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愛は沈み、霧だけが晴れ渡る

愛は沈み、霧だけが晴れ渡る

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。 しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」 「まさか」 詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。 彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」 窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。 「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」

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Chapter 1

第1話

結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。

しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」

「まさか」

詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。

彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」

窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。

「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」

詩織は座ったまま凍りついた。頭の中で何かがブンブンと唸っている。まるで絡まった糸玉が転げ回り、ほどけるどころかますます固く絡まっていくようだ。

美月?それは、夫の同僚の未亡人だと言っていた女性ではないか。なぜ彼女が、夫の戸籍に入っているのか。

詩織は震える手で、職員が見せてくれた正規の登録情報を食い入るように見つめた。

【妻:美月、長男:翼】

宗一郎の戸籍には、最初から「詩織」の名前など存在していなかったのだ。

詩織は幽霊のような足取りで役所を出ると、職員が教えてくれた住所――夫の戸籍上の住所へと向かった。

そこへ近づく勇気はなく、ただ生垣の陰から中の様子を伺うことしかできない。屋敷の中からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。

「翼、見てみろ!父さんが大好物のキャラメルを買ってきたぞ」宗一郎が大きな袋を男の子に手渡している。

「わあ!父さん大好き!」翼と呼ばれた男の子が飛び上がり、彼の首に抱きついた。

「もう、あなたったら。手を洗って、ご飯にしましょう」エプロン姿の美月が、台所から優しく微笑みかけていた。

温かな家族の団らん。けれど外に立つ詩織の心は、極寒の氷雪に閉ざされたように冷え切っていた。これ以上直視することができず、彼女は逃げるようにその場を去った。

日がとっぷりと暮れてから、ようやく詩織は自宅に戻った。家政婦の佐藤(さとう)が、詩織の姿を見るなり駆け寄ってきた。

「詩織先生、やっとお帰りになった!旦那様から何度もお電話があったんですよ。繋がらないって、ひどく心配されてました!とにかく、早く折り返して差し上げてください」

詩織は虚ろな目で顔を上げた。その時、電話のベルが鳴り響いた。彼女には聞こえていないかのように反応がないため、佐藤が受話器を取る。宗一郎からだ。

「旦那様、先生がお戻りになりました。ええ、代わりますね」

受話器を耳に当て、電波越しに宗一郎の声が聞こえた瞬間、詩織の目から堪えていた涙が溢れ出した。

「詩織か?どうした、俺がいなくて寂しくなったか?明日、上に休暇を申請して、家に帰るよ」宗一郎はすぐに彼女の異変を察知し、優しく語りかけた。

もし今日という日がなければ、詩織は舞い上がって喜び、彼に「会いたい」と伝えていただろう。

結婚して七年。国防指揮センターの幹部である宗一郎は、夏と冬のわずかな期間しか家に帰らない。詩織はかつて駐屯地への帯同を希望したが、宗一郎は「環境が過酷だから」という理由で拒否した。

詩織は夢にも思わなかった。まさか宗一郎が二重生活を送っており、自分との結婚証明書も戸籍もすべて偽物だったなんて。

「詩織、駐屯地は環境が悪い。君を連れて行って苦労させたくないんだ。俺が手柄を立てて昇進したら、その時はこちらの配属に戻してもらう。そうすれば、ずっと一緒にいられるから」

詩織は今まで一度も疑わず、一度も問い詰めなかった。

彼女は涙を拭い、再び口を開いた。「帰ってこなくていいわ。私、そちらへ行くための帯同申請を出したいの」

「言っただろう、君に苦労はさせたくないんだ……何かあったのか?明日、帰るよ」

宗一郎の声色から滲む心配は、偽りには聞こえなかった。だが、その予想通りの答えを聞いて、詩織の心は不思議と静まり返った。

彼女は涙を拭った。「ううん、なんでもないの。ちょっと風邪気味みたいで」

「そうか。体は大事にしてくれ。佐藤さんに栄養のあるスープでも作ってもらうんだぞ。生徒たちのことも大事だが、君の体が一番大事だ。薬を飲んで、俺に心配かけないでくれよ。休みが取れたらすぐに家に戻るから」

