LOGIN奏多side
「佐藤、五十嵐の会社だが来期より経営陣を一掃したいと思っている。具体的には、五十嵐のブレーンとなる優秀な外部人材を招き入れるか、あるいは五十嵐の代わりに代表が務まる人物を選定したい。本人の意向を汲む必要はあるが、あの監査の結果を見た後では、今の体制を維持するのはあまりにリスクが大きすぎる」
監査終了してから一週間経過後の社長室。俺は冷え切ったコーヒーを口に運びながら、重い口調で佐藤に切り出した。頭の中は子会社の再建計画で埋め尽くされていた。
「そうですね……。私も監査の事前打ち合わせを傍聴していましたが、正直なところ、五十嵐社長の対応には強い不安を覚えました。彼は、大勢の前で語ることに慣れていない。それど
遥side朝、太陽の光が庭の木々たちの隙間を抜けてカーテン越しに私を照らし、新しい一日のはじまりを教えてくれる。昨夜、月島さんの腕の中で感じたあの熱い鼓動や、彼に打ち明けた花蓮のことや父親の秘密。その重みが、まだ微熱のように体に残っている。けれど、世界は止まらない。悲しくても、嬉しくても、どんな時でも朝は必ずやってくる。そして、今日という日は、東宮グループの新しい子会社の社長として、多くの社員の人生を背負う立場になる、私にとって人生の『特別』な日だ。鏡の前に立ち、ライトグレーのパンツスーツに袖を通す。このスーツは、俊が新しい門出にと贈ってくれたものだ。「花蓮、ママ、お仕事に行ってくるわね」「ママ、かっこいい! 頑張ってね!」玄関で花蓮が弾けるような笑顔で手を振ってくれる。執事たちの温かい眼差しに見守られながら、私は新生活への一歩を踏み出した。会社設立といっても、父や俊の計らいでオフィスの場所は変わらず、フロアが移動しただけで、ワンフロアすべてが私たちの新会社となった。窓が大きく、開放感のあるオフィスに、プロジェクトメンバーたちは歓声を上げて喜んでいる。午前十時。月島さんも交えて全員での顔合わせが始まった。 会議室に集まったメンバーたちの顔には、自分たちが積み上げてきた努力が「会社」という形になったことへの誇りが溢れている。そんな中、共同代表を務める
遥side「話してくださり、ありがとうございます。……あの一つ伺ってもいいですか? 花蓮ちゃんの父親というのは、もしかして……」月島さんの低く、震える声が夜の静寂を切り裂いた。私は逃げることも逸らすこともせず、ただ一点を見つめて答えた。「ええ、住吉奏多です。……ですが、このことは花蓮も、そして住吉本人も知りません。どうか……内密にお願いします」「そうですか…………」月島さんの声は、僅かに沈んでいた。街灯の光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように硬く、視線は行き場を失ったかのように激しく揺れている。あの時、純粋な思いを伝えてくれた月島さんの気持ちを受け止めたい気持ちもあった。しかし、自分の決断に後悔はない。拳をギュッと力強く握りしめて、月島さんの顔をまっすぐに見つめた。「月島さん……。先ほど想いを伝えてくださったこと、本当に嬉しかったです。ですが……今まで、私は本当の姿をあなたに見せていませんでした。もう、これで隠していることはありません。あの子は、私の娘です。私は、娘のことも受け入れてくれる人としか、次の恋愛は考えられません。……それが、私の答えです。…&h
遥side「遥さん、つきました……」屋敷の正面ロータリーにつくと、月島さんの低い声が静まり返った車内に響いた。車のエンジン音が止まると、静寂が私たちを包み込む。「ここで少し待っていていただけますか。すぐに戻ります」月島さんにそう言い残し、車を降りて屋敷に入った。月島さんにどうしても話さなければならないこと。それは、『花蓮』のことだった。月島さんの真っ直ぐな思いは純粋に嬉しかった。月島さんのような誠実な人が、私の事を心から想い、隣にいたい、支えたいと言ってくれる。そのことに、今まで感じたことのない心の温かさを感じていた。だからこそ、私も真っ直ぐに月島さんと向き合わなければならないと思った。花蓮は、私にとってかけがえのない宝物だ。花蓮の存在を隠したまま、月島さんの好意を受け止めることは出来ない。それに、花蓮に対しても母親が自分の存在を隠して恋愛に夢中になっているなんて、生涯に残るトラウマとなるだろう。また、どんな結果を招くとしてもこの子の父親のことは月島さんには話さなくてはいけない。リビングに入ると、花蓮は兄の俊の膝の上に乗り絵本を読んでもらっていた。「花蓮、良かった。起きていたのね。……ちょっと外に出てくれる? 花蓮に紹介したい人がいるの」「紹介したい人? だあれ?」
