Masuk彼は車の助手席から茶封筒を取り出し、水琴に差し出した。「これ、君に」「何、これ?」いぶかしげに受け取った水琴が封を切ろうとすると、灼也の大きな手が慌ててそれを遮った。「家に入ってから開けてくれ」その重々しい声のトーンと真剣な眼差しから、封筒の中身が極めて機密性の高いものだと察する。水琴は大人しく手を止め、そのまま無言で彼の横を通り過ぎようとした。しかし、数歩歩いたところでふと足を止める。振り返り、灼也の背中越しに短く告げた。「……半月島よ」その唐突な三文字を聞いて、灼也はわずかに眉をひそめた。「半月島?」「ええ」それ以上の説明は不要だった。これだけヒントを与えれば、あとは彼の明晰な頭脳が勝手に答えを導き出すはずだ。水琴は踵を返し、振り返ることなくマンションの奥へと消えていった。自室に戻るなり、ドアの鍵をしっかりと掛けた。灼也から渡された茶封筒の封を切り、中から慎重に書類を取り出す。その内容に目を通した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれ、手先がかすかに震えた。これは……?土地競売の当日。華やかなドレスに身を包んだ水琴は、重人と共に会場へと足を踏み入れた。今日集まった人間の中で、本当に価値が跳ね上がるのが半月島であると知っている者が果たしてどれだけいるかは分からない。だが、静沢家としては何としてでもあの島を手に入れなければならなかった。今回のオークションでは、目玉である翡翠島や半月島の他にも、大小十数区画の土地が競りにかけられる。招待されているのは、南鳥市の経済界を牛耳る重鎮ばかりだ。座席は市内の勢力図をそのまま反映したような配置になっており、最前列には灼也と琉里がすでに腰を下ろしていた。水琴と重人はその後ろ、二列目の席へと案内される。すぐ後ろの三列目には、臣と紗夜の姿があった。席に着く際、水琴は紗夜と意味ありげに視線を交わした。最初に競りにかけられたのは長年放置されていた廃れた土地で、スタート価格も低く、たった一億円であっさりと落札された。そこから三つの土地が続いたが、水琴は一切見向きもしなかった。彼女の狙いは、最初からただ一つだけだ。やがて、スクリーンに『翡翠島』の文字が映し出されると、会場内にどよめきが走った。少し離れた席に座る宝生会長が、穏
土地の競売を明日に控え、水琴は紗夜と顔を合わせていた。前回の対峙を経て、紗夜の態度は一変していた。水琴に対する怯えはすっかり消え失せている。腹を割って全てを吐き出した今、最悪でも刑務所送りになるだけだと、妙な開き直りを見せていた。カフェの席に着くや否や、紗夜がアイスコーヒーを注文しようとしたため、水琴はすかさずそれを制止した。「妊娠中なら、冷たいカフェインは控えた方がいいわ。お水にしておきなさい」「……ありがとう」予想外の気遣いだったのか、紗夜は少しだけ目を丸くした。紗夜の目に映る水琴の瞳は、どこまでも澄み切っていて、かつての憎悪やわだかまりは微塵も感じられない。「私、水琴さんのこと誤解してたみたい」「何が?」今度は水琴がわずかに眉をひそめる番だった。「臣さんへのあの冷たい態度は、ただの強がりだと思ってたの。雅さんやお義母さんから、あなたの話はよく聞いていたから。臣さんのことを誰よりも深く愛していて、そう簡単に諦めきれるはずがないって。だから、どんなに冷たく突き放していても、あなたの心の中にはまだ彼の居場所が残っているんだって……そう思い込んでいた。でも、どうやら私の勘違いだったみたいね」紗夜はそう言って、自嘲気味にふっと笑った。その感傷的な言葉に、水琴は一切同調しなかった。そもそも、彼女と女子会のようなおしゃべりを楽しむためにここへ来たわけではない。無駄話をバッサリと切り捨て、単刀直入に本題へと切り込む。「明日のオークション、あなたと臣も参加するのよね?」紗夜は少し考え込む素振りを見せた後、静かに頷いた。「ええ。水琴さんも、どこか狙っている土地があるの?」水琴は短く肯定した。「翡翠島よ」「それもそうよね。今、南鳥市中の人間が、あの翡翠島を手に入れようと血眼になっているもの。聞いてるわ、宝生会長は今回、故意に地価を吊り上げるどころか、逆に想定価格から五パーセントも引き下げたそうじゃない。本当に、利益に執着しないお方なのね」紗夜は感心したようにため息をついた。水琴の瞳の奥で、鋭く冷たい光が瞬いた。「へえ。臣も翡翠島を狙っているのね」「ええ。新しい開発ルートがその島を通るって専らの噂よ」紗夜はうなずき、真剣な顔で説明を続ける。「もし翡翠島を落札できれば