彼はいつものように優しく、情愛に満ちていた。詩織が涙をこらえていると、電話を切る直前、受話器の向こうから子供の声が聞こえた。

「父さん、早く来て!母さんが指切っちゃった!」

ガタン。彼は電話を切る間も惜しんで、受話器を放り出したのだろう。詩織は主のいなくなった受話器の向こうを、一分間、黙って聞いていた。

電話を切ると、彼女は別の番号を回した。

「……佐伯(さえき)教授でしょうか。国立第403研究所の件……お受けします」

電話の向こうで、佐伯教授が問いかける。「詩織さん、決心はついたかね?一度参加すれば、君の身元は抹消される。一生、名前を変えて隠れて生きることになるんだぞ」

詩織の心は決まっていた。「はい」

「わかった。時間はあまりないが、半月後の出発だ。それまでに身辺整理をしておきなさい。迎えの車をやる」
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ヤンヤン
ヤンヤン
詩織が幸せになったのは良かったけど… 悪事を働いた美月、そして翼がその後どうなったのか?気になる…宗一郎の実家もどうなった?あんな姑が居る家系は滅びた?のかな〜
2026-01-09 00:47:09
1
0
ゆかり
ゆかり
これ諸悪の根源は完全に宗一郎だよね。姑も詩織をいびる権利ないよね?結局は息子の身勝手な行動を見逃してんだから。 何だかなぁ。美月がした放火って立派な犯罪行為なんだけど、詩織が焼死した事を隠そうとする姑もどうなんだ?実は放火に加担してたんじゃないの?って思っちゃう。全ての濡れ衣や息子がついた嘘も全て明らかになったわけじゃないし、なんかモヤモヤ
2026-01-08 18:27:49
4
0
ノンスケ
ノンスケ
結婚して子どももいたのに、好きな人ができたと言ってその女と偽の婚姻届で結婚した体を装い、どちらの家庭も欺いてた男。単純に無理。
2026-01-07 23:09:44
2
0
松坂 美枝
松坂 美枝
籍を入れた女に子供を産ませても表に出さず、主人公には偽りの婚姻届と戸籍で騙して七年もやり過ごしてきた男の末路としては穏やかすぎ 本妻の悔しさとかやったことはアレだけど理解出来るわ 孫だけは死守したであろうクズ母の後悔も読みたかったかも
2026-01-07 09:57:56
3
0
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第1話
結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」「まさか」詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」詩織は座ったまま凍りついた。頭の中で何かがブンブンと唸っている。まるで絡まった糸玉が転げ回り、ほどけるどころかますます固く絡まっていくようだ。美月?それは、夫の同僚の未亡人だと言っていた女性ではないか。なぜ彼女が、夫の戸籍に入っているのか。詩織は震える手で、職員が見せてくれた正規の登録情報を食い入るように見つめた。【妻:美月、長男:翼】宗一郎の戸籍には、最初から「詩織」の名前など存在していなかったのだ。詩織は幽霊のような足取りで役所を出ると、職員が教えてくれた住所――夫の戸籍上の住所へと向かった。そこへ近づく勇気はなく、ただ生垣の陰から中の様子を伺うことしかできない。屋敷の中からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。「翼、見てみろ!父さんが大好物のキャラメルを買ってきたぞ」宗一郎が大きな袋を男の子に手渡している。「わあ!父さん大好き!」翼と呼ばれた男の子が飛び上がり、彼の首に抱きついた。「もう、あなたったら。手を洗って、ご飯にしましょう」エプロン姿の美月が、台所から優しく微笑みかけていた。温かな家族の団らん。けれど外に立つ詩織の心は、極寒の氷雪に閉ざされたように冷え切っていた。これ以上直視することができず、彼女は逃げるようにその場を去った。日がとっぷりと暮れてから、ようやく詩織は自宅に戻った。家政婦の佐藤(さとう)が、詩織の姿を見るなり駆け寄ってきた。「詩織先生、やっとお帰りになった!旦那様から何度もお電話があったんで
