LOGINもう一度名前を呼ばれても、和花は答えられなかった。 代わりに、触れ合った小指をそのままに、ほんの少しだけ身体を横へずらす。 肩と肩が触れ合った。 それだけで胸がうるさいほど高鳴る。 和花はさらに勇気を振り絞り、理聖のシャツの袖口をきゅっと摘んだ。「…………」 今度は、理聖が黙り込んだ。 電話が鳴る前までは、余裕たっぷりに和花を翻弄していた人なのに。 今はまるで立場が逆転したかのように、微かに息を呑んでいる。「……それは、反則ですよ」「え?」 ようやく顔を上げる。 黒縁メガネの奥にある瞳は、先ほどまでとは違う熱を帯びていた。「そんなふうに甘えられたら……僕も、我慢できなくなってしまいます」「……っ」 低く掠れた声に、和花の顔がますます熱くなる。 けれど、離れたくはなかった。 むしろ今度は自分から、理聖の肩へコテンと頭を預ける。「……さっきの」「はい?」「電話が鳴る前の……続き、しないんですか?」 その瞬間、理聖の身体が固まった。「…………」「理聖さん?」 返事がない。 普段なら、どんなに甘い言葉を口にしても涼しい顔をしているのに。 まさか本当に動揺しているのだろうか。「……い、嫌なら、いいですけど」 急激に恥ずかしくなり、和花は身体を離そうとする。 しかし次の瞬間、腰へ回された腕に強く引き寄せられた。「きゃっ……」 気づけば、理聖の胸の中。「嫌なわけが、ないでしょう」 耳元へ落とされた声は、いつもより低い。 理聖の大きな手が、和花の頬を優しく包む。 けれど、すぐにはキスをしてこなかった。 ただ静かに見つめている。 まるで本当に自分が望んでいるのか、最後まで確かめようとしてくれているようだった。 その優しさが、和花には何より嬉しかった。 だから――今度も自分から。 和花は理聖の頬へ両手を添えた。「和花さん……?」 少し背伸びをして、唇へほんの一瞬だけ口づける。「…………」 離れた瞬間、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。 和花は理聖の顔を見ることができず、その胸へ逃げるように顔を埋める。 すると頭上から、低い笑い声が聞こえてきた。「……困りましたね」「な、何がですか……?」「今ので、もう離してあげられそうにありません」 抱きしめる腕に少しだけ力がこもる。 和花は胸元に顔を
リビングには、しばらくの間二人の静かな呼吸音だけが響いていた。 和花は理聖の広い胸に顔を埋め、その力強い鼓動を聞きながら、先ほどの物騒な電話の余韻をゆっくりと追い出していく。 やがて少し落ち着きを取り戻して顔を上げると、視界の端にテーブルの上の光景が映った。 空になったモンブランプリンの容器と、すっかり湯気の消えてしまった二つのティーカップ。「……紅茶、冷めちゃいましたね」 「ええ。随分と長く話してしまいましたからね。淹れ直しましょう」 理聖が立ち上がると、和花も一緒にキッチンへ向かった。 二人でプリンの容器やスプーンを片づけ、理聖は冷めた紅茶を流しへ捨てる。「今度はハーブティーにしましょうか。もう遅い時間ですから」 「わあ、お願いします」 ほどなくして、カモミールの優しい香りがリビングに広がった。 湯気の立つマグカップを受け取った和花は、両手で包み込むようにして香りを楽しむ。「いい香り……」 「少しは落ち着きましたか?」 「はい。ありがとうございます」 二人はマグカップを手に、再びソファへ腰を下ろす。 けれど――。「…………」 「…………」 なんだか、妙に気まずい。 和花はハーブティーを一口飲みながら、ちらりと隣を盗み見た。 ちょうど同じタイミングで、理聖もこちらを見ていた。「……っ」 慌てて目を逸らす。 数秒後。 気になってもう一度だけ横を見る。 また目が合った。「…………」 「…………」 今度は理聖の方が先に視線を逸らし、小さく咳払いをする。 その様子を見て、和花はようやく気づいた。(――理聖さんも、意識してるんだ) 電話が鳴る直前。 二人は唇を重ね、理聖から「もう少しだけ独占してもいいでしょうか」と囁かれていた。 そして自分も確かに――「はい」と答えたのだ。 思い出した途端、和花の頬が一気に熱くなる。 さっきまでは自然にできていたのに、一度中断されてしまったせいで、どうやってあの空気に戻ればいいのかわからない。 その初々しすぎる状況がおかしくなって、和花はとうとう小さく吹き出した。「……雄之助さん、すごいタイミングでしたね」 「ええ。本当に」 恐ろしいほどの即答だった。「ふふっ……。理聖さん、もしかして怒ってます?」 「まさか。そんなことありませ
