LOGIN結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。 しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」 「まさか」 詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。 彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」 窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。 「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」
View More詩織が実験室を出る頃には、すっかり日が暮れていた。隣にはいつものように拓海の姿がある。彼はほぼ毎日、彼女の仕事が終わるのを待って一緒に退勤していた。拓海が詩織に好意を寄せていることは、研究所内ではもはや公然の秘密だった。先日、基地内で宗一郎と遭遇して以来、拓海は改めて想いを告げることはなかった。詩織が「新しい恋をする準備ができていない」と言った以上、彼はその言葉を尊重し、ただ静かに待ち続けることを選んだのだ。彼には時間があった。焦る必要はないと考えていた。いつものように、拓海は宿舎の建物の下まで詩織を送った。「明日の朝、食堂で君の好きなピザまんが出るんだ。部屋まで届けようか?」拓海の瞳はキラキラと輝いていた。詩織を見つめるその目は、まるで尻尾を振る子犬のようで、詩織は断ることができなかった。「ええ、お願いします」詩織の短い返事に、拓海の表情がパッと明るくなった。月明かりの下、宿舎を去っていく彼の背中からは、隠しきれない喜びが滲み出ていた。彼が見えなくなるまで見送り、詩織は階段を上がった。しかし、踊り場に差し掛かった時、予想だにしない人物がそこにいた。「どうして……あなたがここに?」闇の中に立っていたのは宗一郎だった。暗がりで表情は見えないが、詩織の本能が警鐘を鳴らした。「詩織、会いたかった……迎えに来たぞ」宗一郎がそう言った瞬間、詩織は逃げようとした。だが、宗一郎は彼女が逃げることを予期していた。彼は猛然とダッシュし、詩織の腕を掴んだ。詩織が悲鳴を上げようとするより早く、彼はポケットから取り出した布を彼女の口と鼻に押し当てた。強烈な薬品の臭い。わずか数秒で、詩織の意識は闇へと落ちていった。月が雲に隠れ、辺りが闇に包まれる中、宗一郎は詩織を担ぎ上げ、迅速に移動して車に押し込んだ。彼は助手席で眠る詩織を愛おしそうに見つめ、その頬を撫でた。「詩織……君は最初から、俺のものなんだ」詩織が再び目を覚ました時、彼女の手足は縛られ、車の後部座席に転がされていた。窓の外では、木々が猛スピードで後ろへと流れ去っていく。車が山道の洞窟の前で止まった。詩織が顔を上げると、運転席の宗一郎が振り返った。「宗一郎さん!あなた正気なの!?これは拉致よ!重要施設に侵入して私をさらうなんて!」長い昏睡のせいで喉がカラカラに乾いて
詩織は頭が真っ白になり、その場に立ち尽くしていた。宗一郎の大きな体に包み込まれた瞬間、脳よりも先に体が反応してしまったのだ。長年染みついた条件反射とは恐ろしいものだ。もし理性が戻ってなかったら、詩織は無意識のうちに、その腕を彼の背中に回し、抱きしめ返していただろう。「……っ!」地面に倒されていた拓海は、突然飛び出してきた男の暴挙に驚愕したが、すぐさま跳ね起きた。頬に泥がついていることなど構わずに叫ぶ。「お前は、誰だ!彼女から離れろ!」拓海は宗一郎に向かって拳を振るった。だが、宗一郎はそれを難なくかわすと、詩織を突き飛ばさないように素早く脇へどけ、さらに速い動作で一撃を叩き返した。二人は取っ組み合いになった。「やめて!二人ともやめて!」詩織が叫ぶが、興奮した男たちの耳には届かない。彼女は意を決して、大きく息を吸い込むと、殴り合う二人の間に割って入った。「やめて!!」宗一郎の拳が、詩織の顔面を捉える寸前だった。目前に詩織の顔を見た瞬間、宗一郎の瞳が大きく揺れた。彼は咄嗟に拳の軌道を逸らしたが、勢いを完全に殺すことはできず、そのままバランスを崩して傍らの大木の幹に激しく体を打ち付けた。ドォン!鈍い音が響いたが、詩織の冷ややかな視線が宗一郎を射抜いたのは、ほんの一瞬だった。彼女はすぐに拓海に駆け寄り、その顔を覗き込んだ。拓海の口の端が切れ、血が滲んでいる。拓海は彼女の視線に気づき、慌てて手の甲で血を拭った。「っ……つつ……」「動かないで。すぐに手当てしないと」詩織は眉をひそめ、ハンカチを取り出した。拓海は何か言おうと口を開いたが、それより早く、体勢を立て直した宗一郎が声を張り上げた。「詩織!なぜ俺に一言もなく消えたんだ!俺がどれだけ心配したか……君が死んだと思って、俺がどれだけ胸を痛めたか分かっているのか!」宗一郎の目は悲しみで潤んでいた。しかし、詩織が自分には目もくれず、他の男を介抱している姿を見て、その悲しみは瞬く間に嫉妬の炎へと変わった。彼は詩織に向かって歩み寄り、手を伸ばした。詩織はバッと立ち上がり、警戒心を剥き出しにして拓海を背に庇った。「近寄らないで!ここは国家機密を扱う重要施設よ。あなたはどうやって入ったの?通行証は持っているの?」彼女の敵意に満ちた眼差しは、鋭利な刃物となって宗一郎の心臓
