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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面③

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-18 10:53:24

「――まったく、お兄様ったら何を考えていらっしゃるのっ!?」

 翌日の午前中。澄花は時雨の部屋を訪れた足で紅雨こううの部屋へと足を運んでいた。昨日の礼として、今朝仕上げたばかりの菓子を紅雨こううと水霜に届けるためだった。

 紅雨こううは澄花の作った菓子を喜んで受け取ってくれた。しかし、時雨の部屋を訪れたときの顛末を聞くなり、彼女は青筋を立てて声を荒らげたのだった。彼女から発せられた声の衝撃で、澄花の視界で止まることなく波紋が生まれては連鎖していく。

 まあまあ、と澄花は紅雨こううを宥めようとする。しかし、怒りを露わに紅雨こううはきっぱりと首を横に振った。

「せっかく、澄花が訪ねていったというのに部屋にも入れないだなんて、論外ですわ! 漣も漣ですわよ! 澄花を追い返すだなんて!」

 二人まとめてとっちめてやりますわ、と紅雨こううは息巻いた。大丈夫ですから、と澄花は困ったように眉尻を下げる。このようなことには慣れているのか、水霜は特に口を挟もうとしない。

紅雨こうう様、わたしが悪いんです。特にお約束もないのに突然時雨様のお部屋を訪ねてしまったんですから。それに、漣さんにお願いして時雨様にお菓子は渡していただけましたし、充分です」

「澄花は欲がなさすぎです。それに澄花を追い返した理由も理由で、わたくしは妹として心底情けないですわ」

 先ほど、澄花が時雨の部屋を訪ねたとき、今は障りがあるからという理由で漣に訪問を拒まれた。何か予定があったのだろうと思って澄花は菓子を漣に預けて、その場を辞したのだが自分には思い至らないような理由でもあったのだろうか。普段は澄花に厳しい態度を取る彼にしては珍しく、妙に同情的だったがそれが何か関係あるのだろうか。

「漣は、澄花が訪ねてきたことに舞い上がっているお兄様の姿を見せたくなかったのでしょうね。そんな姿、神としての威厳も何もありませんもの。ましてや、澄花が自分のために好物を拵えてくれたとあっては、小躍りするほど喜ぶでしょう。……いえ、この水の揺らぎ方は今ごろ実際に部屋で踊っていますわね」

 紅雨こううは深々と溜息を吐く。澄花は紅雨こううが話していることが信じられなかった。自分の知っている時雨の姿と紅雨こううが語ったことはあまりにかけ離れすぎていた。

紅雨こうう様……それは本当に、時雨様のお話ですか……?」

「ええ、間違いなくお兄様の話よ。格好つけだから澄花には隠しているつもりみたいだけれど、お兄様ときたらあの見た目と年齢のくせに、情緒は思春期で止まっていらっしゃるの。そんな情けない方ですけれど、どうか嫌わないで差し上げて……」

「いえ、そんな……わたしが時雨様を嫌うなんてそんなこと……」

 紅雨こううは頭が痛いと言わんばかりに苦々しげな表情を浮かべる。屋敷の中の水の揺らぎからは、ちらっと見えた澄花が今日も可愛かっただとか、今日も澄花が尊すぎるだとか、とてもではないが紅雨こううの口からは言えないような内容ばかりが伝わってくる。

 紅雨こううの心労を慮ったらしい水霜が、遠慮がちに彼女へと声をかけた。

紅雨こうう様。お茶にいたしませんか。せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですし」

「そうですわね……そうしましょう」

 紅雨こううは水霜の提案に首を縦に振った。それではご用意いたしますね、と水霜はかちゃかちゃと茶の用意をし始める。忙しなく波紋を描き続けていた水が少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 やがて、ほうじ茶の香ばしい匂いが湯気に乗って立ち上り始める。澄花は幼い見た目に反してひどく疲れた様子の紅雨こううを戸惑いながら見つめているしかできなかった。

「――時雨様」

 障子の外を気にしながら、立ち上がってそわそわと動き回る時雨を前に、漣はため息混じりに彼の名を呼んだ。時雨の長い手足は蛇のようにうねり、今にも踊り出しそうである。彼の目は朝日を浴びて輝く雫のように、喜びできらきらと輝いている。

「踊ろうとしないでください。舞おうとしないでください。とりあえず座ってください。あと、目元と口元がにやけてるのをどうにかしてください。一柱の神として、威厳のある態度をとってください」