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第2話
翌日、放課後になるとすぐに、詩織は校長へ辞表を提出した。校長は惜しんでくれた。詩織は長年ここで教師を務め、生徒たちからも慕われている。だが、彼には引き留める権利がないことも分かっていた。「君がいなくなるのは寂しいが、仕方がないな。君と桐島さんのおしどり夫婦ぶりは有名だ。遅かれ早かれ、任地へ帯同することになるだろうとは思っていたよ。彼も、君を一人にしておくのは心配だろうしね」誰もが、詩織と宗一郎を理想の夫婦だと思っている。その全てが、偽りだとも知らずに。「校長、それは違います。あの人は……」言いかけた詩織を、校長は分かった分かったと手で制した。「いいんだよ、照れなくても。私にも若い頃はあったからね。それに、君たちもそろそろお子さんを考える時期だろう?」詩織は言葉を飲み込んだ。かつて宗一郎を救おうとして重傷を負い、彼女は代償として子供を産めない体になった。長年、桐島家の親族たちは詩織に冷たかったが、この件についてだけは決して責めなかった。詩織はずっと、それが宗一郎が両親と戦って守ってくれた結果だと思っていた。だが違ったのだ。宗一郎には、とっくに自分の子供がいたからだ。跡取りがいるから、詩織を責める必要がなかっただけなのだ。詩織は黙り込み、それ以上説明するのをやめた。クラスの引継ぎは後任の教師が行う。詩織に残された仕事は、あと数日で身辺整理を済ませることだけだ。校門を出ると、少し離れた並木道の下に見慣れた人影があった。宗一郎だ。傍らには車が停まっており、中には人の気配がある。一緒に下校していた同僚の教師が冷やかす。「あら、桐島さんだわ。詩織先生のお迎えね、羨ましい」宗一郎はこちらに気づくと、すぐに顔を上げ、小走りで駆け寄ってきた。そして衆目も気にせず、力強く詩織を抱きしめる。ちょうど下校時間で、生徒や教師たちの視線が集まるが、皆慣れたものだ。何年も前から、彼が帰省した時は必ずこうして校門まで迎えに来ていたのだから。彼の体から、懐かしい匂いがした。一晩着替えていないであろう、汗と埃の混じった匂い。以前なら、彼を強く抱きしめ返すのが当たり前だった。この埃っぽい匂いこそが、彼が激務の中、自分への愛のために駆けつけてくれた証明だと思っていたから。詩織は、彼の顎に浮いた無精髭と、目の下のクマを見つめた。言葉を発しよ
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第3話
詩織が帰宅した時、手の甲の火傷はひどい水膨れになっていた。その魂が抜けたような様子を見て、家政婦の佐藤は驚いた。「詩織先生、どうされたんですか!?手がこんなに……すぐに病院へ行って処置しないと。旦那様に電話します!」佐藤は言うが早いか、電話へ向かおうとした。「佐藤さん、やめて」詩織は彼女の言葉を遮った。「電話しないで。ただの火傷だから、薬を塗れば大丈夫」「……旦那様に心配をかけたくないんですね?お気持ちは分かります。旦那様は普段、半年に一度しか帰ってこられないのに、今回は先生が風邪だと聞いて二ヶ月で戻ってきてくださったんですものね。こんな火傷を見たら、きっと心を痛められますよ」佐藤は薬箱を持ってくると、丁寧に軟膏を塗り始めた。