先日の実験で突破口が見えて以来、詩織は寝食を忘れて実験室に籠もりきりだった。時には食事さえ摂り忘れるほどだ。「健康管理も任務のうちだ」という上層部の指示により、詩織は毎日夕方になると、拓海に監視されながら夕食を摂り、外の空気を吸うために実験室を出ることになった。時が経つのは早いもので、ここに来て一ヶ月が過ぎた。山間の気温は低く、薄着の詩織の手はいつも氷のように冷たい。拓海はその細やかさで、彼女のために特製のカイロを用意してくれていた。晩秋の風が木々を揺らし、一枚の枯れ葉が詩織の頭に舞い降りた。拓海は愛おしげに彼女を見つめ、手を伸ばした。詩織はその動作に気づき、反射的に一歩後ずさる。「……枯れ葉を取ろうとしただけだよ」拓海の声は静かで、その眼差しはどこまでも優しかった。詩織は胸のつかえが取れたように足を止めた。拓海はそっと葉を取り、自分のコートのポケットに大事そうに仕舞う。「詩織さん。君が思い出してくれるのを待つつもりだったが……どうやら、まだ気づいていないようだね」拓海は自嘲気味に笑うと、ポケットからある物を取り出した。彼の手のひらで、一枚の銀色のバッジが鈍い光を放っていた。記憶が蘇る。それは昔、父が手作りしてくれた誕生日のプレゼントだった。いつの間にか無くしてしまったものだ。バッジを失くした日の午後、詩織は学校裏の路地で一人の少年を助けたことがあった。数人の不良に囲まれていた彼を、大人が来たと嘘をついて救い出したのだ。不良たちが逃げ去った後、残された少年は顔中痣だらけだった。詩織は保健室から消毒液とガーゼを持ってきて彼に渡し、名乗りもせずに立ち去ったのだ。目の前のバッジは、長年大切に磨かれてきたのだろう、表面の模様が擦り切れるほど滑らかになっていた。詩織はバッジと拓海を交互に見た。言葉が出なかった。あの時助けた痩せっぽちの少年が、こんなに逞しく立派な青年に成長していたなんて。「あの時の少年が、拓海さんだったの……?」どうりで、初めて拓海に会った時、見覚えのあるような気がしたわけだ。気のせいではなかったのだ。「火事の現場から君を救出した日、一目で分かったよ。君が幸せな生活を送っていなかったことも……ここに来てからも、君は仕事がない時はいつも一人で、悲しげに窓の外を見つめている。そんな脆く傷ついた表情を見るた
あの日から一ヶ月が過ぎた。宗一郎は、ようやく詩織の死という事実を受け入れたかのように見えた。彼はすでに美月との離婚届を準備し、提出するのを待っている状態だった。今の彼にとって、妻と呼べるのは生涯、詩織ただ一人だった。自宅の仏間には詩織の位牌が置かれていた。宗一郎は毎日、位牌をピカピカになるまで磨き上げ、その後ろに安置された骨壺と共に、長い時間を過ごすのが日課となっていた。彼は上層部に異動願を出すつもりだった。激務の最前線ではなく、詩織と暮らしたこの家の近くにある閑職に就き、一生彼女との家を守り続けようと考えていたのだ。そして美月とは完全に縁を切る。それが彼の償いだった。宗一郎は書き上げた異動願を手に、本部長室を訪ねた。本部長は不在だった。当直の係り員がお茶を出し、席で待つように促した。ソファに腰を下ろそうとした時、宗一郎の視界の端に、机の上に置かれた一通の封筒が飛び込んできた。その瞬間、彼の体が石のように固まった。吸い寄せられるように机へ近づく。封筒の表書きにはこう記されていた。【第403研究所研究成果報告書】宗一郎の瞳が収縮した。視線が、その文字に釘付けになり、穴が開くほど凝視した。見間違えるはずがない。その筆跡、その文字の癖。それは紛れもなく、詩織の字だった。彼女は、死んでいない!第403研究所。その名は宗一郎も知っていた。国家機密を扱う極秘機関だ。そこに入る研究員は、戸籍を抹消し、名前を変え、社会的に「存在しない人間」とならなければならない。つまり、詩織は403へ行ったのだ。彼女は生きている!その事実に気づいた瞬間、心臓を巨大な手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。絶望の底から這い上がってきた巨大な希望に、宗一郎の体は震える。生きている。詩織が生きているなら、どんな罰でも受ける。何をさせられても構わない。彼女が許してくれるまで、這いつくばってでも許しを請うてみせる。ガチャ。ドアが開き、本部長が入ってきた。宗一郎は必死に感情を抑え込み、努めて冷静さを装った。「本部長。……俺は、第403研究所への異動を希望します」必死に声を抑えたつもりだったが、その語尾は僅かに震えていた。本部長はすぐには答えなかった。ゆっくりと椅子に座ると、机の上の封筒を手に取った。宗一郎の視線は、飢えた獣のようにその封筒を追ってい
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