慣れ親しんだはずの実家が、今日はどこか落ち着かなかった。
瑛斗と玲の密会現場を見てから、実家には戻らないと決めていた。瑛斗と離婚することになってしまった申し訳なさと、嘘を吹き込んだ玲と顔を合わせるのも嫌だった。
「華、心配したよ。まずは無事でよかった。」
「お父様、ごめんなさい。」
父はそう言って私を抱きしめてくれた。父の顔からは、安堵の表情に満ちており心配をかけてしまったことを深く詫びた。
「あら、華ちゃん。ずっと探していたのよ。良かったわ。」
「本当。お姉ちゃんがいなくなって私、心配で心配で夜も眠れなかったの。」
母と玲も声を掛けてきたが、その響きからは心配している様子は感じ取れなかった。
「華、本当のことを話してくれないか。お腹の子は誰の子どもなんだ?」
「え?」
父の言葉に耳を疑った。混乱して言葉が追いついてこなかった。
空が本社に戻ってきてからの変化は、目に見えて明らかだった。玲は、空が自分の権限を脅かす存在だと即座に察知し、あらゆる手段で空の業務を妨害しようとした。重要な会議の情報を伝えなかったり、資料の展開をしないなど陰湿ないじめのようだった。しかし、空は俺だけでなく役員や社員と密に連携を取り屈することなく、玲の妨害を回避していた。玲の社員に対する無茶な要求や感情的な罵倒が始まると、その都度、空が間に立ちはだかる。社員たちが玲に報告する際は、必ず空に同席してもらった。玲が無茶な要望や度が過ぎる発言をすると、空は冷静に根拠や数字を使って論理的に言い返した。ある日、若手の企画部員が玲にプレゼンを行った際のことだ。「こんなもの話にならない。一からやり直して」玲は資料をちらりと見ただけで冷たく言い放った。プレゼンをしていた若手社員は顔を真っ青にして俯いている。そして、玲の暴君さを知っている社員たちは誰も若手のフォローをしようとしない。その時、空が静かに口を開いた。「副社長、彼の提案は市場調査に基づいたものです。市場調査だけでなく、競合他社の動向や分析もされて多岐に渡り深く考慮されています。建設的に議論するためにも、課題点があるとお感じでしたら具体的な指示内容やデータを示していただけますか。この企画の持つ潜在力は高く評価できます」
「賛成多数により、この度、一条ホールディングスは株式100%取得し子会社化していたN子会社を事業効率化のため吸収合併することとする」俺の声が取締役会に響き渡り、N子会社の吸収合併が可決された。玲は、把握していなった議題に一瞬眉間に皺を寄せていたが、グループ全体で考えると重要性の低い事案のためそのまま流していた。しかし、この決議の裏には、玲の支配を終わらせるための俺の秘めたる戦略があった。この吸収合併の採決後、俺は間髪入れずに、空を事業戦略部という親会社の核となる部門の責任者へと抜擢した。そして、今までの空の功績、知識を武器に専務へと昇格させた。空への信頼は役員たちの間でも揺るぎないものだった。玲によって不当な左遷を受けていたとはいえ、彼が一条グループにとってかけがえのない存在であることは誰もが理解していた。決定権を持つ役員たちには事前に根回しを済ませており、俺が空の復帰を打診すると彼らは即答で賛成してくれた。玲がつけいる隙などどこにもなかった。こうして、空はメイン部門への鮮やかな復帰を果たしたのだ。「空、待たせてすまなかった。もう一度、力を貸してくれ。」
東京に戻ってすぐに俺は誰もいないことを確認してから探偵事務所に連絡を入れた。受話器から聞こえてくる担当者の声はどこか訝しげだった。無理もない。この5年間で何度も華の捜索を依頼しているのだから……。「先日お話しした件です。神宮寺華さんの捜索を再開していただきたい」「は、はい。承知しております。しかし、社長。以前の捜索では既に手がかりが……」探偵の言葉を遮るように、俺は畳み掛けた。「今回は、長野県の避暑地エリアを中心に調べてほしい。先日、現地を視察した際に、彼女に酷似した人物を目撃した。彼女の安否だけでなく、現在の生活状況、子どもたちの有無と年齢、そして家族構成を徹底的に調べてほしい。些細な情報でもいい。妻には決して知られないように、報告は全て私に直接上げてくれ。」俺の声に宿る確固たる意志に電話口の探偵は息をのんだのが分かった。沈黙が続く。前回、全てを任せきりにしていた俺とは、態度も依頼内容の具体性も全く異なることから驚きを隠せないのだろう。「……社長。失礼ながら何か心境の変化でも?」探偵は、言葉を選びながら疑問を呈してきた。当然の問いだった。探偵に動いてもらうためにも、玲の言葉を鵜呑みにし、華を信じなかった過去の自分を、今この場でさらけ出す必要があった
