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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面②

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-18 09:11:42

 その日の夜、夕餉を終えた澄花が水鞠と共に自室に戻ると、水菓子が届けられていた。添えられた水玉模様の一筆箋には昼間の件を詫びる言葉と紅雨こううの名前が綴られている。

(かわいい……)

 昼間に澄花が葛餅が好きだと言ったのを覚えていたらしい。ハート型に固められた葛餅はとても愛らしく、添えられた甘夏の蜜は今の季節らしく爽やかだ。

 時雨は葛が好きなのだと紅雨こううは言っていた。時雨のために何か拵えてみては、とも。

(わたしに作れるかな……)

 澄花の料理の腕はごくごく普通だ。普通の料理を作るのにさほど不自由することはないが、職人のような繊細な細工ができるかと言われると自信はない。

 紅雨こううから送られてきた爽やかな味わいの葛餅に舌鼓を打ちながら、澄花は白藤色の壁を見つめる。視界ではふわふわと淡く光る水泡が宙を泳いでいる。

 どうせなら心を込めて作りたい。時雨が喜んでくれるものを作りたい。

 そんなことを考えていると、ふっと中庭の紫陽花が澄花の脳裏に閃いた。上品で静かなあの佇まいが澄花の頭の中で時雨のイメージと結びつく。

 優しい青色はまるで自分を見つめる青藍の双眸のようだ。品のある紫色は時雨が好んで身につける着物を思い出させた。

(――よし)

 葛餅の最後の一欠片を口の中に放り込むと、澄花は気合いを入れた。自分にできるかどうかはわからないが、厨房に行って秋水しゅうすいに相談してみよう。

「水鞠さん。わたし、厨房に行ってきますね。戻るまでに時間がかかるかもしれないので、先に休まれていてください」

 澄花は薄花色の着物の裾を整えながら立ち上がると、部屋の隅に控えていた水鞠へと声をかける。彼女は深くは追及せずに、承知いたしましたと澄花を送り出した。

(水鞠さん……たぶん気づいてたよね)

 時雨に手作りの贈り物をしたいなど、恥ずかしくて言い出せなかったが、厨房へ行くというあの一言で察しのいい彼女は気づいたはずだ。澄花は耳が熱くなるのを感じた。ぱち、と耳元で水の泡が弾ける。

 雨戸の閉じた廊下を澄花は厨房に向かって歩いていく。ふわふわと舞う水泡が薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。

「時雨様にお菓子を作られるんですか?」

 お時間いいですか、と澄花におずおずと話しかけられた秋水しゅうすいは彼女にそう訊いた。どうしてそれを、と小動物のように潤んだ澄花の目が見開かれる。

紅雨こうう様が先ほど夕餉を召し上がられた際に、今夜あたり澄花様がいらっしゃるかもしれないと仰っておられましたので。澄花様の力になってほしいと仰せでした」

 一見無邪気な少女に見える紅雨こううの手回しの良さに澄花は内心で舌を巻いた。材料も揃ってますよ、と落ち着いた声音で秋水しゅうすいは言う。すべては紅雨こううの掌の上のようだ。

「時雨様に葛を使ったお菓子を作りたいんですよね? どのようなものをお考えですか?」

「時雨様のことを考えたときに、ふっと中庭の紫陽花を思い出したんです。できればそんな感じのイメージのお菓子を作りたいんですけど……難しいですか?」

 柔らかな緑色の苔に包まれた岩。さらさらと流れていく水音の下、青と紫の花を咲かせる紫陽花。日差しを受けてきらきらと光る川面。

 それが澄花から見たあの庭の印象だった。浮世離れしていて美しく、幻想的な佇まいは時雨の印象とも一致する。

「そうですね……豆乳を葛で固め、その上に蝶豆の粉で色付けした寒天を飾りつけるのはいかがでしょう? 澄花様の作りたいもののイメージにだいぶ近いのではないかと」

「作り方、教えてもらってもいいですか?」

 もちろんです、と頷くと秋水しゅうすいは襷を取り出して澄花へと渡した。澄花は薄花色の着物の袖が邪魔にならないように襷で縛る。その間に秋水しゅうすいはどこかへと姿を消していた。

「……秋水しゅうすいさん?」

 澄花が呼ぶと、勝手口の扉が開き、秋水しゅうすいは冷えた豆乳が入った容器を持って戻ってきた。どうやら、氷室に材料を取りに行っていたようだった。

「お待たせして申し訳ありません。それでは澄花様、始めましょうか」

 そばについてお教えしますのでご安心ください、と秋水しゅうすいは目を細める。ご面倒をおかけします、と恐縮して澄花は反射的に頭を下げた。

「とんでもない。澄花様のお力になれること、使用人冥利に尽きます」

 そう言いながら、秋水しゅうすいは小鍋を取り出して澄花へと渡す。

「それではまず、この鍋に豆乳を入れて、沸騰させてください――」

 澄花は竈の前に立つと、秋水しゅうすいの指示に従って鍋を火にかけた。冷えた器に入った豆乳を鍋に注ぐと、沸騰するのを待つ。

 その間に、厨房のどこに何があるか知り尽くしている秋水しゅうすいは他の材料の用意をしてくれていた。葛粉に砂糖。塩に粉寒天。そして、青紫色が鮮やかな蝶豆の粉と対照的な色合いの生レモン。

