LOGIN遥side
パステルブルーのドレスに着替えたあと鏡の前で唇に最後の色を乗せてから、私は深く息を吸い込み重厚な扉を開けて玄関へと向かった。
支度を終えたタキシード姿の俊と娘の
「遥、素敵なドレスだね。とってもよく似合っているよ」
「ママ、とっても可愛い! お姫様みたい!」
三歳になった花蓮は、お気に入りのテディベアを抱きしめながら駆け寄ってきて、私の手をぎゅっと握りしめている。ドレスの裾を汚さないよう片手で持ちながら腰をかがめて、花蓮
奏多side「今日は、お忙しい中お時間を作っていただき、ありがとうございます」弁護士を通じて、示談書の提出と慰謝料の支払いについて具体的に話をしたいと正式に依頼をすると、数日間の調整を経て面談日が設けられた。この日は、雲ひとつない晴天で俺は交渉の武器を鞄に詰め込み、再び東宮グループのオフィスを訪れた。案内された応接室には、東宮俊と月島直人が並んで座っている。俺は二人の正面に立ち、深く、長く頭を下げた。「この度は、星野が大変無礼なことをして、ご迷惑をおかけしたこと誠に申し訳ございませんでした」「住吉社長、早速本題に入りましょう。事前に二通の書類をお渡ししたはずですが、今日お持ちいただいたのは一通のみのようですね。……これは、どういうことでしょう?」東宮俊が、テーブルに置かれた封筒を指先で軽く叩いた。その瞳は笑っていない。隣の月島は、冷ややかな眼差しを俺に向けている。(やっぱり指摘してきたか……。だが、ここで相手の言うことをそのまま聞き入るわけにはいかない)俺は気持ちを奮い立たせてからゆっくりと口を開いた。「星野麗華は、弊社の社員であり、なおかつ子会社の社長という社会的に責任ある立場にあります。そのような立場の人間が
麗華side奏多:悪いが明日、会社に来てくれないか? 麗華に大切な話がある奏多から朝メールが届いていたが、私は冷めた目で眺めていた。この前のレストランでの奏多の態度が気にくわないので無視を決め込み、画面をそっと閉じる。画面には『既読』のマークがついているから、私が見ていることは奏多にも伝わっているだろう。けれど、そんなことはどうだっていい。私が機嫌を損ねていると焦ればいいのだ。夜になると鳴り止まない着信の嵐に、私は渋々電話を取った。「……しつこく電話をかけてきて何の用かしら」「メールは読んだんだろう。明日の午前十時、社長室に来てくれ」「……まだ行けるか分からないわ」素っ気なく答えると、奏多は深くため息をついたあとに懇願するように弱弱しく囁いた。「麗華……頼むから、必ず来てくれ。大切な話なんだ。待っている」それだけ言うと電話はぷつりと切れた。呆然としながら黒い画面に映る自分の顔を見つめる。
奏多side「住吉社長、ここで何をしているのですか。面会はお断りしているはずですが」遥は、刃物のように鋭く、氷のように冷たい眼差しで俺を見ていた。「……東宮社長。どうしても、あなたに直接聞きたいことがあって伺いました」「私からもこの場でお話しすることはありません。すべて、弁護士を通してください」遥はそう言うと、オフィスに戻らずに、俺の横をすり抜けてそのまま正面出口へと歩き出した。慌てて追いかけようとする俺を見て、警備員を呼ぼうとしているのか受付の女性が咄嗟に内線電話を手に取ったが、遥は無言で掌を向けて『大丈夫』と制止の合図を送った。(これは、騒ぎを大きくしないために周囲の目や耳に入らない場所へ行こうと遥が気遣ってくれているのか……?)藁にもすがるような思いで、その凛とした背中を追ってビルの外へと出た。春の陽光がアスファルトを照らしているが、俺たちの間に流れる空気だけは、真冬のように冷え切っている。街路樹の影に差し掛かったところで遥がピタリと足を止めた。振り返った遥の表情には、一抹の慈悲も残っていない。「遥……」「……もうこんなことは止
奏多side面会を拒絶され続けても、俺は東宮グループのオフィスに毎朝通うようになった。冷ややかな視線を向けられようとも、今の俺にはそれしか縋るものがない。鞄の中には、弁護士から手渡された示談書と慰謝料の支払い書類が入っている。示談書は、内容が微妙に異なるものが二通手渡されている。 一通は、麗華が犯した誹謗中傷と名誉棄損に対する謝罪と賠償を認めるもので、これには迷わずサインをした。俺が直接手を下したわけではなくとも、住吉家の敷地内から発信された記録が残り、証拠のPCが押収された以上、責任は免れない。しかし、もう一通についてはどうしてもサインが出来なかった。交渉するためにも、東宮俊と会いたいのだが、オフィスに出向いても門前払いをされるばかりで願いは叶わないままだ。(文章や弁護士を通してではなく、このことだけは、直接会って自分の言葉で思いを伝えたい……)その日も、拒否をされてしまい肩を落として自社に出社すると、秘書の佐藤が焦燥を滲ませた表情で部屋に入ってきた。「社長、先日仰っていた東宮家の女児……花蓮ちゃんの件で、詳細な報告が入りました」心臓が嫌な音を立てて跳ねる。佐藤は手元の資料を捲りながら、声を潜めた。「