「私が強く塗りすぎてませんか?痛くないですか?」誰もが、宗一郎は詩織を深く愛していると思っている。だが彼らは知らないのだ。宗一郎の愛は、詩織だけに向けられたものではなく、もう一人の女にも注がれていたことを。詩織はもう片方の手で頬に触れた。いつの間にか涙が伝っていたことに気づき、慌てて拭うと、無理やり笑顔を作った。「ありがとう、佐藤さん。痛くないわ」佐藤が帰った後、詩織は荷造りを始めた。そこで彼女は気づいた。この家には、夫である宗一郎の痕跡が哀れなほど少ないことに。結婚してからの数年間、彼が家にいる時間はあまりにも短かった。クローゼットに残された数着の服と、鏡台に飾られたツーショット写真。それ以外には、何もなかった。すべてに予兆はあったのだ。自分が愚かで、彼を信じすぎていたから、長年その事実に気づかずにいただけだった。その晩、宗一郎は帰ってこなかった。詩織はベッドで寝返りを打ち続け、空が白む頃になってようやく眠りに落ちた。翌朝、詩織はリビングからの物音で目を覚ました。佐藤が来たのかと思ったが、そこにいたのは予想だにしない人物――美月と、その息子の翼だった。翼は椅子の上によじ登り、棚の上に置いてあった木彫りの汽車に手を伸ばしていた。それは詩織にとって最も大切な宝物であり、亡き両親が残してくれた唯一の遺品だった。「触らないで!」詩織は大声で叫んだ。翼はびくりと体を震わせたが、手にした木彫りの汽車を離そうとはしない。美月が彼を抱きかかえ、床に降ろした。「詩織先生、おはようございます。私と翼、し
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第4話
宗一郎は強い力で手首を掴んで離さない。詩織は振りほどこうとしたが、彼はさらに力を込め、執拗に詩織の瞳を覗き込んだ。「どこへ行くつもりだ」「離して、私は……」詩織が必死に抵抗し、言葉を発しようとしたその時、視界の端に、彼が美月と翼の荷物を持っているのが見えた。その瞬間、美月の手が伸びてきた。彼女は片手を宗一郎の手の甲に重ね、もう片方の手で詩織の二の腕を優しく撫でた。すると、宗一郎の手からスッと力が抜けた。「宗一郎さん、そんなに強く掴んだら詩織先生が痛がりますよ。先生は学校へ行かれるんでしょう?安心して、翼が壊したものは、私が必ず弁償しますから」「必要ないわ」詩織は冷たく言い放った。彼女は美月の手を振り払うと、振り返らずに家を出た。気にするな、気にするなと自分に言い聞かせる。けれど脳裏には、先ほど美月と宗一郎が手を重ね合っていた、あの親密な光景が焼き付いて離れない。思い出すだけで、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げ、吐き気を催すほどだった。詩織はその不快感を押し殺し、学校へ着くとクラスの学習進捗をノートにまとめ始めた。もうすぐ自分はいなくなる。それでも、残される生徒たちのために、できる限りのことをしておきたかった。午後、詩織は教室に入った。生徒たちに、自分が辞職して学校を去ることを告げるつもりだった。しかし、口を開こうとしたその時、ノックの音がして校長が入ってきた。「詩織先生、この子を数日だけクラスで預かってやってくれないか。桐島さんの遠い親戚だそうだ。話は聞いているね?」詩織の手の中で、チョークがパキリと音を立てて折れた。爪とチョークが擦れる不快な感触以上に、校長の言葉が詩織の神経を逆撫でした。聞いていない。彼は何も言わなかった。遠い親戚?自分が上手く隠し通せていると思っているのだろうか。あの親子を家に連れ込んだだけでなく、学校にまで連れてくるなんて。宗一郎は、自分をそこまでの馬鹿だと思っているのか。校長に背中を押され、翼が教室の一番後ろの空席に座った。詩織は全身がカッと熱くなるのを必死に抑え込んだ。ここは学校で、翼は生徒だ。詩織はくるりと背を向け、ぎゅっと一度目を閉じると、平静を装って黒板に向かい、授業を始めた。授業中、翼は何度も騒いで邪魔をした。詩織はその都度注意したが、彼は反省するどころか増長し、終了間際にな
