鳥籠に捕らわれた|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、気を失いながらも苦痛に耐えていた。けれど限界を超えた瞬間、花の力が暴走を始めてしまう。 洞窟内、そして|夔山《ぎざん》全体が、花の|蕾《つぼみ》に埋めつくされていった。青を中心とした晴れた日の空のような色で、ゆらゆらと揺れる。 「ふ、ふふふ。素晴らしいわ。これが、|冥現《めいげん》の扉の|贄《にえ》なのね」 子供を鳥籠の中に捕らえた女性は、美しくも妖しい笑みで事態を楽しんでいた。隣に立つ中年男性──|爛 春犂《ばく しゅんれい》──を見、同意を求めるかのように瞳を細める。 しかし男はそっぽを向き、彼女には応えようとはしなかった。「……つれない男ね。まあ、いいわ」 |踵《きびす》を返し、土壁を|凝望《ぎょうぼう》する。浮遊する鳥籠を土壁へと向けた。瞬間、土壁はあっという間に崩れていく。 そこから現れたのは全身が黒い、巨大な扉だ。|禍々《まがまが》しい|障気《しょうき》を放っており、女の手の甲に火傷を負わせてしまう。 彼女は一瞬だけ、痛みに眉根をよせた。けれど企みのある笑みだけを残し、足元にある|蕾《つぼみ》をむしり取る。それを頭から|喰《しょく》した。すると手の甲の傷は、みるみるうちに消えていく。「ああ……凄いわね。この一族の力は、本当に凄いわ」 傷すら治してしまう能力に、歓喜の高笑いをした。けれど隣にいる男があきれたようにため息をつくと、ひと睨みする。 扉へと向き直り、鳥籠を掲げた。「さあ。扉を開けてちょうだい」 女性の声にあわせるように、鳥籠は|目映《まばゆ》い光を放つ。すると…… 扉が大きく左右に開いていった。「開いたわ! ついに、|桃源郷《とうげんきょう》への道が始まるのね!?」 狂い咲くように笑う。|癇《かん》に触るほどに耳障りな高笑いをやめることなく、彼女は扉へと足を踏み入れていった。 そのときである。「──|小猫《シャオマオ》は返してもらうよ!」 瞳を|朱《あか》に染めた|全 思風《チュアン スーファン》が、子供を捕えている鳥籠へと手を伸ばした。 |冥界《めいかい》の黒き|焔《ほのお》を髪に絡みつかせた彼は、素早く剣を女へと振り下ろす。 |瞬刻《しゅんこく》、彼の剣は、思いもよらぬ者によって弾かれてしまったのだった。 それをしたのは女の隣にいる|爛
絶望の色を見せ始めていた|全 思風《チュアン スーファン》へ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のハッキリとした声が届いた。 護られる存在であったはずの子供は強い瞳をしている。彼の腕にふれ、背中から腰に手を回す。彼を後ろから抱きしめ、|全 思風《チュアン スーファン》ができない……することが許されないであろう涙を、代わりに|溢《こぼ》した。「──|思《スー》のせいじゃないよ」 見た目と同じ、中性的な|声音《こわね》を彼の背中越しに放つ。「誰だって、守りたいものはあるもん。だからといって、全てを守れるなんて思えない。神様だって全人類、動物ですら、守りきる。なんてのは、無理なんじゃないかな?」 そんなことをできる人などいない。そう、口にした。 彼の背中に顔をよせる。優しい微笑みをし、大丈夫だよと穏やかに語った。「例え、世界中の誰もが|思《スー》を悪く言ったとしても、僕だけは味方でいるから。|思《スー》が|挫《くじ》けそうになったら、僕がそばにいてあげる。見えない壁があったら、一緒に乗り越えよう? そうしたらきっと|思《スー》は、もっと強くなれるから」 小さな手で彼の腕に触れる。子供らしい暖かい体温が、彼の全てを包んでいった。 そして|全 思風《チュアン スーファン》の背から顔を出す。敵対してしまった|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見、涙を拭いた。男が|怪訝《けげん》そうな表情をすれば、子供は|腫《は》れぼったい目で微笑む。「先生だって、本当はわかってるんでしょ?」 彼の隣に並び、震える体で必死に立った。冬の寒さと洞窟の気温の低さにくわえ、|緊張《きんちょう》からくる冷や汗。そのどれもが小柄な体には、じゅうぶんすぎるほどだった。 それでも|尊敬《そんけい》する人が、大切な友だちを苦しめる言葉を放つなど耐えられない。そんな気持ちをぶつける。 両手を拡げ、背に|全 思風《チュアン スーファン》を庇う。少女のように大きな瞳に涙を溜めながら、必死に彼を守っていた。「|思《スー》は、|國《くに》が|禿《とく》になってから一生懸命頑張ってた。自分の命すら|省《かえり》みず、大切な友だちを守ろうとしてたんだ! どんなに辛くても、絶望の|淵《ふち》に立たされても、生きる事を諦めなかった」 少し高めの声が、洞窟の入り口へと向かっていく。そこには|爛 春犂《ば