秋水しゅうすいさん、レモンって何に使うんですか?」

「蝶豆の粉の色を変えるのに使うんです。レモンが入ると一気に酸性になるので、綺麗な紫色になりますよ。――っと、澄花様、豆乳が沸騰したみたいですよ。葛粉と砂糖と塩を入れて混ぜてください。その間に私は器の用意をしておきますね」

 澄花は秋水しゅうすいに言われた通りに豆乳に材料を入れると、木べらでかき混ぜていく。

(時雨様……喜んでくださるといいな)

 できることなら、少しでも美味しくなるように。できることなら、少しでも時雨の心を潤してくれるように。一混ぜ一混ぜにそんな思いを乗せながら、澄花はふつふつと泡を立てる白い液体をかき混ぜていく。湯気が夜のひんやりとした水の中へと溶けて消えていく。

「澄花様、そろそろいいですよ。その鍋の中身を均等になるように、器に移してください。空になった鍋は流しに置いておいてください。後で私のほうで洗っておきますので」

 秋水しゅうすいは石の作業台の上に青や緑の水玉が散ったガラスの器を並べるとそう言った。彼女は澄花が先ほど述べたイメージを汲んでくれたのだろう。庭を覆う優しい苔の緑色とふわふわと屋敷の庭を舞う水泡を彷彿とさせた。

 澄花はすができないように、ゆっくり丁寧に器に白い液体を注いでいった。時雨が口にするのだから、少しでも舌触りがいいものにしたい。

 鍋が空になると、澄花はそれを流しへと持っていった。秋水しゅうすいは白い液体が入った器を盆へと乗せながら、澄花へと次の指示を出す。

「新しい鍋を用意しておきましたので、粉寒天と水を入れて沸騰させておいてください。私はその間にこれを氷室に持っていっておきますので」

 はい、と澄花が返事をすると、秋水しゅうすいは盆を手に勝手口の扉を開け、外へと出ていった。ぱたん、と扉の閉まる音を聞きながら、澄花は言われた通りに水瓶から水を汲み、粉寒天を加えると、鍋を火にかける。

 澄花は寒天が綺麗に溶けきるように、ぐるぐると均等にヘラで混ぜていった。ここできちんと寒天を溶かしておかないと、後で綺麗に固まらなくなってしまう。そんな失敗作を時雨に食べさせるのは嫌だった。

 寒天が沸騰するころになると、秋水しゅうすいが氷室から戻ってきた。彼女は澄花の手元の鍋を覗き込むと、そろそろ火から下ろしていいですよと言った。

「砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜてください。寒天はすぐに固まり始めてしまうので、手早く」

 火から下ろした鍋に澄花は砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜる。すると、透明だった液体が青へと色を変えた。時雨の双眸を思い出す、優しい色だった。

「こちらとこちらにそれを注いでいただけますか? 量は丁度均等になるくらいで」

 秋水しゅうすいは同じ大きさの長方形の容器を用意すると、澄花にそう促した。澄花はそっと青い液体を容器へと注いでいく。

「そうしたら、片方にレモンの汁を搾り入れて混ぜてください。綺麗な紫色になりますよ」

 秋水しゅうすいの指示に従って、澄花は片方の容器の中にレモンを絞った。夏らしい爽やかな香りが鼻腔に広がる。レモンを加えた液体を匙で混ぜると、秋水しゅうすいの言った通り、青から綺麗な紫色へと色を変えた。思い出されるのは静かに佇む時雨の後ろ姿だ。

(あれ、わたし……さっきから、時雨様のことばかり……?)

 時雨のために作っているのだから当然だと澄花は思い直す。食べてくれる相手のことを思うのは当たり前のことだ。

「それでは、澄花様。今宵はこれまでにいたしましょう。先ほどの葛が固まるまでには時間もかかりますし、仕上げは明日の朝餉の後にでも」

「わかりました。その、ありがとうございました」

「いえ、少しでも澄花様のお力になれたのならば何よりです。片付けは私のほうでしておきますので、澄花様はお部屋へと戻られてください」

 いえ、と澄花は首を横に振った。手伝ってもらうだけ手伝ってもらって、後片付けは丸投げなど無責任にも程がある。

「お邪魔でなければ、後片付けまでさせてください。ご迷惑だけおかけして、片付けは丸投げなんてこと、したくありません」

 そうですか、と秋水しゅうすいは微笑んだ。紅雨こううがお節介を焼きたくなる理由がわかる気がした。

「それでは、私は洗い物をしますので、澄花様は洗ったものを拭いて片付けていただいてもよろしいですか? 片付ける場所がわからなければ、都度私に聞いてください」

 お願いしますね、と秋水しゅうすいは青海波の柄が刻まれた布巾を澄花に渡した。布巾を受け取ると、わかりましたと澄花は頷いた。

 ざぷんと音を立てて秋水しゅうすいは水瓶から桶へと水を汲む。とぷ、という小さな水音が澄花の聴覚にこだまする。たわしに木灰を含ませると、彼女は調理器具を洗い始めた。

 更け始めた夜の厨房に、たわしが鍋の表面を撫でるかしゃかしゃという音が控えめに響く。桶の水にに映る澄花の顔に、秋水しゅうすいはふっと口元を綻ばせた。そのときの澄花は自分が一体どんな表情をしていたのか、気づいてはいなかった。

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