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第5話
詩織は、とても長い夢を見ていた気がした。夢の始まりは、宗一郎が自分に注いでくれた惜しみない愛だった。けれど夢の終わりには、一人の女が子供を連れて現れ、こう告げるのだ。「全ては嘘よ」と。七年間の結婚生活は偽りだった。宗一郎の愛も偽りだった。最初から最後まで、何もかもが作り物だったのだ。詩織は夢から覚めた。廊下から、看護師たちの話し声が聞こえてくる。「あの子、足の皮がちょっと擦りむけた程度でしょう?なんで毎日消毒に来るの?」「桐島さんの亡くなった同僚の子供だもの。桐島さんがすごく大切にしていて、毎日付き添ってるのよ」「でも、あの付き添いの女性、桐島さんを見る目が単純じゃないわよね……それにしても桐島さんもどういうつもりなのかしら。自分の奥さんが妊娠して入院してるのに、一度も顔を出さないなんて」「一度も来てないの?もしかして、奥さんが妊娠してること、知らないんじゃない?」詩織の心臓がドクリと跳ねた。彼女は震える手を布団の中で、そっと下腹部に触れた。妊娠?自分が?涙が自然と溢れ出した。かつては、どれほど望んだことだろう。彼との子供が欲しいと、どれほど願ったことだろう。だか、今となっては……この子は、来る時を間違えてしまったのだ。「詩織!目が覚めたのね」病室に入ってきた薫が、詩織が起きているのに気づいて駆け寄ってきた。手に持っていたカルテを置き、すぐに枕の位置を調整して体を支える。「どうしてナースコールを押さないの。気分はどう?お腹はまだ痛む?」薫は詩織の世話をしながら、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。詩織は親友の顔を見つめた。あの日、薫が宗一郎に対して激怒し、真実を隠そうとする彼を責めていたことを思い出す。彼女が黙っていたのは、宗一郎に脅されていたからだ。詩織は薫を責めるつもりはなかった。「薫……この子は、産めないわ」薫の動きが止まった。ショックを受けたように目を見開く。しかし、詩織の瞳は澄んでいて、その決意が固いことは明らかだった。「詩織、よく考えて。あんたの体は……前に大怪我をしているでしょう?もし今回この子を諦めたら、二度と母親になるチャンスはないかもしれないのよ……」「分かってる」詩織は静かに言った。「でも、もう全部知ってしまったの……この子は産むわけにはいかない。お願い、彼には言わないで」
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第6話
中絶手術はあっという間だった。ただ一眠りしただけのような感覚。けれど目が覚めた時には、体の中から何かが消え失せていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。宗一郎は病院に戻ってこなかった。翌日、詩織は一人で退院し、自宅へ向かった。玄関のドアが少し開いていた。中に入ろうとして、足が止まった。リビングで、宗一郎と美月が抱き合っていたからだ。美月の途切れ途切れの喘ぎ声が聞こえる。「宗一郎さん……まだ、昼間よ……」宗一郎の声は低く、情欲に濡れていた。「昼間がどうした?翼は学校だ。何を怖がることがある?……誘ったのは君だろう」詩織は釘付けにされたように動けなかった。室内では、宗一郎がすでに限界を迎えていた。彼は美月の手を自分のベルトへ導き、しわがれた声で命じた。