視察を続けながらも、俺の頭の中は先ほどの親子のことで埋め尽くされていた。目の前で繰り広げられる事業説明は、右から左へと素通りしていく。長野の視察そのものへの集中力は完全に欠如していた。意識はあの対向車線で見た「華らしき女性」と、彼女と手をつないでいた二人の小さな子どもに囚われている。(本当に華だったのか?自分が見たものは、長野の美しい景色と、再会を願う俺の心が作り出した都合の良い幻影だったのではないか?)何度も何度も自問自答を繰り返した。しかし、どんなに否定しようとしても、何年も忘れられなかった華の姿と、あの女性の面影が完璧に重なるのだ。あのすらりとした背格好、子どもたちを見つめる優しい眼差し……。あれは間違いなく俺が知る華だった。もし、あの時の親子が華本人で、あの場所で車を停められていたら、俺はどんな言葉をかけていただろうか。華は俺を見てどんな顔をしただろう。驚いた顔だろうか、それとも怯えた顔だろうか。……あるいは、軽蔑の眼差しを向けてきたかもしれない。(そもそも俺が声をかけて彼女は振り向いてくれただろうか。そして、あの二人の子どもたちは、どんな顔をしているのだろう。俺の子どもたちなのだろうか。)そんな想像が、俺の心を乱していく。ホテルに戻ってからもその興奮は全く収まらなかった。ベッドに横になっても、天井を見つ
「止めろ!いますぐ止めてくれ!!」俺の突然の叫びに、運転手は驚いて背筋を伸ばし肩を大きく揺らした。ルームミラー越しに見た彼の顔には、困惑とほんのわずかな恐怖が浮かんでいた。「え?いますぐですか……。すみません、社長。ここは一本道で、後続の車がすぐ後ろに接近しており、急には停められません。」運転手は申し訳なさそうにバックミラーを指差した。ミラーの中にはぴったりと張り付くように後続車が迫っており、道幅も狭く追い越してもらうこともできそうにない状況だった。俺の焦燥をよそに、車は前へと進んでいく。視界の隅で対向車線を歩いていた親子の姿が次第に小さくなっていくのが見えた。車は、俺の募る焦りを無視するかのようにゆっくりと500メートルほど走り、ようやく安全に停車することができた。だが、その時にはあの親子の姿はどこにも見当たらなかった。周囲を見渡しても、静かな避暑地の風景が広がるばかりで、あの女性と子どもたちの面影は、もはや幻だったかのようだ。「華……。今のは、華だったのか……?」降りしきる陽光の下、俺は呆然と立ち尽くしていた。胸の中で、確信と絶望が入り混じった感情が渦巻く。(もし今のが華だったとしたら、二年間、どんなに探しても見つからなかった華が、こんな形で、こんな場所で会えるなんて……。そして、そんなチャンスを俺はみすみす逃してしまうなんて。)
新規事業の視察のために長野を訪れた俺は、この日午前と午後に一軒ずつ訪問が組まれており、慌ただしくスケジュールをこなしていた。昼食を終え、午後の予定された場所へ向かおうと車を走らせている時だった。窓の外に広がる、長野の澄んだ空気と、どこまでも続く青い空。その景色を眺めながらふと華のことを考えていた。遠くの対向車線側を、つばの広い麦わら帽子を深くかぶり、上品なワンピースを纏った女性がこちらに向かって歩いているのが見えた。その女性の両隣には小さな子どもが二人。背格好から子どもたちは同い年、おそらく双子だろう。スキップをする子どもたちと手を繋ぎ、楽しそうに歩く女性の姿は、俺の脳裏に焼き付いている華と、もし華が産んでいたらと想像していた子どもたちの姿と重なった。車が近付くにつれて、親子の姿は次第に大きく鮮明になっていく。「華が産んだ子どもたちも、あの子たちと同じくらいに大きくなっているのかな」そんなことを考えながら親子に視線を向けた次の瞬間、その女性の横顔があまりにも華に似ていて、そのまま言葉を失って身動きが取れなくなってしまった。いや、そっくりというレベルではない。歩き方や後ろ姿、そして横をすれ違った時に一瞬だけ見えたあの横顔は、記憶に焼き付いて何度も思い出している華そのものだった。(まさか、こんなところに華がいるわけない……。)そう思っているのに、心臓は跳ね上がり呼吸が早まるのを感じた。俺は間違いなく本人だと強い確信のようなものを