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第0965話

Author: 龍之介
綿は、ふと視線を輝明のほうに向けた。

彼は年配の男と談笑しており、深く一礼して応じていた。その一挙一動には、貴族のような優雅さが漂っていた。

広い会場を見渡すと、彼にこっそり視線を向ける女たちばかりだった。男連れの女ですら、つい何度も彼を盗み見てしまうほど。

綿が目を逸らした、その瞬間——

輝明もこちらを見た。

綿は電話をしていた。彼には内容は分からなかったが、彼女の表情はとても柔らかく見えた。

電話の向こうでは、優輝の無邪気な声が響いていた。それに混じって、もぐもぐと食べ物を頬張る音まで聞こえてきた。

「綿お姉ちゃん、今度はおじさんも一緒に遊びに行こうよ!」

「うん、優輝、早く寝るんだよ。お姉ちゃん、まだ用事があるからね」

「食べ物を送ってくれてありがとう!」

「おやすみ」

電話を切った後、綿はふうっとため息をついた。

すると、すぐ背後から、優しい声がかかった。

「そんなに優しい顔して、子供と電話してたのか?」

びくりと身体を震わせた綿が振り向くと——目の前に、輝明が立っていた。

彼は手にケーキを持っており、そっと差し出そうとしたが、綿はすぐにそれを断った。

「遅いし、甘いものはいらない」

綿が言うと、輝明は肩をすくめ、ケーキを脇のテーブルに置いた。

「優輝よ。さっき、料理を送ってやったでしょ。電話で受け取ったって伝えてきたの」

「そっか」輝明は頷いた。

「疲れてないか?」

輝明は綿をじっと見つめ、そう尋ねた。

綿は一瞬戸惑いながら、彼の視線の先をたどった。

彼は、彼女が履いている高いヒールを見ていた。

研究院にいる時の綿は、いつもペタンコ靴だった。彼女自身も「ヒールよりスニーカーのほうが楽」と言っていたことを、彼はちゃんと覚えていた。

綿も理解した。彼が言いたいのは、ヒールで立ちっぱなしは疲れるだろう、ということだった。

「ちょっとね」綿は素直に答えた。

「だったら、向こうのソファで休んでな」

輝明は少し離れたところを指差した。

しかし綿は首を振った。

「いいよ、もう少しだけ一緒にいる。その後すぐ帰るから。明日は研究院で発表会があるから、早起きしないと」

輝明は一瞬だけ動きを止めた。

——もう少しだけ一緒にいる。

その優しい言葉が、胸の奥に深く響いた。

高校三年生の頃、彼が体力テストに向けて毎晩
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