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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面④

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-18 12:57:24

 いつのことだったか、雨で陽菜はるなの小学校の運動会がなくなってしまったことがあった。澄花が運動会の応援に行ったところ、開始直前に大雨が直撃し、急遽中止に追い込まれてしまったからだ。

「運動会できないからって代わりに宿題のプリントいっぱい出されたんだけど!! せっかくの土曜日なんだからどっか遊びに行きたいよー」

 澄花はダイニングでプリントの山と格闘する陽菜はるなを横目にリビングのソファでスマホをいじっていた。掃き出し窓を雨が叩く音がイアホンの音楽に混ざって、ドラムのようにビートを刻んでいる。

 宿題に飽きてしまった陽菜はるなはシャーペンのキャップをかちかちと押し続けている。澄花はふと思いついて、隣駅のショッピングモールにある映画館のウェブサイトにアクセスした。

(あ……今からなら十四時半の回に間に合いそう)

 妹の陽菜はるなは小学生にも関わらず、刑事ドラマにハマっている。両親が仕事で留守の間、夕方の再放送を見ているうちにハマってしまったらしい。

 陽菜はるなが好きだと言っていた刑事ドラマの劇場版が先週から上映されていた。しかし、今日はこの天気が祟ったのか、まだ座席はガラガラだ。

(確か……誕生日にもらった映画のギフトカードがまだ残っていたはず)

 澄花は見やすそうな席を並びで二席押さえると、決済をした。そして、澄花はソファから立ち上がると、陽菜はるなに声をかける。

陽菜はるな、わたしと出かけよう。テーブルの上片付けて、出かける支度してきて」

「お姉ちゃん、どこ行くの?」

「映画館。隣駅のショッピングモールの。先週公開された映画、見たがってたでしょ?」

 澄花の言葉を聞いた陽菜はるなの目がぱぁぁっと輝いた。彼女の笑顔はまるで春の太陽のようだと澄花は思う。

 陽菜はるなはプリントと筆記用具をばたばたと片付けると、二階にある自室へと上がっていく。どたばたと落ち着きのない足音を追いかけて、澄花も階段を上がっていった。

 自室に入ると、澄花は白のミニショルダーの中にスマホや財布、ハンカチやリップを入れていった。家の鍵を手に取ったとき、「お姉ちゃん早くー!」陽菜はるながどんどんと部屋の扉を叩く音が響いた。

 苦笑混じりに返事をすると、澄花は部屋を出て陽菜はるなと共に階段を降りていった。そして、靴を履き、玄関の傘立てから傘を取ると、二人は家を出た。

 がちゃりと玄関扉が閉まる音がする。外出する姉妹を見送るように、リビングに放し飼いにしているミニチュアダックスフントのリオンがわんと吠えた。

 空から絶え間なく降り続く雨粒が水溜りに波紋を描いては連なるようにさらに大きな波紋を作っていく。分厚い灰色雲に覆われた空の下、二本の傘が大輪の花を咲かせていた。

 休日の夕方ということもあって、買い物に訪れた客たちでフードコートは喧騒に包まれていた。家族連れが多いのか、あちらこちらで子供がはしゃぐ声がする。

「――陽菜はるな、お待たせ」

 澄花は手に持っていたトレイをテーブルに置くと、待たせていた陽菜はるなの向かいの椅子に腰を下ろした。トレイの上ではファストフード店で買ったLサイズのポテトにチキンナゲット、レモンスカッシュにアイスティーが乗っている。

「お姉ちゃんありがとう。いただきます」

 陽菜はるなは両手を合わせると、ポテトへと手を伸ばす。それを微笑ましく思いながら、澄花はアイスティーに口をつけた。

「今日の映画、どうだった? 面白かった?」

 澄花が聞くと陽菜はるなは口をもぐもぐさせたまま、首をぶんぶんと縦に振った。まだ興奮冷めやらぬといったふうで、その双眸はきらきらと光を放っている。陽菜はるなは口の中のポテトを飲み下すと、テーブルから身を乗り出し、勢いよく捲し立てた。