鎮痛剤を数錠サイドテーブルに置くと、医師は「人騒がせな……」とでも言いたげな顔でそそくさと帰って行った。寝室に、気まずい沈黙が落ちた。先ほどまでオロオロと半泣きになっていた七緒の目つきが、スッと細められ、底冷えのするようなジト目が鹿耶へと向けられた。「……お前」先ほど、彼女が嬉しそうに頬張っていたキンキンに冷えたシャインマスカットの光景が、七緒の脳裏に鮮明に蘇る。「自分の体のことくらい、ちゃんと管理しろってんスよ……!」呆れと、隠しきれない心配がないまぜになったような低い声。生理中にあんな冷たいもんバクバク食うなんて、このバカは本当に……!ベッドで縮こまる彼女を見下ろしながら、七緒は大きなため息を吐き出した。「だ、だって……!」鹿耶は涙目で唇を尖らせ、恨めしそうに七緒睨み返した。「私、いっつも周期がバラバラなのよ。まさか今日来るなんて思わなかったし、数日後だと思ってたから……」「……ってことは、お前、もうすぐ来るかもしれないって分かっててあんなに冷たいもんバクバク食ってたんスか?」七緒の額に、ピキリと青筋が浮かんだ。本気でこの女の危機管理能力のなさに頭が痛くなってくる。「ち、違うもん……!」ただでさえお腹が千切れそうに痛いのに、なんでこんなに責められなきゃいけないのか。痛みとホルモンバランスの乱れも相まって、鹿耶の胸の奥で得体の知れない苛立ちが急激に膨れ上がった。「私だって悪気があってやったわけじゃないじゃない!」「自分で自分の体調管理もできないくせに、何で逆ギレしてんスか!」七緒も思わず声を荒げた。だが、真っ青な顔で脂汗を流し、必死に痛みを堪えている彼女の姿を見ると、怒りよりも心苦しさが勝ってしまう。「……もう、放っておいてよっ!」痛みに耐えかねた鹿耶が、枕に顔を押し付けて思わず叫んだその瞬間。ハッとして顔を上げたが、遅かった。あまりの余裕のなさに、つい一番言ってはいけない言葉を口走ってしまった。七緒の顔からスッと表情が消え、鉄のように冷たく硬いものに変わった。「……あっ、待って、七緒くん……!」鹿耶の制止も虚しく、彼は無言のまま踵を返し、バンッ!と大きな音を立てて寝室のドアを閉めて出て行ってしまった。静まり返った部屋の中で、鹿耶は激しい後悔に苛まれ
その声は穏やかだったが、絶対に有無を言わさない凄みがあった。鹿耶はビクッと肩を揺らし、渋々手を引っ込めるしかなかった。なによもう……! 独裁者!俺様!心の中で悪態をつきながら、鹿耶は少し距離を取ろうと体を起こしかけた。しかし次の瞬間――グイッ。「きゃっ!?」腕を引かれ、バランスを崩した鹿耶は、そのまま七緒の分厚い胸板へと倒れ込んでしまった。すっぽりと包み込まれるような、暖かくて安心する腕の中。文句を言ってやろうと顔を上げた鹿耶だったが、すぐ目の前にある七緒の瞳があまりにも甘く、とろけるように優しくて……不覚にもカッと頬が熱くなるのを感じて俯いてしまった。まさか、また……?昨夜、彼が理性を失った獣のように豹変し、何度も泣いて許しを請う羽目になった記憶が鮮明にフラッシュバックする。一晩中弄り倒されて、やっと体力が回復してきたところなのに。もし今からまたあんな風に……ばかばかばか!私の頭、いつからこんなに不純になったのよ!きっと彼はただ私を見つめているだけなのに。顔から火が出そうなくらい赤面して一人で悶々としていると、さすがの七緒も彼女の異変に気がついたらしい。すべてを見透かすような熱い視線が彼女を捕らえて離さない。鹿耶が何かを言うより早く、七緒の顔が近づき、チュッと軽い音を立てて彼女の唇を啄んだ。一瞬で思考がショートし、頭の中が真っ白になる。「なっ……なにするのよ!」「……お前が可愛いのが悪いんスよ」七緒はそのまま鹿耶をソファに押し倒すと、逃げ道を塞ぐように深く、熱いキスを落とした。甘く、決して抗えないほどの強さで彼女を抱きすくめる。ところが――まさにその時だった。ズキッ!!突然、下腹部を鈍く重い痛みが襲い、鹿耶はビクンと体を震わせた。「うっ……あぁっ……!」苦痛に顔を歪め、思わずうめき声を漏らした彼女に驚き、七緒はハッと顔を離した。「鹿耶!?どうしたんスか!」自分の体重をかけすぎて痛めさせてしまったのかと、七緒は血の気を引かせて慌てふためいた。しかし、鹿耶は両手でお腹をきつく抱え込み、エビのように体を丸めて苦しがっている。「おい、お腹痛いのか!?鹿耶、返事してくれ!」七緒は生きた心地がしなかったが、鹿耶は痛みで声も出せず、ただ脂汗を流して震えることしかで