「さあ、外せ」詩織は自らを罰するかのように、その光景を見つめ続けた。目は焼けつくように痛み、心臓は痙攣したように苦しい。それでも、彼女はそこから動けなかった。宗一郎の腕に血管が浮き上がり、耳が赤く染まる。その広い背中が美月をすっぽりと覆い隠す。彼が情欲に溺れる時のその姿を、詩織は嫌というほど知っていた。かつて数え切れないほどの夜、彼が同じ姿で自分を愛したことを思い出し、詩織は強烈な吐き気に襲われた。「うっ……オエッ……」えずく音が、二人の行為を中断させた。我に返った宗一郎が慌てて服を整え、玄関に駆け寄る。そこには、涙を流しながら苦しそうにえずく詩織がいた。彼は詩織の肩を抱いた。「詩織!?どうした、まだ入院中じゃなかったのか?」彼の手のぬくもりが服越しに伝わり、詩織は総毛立つような嫌悪感を覚えた。彼女は後ずさり、彼の手を振り払った。「触らないで!……汚らわしい!」目の前が暗くなり、呼吸ができない。倒れそうになった体を、宗一郎が抱き留めた。「詩織!怒るのはいいが自分の体も大事にしろ。悪いのは俺だ。美月は関係ない。見られたなら隠し立てはしない。ここ数年、美月には苦労をかけたんだ。君が殴ろうが罵ろうが、受け入れる」詩織は想像していた。バレた瞬間、彼が泣いて謝る姿を。あるいは土下座して許しを請う姿を。けれど、こんな開き直った態度は予想外だった。彼の目には多少の罪悪感はあるものの、あまりに堂々としていた。失望が頂点に達すると、人は逆に冷静になるものだ。「……ど
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第7話
詩織が美月の言葉の意味を理解するより早く、宗一郎が美月を無理やり引き剥がして立たせた。美月は泣き叫んでなおも膝をつこうとするが、宗一郎が抱きかかえるようにしてそれを止める。「詩織!俺を恨むのはいいが、子供に手を出すのは違うだろう!翼がどこにいるか教えてくれ、そうすれば美月も罪には問わないと言っている!」宗一郎の声は、校門にいる全員に聞こえるほどの大きさだった。好奇の視線が四方八方から詩織に突き刺さる。だが彼女は動じず、背筋を伸ばして宗一郎の目を真っ直ぐに見据えた。「何の話?今日、一度も翼くんを見ていない」「詩織先生……ご自分が子供を産めないからって、翼が宗一郎さんの家にいるのが許せないのは分かります。でも、子供は無関係よ!どこに隠したの、お願い教えて……!」美月が宗一郎の腕を振りほどき、詩織に掴みかかってきた。鋭い爪が二の腕に食い込む。詩織が顔をしかめて後ずさり、彼女を振り払おうとしたその時――パァン!乾いた音が響き、詩織の頬に焼けるような痛みが走った。「このうまずめが!孫が産めないくせに、何年も息子に寄生しやがって!さっさと白状しな!私の可愛い孫をどこへやったのよ!もし少しでも怪我をさせてたら、ただじゃおかないよ!」強烈な平手打ちを食らい、詩織は地面に倒れ込んだ。口元が熱を持ち、みるみる腫れ上がっていくのが分かる。見上げると、腰に手を当てて喚き散らしているのは、宗一郎の母・桐島房江(きりしま ふさえ)だった。周囲の人々の視線が、同情から軽蔑へと変わっていくのが肌で感じられた。詩織の心臓は、氷のように冷え切っていった。「……隠してなど、いません」宗一郎が視線を落とし、詩織に手を伸ばそうとしたその時だった。「見つけました!」部下の叫び声が響いた。全員の視線が声の主に向く。泥だらけになった翼を抱えた部下が走ってきた。宗一郎は大股で近づき、息子を受け取ると、怪我がないか全身をくまなく確認し、安堵の息を漏らした。美月も慌てて駆け寄る。「翼!お母さん心配したのよ!もう勝手にどこか行っちゃだめじゃない!……誰に連れて行かれたの?誰がこんなことをしたの?」「……あいつ。あいつが僕を捕まえて、裏山に捨てたんだ!」翼は震える指で、地面に座り込んだままの詩織を指差して大声で叫んだ。それを聞いた房江がヒステリックに叫ぶ。「やっぱりこ