|爛 春犂《ばく しゅんれい》の正体はかつて、|妲己《だっき》を封印した仙人──|姜子牙《きょうしが》──だった。 その事実に、|全 思風《チュアン スーファン》ですら驚きを隠せない。 彼の隣にいる子供は青い顔をしながら|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見つめ、目尻に涙をいっぱい|溜《た》めていた。「……驚いたな。あんた、あのときの仙人様だったんだ?」 へえーと、皮肉めいた笑みを男へと向ける。泣いてしまった子供の肩を抱きよせ、優しく頭を撫でた。けれど視線は子供ではなく、問題の中心人物となる|爛 春犂《ばく しゅんれい》へ注ぐ。 「でもさ。|姜子牙《きょうしが》……|太公望《たいこうぼう》は、正義のために動いてるって話じゃなかった?」 男の正体を見破った狐へと語りかける。 狐が入っている鏡は子供の手を離れ、ひとりでに浮遊していた。くるくると回りながら彼の隣を陣取り、ふさふさな尻尾を|縦横無尽《じゅうおうむじん》に動かしていた。『……|妾《わらわ》も落ちぶれたものよ。過去にそなたらが来たときに、気づいておればよかった』 |全 思風《チュアン スーファン》は子供、そして|爛 春犂《ばく しゅんれい》とともに、一度だけ|殷《いん》王朝へと飛んだことがある。 そのときに|姜子牙《きょうしが》に出会った。男は仙人界の命令で|妲己《だっき》を封印する役目を|担《にな》っていた。その|最中《さなか》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の一族について知ることとなる。「しょうがないんじゃない? あのときはそばに過去の|姜子牙《きょうしが》がいたんだ。そっちの匂いの方が強くて、|現在《いま》を生きるあの男の香りは消されちゃったんでしょ」 それよりも重要なことは何かと、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見やった。 |白氏《はくし》たちの先頭に立ち、険しい顔で彼らを|凝望《ぎょうぼう》する男がいる。手には指揮棒のようなものを持ち、それを軽く一振した。 すると、男の周囲から暖かな風が立ちこめる。それは|全 思風《チュアン スーファン》たちの元までやってきた。「正義の味方であるはずの仙人様が、なぜこんな事を?」 緩やかだった風は徐々に力を強めた。「正義などではない。これは私に課せられた使命なのだ。|白氏《はくし》たちとは利害の一致でここにいる。それがなけ
|華 李偉《ホゥア リーウェイ》の命をかけた行動は、|魏 宇然《ウェイ ユーラン》という男を人間ではない何かへと変えた。 それでも彼は前へ進むことを選ぶ。 友の散りゆく姿、そして子供たちの未来。それらを胸にしまい、彼は人ではない生涯を、|全 思風《チュアン スーファン》として歩むことを選択した。「──それから私は、ひっそりと|小猫《シャオマオ》の先祖たちを見守ってきた。ときには旅人として彼らに近づき、一族の力を誰かに悪用されないようにね」 心の奥底にしまわれた、楽しさと|哀《かな》しみが詰まった遠い過去。それを忘れぬよう、今も|華 閻李《ホゥア イェンリー》のそばにいるのだと告げた。 「……|思《スー》」 彼の|膝《ひざ》の上に座る子供は、足をぶらぶらとさせる。心なしか元気をなくしているようだ。 どうしたのかと子供に|尋《たず》ねながら、ギュッと抱きしめる。「……ごめん、なさ、い」 下を向く少年の両手に雫が落ちた。見れば子供は涙を流している。 彼は驚いて「え!?」と、すっとんきょうな声をだす。「ご先祖様が、あなたを人間でなくしてしまった。人として生きる道を消してしまった!」 理由がどうであれ、|魏 宇然《ウェイ ユーラン》という存在を抹消してしまったのだ。結果として、人の寿命をなくし、永遠に近い時間を過ごす羽目になってしまう。 それが苦しくて、とても|悔《くや》しいのだと、子供は涙ながらに謝っていた。