしているだけだった。けれど、六歳の凛にとっては、朝から予定の詰まった立派な一日だった。 午前七時。 四十階の自宅で起床する。 白いウサギのぬいぐるみを抱えたままベッドを抜け出し、まだ少し眠そうな顔で洗面所へ向かう。歯磨きを終える頃には目が覚め、今日の予定を自分なりに確認し始める。 午前七時十五分。 三十九階に住む高瀬誠一と高瀬由紀子の部屋へ行き、朝食を食べる。 由紀子が焼いた薄めのトーストへ、凛は自分でイチゴジャムを塗った。以前のように山盛りにしようとして、誠一に無言で見られ、少しだけ量を減らした。「じいじ、これならいい?」「パンが見えているから、今日は合格だな」「きのうも見えてたよ」「昨日は端だけだった」 由紀子が苦笑しながら、凛の前へスクランブルエッグを置いた。「凛ちゃん、卵も食べましょうね」「食べる。りん、今日はいっぱい行くところあるから」「同じ建物の中でしょう」「でも、いそがしいの」 午前七時四十五分。 朝食を終えた凛は、そのまま一階下の三十八階へ向かった。 そこには母方の祖父母である秋山孝之と秋山美津子が暮らしている。 美津子は、凛が来ることを予想していたらしく、冷蔵庫から小さなヨーグルトを出した。「朝ごはんを食べてきたんでしょう」「食べたけど、ヨーグルトはべつ」「別腹を覚えるには早くないか」 孝之が新聞を畳みながら言う。 凛は真剣な顔で首を振った。「ヨーグルトはおなかにいいから、だいじょうぶ」「誰に教わった」「みつこばあば」「
朝のタワーマンションは、街より先に目を覚ます。 地上より少しだけ早く、空の色が変わる。 ガラス張りのリビングに、淡い朝日が落ちていた。 四十階。 高瀬悠真の自宅。 都心湾岸エリアに建つ高級タワーマンション、グランレジデンス月島ベイ。 コンシェルジュ常駐。 地下駐車場。 ゲストラウンジ。 スカイラウンジ。 フィットネスルーム。 プライベートミーティングルーム。 キッズスペース。 宅配ボックスと専用集配導線。 警備員の二十四時間巡回。 そして、居住者専用エレベーター。 もともとは投資用として高瀬悠真が代表を務める不動産管理会社、タカセ・アセットマネジメントが複数フロアを保有していた物件だった。 悠真はIT企業ネクストリンクの創業者であり、同時に不動産にもかなり早い段階から投資していた。 会社経営が軌道に乗る前から、収益の一部を都心不動産へ回していた。 理由は単純だった。 IT企業は伸びる時は伸びる。 しかし、景気や投資環境の影響を受けやすい。 だから、安定した家賃収入の柱が欲しかった。 都内の高級タワーマンションを区分で複数戸。 港区、中央区、品川区、文京区。 さらに法人名義で一棟レジデンスも二棟。 地方では名古屋、大阪、札幌にも収益物件を持っている。 グランレジデンス月島ベイでは、三十六階から四十階の一部住戸をタカセ・アセットマネジメントが保有していた。 多くは賃貸に出している。 外資系企業の役員。 医師。 弁護士。 上場企業の役員。 芸能関係者。 月額家賃は部屋によって七十万円から百八十万円
佐々木茉里は、請求書を作ることが仕事だった。 会社の将来を左右するような、大げさな仕事ではない。 自分がこの会社を動かしているという実感も、ほとんどなかった。 朝、事務所へ来たら、最初に小さな給湯室へ入り、電気ポットの水を替える。入口脇の郵便受けを確認し、届いている封筒を請求書、広告、役所関係の通知に分ける。 留守番電話を聞き、来客予定を確認し、代表取締役である黒川亮介の予定を共有カレンダーへ入力する。 その後は、黒川から届いたメールや、机の上に置かれたメモを見ながら請求書を作成する。 取引先の正式名称。 請求先の住所。 業務内容。 請求金額。 消費税。 支払期限。 振込先口座。 数字や文字に誤りがないかを二度確認し、PDFへ変換してメールで送る。紙での発行を求められている取引先には、印刷した請求書へ角印を押し、三つ折りにして封筒へ入れた。 宛名ラベルを貼り、切手を確認し、帰りに駅前の郵便ポストへ投函する。 それが、佐々木茉里の仕事だった。 勤務先は、Raven Works株式会社。 社員数は少なく、正社員と契約社員を合わせても両手で数えられる程度しかいない。実際には外部の業務委託者が多く、毎日事務所へ出勤してくる社員は、茉里と黒川を含めても数人だった。 代表取締役は黒川亮介。 佐々木茉里は、そこで働く契約社員だった。 二十八歳。 月給は二十二万円。 賞与はない。 入社時には、半年から一年程度で正社員登用を検討す