奏多side「このスープは誰が作ったんだ?」向井という家政婦を呼び止めて尋ねると、彼女は「どうしてそんな分かり切ったことを聞くのだろう」と不思議に思いながらも丁寧に答えた。「スープ、ですか? そちらは林シェフが作ったものですが……何かお気に召さない点でもございましたか?」「……いや、シェフはまだ厨房にいるのか? 少し聞きたいことがあるんだ。ここへ連れてきてくれ」五分後、何か重大な失態でも仕でかしたのかとシェフの林が緊張で肩を強張らせながら応接間に入ってきた。俺は努めて穏やかな声を意識し、林に話しかけた。「急にメニューを変えてもらってすまなかった。林、このスープは君が作ったものだな。誰かにレシピを教わったり、あるいは一緒に作ったりしたことはあるか?」その問いの真意を察したのだろう。林シェフの肩が、目に見えてピクリと跳ねた。「それは……」「このスープ、少し味は違うが、俺は以前どこかで飲んだ記憶があるんだ。だが、それは君とは別の人間が作ったものだった。その人物は、自分のオリジナルだと言っていた。……林、君のその反応を見る限り、俺が何を言いたいか分かっているようだね
奏多side東宮グループのオフィスビル。そのエントランスを、遥と月島、そしてあの少女が三人で手を繋いで去っていった。その背中を見送った瞬間、俺は胸を鷲掴みにされたような息苦しさと敗北感を覚えた。結局、その日は東宮俊社長にも会えず、俺は何もできないままビルを後にした。心の中を支配する言い難い感情を吐き出したくて逃げるように馴染みのバーへと向かった。カウンターに座ると、何も言わずともマスターがおしぼりとウイスキーのダブルを差し出す。大きな氷山のような塊が、琥珀色の液体の中で静かに佇んでいた。そのことが今の俺にはありがたく心に沁みる。カラン、と氷が音を立てる。俺はそれを馴染ませる間もなく、テキーラのショットを煽るように一気に喉へと流し込んだ。食道を焼く熱い刺激が一瞬だけ思考を麻痺させてくれる。(……もしかして遥のやつ、何年も前から月島と関係を持って俺を裏切っていたのか? 家族になりたかったから離婚を切り出したのか?)酔いが回るにつれ、思考は卑屈な方向へと加速していく。二時間を過ぎる頃には、視界は霞み、グラスの中の氷は角が取れて、透明なビー玉のように俺の惨めさを映し出していた。翌朝、会社につくなり秘書の佐藤を電話で呼び出すと、慌てた様子で部屋に入ってきた。「おはようございます。……社長、何か問題でも?」 
遥side「遥さん、お待たせしてすみません。ハリーからはシステムの質問でしたが、無事終わりました。……遠目で遥さんと住吉社長がお話しされているのを見ましたが、監査の件で何か問題でもありましたか?」月島さんは心配したように私の顔を覗き込んでいる。その落ち着いた声が、張り詰めていた私の神経をふっと緩ませた。。
奏多side土曜日、朝食を終えて着替えを済ませてからクローゼットの中を見渡すと、一昨日届いたばかりの新品のスーツと鞄だけが美しく並んでいた。ゆとりの感じられる風通しのいいクローゼットは、見ていてとても清々しい。「さて、神山に移動させた荷物の場所を聞いて確認するか……」階段を降りて執事の神山を探すと、電話をしている最中だった。受話器を両手で持ち、時折深く頭を下げながら対応していてまだ時間がかかりそうだ。「奏多様、いかがなさいましたか?」神山の様子を伺っていた俺に、古くからこの屋敷に仕えている家政婦の一人が声をかけてきた。「ああ。一昨日からクローゼットの整理を頼んでいたが、出した荷物が
麗華side「奏多に送ったメッセージ、既読にはなったけれど返信はないわね。どうせ買ったら駄目なんて言わないだろうし、事後報告でもいいわよね」返事を待ってから購入しようとは一応思っていたけれど、奏多の連絡よりも先に外商が私のマンションに来る時間になってしまった。『限定品』という言葉は、抗えない魔力を持っている。今日を逃したら、次の時にはもう販売されていないかもしれない。私の気持ちは買い一択だった。「星野様、よくお似合いになっておられます。星野様の細くて綺麗なデコルテが、このネックレスを纏うことでより洗練された美しさになりますね」
奏多side「奏多! 聞いたわよ。月島銀行が監査に来るんですって? 面倒なことになったわね。私のパパから月島銀行の役員に話を通してもらうようにしましょうか?」秘書の制止を振り切って入ってきた麗華は、俺にねだって手に入れたばかりの限定モデルのブランドバッグを乱雑にデスクに置いた。