「……|小猫《シャオマオ》」 ──本当にこの子は優しいな。自分のことよりも、他人の気持ちを優先してしまう。いいことでもあるかもだけど、自己犠牲がすぎるって感じもするんだよね。 子供の両脇に手を入れて、方向を変えさせた。向かい合うようになった子供は、大きな瞳から|溢《あふ》れる涙を|拭《ぬぐ》う。「ありがとう|小猫《シャオマオ》、その気持ちだけで私は嬉しいんだ。それにね……」 泣く子供の銀の髪に触れる。子供の前髪を退かし、額に軽く口づけを落とした。「彼がくれた命のおかげで、私は|小猫《シャオマオ》に出逢えたんだ」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の祖父、そのまた祖父かもしれない。何世代にも渡って、大切な友の子孫を見守ることができた。 それだけでも、永遠の命をもらった価値がある。 優しく、|慈悲《じひ》すらある瞳で、子供
|魏 宇然《ウェイ ユーラン》の姿は変わり果てていた。鋭い目つきはそのままだが彼を取り囲む空気が、闇へと沈んだかのような……そんな、暗くて深い宵闇を|纏《まと》っている。 |濡羽色《ぬればいろ》の髪は波打つようにうねり、先っぽは黒い|焔《ほのお》を生んでいた。 ボロボロだった|漢服《かんふく》は全身を|漆黒《しっこく》へと染めあげていく。そして少しずつ崩れては、水滴となって地へと落ちていった。 瞬間、地面は音をたてることなく、一瞬で溶けていく。 彼はそれに気づく様子もなく、つむじを曲げて、|凍《い》てつくほどの|朱《あか》き瞳を林の方へと向けた。 そこには透明な|塊《かたまり》となった|魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》がいる。かろうじて、人としての形を保っていられるのは顔だけ。それ以外は人はおろか、動物ですらなかった。 そんな何かになった男を、彼は|凝望《ぎょぼう》する。 ──こいつのせいだ。こいつが、俺から全てを奪っていった。 仕事で苦しかったけれど、平穏な日々。そんななかで愛しい友といる時間が、一番幸せを感じていた。けれどそれは|魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》という、欲にまみれた男の手によって、あっという間に崩れてしまう。 最終的に、美しい友が命を落としたからだ。 ──誰よりも愛していた。結婚したと知ったとき、俺は心の奥にある気持ちを隠したまま過ごしていた。それで平穏が保てるならと思っていたからだ。それなのに…… |眼前《がんぜん》にいるこの男が全てを奪い、自身さえも人とは違う何かになってしまった。 ──|華贄《ホゥアヂィー》が|云《い》った意味、ようやく理解したよ。そうだ。俺はもう、人ではない。人には戻れないんだ。だけど…&helli
顔がぐしゃぐしゃになってしまう。それでも|華 李偉《ホゥア リーウェイ》は泣くことをやめなかった。|漢服《かんふく》の|袖《そで》で涙を|拭《ぬぐ》いながら必死に笑顔を作る。「本当に、ごめんなさい。これからあなたにする事で、|魏醒《ウェイシィン》という存在が人間ではいられなくなってしまうんです。でも……」 これしか方法がない。 震える声で|云《い》った。 頬に流れるしょっぱい水を何度も|拭《ふ》く。それでも溢れてしまう涙を止めることなど、|華 李偉《ホゥア リーウェイ》はできなかった。「あの化け物……この世のものならざる存在を滅するには、あちら|側《がわ》の力が必要なんです。だけど私は絶対にそうなってはならない。いいえ、できないんです」「……?」 |魏 宇然《ウェイ ユーラン》は|華 李偉《ホゥア リーウェイ》の作った結果に|阻《はば》まれ、子供たちと一緒に外へと放り出されてしまっている。中に入ろうとしても、術によって体ごと弾かれてしまうのだ。 そのうえ、先ほどから|華 李偉《ホゥア リーウェイ》の言葉の意味も理解できずにいる。 置いてきぼりのようなものを食らい、彼は眉間にシワをよせた。「ふっ……ざけるな! 何、わけのわからぬ事を……」「──ひとつだけ。ひとつだけ、あなたに嘘をついていました」 明かりが美しい友の顔を照らす。 顔は|煤《すす》汚れていた。涙に|埋《う》もれた瞳、ボロボロになった服。それらが友を|彩《いろど》り、よりいっそう|儚《はかな》く見える。 そんな美しい友は、弱々しく微笑んだ。