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44.密約

last update publish date: 2026-08-21 05:10:12

 重厚な黒い扉が静かに閉まり、理聖と和花の背中が見えなくなった。

 二人は蘭華が用意したサイレンサー付きの自動拳銃と仕込み扇子を購入し、礼を言ってバーを後にしたのだ。

 店内に残されたのは、低く流れるジャズの旋律と、カウンターを挟んで向かい合う雄之助と蘭華の二人だけだった。

 雄之助は自分のグラスに琥珀色のバーボンを注ぎ足すと、氷をからりと鳴らして一気に煽り、鋭い視線を蘭華へと向けた。

「……おい。なんで若頭にあんなふうに言ったんだよ?」

「なによう? 事実を言ったまでよ」

 蘭華は、悪びれる様子もなく唇を尖らせた。

「あいつは立派な人殺しだったもの。今更殺したくないとか綺麗事言うからさ、ちょっとムカッとしちゃっただけだもん」

 ぺろりと小さな舌を出しておどけてみせた蘭華だったが、すぐにその表情が抜け落ちた。彼女は手元のグラスを見つめ、自嘲するように小さく呟く。

「…………アタシも、榊原とおんなじなのかも」

「あ?」

「錦戸はね、昔からアタシの技術を買ってくれてたの。綺麗に標的を殺せたら、いつも頭の髪を撫でて褒めてくれた。……なのにさ、ぽっと出のあいつに、アタシの仕事全部持ってかれた
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  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   45.カタギへ戻るための一手

     数日後。 昼下がりの雑居ビルの廊下を進んだ雄之助が理聖を連れて訪れたのは、表通りから少し離れた古いマンションの一室だった。 エレベーターで三階へ上がり、ペンキの剥がれかけた扉の鍵を開けると、そこには消毒用アルコールの鋭い香りと、清潔に保たれた医療ベッドが広がっていた。「いやぁ、久しぶりじゃん、雄之助」 奥の診察机からゆっくりと立ち上がったのは、白衣を崩して着こなす男だった。眼鏡の奥の瞳を優しく細め、気怠げに髪をかきあげる。「こちらは、裏稼業の医療もしている高井博信だ。うちの組の若い連中が銃創や刃物傷を作ったとき、警察に届けることなく治療してくれる頼もしい協力者でな」「高井です、どうも。……と、もしかしてだけど、そっちにいるのは死んだはずの若頭……!?」 挨拶をしかけた高井の声が途中でひっくり返った。眼鏡をずり落としそうになりながら、雄之助の背後に立つ長身の青年を食い入るように見つめる。「あ、どうも……。なんとか、生きてました」 記憶のない理聖が少し戸惑いながら頭を下げると、高井は「マジかよ……」と息を呑み、信じられないという様子で目を丸くした。 丸椅子に腰を下ろすと、雄之助は声を落として切り出した。「高井、今日は若頭の怪我の治療じゃねえ。頭の診断をしてもらいたくてここへ来た」「頭の診断?」「ああ。いま、若頭は川に転落したとき外傷を負って、昔の記憶をすっぽり失くしてる。だが、組長は若頭を実の息子のように溺愛してるだろ。仮に若頭本人が極道を辞めたいと頼み込んだところで、絶対に手放しちゃくれない」 雄之助の厳しい言葉に、理聖は静かに膝の上の手を見つめた。あの大翔との面会で浴びた、恩義と宿命の重圧が脳裏をかすめる。「若頭はカタギに戻ることを望んでいる。だからな、本人の意志とか感情的な理由じゃなくて、若頭として置いておけない客観的な理由を作るんだよ」 雄之助の考えていた策は、驚くほど合法的かつ徹底したものだった。 まずは裏稼業の医師である高井に正式な診察を行ってもらい、『外傷性の記憶障害がすでに固定化しており、失われた記憶が回復する可能性は極めて低い』という医学的な診断書を作成させる。「それに加えて、蘭華にも協力させる。あいつは昔の若頭しか知らない情報や、過去に消した標的の顔をいくらでも知ってるからな。記憶のテ

