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第0966話

Author: 龍之介
彼女は彼に対する態度を少しずつ変えていった。彼を見る目から、次第に愛情が消えていった。それでも、彼が優しい声で一言でも話しかけてくると、彼女の心はふっと緩み、もう少しだけ愛し続けようとする力が湧いてきた。

「もう一度、言ってくれないか?」

ホールには人が溢れ、ざわめきもひどかった。

そんな中、輝明のその一言が綿の耳に届いた。

綿は思わず彼を見つめ、「え?」と聞き返した。

輝明は唇を引き結び、手にしたグラスをぎゅっと握りしめ、不安げな表情を見せた。

「もうちょっとだけ一緒にいたいって……もう一度、言ってくれないか?」

彼は、あの瞬間をもう一度胸に刻みたかったのだ。

綿には、そこまで大事な言葉だとは思えなかった。どうしてまた言わせるのか、理解できなかった。

それでも、綿は彼の願いに応えた。

「もうちょっとだけ一緒にいたい、そのあと帰るって、言ったの」

輝明はふっと笑った。

思わず手を伸ばし、綿の髪を指先で優しく撫でた。その声は温かく、瞳には溢れんばかりの愛情が宿っていた。

「うん」

綿は完全に呆然とした。

なにそれ、急にこんなに優しくして……どういうつもり?

輝明は手を引っ込め、近くで彼を呼ぶ声が聞こえた。

彼はそのまま歩き去っていった。

綿は思わず手を上げて髪を整えた。

……なんだこれ、よく分からない。

「はぁ〜、やっぱりいいカップルだわ。お似合い!」

隣から母親・盛晴の声が聞こえてきた。

綿は静かに母を見た。

「復縁を反対してたの、どこの誰だったっけ?」

「なに言ってんの。ただ似合ってるって言っただけよ」

盛晴はそう返した。

綿は薄く笑った。

「ねぇ、ママ。もし昔、彼が私をもっと愛してくれていたらね……この言葉を、心の中で何千回、何万回と問いかけてきた」

輝明が自分に優しくしてくれるたび、綿は心の中で必ず思った。

——もしあの頃も、こんなふうに優しくしてくれていたら。

——きっと、私はもっと自分を信じていられたのに。

でも、そんな「もしも」は、この世に存在しない。

「さ、ちょっと座ろうか」

盛晴が綿に席を勧めた。

綿は首を振った。

「座ってばっかで疲れた。ちょっと外をぶらついてくる」

そう言って、綿はホールを後にした。

廊下の突き当たりには、大きなガラス窓があった。そこから見える街の夜景は、き
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