「すっごーく面白かった! 過去の相方が全員出てきて、それぞれ事件に関わってるなんて思わなかった! しかも、最後にあんな裏切りがあるなんて――」

「ほら陽菜はるな、座って。騒がないの。お行儀悪いでしょ?」

 はあいと返事をすると陽菜はるなは席に腰を下ろした。そして、彼女は再びジャンクフードへと手を伸ばす。

 こんなに喜んでもらえたなら、連れてきてあげた甲斐があった。テレビシリーズをよく知らない自分でも楽しめたし、来てよかったと心から思う。

 気がつけば、陽菜はるなによってポテトもナゲットもほとんど食べられてしまっていた。残り数本になったポテトに手を伸ばしたとき、お姉ちゃん、と陽菜はるなが澄花を呼んだ。

「どうしたの?」

「ねえ、この後、百均行きたいんだけどいいかな?」

「そろそろ帰らないとだから、そんなに長くはだめだよ。晩御飯の時間に遅れたら怒られちゃう」

「大丈夫、すぐ済むから」

「そう? ところで何を買うの?」

「チョコレートとゼラチンだよ」

「何かお菓子でも作るの?」

 内緒、陽菜はるなはにっと笑った。笑うと出来る笑窪が可愛らしい。

 陽菜はるなはずずっとストローでレモンスカッシュを啜る。それを眩しいものを見るように目を細めながら澄花は見ていた。

「お姉ちゃん、ちょっといい?」

 風呂から上がり、二階にある自室に戻ろうとしていると、澄花は陽菜はるなに呼び止められた。夕食後から台所で何かしていたのは知っていたが、エプロンのみならず顔までチョコまみれになっているのは一体どういうことなのだろう。

 見れば流しには使ったままの鍋やらボウルやらが散乱している。調理スペースにはチョコレートの包み紙や空になった生クリームのパックにゼラチンやグラニュー糖の袋、出しっぱなしの牛乳などが置かれたままになっていた。

 お菓子作りは陽菜はるなの趣味だ。しかし、作ったら作りっぱなしにしてしまうところはまだまだだ。この台所の惨状を見たら母が卒倒してしまう。

 陽菜はるなは冷蔵庫を開けると、中からチョコムースを二つ取り出した。そして、片方を澄花に渡すと彼女はこう言った。

「お姉ちゃん、これ。今日、映画連れていってくれたお礼。本当にありがとう」

「楽しかったみたいでよかった。……今日、運動会だめになっちゃったから」

「そんなのお姉ちゃんのせいじゃないでしょ。せんじょーこーすいたいとかいうのができてたってさっきニュースでも言ってたじゃん。それより食べようよ」

 うん、と頷くと澄花は食器棚からスプーン二本取り出した。そして、リビングへ向かうと二人並んでソファに腰を下ろす。澄花が陽菜はるなにスプーンを渡してやるのを見ていたリオンがケージの中で物欲しそうにくぅんと声を上げた。

 駄目だよ、澄花は困った顔でリオンを宥める。チョコレートは犬には毒だ。

 澄花はスプーンで陽菜はるなの作ったムースをすくうと口へと運ぶ。すると、口の中に控えめなチョコレートの甘さが広がった。雨の夜を幸せに変えてくれる優しい味だった。思わず、鼻の奥がつんとした。

「――美味しい。陽菜はるな、ありがとうね」

「もう……なんでお姉ちゃん、泣きそうになってるの」

 自分のせいで運動会が駄目になったというのに、こんなふうに優しくされていいのだろうか。映画に陽菜はるなを連れていったのだって、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのに。

 けれど、そんな胸中を陽菜はるな相手に吐露するわけにもいかない。澄花は僅かに逡巡するとまったく別のことを口にした。

陽菜はるなも腕を上げたなあって思ったから。……でも、散らかしっぱなしにするところはまだまだだよ。後で一緒に後片付けしようね」

「はあい」

 雨戸を雨が叩く音がする。おやつを諦められないらしいリオンがきゅうきゅうと訴える声がする。

 罪悪感の中に灯った小さな幸せを噛み締めながら、澄花はまたひと匙、もうひと匙とムースを口に運ぶ。自分の作ったムースを美味しそうに食べる澄花を陽菜はるなは嬉しそうに見上げていた。

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