 漣に立て続けに注意され、何のことかと言わんばかりに時雨は青藍の双眸を瞬いた。透き通るその瞳には純粋な疑問のみが浮かんでいる。

「漣、どうかしたか。私に何かおかしい点でもあったか?」

「おかしい点しかありませんよ……。どうして時雨様がそんなに無自覚でいられるのか、私は理解に苦しみます……」

 漣は頭が痛くなる思いだった。おそらく時雨のこの様子は紅雨こううにも伝わっている。先ほど澄花を追い返したことといい、このことといい、後で時雨と二人まとめて彼女に小言を食らうであろうことは想像に難くない。

 澄花を妻に迎えてから、時雨はこのようにそわそわとしていることが増えた。口を開けば澄花の話ばかりだというのに、実際の彼女を前にすれば空回りを繰り返すばかりだ。思春期の男子中学生でも、時雨よりはもう少し器用に立ち回るだろう。

 先ほどまでそわそわと立ち動いていた時雨は文机の前の座布団に腰を下ろし、澄花からもらった菓子を物憂げな目で矯めつ眇めつしている。はあ、と薄い唇から漏れる吐息はしっとりとした色香を纏っている。

「食べてしまうのが勿体無いな……。それに澄花がこんなに料理上手だとはな……彼女の伴侶となる男が羨ましい限りだ」

「時雨様……澄花様の夫はあなたでしょう? しっかりなさってください」

「そうは言っても、私と澄花は契約上の関係だ。将来、彼女は私ではない男を愛すかもしれない」

 澄花とは行きがかり上、互いの利害の一致で契約上の夫婦になったにすぎない。それは彼女の心までも縛ることのできるものではないことを時雨は知っていた。

「まったく……時雨様はそわそわしていたかと思うと、今度はうじうじと……。畳が黴びたらどうするんですか。去年の年末に変えたばかりですよ」

「うじうじ……うじうじか……」

 ぼそぼそと呟くと時雨は文机に頬杖をつく。この地に住まう生命を満足に守ることのできない自分に自信なんてない。その自信のなさが時雨を後ろ向きにさせていた。

「漣……私はどうしたらいいと思う?」

 つい、弱音が時雨の口を突いて出た。それは長年そばにいる漣にしか見せない彼の弱さだった。

「時雨様、子供ではないのですから、そのくらい自分でお考えになってください。自分の心に正直になれば、自ずと答えは見えてくるものですよ」

「自分の心に正直に、か……」

 時雨は漣の言葉を反芻する。物憂げな表情を浮かべる美しい顔からは大人の色香が漂っているというにもかかわらず、目には道に迷ってしまった子供のような色を湛えていた。

(澄花……)

 こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのはいつのころからだっただろう。彼女の持つ雨催あまもよいの巫女の力以外も欲しいと思うようになったのはいつのころからだっただろう。笑って欲しい、名前を呼んで欲しい、こちらを見て欲しい――そんなことを考えるようになったのはいつのころからだっただろう。

 時雨はこの感情につける名前を知らない。晴れた春の日のように胸が暖かくなっては、知らず知らずのうちに気持ちがそわそわと落ち着かなくなり、ちょっとしたことでこの世の終わりのように暗雲が立ち込める――波のように寄せては返すその感情は時雨にとって未知のものだ。ただ唯一わかるのは、澄花が自分にとっていつの間にか特別な存在になってしまっていたという事実だけだった。澄花に向ける感情は、長年一緒にいる漣に向ける信頼とも、同じ父を持つ妹の紅雨こううに向ける家族愛とも異なる色のものだった。

「時雨様、せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですから、召し上がられてはいかがですか」

 漣に勧められ、時雨は中庭の紫陽花のような彩りを見せる菓子を匙で掬い上げる。口へ運んだそれは甘くて優しい味がした。その味は、時雨が澄花に抱いている気持ちと同じものだった。

 時雨はゆっくりと大切に澄花の作った菓子を食べ進めていく。口の中に広がる幸福な味に、優しい気持ちと切なさが綯い交ぜになって込み上げてくる。自分の胸を締め付ける感情に時雨は苦しさを感じながらも、この先を知りたいと思い始めていた。

 澄花が紅雨こううに菓子を届けた日以降も、二人の交流は続いた。澄花が紅雨こううを訪ねることもあれば、逆に紅雨こううが澄花を訪ねてくることもある。今日は紅雨こううが澄花の部屋を訪ねてきていた。