七緒はぼんやりと彼女を見つめ、熱っぽい声で呟いた。「……鹿耶。お前、すげえ綺麗ッスよ……」「はぁ?何それ、クサい台詞……」鹿耶は顔を真っ赤にして文句を言ったが、それが酒のせいなのか、照れ隠しなのかは自分でも分からなかった。それから十数分後。二人は揃って泥酔状態に陥っていた。七緒はかろうじて残っていた最後の理智を振り絞り、タクシーを拾うと自分のマンションの住所を告げ、そのまま座席で気を失うように眠り込んでしまった。「お客さん、着きましたよ」運転手の声でハッと目を覚ました七緒は、隣でぐにゃりと眠りこけている鹿耶を抱え上げるようにして車を降りた。千鳥足でフラフラとしながら、なんとか彼女を自分の部屋へと運び込む。……なんだかこの状況、前にもあったッスね……あの一線を越えた夜のことがフラッシュバックし、七緒の胸の奥がドクンと鳴った。ベッドルームに辿り着き、鹿耶の華奢な体をそっとマットレスの上に下ろす。そのまま立ち去ろうと身を翻した瞬間、七緒はアルコールで狂った足元を滑らせ、ベッドの上に重く倒れ込んでしまった。「んん……」甘い吐息とともに、鹿耶の細い腕がスルリと七緒の胸板に絡みついてきた。ビクッと肩を震わせた七緒は、彼女の腕をそっと解こうとした。しかし、ベッドに下ろしたそばから、またすぐに腕が回ってくる。何度か無言の攻防を繰り返した後、七緒はついに諦めて深い溜息をついた。互いの体から、甘く熱いアルコールの香りが漂ってくる。すぐ目の前には、無防備な鹿耶の寝顔があった。七緒は胸が締め付けられるような切なさを覚え、目が痛くなるほど彼女を見つめ続けた後、ようやく限界を感じて視線を逸らした。しかし、鹿耶の寝相は決して良い方ではなかった。彼女は寝返りを打つと、七緒の体にぴったりと覆い被さるような体勢になった。彼女の頬が七緒の首筋にすり寄る。「……っ」柔らかい唇から漏れる温かな吐息が、敏感な首の皮膚を直接撫でる。そのくすぐったさと、肌越しに伝わってくる柔らかな感触に、七緒の体の中で抑え込んでいた熱い衝動が一気に発火した。もう、限界だった。プツンと理性の糸が切れた七緒は、その衝動に抗うことをやめ、鹿耶の体をきつく、壊れそうなほど強く抱きしめ返した。鹿耶もまた、その強い力に呼応するように彼
「見逃すわけないでしょう」水琴は一刀両断に切り捨てた。「でも、よく考えなさい。主犯か、それともただの従犯か……それは単なる量刑の重さだけの問題じゃないわよ。あなたがすべての罪を被って破滅するかどうかの瀬戸際なのよ」「……話すわ!」紗夜はついに白旗を揚げた。「全部話して。あとの裏付けは私が自分で調べるから」紗夜はギュッと目を閉じ、小刻みに震える肩を抱きしめながら叫んだ。「音羽琉里よ……!全部、あの女が計画したの!」「なるほど。じゃあ、雅が第一の身代わりで、第二の身代わりがあなただったってわけね」最初からこの事件は単純ではないと踏んでいたが、カマをかけてみたらあっさりとボロを出した。「……ええ、そうね。そういうことになるわ」紗夜は力なく頷いた。虚ろな目でテーブルの模様を見つめながら、まるで自分自身を嘲るようにポツリと漏らした。「雅さんも私も、結局はあの狂った女にいいように踊らされていただけ……本当に、滑稽なピエロだったってわけね」……あの日、鹿耶が顔を真っ赤にして逃げ出してからというもの、七緒はずっと深い自己嫌悪に陥っていた。突然現れた「彼氏」への嫉妬で頭に血が上り、彼女からの「私のことが好きなの?」という真剣な問いに、気の利いた答えを返すこともできず、ただ勢い任せに思いをぶつけてしまった自分。結局、彼女からの連絡は途絶えたまま。完全に嫌われてしまったのだと、鬱屈とした日々を送っていた。行き場のないモヤモヤを抱えた七緒は、ここ数日、憑かれたように『BAR TWILIGHT』に通い詰めていた。ここは、あの一線を越えてしまった夜――彼が彼女を助け出し、すべてのきっかけを作った因縁の場所だ。今夜も重い足取りでフロアへ足を踏み入れた直後、七緒はハッと息を呑んだ。薄暗い店の隅の席に、見慣れた華奢なシルエットがあったのだ。間違いない、鹿耶だ。七緒の心臓が早鐘のように鳴り始めた。彼女のテーブルにはワインボトルが置かれており、グラスにはまだほとんど手をつけていない酒が注がれている。足音に気付き、鹿耶が不思議そうに顔を上げた瞬間――七緒は無言で手を伸ばし、彼女のグラスを強引に奪い取った。「……飲むな」自分でもなぜそんな行動に出たのか分からなかった。ただ、一人で酒を飲もうとしている彼女を
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ