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   44.密約

     重厚な黒い扉が静かに閉まり、理聖と和花の背中が見えなくなった。 二人は蘭華が用意したサイレンサー付きの自動拳銃と仕込み扇子を購入し、礼を言ってバーを後にしたのだ。 店内に残されたのは、低く流れるジャズの旋律と、カウンターを挟んで向かい合う雄之助と蘭華の二人だけだった。 雄之助は自分のグラスに琥珀色のバーボンを注ぎ足すと、氷をからりと鳴らして一気に煽り、鋭い視線を蘭華へと向けた。「……おい。なんで若頭にあんなふうに言ったんだよ?」「なによう? 事実を言ったまでよ」 蘭華は、悪びれる様子もなく唇を尖らせた。「あいつは立派な人殺しだったもの。今更殺したくないとか綺麗事言うからさ、ちょっとムカッとしちゃっただけだもん」 ぺろりと小さな舌を出しておどけてみせた蘭華だったが、すぐにその表情が抜け落ちた。彼女は手元のグラスを見つめ、自嘲するように小さく呟く。「…………アタシも、榊原とおんなじなのかも」「あ?」「錦戸はね、昔からアタシの技術を買ってくれてたの。綺麗に標的を殺せたら、いつも頭の髪を撫でて褒めてくれた。……なのにさ、ぽっと出のあいつに、アタシの仕事全部持ってかれたんだもの」 蘭華は洋酒の入ったグラスを煽り、強いアルコールを喉の奥へと流し込む。「しかも、認めざるを得ない腕だった。悔しいけど、殺しの才能じゃアタシでも敵わない。……そんなあいつが、殺しはしたくないとか甘ったるいこと言って、女と陽の当たる平和な世界に浸ってんの、くっそムカつくのよ」 かつて、錦戸大翔の寵愛と信頼を一身に集めていたのは殺し屋としての蘭華だった。しかし、幼い理聖が成長し、圧倒的な戦闘能力で〝錦戸の狂犬〟と呼ばれるようになると、重要な任務のすべては理聖に集約されていったのだ。 その言葉の裏に隠された複雑な感情を察し、雄之助は緊張を緩めて柔らかい笑みを浮かべた。 そして、カウンター越しに手を伸ばし、蘭華の頭をポンと優しく撫でる。「なんだ。蘭華は、昔から組長のこと慕ってたもんな」「はあ!? そんなんじゃないわよ、バカじゃないの!? ゆーのすけ、酔ってんの?」 図星を指されて顔を真っ赤にした蘭華は、照れ隠しのようにボトルの酒をドボドボとグラスに注ぎ、勢いよくあおり始めた。 そんな彼女を眺めながら、雄之助は自身のグラスの縁を指先でなぞり、落ち着いた声音で口を開く。

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   43.錦戸の狂犬

     グラスの中で溶けかけた氷が、からりと冷たい音を立てた。 カウンターに両肘をついた蘭華は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、長い髪を指先でくるくると弄ぶ。「でもさー。今のそんな立派な倫理観を持った理聖が、過去の自分がどんな人間だったか知ったら、目ん玉飛び出すだろうねぇ」 まるで昔の面白話でも語るかのような気軽な口調だった。「おい、蘭華……。余計なことを言うな」「事実じゃん。あ、でもさ、その〝優しい〟ところだけは昔から全然変わってないかもね」 蘭華は雄之助の警告など意に介さず、言葉を続けた。「相手を絶対に苦しませないようにって、いつも的確に即死させてたもん。無駄な拷問とか一切しないでさ、一撃で確実に仕留めるの」 彼女は右手の親指と人差し指を立てて拳銃の形を作ると、理聖の胸元へと真っ直ぐに向け、片目を瞑ってみせた。「バーン、ってね」 その無邪気な仕草と、血に濡れた事実のコントラストが、薄暗いバーの静寂に冷たい亀裂を走らせた。 理聖は膝の上で組んでいた大きな手をかすかに震わせ、視線を深く揺らす。「僕は……今まで、たくさん……人を殺していたのですか……?」 自身の罪の深さを問うように絞り出した声に対し、蘭華は悪びれもなく深く頷いた。「うん。間違いなく天才だったよ。殺しの才能がとにかく並外れてた。まさに〝錦戸の狂犬〟って感じでさ。親分の命令には絶対従順で、どんなに危険で汚い仕事も淡々とこなしてたんだから」「大翔さんの……狂犬……?」 その言葉が耳に届いた瞬間、理聖の脳裏に激しい痛みが走った。 まるで白紙の記憶の底に眠っていた黒い鎖が、無理やり引きちぎられたかのような感覚だった。 鈍い頭痛と共に、暗い夜の路地、鉄の錆びたような濃厚な血の匂い、そして無表情のまま銃の引き金を引く自分自身の冷徹な影が、断片的な輪郭となって脳裏をかすめる。 理聖はたまらず右手を額に当て、苦しそうに深く俯いた。「そうそう。錦戸が命の恩人だからって、それはもう狂信的なほどの忠誠心だったよぉ。あんた、背中にすんごい刺青入れてるでしょ? あれも錦戸の趣味よ」 毎日の着替えのたびに鏡に映っていた、背中に広がる鮮やかな和彫り。なぜ自分がこのような刺青を背負っているのか疑問だったが、それすらも組織と養父の所有物である証だったのだ。「蘭華……もういい加減にしろ」 雄之助が怒