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第8話
桐島家の仏間。宗一郎はもう二日間、そこで正座をしていた。背筋はピンと伸びているが、心の中は詩織のことで一杯で、不安が胸を締め付けていた。詩織が反省部屋に入れられた翌日、宗一郎は家政婦に食事と布団を用意させ、届けさせようとした。だが、それは房江によって阻止された。「罪を犯したなら罰を受けるのが当たり前でしょう。こんなものを差し入れて、あの子を反省させるつもりあるの?反省部屋を何だと思ってるの?」宗一郎はこの件で母の逆鱗に触れ、仏間での謹慎を命じられたのだ。だが、彼の心は詩織の安否を気遣っていた。かつて詩織は、自分を庇って刃物で刺されたことがある。それ以来、彼女の体はずっと弱いままなのだ。美月が食事を運んできた際、宗一郎は彼女に頼み込んだ。自分の代わりに、反省部屋にいる詩織の様子を見てきてほしいと。詩織のことを思うと、宗一郎の胸に罪悪感が込み上げてくる。確かに、彼が先に結婚したのは美月だった。美月との結婚は、親が決めた政略結婚のようなもので、そこに愛はなかった。まさか自分がその後、心から愛する女性に出会うとは思いもしなかったのだ。詩織は彼を救うために刺され、医者からは「二度と子供は望めないかもしれない」と宣告された。宗一郎は病院で三日間、休まず彼女に付き添った。そして退院して家に戻るなり、彼は美月との離婚を決意した。詩織を正式な妻として迎えるために。あの日も、彼はここに跪いていた。同じ場所で、母から何度も鞭で打たれた。痛みのあまり意識が飛びそうになった時、幼い翼を抱いた美月が彼の前に立ちはだかり、鞭をその身で受け止めようとしたのだ。彼女は愛を盾に、すべてを受け入れると言った。他の女の存在も、愛のない家庭も。子供のために、そして彼のために、自分たちは帰る場所であり続けるのだと。そう言って、彼女は静かに微笑んだ。それから長年、美月は彼に何も求めなかった。文句ひとつ言わず、任地での生活を支え、身の回りの世話をしてくれた。あろうことか、詩織と共に彼の側にいることさえ受け入れたのだ。ふと我に返った宗一郎は、目の前で手際よく料理を並べる美月をそっと抱き寄せた。「美月……君は本当に物分かりがいい。君が反省部屋へ行って詩織の様子を見てきてくれたおかげで安心できたよ。あいつは体が弱いから、あんな陰湿で寒い場所には耐えられないんじゃないかと心
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第9話
翌朝早く、宗一郎は房江の許しを得て、ようやく仏間から解放された。美月と翼が、大人しく房江の側に控えている。「母さん、詩織を反省部屋から出してやってくれないか。家に戻して、母さんの身の回りの世話をさせたいんだ」宗一郎の願い出を、房江は即座に切り捨てた。「お断りよ。今日は私の誕生日なんだから、あんな縁起の悪い女の顔なんて見たくないし、名前も聞きたくない」房江はそう言うと、翼の手を引き、その頭を愛おしそうに撫でた。そしてポケットから小さなゴールドのペンダントを取り出し、彼の手のひらに乗せた。「やっぱり私の大事な孫はいい子だねえ。目に入れても痛くないよ。ほら、おばあちゃんからのプレゼントだ。気に入った?もし嫌なら、もっといい物を買ってあげるからね」「ありがとう、おばあちゃん!」翼が無邪気に笑うと、房江は目尻を下げて喜んだ。美月が翼の手からゴールドのペンダントを受け取り、恐縮して返そうとする。「お義母様、これはあまりに高価すぎます。誕生日の席で、翼がこんな物をいただくわけには……」房江はそれを制止すると、今度は自分の腕から高価なバングルを外し、美月の腕にはめた。