「……もしもし」 普段と変わらない穏やかな声――のはずだったが、ほんのわずかに低い。 その微妙な違いを、隣にいる和花だけは敏感に感じ取っていた。『すんません若頭、こんな夜遅くに。今、大丈夫ッスか?』 電話の向こうから聞こえてきた雄之助の声は、当然ながら、つい数秒前まで自分がどれほど甘い時間を邪魔していたのかなど知る由もない。「…………ええ。どうしました?」 妙に長い間があった。 和花は思わず口元を押さえる。 怒ってる。 これは間違いなく、ちょっとだけ怒っている。『……若頭?』「聞いていますよ」『なんか声怖くないッスか?』「気のせいです」 にこり。 理聖は微笑んでいる。 けれど、その笑顔を真正面から見ている和花には、どうにもそうは思えなかった。『ほ、本当に大丈夫ッスか!? 俺、なんか超ヤバいタイミングで地雷踏んじまいました!?』 動物的な勘で察知した雄之助が、電話口でブルブルと震えているのが手に取るようにわかる。「そんなことはありませんよ。……さ、大事な報告があるのですよね。手短に話してください」『う、うッス……!』 雄之助はコホンと咳払いをし、真剣なトーンに切り替えた。『あの、さっき蘭華と連絡が取れたんス。あいつが張ってた例の違法ヘルスで、榊原派の残党――山木って下っ端が気になることを話してたらしいんスよ』「気になること、ですか?」『ええ。過去に、荒崎組が雇っていた腕利きの殺し屋がいたらしいんスけど、そいつがウチの組長に惨殺されたらしいんス。で、その件で組長に深い恨みを持つ人物が、今この街で裏で動いている……と』 理聖は少し眉をひそめ、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。「荒崎組……。あの組織の壊滅に関わっていたのは、僕だけではなかったのですね」 記憶のない理聖にとって、荒崎組の壊滅は自分が単独で引き起こした事件だと認識していた。 だが、その裏で深凪組トップである大翔もまた、敵の暗殺者を自らの手で葬るという修羅場を潜っていたのだ。『山木の話だと、その恨みを持ってる人物ってのは、荒崎組が潰されたこと自体には何の未練もないらしいんスよ。組織の仇討ちとか、シノギを奪われた怒りとか、そういうんじゃなくて。ただ純粋に、身内を殺された私怨だけで、ひたすら〝錦戸大翔〟の首を狙ってるって話で』「……なるほど。だとしたら、先
ファミレスでの食事を終え、冷え込む夜道を抜けて、理聖と和花は無事に自分たちのマンションへと帰宅した。 外の木枯らしが嘘のように、暖房の効いた部屋は穏やかな空気に包まれている。 帰りがけに立ち寄ったコンビニで買ってきた新発売のモンブランプリンをテーブルに並べ、理聖が手際よく温かい紅茶を淹れた。「いただきます!」 和花はさっそくスプーンを手に取り、嬉しそうにプリンを掬って口へと運んだ。「んん〜っ! これ、ずっと食べてみたかったんですよねぇ」 栗の濃厚な甘さと、滑らかなプリンの舌触り。あまりの美味しさに和花がふにゃりと頬を緩めると、対面に座っていた理聖の口元からも、自然と優しい笑みがこぼれ落ちた。「本当に可愛いですね。和花さんは」 理聖は立ち上がって和花のそばへ歩み寄ると、その柔らかな髪を愛おしそうに撫で、真っ白な額にそっと口づけを落とした。「……り、理聖さん?」 突然の甘い接触に、和花が驚いて目を丸くする。 理聖は膝をついて和花と同じ目線になり、メガネの奥の瞳で彼女を真っ直ぐに見つめた。「……記憶をなくしてから、本当に色々なことがありました」 穏やかな声の奥に、かつて狂犬と呼ばれた男の、底知れない孤独の片鱗が滲む。「自分が何者かもわからず、過去の因縁に追われる日々。それでも、こんなにも心が穏やかに過ごせているのは、間違いなく和花さんのおかげです」 理聖は、和花という一筋の光を見失うまいとするように、言葉を紡いだ。「あの日、僕を拾ってくれたのが和花さんで……本当に良かった」 「そんな……っ」 和花の胸が、きゅうっと締め付けられる。「私の方こそ……離婚後あのまま一人で過ごしていたら、きっと心も身体もボロボロになってどん底から抜け出せませんでした」 和花は理聖を見つめ返し、はっきりと告げた。「私を闇から救い出してくれたのは、理聖さんです。……理聖さんに出会えて、本当に良かったです」 互いの存在が、互いの命を繋ぐ唯一の光。 理聖はテーブルの向こうから和花の小さな手を取った。指を絡めるのではなく、彼女の華奢な手の甲を、大きな親指の腹でゆっくりと、慈しむように撫でる。 そのひどく丁寧で熱を帯びた触れ方に、和花の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。 心臓の音が、自分でもわかるほど早くなっていた。「……なんだか、今日の