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   42.目には目を、歯には歯を

     雄之助は慣れた手つきでカウンターの丸椅子を引きながら、あっけらかんと笑う女性へ笑みを向けた。「久しぶりだな。今日はちょっと頼みがあって連れてきたんだ」 そう言って、雄之助は驚きで呆気に取られている和花へと向けて彼女を紹介する。「和花さん、こちらはうちの組も贔屓にしている武器商人の天霧蘭華だ。……こう見えて今年で34歳、実は俺や理聖さんよりも年上なんですよ」 「えっ……!? さ、34歳、なんですか?」 目の前にいるのは、あどけなさすら残る童顔に、小柄な体躯の女性だ。自分より年下の今どきのギャルにしか見えず、和花は思わず目を丸くした。  そんな反応に慣れているのか、蘭華は楽しそうにピースサインを作ってみせる。「そうそう。裏稼業だし、定期的に顔いじってるからねー」 けろりと言ってのける蘭華は、そこでふと視線を雄之助の隣に立つ長身の青年へと移し、不思議そうに小首を傾げた。「つーか、あんたもしかして理聖? なんか昔と雰囲気違くない?」 かつて深凪組の若頭として、雄之助と共にこのバーを利用していた常連客の顔を、蘭華は即座に見抜いていた。言葉に詰まる理聖に代わり、雄之助が溜息まじりに説明する。「前に同じ組の者に川に落とされてな。奇跡的に命は助かったんだが……頭の怪我が原因で、いま記憶喪失になってるんだよ」 「まじで!? 記憶なくすとか、お酒の飲み過ぎ以外でも本当にあるんだー!」 重い裏社会の事情を笑い飛ばす蘭華に、雄之助が「おい、蘭華失礼だぞ!」とすかさずツッコミを入れる。  軽快なやり取りに、緊張で固まっていた和花の肩の力が少しだけ抜けた。「僕は過去の記憶がないのですが……以前はお世話になっていたようですね」 理聖が丁寧な所作で頭を下げ、隣に寄り添う和花へと優しく手を示した。「こちらは僕の恋人の、佐伯和花さんです。僕を助けてくれた恩人であり……実家で古武術を極められた、とても強くて頼もしい方なんですよ」 「へえー! 古武術なんだ、格好いいじゃん!」 蘭華は興味深そうに和花を見つめると、手際よくシェイカーを振り、美しいグラデーションを描く3つのカクテルを差し出した。「ほい、アタシからのサービス。……んで、今日は何の用で来たの?」 グラスを手に取りながら、理聖と雄之助はここへ来た目的を語り始めた。

