Masuk遥side
ある日の朝、書斎で資料に目を通していた私に俊が穏やかな笑みを浮かべて語りかけてきた。
「遥、今度の財界のパーティーがあるのだけれど、僕と一緒に出席しないかい?」
その言葉に手にしていたペンを止めた。華やかなパーティー、それは使用人として奏多と会い、私の人生を変えた場所だった。今回は規模も出席者も全く違うが、私の脳裏に嫌な思い出が蘇ってくる。
「パーティー?……気持ちは嬉しいけれど私はいいわ。まだそういう場所には慣れないし、何より緊張してしまって」
遥side来期より父が会長、俊が社長に就任し、東宮グループは私たち親子が中心となる。世間への公表をする二か月前、新しい組織と新会社設立のことを伝えるために、ハリーと月島さんに連絡をして、都内の小料理屋で会食をした。「実は、この度、東宮グループの代表が変わることになりまして、来期より私が社長に就任することになりました」俊の報告にハリーと月島さんは目を丸くして驚いていたが、すぐに祝福をし満面の笑みをみせた。「俊が社長か。それはGoodニュースだ。これから、ますます私たちと東宮グループの仕事の機会が増えるかもしれませんね」「俊さん、おめでとうございます。俊さんのような指導者がトップなら東宮グループは今後めまぐしい成長を遂げて、巨大企業になるのでしょうね」二人が祝福の言葉を投げると、俊も笑顔で答えてから真面目な顔で話を続けた。「ありがとうございます。そしてプロジェクトの件なのですが、現在、一年以内の製品化を目標に動いていますが、ちょうど就任の時期と被ってしまいそうなんです。我々としても、このプロジェクトは社運を賭けた大事なもので、絶対に成功させたい。そのためにスピード感を持って動けるように、新会社を設立しようと思っています。そして、その代表は遥が務めさせていただきます」「遥が?」
遥side「……私が、社長、ですか?」父の言葉に、耳を疑った。父と俊が私を信頼してくれて抜擢してくれることはとても嬉しいし、その期待に応えたいという想いは確かにあった。しかし、社長という言葉を聞いて即座に頭に浮かんだのは麗華のことだった。「……私は、経営経験がありません。そんな人物を会社の代表にするなんて、社員の士気を削いだり、ご迷惑にならないでしょうか……」五十嵐工業が、今どんな状況なのか私は知らない。けれど、麗華が以前のまま自分の行動を顧みないなら内部から何かしらの問題や影響が出るのではないかと危惧していた。そして、麗華のように、経営や実務を何も分からない私が、自分の器もわきまえずにその座に座れば、同じ過ちを繰り返すのではないか。そんな恐怖が、受け入れることを躊躇している。私の言葉を聞いた父は、少し意外そうな顔をした後、静かに問いかけてきた。「それは、責任の重さから逃げたくて断っているのか?」「……いえ、そうではありません。お父様たちが私を抜擢してくださったことは、大変光栄に思います。ただ、仕事というのは社員がいてこそ成り立つものです。彼らの日々の働きがあるからこそ、事業として、会社が成り立ちます。経験も実績もない私を、彼らが納得してくれるのか……。社長や専務のように『この人に付いていきたい』と思わせる器量が私
遥sideハリーの会社と東宮グループの共同プロジェクトが始動して、もうすぐ一年が経とうとしていた。現在は実務面で想定されるあらゆるトラブルの洗い出しや、現場スタッフ向けのオペレーションマニュアルの作成など、製品化に向けた最終段階の真っ只中だ。「この調子でいけば、早ければ半年、遅くとも一年後には正式な販売が開始できそうだ。みんな、今は大変な時期だと思うが、どうか力を貸してくれ」責任者である兄で専務・俊からの力強い言葉に、チームメンバーから歓声と拍手が沸きあがった。「できたらいいな」という構想段階から、検証と議論を積み重ねてなんとか「形」に変えてきたこの一年。製品化と販売時期のゴールが見えたことで、現場にはこれまでにない熱気と心地よい高揚感が漂っていた。一方の私は、月島さんと以前にも増して一緒にいる時間が長くなっていた。 プロジェクトリーダーとして、Webや対面での打ち合わせ、現場サイドの意見を伝えるためにメールや電話でやり取りなどの業務上のやり取りはもちろんのこと、仕事帰りに車で送ってもらったり、時間によっては食事に行ったりすることも増えた。いつしかハリーや俊から認められる『公認の仲』になっていた。 けれど、実際のところは、月島さんから明確な告白があったわけでも、手を繋いだり、恋人らしいことをすることもない。ただ、私の隣に月島さんがいることが自然で当たり前の風景になっているだけだった。
遥side私が、麗華の就任パーティーに出席すると言ったので月島さんまで付き合わせてしまった。忙しい時間を割いてくれた月島さんにせめてもの気持ちで、送迎は東宮家がすることにした。帰りの車のリムジンの中で私の隣に俊、そして向かい側に月島さんが座っている。窓の外を流れていく都心の夜景は、先ほどまでの悪意に満ちた視線とは無縁で煌びやかに光り輝いていた。私は膝の上で組んだ手に視線を落とし、小さく息を吐いた。「今日は、二人まで巻き込んでしまって本当に申し訳ないわ……」俊の言う通り、最初から麗華の招待など無視していれば、こんな不快な思いを二人にさせることはなかったはずだ。そう悔やんでいる私に、俊と月島さんは顔を見合わせた。「遥さんのせいではありませんよ。あのような不躾なことをした新社長の品格の問題です。むしろ、あなたの毅然とした振る舞いに会場の誰もが圧倒されていたはずです」「そうだよ、遥は何も悪くない。あそこで堂々と立ち向かた遥を誇りに思うよ。気にするkとなんて何もないさ」月島さんは考え込むように指先を顎に当てた。「しかし、あの星野麗華という人物……想像以上に癖のある厄介な人物ですね。実務経験がないこと以上に、自らの感情をコントロールできず公私混同を厭わない。彼女が五十嵐工業のトップになることは、会社にとって致命的なリ