遥side新会社の始動を翌日に控え、私の日常は目まぐるしい速さで動き続けていた。登記手続き、役員人事の最終確認、そしてオフィスの設営。慌ただしいスケジュールをこなす私の横には、月島さんの姿があった。「遥さん、明日のスケジュールです。初日だけあってタイトな予定となっていますが、頑張りましょうね」差し出されるタブレットとブラックコーヒー。月島さんのサポートがなければ、私は今頃パンクしていただろう。そんな私たちを、共同出資者であるハリーはニヤニヤしながら眺めていた。その日の夜。社員が帰り、広いオフィスには私と月島さんの二人だけになった。窓の外には、東京の夜景が宝石を撒き散らしたように広がっている。「いよいよ明日ですね。……遥社長、改めてよろしくお願いします」月島さんが少し改まった様子で差し出してきた手を、私は両手で包み込んだ。その手は驚くほど温かい。「『遥社長』ですか。なんだか、くすぐったくて変な感じです。でも、こちらこそよろしくお願いしますね、月島社長」「……本当だ。『社長』とつけると不思議な感じがしますね」おどけて肩をすく
遥side来期より父が会長、俊が社長に就任し、東宮グループは私たち親子が中心となる。世間への公表をする二か月前、新しい組織と新会社設立のことを伝えるために、ハリーと月島さんに連絡をして、都内の小料理屋で会食をした。「実は、この度、東宮グループの代表が変わることになりまして、来期より私が社長に就任することになりました」俊の報告にハリーと月島さんは目を丸くして驚いていたが、すぐに祝福をし満面の笑みをみせた。「俊が社長か。それはGoodニュースだ。これから、ますます私たちと東宮グループの仕事の機会が増えるかもしれませんね」「俊さん、おめでとうございます。俊さんのような指導者がトップなら東宮グループは今後めまぐしい成長を遂げて、巨大企業になるのでしょうね」二人が祝福の言葉を投げると、俊も笑顔で答えてから真面目な顔で話を続けた。「ありがとうございます。そしてプロジェクトの件なのですが、現在、一年以内の製品化を目標に動いていますが、ちょうど就任の時期と被ってしまいそうなんです。我々としても、このプロジェクトは社運を賭けた大事なもので、絶対に成功させたい。そのためにスピード感を持って動けるように、新会社を設立しようと思っています。そして、その代表は遥が務めさせていただきます」「遥が?」
遥side「……私が、社長、ですか?」父の言葉に、耳を疑った。父と俊が私を信頼してくれて抜擢してくれることはとても嬉しいし、その期待に応えたいという想いは確かにあった。しかし、社長という言葉を聞いて即座に頭に浮かんだのは麗華のことだった。「……私は、経営経験がありません。そんな人物を会社の代表にするなんて、社員の士気を削いだり、ご迷惑にならないでしょうか……」五十嵐工業が、今どんな状況なのか私は知らない。けれど、麗華が以前のまま自分の行動を顧みないなら内部から何かしらの問題や影響が出るのではないかと危惧していた。そして、麗華のように、経営や実務を何も分からない私が、自分の器もわきまえずにその座に座れば、同じ過ちを繰り返すのではないか。そんな恐怖が、受け入れることを躊躇している。私の言葉を聞いた父は、少し意外そうな顔をした後、静かに問いかけてきた。「それは、責任の重さから逃げたくて断っているのか?」「……いえ、そうではありません。お父様たちが私を抜擢してくださったことは、大変光栄に思います。ただ、仕事というのは社員がいてこそ成り立つものです。彼らの日々の働きがあるからこそ、事業として、会社が成り立ちます。経験も実績もない私を、彼らが納得してくれるのか……。社長や専務のように『この人に付いていきたい』と思わせる器量が私
遥side「遥さん、お待たせしてすみません。ハリーからはシステムの質問でしたが、無事終わりました。……遠目で遥さんと住吉社長がお話しされているのを見ましたが、監査の件で何か問題でもありましたか?」月島さんは心配したように私の顔を覗き込んでいる。その落ち着いた声が、張り詰めていた私の神経をふっと緩ませた。。
奏多side土曜日、朝食を終えて着替えを済ませてからクローゼットの中を見渡すと、一昨日届いたばかりの新品のスーツと鞄だけが美しく並んでいた。ゆとりの感じられる風通しのいいクローゼットは、見ていてとても清々しい。「さて、神山に移動させた荷物の場所を聞いて確認するか……」階段を降りて執事の神山を探すと、電話をしている最中だった。受話器を両手で持ち、時折深く頭を下げながら対応していてまだ時間がかかりそうだ。「奏多様、いかがなさいましたか?」神山の様子を伺っていた俺に、古くからこの屋敷に仕えている家政婦の一人が声をかけてきた。「ああ。一昨日からクローゼットの整理を頼んでいたが、出した荷物が
奏多side寝室のクローゼットで発見した手帳を手に持ち、もう片方の指で文字をなぞる。1月18日 奏多は年明けの会食続きで少し疲れ気味の様子。家での食事は、脂っこいものは避けて、湯豆腐にして大根おろしとポン酢のタレを出した。消化にいい食材:大根、山芋、キャベツ1月
麗華side「奏多に送ったメッセージ、既読にはなったけれど返信はないわね。どうせ買ったら駄目なんて言わないだろうし、事後報告でもいいわよね」返事を待ってから購入しようとは一応思っていたけれど、奏多の連絡よりも先に外商が私のマンションに来る時間になってしまった。『限定品』という言葉は、抗えない魔力を持っている。今日を逃したら、次の時にはもう販売されていないかもしれない。私の気持ちは買い一択だった。「星野様、よくお似合いになっておられます。星野様の細くて綺麗なデコルテが、このネックレスを纏うことでより洗練された美しさになりますね」