ダーツバーの裏口から飛び出した四人は、しばらく無言のまま繁華街の裏通りを駆け抜けた。 追手がいないことを慎重に確認し、理聖が安全と判断して足を止めたのは、大通りに面した明るく人の多いファミリーレストランだった。 店内は学生や若者たちのグループで賑わっており、喧騒が心地よい目隠しとなってくれる。極道の刺客が、これだけ人の目が多いファミレスで堂々と銃を抜くことはまずあり得ない。 案内されたボックス席に腰を下ろすと、四人はそれぞれドリンクバーで温かいお茶や冷たい炭酸飲料を運んできた。「……はぁ。びっくりしたぁ」 梓がメロンソーダのストローを咥えながら、ようやく張り詰めていた息を大きく吐き出した。「ねえ、さっきの人……雄之助くんたちの組長に雇われたっぽいこと言ってたけど、本当なの?」 梓のストレートな疑問に、対面に座っていた雄之助が強く首を横に振った。「いんや、絶対にあれは嘘ッス。そんなはずがねぇ」 雄之助の太い声には、深凪組トップである錦戸大翔への絶対的な信頼がこもっていた。「組長が俺たち、ましてや和花さんを狙うなんて、なんのメリットも理由もないんだからな」「……ええ。雄之助くんの言う通りです」 理聖もまた、静かにホットコーヒーのカップを置きながら同意した。「もし本当に組長が僕たちを消そうとするのなら、あんな隙だらけの三流の殺し屋などは使いません。もっと確実に、息の根を止める手段を選んでくるはずです」 二人の見解に、隣に座っていた和花も真剣な表情で頷いた。「私も、そう思います。さっき、最初に襲いかかってきた男の人を投げ飛ばしたんですが……」 和花は自身の両手を見つめ、武術家としての鋭い分析を口にした。「足運びもバラバラでしたし、重心のブレがひどかったんです。腕力だけで力任せに突っ込んできただけで、動きが三流としか言いようがありませんでした。……裏社会のトップに立つ人間が、あんな素人に毛が生えたような殺し屋を雇うとは、到底思えません」 和花の冷静かつ的確すぎる指摘に、雄之助が「和花さん、言うねぇ……」と顔を引きつらせたが、理聖は深く顎に手を当てて思考の海へと沈んでいった。「……では、あの方はいったい誰の差し金だったのでしょう?」 理聖が眉間に深い皺を寄せると、テーブルの上に重苦しい沈黙が降りた。 錦戸大翔の名を騙り、和花を襲わせ
ダーツバーの奥まったボックス席は、ほんの数分の間に完全な修羅場と化していた。 床には数人の屈強な男たちが這いつくばり、関節を極められた痛みと恐怖でくぐもった呻き声を漏らしている。 周囲の客たちはアップテンポなBGMと薄暗い照明のせいか、まだこの異常事態に気付いていない。「……あーっ、もう! 私、こういうの一度言ってみたかったのよねぇ!」 梓の異様に明るい声が響く。 彼女は目をキラキラと輝かせながら、足元で蹲っている男の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。「ねぇ、あんた。どこの組のもんなのよ?」 極道映画でも観た直後のような、ノリノリの尋問である。「だ、誰が言うかよ……! 素人が調子に――」 男が憎々しげに顔を上げ、悪態をつこうとしたその瞬間。 梓の背後に立つ理聖が、黒縁メガネの奥から氷のように冷たく、底知れない殺意を帯びた瞳で見下ろした。 言葉など必要ない。ただ視線を向けただけで、男は喉の奥をヒュッと鳴らし、全身の毛を粟立たせた。「ひ……ひぃ……! お、俺たちは――」 「おい!! 余計なこと喋んじゃねぇ!!」 恐怖に耐えきれず口を割りかけた男を、少し離れた床で雄之助に踏みつけられている別の男が怒鳴りつけて制止する。 その必死な様子を静かに見下ろしたまま、理聖はゆっくりと男の目の前へ歩み寄った。「……あなたたちは、僕や雄之助くんに危害を加えることが目的ではありませんね?」 理聖の声は一切の感情が抜け落ちた無機質なものだった。「標的が僕たちなら、隙だらけだった雄之助くんや僕から先に狙うはずだ。しかし、あなたたちは一番初めに和花さんを襲撃した」 狙いが和花であることは明白だった。 理聖の鋭い指摘に、男は顔を青ざめさせ、ギュッと唇を噛み締めて口をつぐむ。「……答えないのなら、仕方ありませんね」 理聖はジャケットの内側に手を滑らせると、周囲の客から死角になるように、冷たく光る銀色の銃身を抜き出した。 カチャリとセーフティを外す微かな金属音が響き、男のこめかみに冷え切った銃口がピタリと押し当てられる。「ひっ……!」 男の額から、どっと脂汗が吹き出した。「お、俺たちは……とある男に雇われた、ただの殺し屋だ! お前らを潰すんじゃなく、その女を殺すためだけに雇われたんだ!」 命の危機に直面した男は、震える声で早口