「わあ、今日のお菓子も可愛らしくて素敵ですね。食べるのがもったいなくなってしまうくらい」

 座卓の上のガラスの皿には、透き通った葛の中に金魚の姿が揺れていた。小さな鰭が涼しげにたなびくさまに、思わず澄花は口元を綻ばせる。

「澄花のお気に召したようで嬉しいですわ。それにしても澄花はお茶の趣味がいいのね」

 紅雨こううは水出しの煎茶を口の中で味わうと微笑んだ。鼻腔に抜ける桃の香りがフレッシュで爽やかだ。夏らしい味が葛饅頭の甘さを程よく洗い流してくれる。

「いえいえ、とんでもないです。お茶は水鞠さんがいつも選んでくださってるんですよ」

 褒めるなら水鞠を、と澄花は遠回しに匂わせる。水鞠は部屋の入り口の障子のそばに控え、少女二人のやりとりをにこにこと眺めていた。

 二人の話題に上るのは専ら時雨のことだ。時雨がどうしたこうしたと紅雨こううはいつも澄花の知らない彼の姿を話してくれる。あんな兄で恥ずかしいだの、兄は気が回らなさすぎるだのと、紅雨こううは文句ばかり言っているが、それが澄花にとっては羨ましくもあった。

紅雨こうう様、時雨様はとても素敵な方だと思いますよ。お美しくて、お優しくて、水神としての務めのことを一番に考えていらっしゃって」

「お兄様の取り柄なんて、真面目でこの地を愛していらっしゃることと見た目くらいですわ。……わたくしが水神として覚醒していれば、この川の全てをお兄様一人に背負わさないですみましたのに」

 ぽろりと澄花の知らない話が紅雨こううの口からまろびでた。その言葉は水に投げ込まれた小石のように、紅雨の視界を歪めていく。幼い顔に辛苦の感情を滲ませる紅雨こううにこの話をこれ以上追及していいのかわからなくて、澄花はそっと水鞠へと視線をやる。水鞠はこちらへやってくると、膝をついて紅雨こううと視線を合わせる。

「――紅雨こうう様。このお話は……」

「いいわ、水鞠。わたくしから話しますわ。澄花がお兄様の伴侶である以上、知っておかねばならないことですもの」

紅雨こうう様、お辛いようでしたら、わたしは無理に聞こうとは思いません。わたしは、紅雨こうう様がそんな顔をしていらっしゃるほうが気に掛かります」

 澄花は紅雨こううを案じる言葉をかける。大丈夫ですわ、と紅雨こううはかぶりを振った。彼女の髪に挿された簪の薄橙の花がしゃらりと鳴る。兄の心を掴んで離さないのはきっと彼女のこの優しい心根なのだろう。

「澄花は優しいですわね。わたくしは水神としては未熟な身――お兄様と違って神力を持ってはいないのです。わたくしがお兄様をお支えできていたなら、力を使い果たし、これほどまでに弱くなってしまうことはなかったのです。澄花がこの家に来るまでは、いつお兄様もお父様のように消えてしまうのかと怖くて仕方ありませんでしたわ……」

 紅雨こううの小さな身体がかすかに震えている。紅雨こううは気丈な笑みを浮かべていたが、言葉尻には涙の気配が感じられた。たまらなくなって、澄花は紅雨こううのそばに寄ると、彼女の身体を抱きしめた。

 紅雨こううは神の身だ。澄花とは比べ物にならないくらい、遥かに長い時を生きていたことくらいは理解している。それでも澄花は今の紅雨こううが見た目通りの年齢の少女のように感じられてならなかった。

陽菜はるな……)

 腕の中の少女の姿が、記憶の中の妹と重なった。

 今は二〇四〇年。もう陽菜はるなは澄花の年齢すら飛び越えた大人なのだということはわかってはいる。それでも、澄花の中では陽菜はるなはまだ最後に別れた十歳のときの姿のままだった。

(約束、守ってあげられなかったな……)

 修学旅行のお土産を買ってくる約束をしたこと。それを守ってあげられなかったことが今になって悔やまれた。二十五歳の彼女はまだそのことを覚えているのだろうか。

 じわっと目の奥から熱いものが込み上げてくるのを澄花は感じた。どうかしましたの、と紅雨こううが身じろぎをする。

「すみません……紅雨こうう様を妹に重ねてしまって……」

「澄花には妹がいらっしゃいますの? よろしければお話を聞きたいですわ」

 ええ、と澄花は目元を拭うと頷いた。それではお茶のおかわりをお注ぎしますね、と水鞠が冷茶の入った切子細工のガラスの水差しを手に取る。

 こぽこぽと水差しと同じ意匠のグラスに桃が香る茶が注がれていく。澄花は痛みと懐かしさを覚えながら、紅雨こううに自分の家族のことを話し始めた。

「わたしには、陽菜はるなという名前の八個下の妹がいます。あの子はいつだって、家の中心にいる太陽みたいな子で――」

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