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   41.地下の武器商人

     季節は静かに巡り、本格的な夏の訪れを告げる7月を迎えていた。  陽差しが日に日に強さを増す中、アパートのリビングのローテーブルには、美しく活けた白と薄紫のトルコキキョウが、涼しげな彩りを添えている。幾重にも重なるフリルのような花びらが、エアコンの風を受けて穏やかに揺れていた。 そのテーブルを囲むように並んだ三人分のグラスには、氷がからりと音を立てる冷たい緑茶が注がれている。  そして小皿の上には、笹の葉の上で涼しげに透き通るぷるぷるとした水まんじゅうが置かれていた。「んっ……すごく冷たくて美味しいです! 中のこし餡も上品な甘さで、いくらでも食べられそう。雄之助さん、わざわざ素敵な手土産をありがとうございます」 和花が幸せそうに頬を緩めると、向かいの座布団に腰を下ろしていた雄之助は、目を細めて嬉しそうに笑った。「喜んでもらえて何よりですよ! 駅前で見かけて、和花さんと若頭にちょうどいいかなって思ったんです」 「ええ。とても風味の良いお菓子ですね。いつも気を配ってくれて感謝しますよ、雄之助くん」 隣で同じように水まんじゅうを味わっていた理聖も、穏やかな笑みを浮かべて部下への謝意を口にする。  だが、冷たい緑茶で喉を潤した直後、雄之助の表情からいつものおちゃらけた空気がすっと消え去った。「――それで、今日お邪魔した本題なんですけど」 雄之助の真剣な声色に、和花と理聖も姿勢を正す。「以前の港での誘拐事件以来、榊原派の方に目立った動きは今のところありません。……というより、最近の裏社会は時代の流れもあって、昔みたいな派手なドンパチはそう簡単にはできないんですよ」 雄之助はグラスの表面についた水滴を指先で拭いながら、組織を取り巻く厳しい裏の現状を語り始めた。「警察の警戒がかなり強まってるんです。うちの組だけじゃなく抗争中の不破組の奴らも、殺人ですでに何人かパクられてる。組長も、いま表立って騒ぎを起こすのは得策じゃないと睨んでます」 「……つまり、相手もおいそれとは大きな襲撃を仕掛けられない状態、ということですか」 理聖の言葉に、雄之助は眉を寄せて首を横に振った。「逆です、若頭。……あいつが何も仕掛けてこないはずがない。榊原は、組の中でも誰より狡猾で底意地の悪い男です」 雄之助の言葉に、リビングの温度が少しだけ下がったような緊迫感

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   40.私の居場所

     射撃場を後にした理聖は、通り沿いにある小さなカフェのテラス席で、冷めたブラックコーヒーのカップを傾けていた。  傾きかけた太陽が街路樹の葉をオレンジ色に染め上げ、夕暮れが少しずつ街を包み込み始めている。 手元の時計に視線を落としたその時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが短く震えた。画面に表示されたのは、待ちわびていた和花の名前だった。「もしもし、和花さん? お疲れさまです」 通話ボタンを押して耳に当てた瞬間、電話の向こうからかすれるような声が聞こえてきた。『……終わりました。いま、どこにいますか?』 「近くのカフェにいますよ。すぐそちらへ向かいますので、少々待って――」 『いえ、大丈夫です。こっちから向かいますね』 一方的に告げられ、返事を待つことなくブツリと通話が切断される。  耳元に残る無機質な電子音を聞きながら、理聖の瞳から瞬時にして穏やかな温度が消えた。いつも明るく朗らかな彼女の声に、隠しきれない動揺が滲んでいたからだ。  理聖はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、席を蹴るように立ち上がった。 店を出て、彼女の実家がある方向へ向かって早足で歩き出す。  白壁の屋敷へと続く静かな一本道の中腹で、俯きながら歩いてくる和花の姿を見つけた。「和花さん!」 声をかけると、和花は弾かれたように顔を上げ、次の瞬間、まるで迷子だった子供が親を見つけたかのような勢いで駆け寄ってきた。「理聖さん……っ!」 トンッ、と胸元に華奢な身体がぶつかり、和花の細い両腕が理聖の腰へ強く巻き付く。その身体は小刻みに震えていた。  理聖は驚きながらも、すぐさま背中に両腕を回して優しく抱き締め返す。胸に押し当てられた彼女の額から、熱い息遣いと深い悲しみが伝わってきた。「……何かありましたか?」 髪を撫でながら低い声で問いかけると、和花は理聖の胸元に顔を埋めたまま、必死に首を横に振った。「……いえ、何も。ちょっと昔のこととか、色々思い出しちゃっただけです。さあ、早く帰りましょう」 強がるような声とともに身体を離した和花は、無理に作った小さな笑顔を浮かべると、理聖の大きな手をきゅっと握りしめて駅の方へと歩き出した。  言葉の裏にある嘘や隠し事など、理聖の鋭い観察眼には痛いほど見透かせていた。  実家の道場で、彼女が

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