「翼は私たち桐島家の唯一の跡取りだよ。将来、この家の全てを継ぐ子なんだ。これくらいの物、何でもないさ」房江は美月の手の甲を優しく叩いた。「あんたは桐島家の大功労者だ。これからも励んで、もっと我が家のために子孫を繁栄させておくれ」美月は頬を染めて宗一郎を見つめた。宗一郎が何か言おうとしたその時、家政婦が慌てた様子で駆け込んできて、房江の耳元で何かを囁いた。宗一郎は耳が良かった。「火事」という単語が微かに聞こえ、眉をひそめる。「何が燃えたって?」房江は家政婦を目で制した。「何でもないよ。下がって誕生会の準備をおし」家政婦は宗一郎の顔色を伺うこともできず、逃げるように立ち去った。「母さん、さっき家政婦は何かが燃えたと言わなかった?」胸の奥に広がる嫌な予感を拭えず、宗一郎は房江の目をじっと見つめて問い質した。房江は何食わぬ顔で答える。「大したことじゃないよ。厨房でボヤがあって、料理人が一人怪我をしたそうだ。もう病院へ運ばせたから心配ない」宗一郎の後ろで、美月の握りしめていた拳が、スッと力を失った。宗一郎の不安は消えなかった。彼がさらに問い詰めようとすると、房江が遮った
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第10話
宗一郎は、今日、房江が翼の身分を公表することを知っていた。かつて美月とは入籍しただけで、式も挙げていなかった。そのため、地元の人間は詩織のことしか知らない。対外的には、翼は遠い分家の血筋から養子に入ったことになっていた。今の地位に上り詰めるのは容易ではなかった。暗闇の中から、どれだけの目が足をすくおうと狙っているか分からない。こうするしか、身を守る術はなかったのだ。そのために、美月には長年、日陰の身という辛い思いをさせてきた。宗一郎は胸を痛め、涙ぐむ美月を抱き寄せた。「苦労をかけるな」彼は目を閉じ、心に決めた。「今日の祝いの席が終わったら、詩織に話す。必ず、君たちのことを認めるよう説得するから」美月は無言で彼を抱きしめ返した。宗一郎は知らない。あの忌々しい女は、とっくに焼け死んでいることを。今日さえ過ぎれば、翼は誰もが認める桐島家の若様になる。長年待ち続けた日が、ようやく訪れたのだ。「子供の出来が、そのまま母親の立場になる」。ましてや詩織はもう死人だ。死人がどうやって自分と争うというの?宗一郎と美月は午前中を共に過ごし、客人の気配がし始めた頃、ようやく部屋を出た。房江の誕生会には多くの客が招かれていた。親族だけでなく、近隣の住民たちも集まっている。翼は仕立ての良いシャツを着て、普段とは見違えるように着飾っていた。房江はそんな孫の手を引き、宗一郎の隣に立たせた。「見てみろ、あの子。桐島さんと瓜二つじゃないか。血の繋がりがあると言われても疑いようがないな。縁があるんだろうな」客たちが感嘆の声を上げる。だが、その中で不穏な囁き声が聞こえ始めた。「縁があるなんて、そんな単純な話じゃないさ。あの日、俺は現場にいたんだ。桐島さんは、この子のために詩織先生を反省部屋にぶち込んだんだぞ」「反省部屋だって?……おい、聞いたか?昨日の夜、反省部屋が火事になって、一人が焼け死んだらしいぞ」「ああ、黒焦げの遺体が安置所に運ばれたって噂だ。まだ引き取り手がないらしいが……」壇上にいた宗一郎の全身が、一瞬にして凍りついた。耳に入ってきた言葉が信じられなかった。彼は翼の手を離すと、二歩で客の元へ詰め寄り、噂話をしていた男の胸倉を力任せに掴み上げた。「今、なんと言った?反省部屋が……火事だと?」宗一郎の体から凄まじい殺気が放たれ、周囲の客は息
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