奏多side「もう二度と遥に関わらないでくれ。何かあったら、東宮グループのすべてを賭けて、君と住吉商事を許さない。真っ向から戦うよ」去り際、東宮俊が俺に放った言葉が、頭の中で何度も復唱されている。冷静沈着で東宮グループの次期社長とも言われている彼が、剥き出しの怒りと憎しみに満ちた瞳で俺を射貫き、宣戦布告とも取れる強い意志を突きつけてきた。その圧力に、俺はただ戸惑い立ち尽くすことしかできなかった。(東宮家は、俺のことを相当恨んでいるようだな。……俺が遥と結婚していたからなのか。それに子どもや母親がとか言っていたが何を言いたかったんだ。前に麗華が流産しそうになったことに対して、俺が遥を厳しく叱責したことを言っているのか?)重い足取りで会場に戻ると、異様な空気が充満していた。 華やかだったはずのシャンデリアの光はどこか虚しく、招待客たちの視線は困惑に満ちている。俺はすぐに秘書の佐藤や、同席していた役員たちを呼びつけた。「……何があった。状況を説明しろ」「あの、その……。星野社長が、先ほどのダンスの件で月島氏に恥をかかされたと、舞台裏で大変ご立腹でして。そのまま控え室に閉じこもってしまわれたのです」佐藤が冷や汗を拭いながら報告する。「ゲストの方々はホストである新社長がいなくなったことで
俊side拳を振りかざしてしまいそうな衝動をかろうじて理性が繋ぎ止める。僕が必死で探しだした妹を、この男はまるで主従関係のようにお金さえ渡せばいいと思っている。指先が震えるほどの怒りを感じたのは、人生で何度目だろうか――――「対価だと……? 結婚を、妻を、遥をなんだと思っているんだ」自分でも驚くほど低く地を這うような冷たい声で、住吉に怒りをぶつけた。住吉は、一瞬だけ射抜くような鋭い眼光で僕を睨みつけたが、彼はすぐにふっと視線を逸らすと困惑しながら言い返してきた。「……何を言っているのですか。私はそんなことは、一切言っていません」「もう結構です。あなたは、自分の非を認めることができない人間のようだ。……子どもさえ出来れば、母親が誰であろうと構わないんですね。だから、遥に対してもあんなに『ひどい扱い』ができるというわけか。心の底から、軽蔑します。……それでは、失礼」一言だけ吐き捨てるように告げると、彼の手を乱暴に振り払ってその場を去った。背後で、住吉が何かを言おうとした気配がしたが、もはや振り返る価値すらない。彼が何を叫ぼうと、今の僕には不快なノイズにしか聞こえなかった。(あの男にとって、不倫も、妻以外の女性に子どもを産ませることも、大した問題ではないというのか?なんて腐った人間なんだ。あんな男のために、遥は二年間もの貴重な時間を尽くしてきたなん
遥side「遥さん、お待たせしてすみません。ハリーからはシステムの質問でしたが、無事終わりました。……遠目で遥さんと住吉社長がお話しされているのを見ましたが、監査の件で何か問題でもありましたか?」月島さんは心配したように私の顔を覗き込んでいる。その落ち着いた声が、張り詰めていた私の神経をふっと緩ませた。。
奏多side土曜日、朝食を終えて着替えを済ませてからクローゼットの中を見渡すと、一昨日届いたばかりの新品のスーツと鞄だけが美しく並んでいた。ゆとりの感じられる風通しのいいクローゼットは、見ていてとても清々しい。「さて、神山に移動させた荷物の場所を聞いて確認するか……」階段を降りて執事の神山を探すと、電話をしている最中だった。受話器を両手で持ち、時折深く頭を下げながら対応していてまだ時間がかかりそうだ。「奏多様、いかがなさいましたか?」神山の様子を伺っていた俺に、古くからこの屋敷に仕えている家政婦の一人が声をかけてきた。「ああ。一昨日からクローゼットの整理を頼んでいたが、出した荷物が
奏多side寝室のクローゼットで発見した手帳を手に持ち、もう片方の指で文字をなぞる。1月18日 奏多は年明けの会食続きで少し疲れ気味の様子。家での食事は、脂っこいものは避けて、湯豆腐にして大根おろしとポン酢のタレを出した。消化にいい食材:大根、山芋、キャベツ1月
麗華side「奏多に送ったメッセージ、既読にはなったけれど返信はないわね。どうせ買ったら駄目なんて言わないだろうし、事後報告でもいいわよね」返事を待ってから購入しようとは一応思っていたけれど、奏多の連絡よりも先に外商が私のマンションに来る時間になってしまった。『限定品』という言葉は、抗えない魔力を持っている。今日を逃したら、次の時にはもう販売されていないかもしれない。私の気持ちは買い一択だった。「星野様、よくお似合いになっておられます。星野様の細くて綺麗なデコルテが、このネックレスを纏うことでより洗練された美しさになりますね」







