|華 閻李《ホゥア イェンリー》の案内によって|辿《たど》り着いたのは、|黄家《こうけ》の屋敷だった。そこは庭も、|敷地《しきち》すらも広大であった。 屋敷の門には二人の男がおり、彼らは暇そうにあくびをかいている。どうやら彼らは門番のようで、腰に剣をぶら下げていた。そんな二人は突然空から現れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちに驚く。「……お、お前たち、何者だ!?」 二人の門番は即座に剣を構えた。「おや? 何者って……私はともかく|小猫《シャオマオ》の方は、少し前までこの家に住んでいたんだ。君たちは、それすら忘れてしまったと言うのかい?」 二人の門番の問いに答えるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、記憶力がないのかと悪態をつく。 すると子供が彼の服を軽く引っ張った。銀の前髪を|退《ど》かし、愛らしい見目を彼へ向ける。「|思《スー》、しょうがないよ。ここの人たちは皆、僕の素顔を知らないから」 |妓楼《ぎろう》にいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へやってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら、素顔を知らなかった。唯一知っているのは|黄族《きぞく》にして、|黄家《こうけ》の跡取り息子の|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だけである。「|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、たまたま僕の素顔を知ったってだけ、だけどね」 その結果として、しつこくつきまとわれてしまったのだと苦く語った。「……そうか。そんな事があったんだね? ああ、君の素顔はとても可愛いからね。どんな男だって落としてしまうだろう。もちろん、この私もね」 人目も|憚《はばか》らず彼は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の細腰を抱く。けれど……「男を落としてどうするの? 楽しくもないよ?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は素で返した。 |全 思風《チュアン スーファン》の表情は一瞬だけ固まる。 それでも|咳払《せきばら》いで誤魔化し、放置されている門番たちへと視線を走らせた。子供へ向けている、|慈愛《じあい》に満ちた眼差しは消えている。 代わりに、鋭く尖った漆黒の瞳が門番たちを襲った。 二人の門番はヒッと、短い悲鳴をあげる。けれど負けん気があるようで、怯えながらも剣を持ったまま彼へと立ち向かった。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》を優しく抱きしめ、一人ぼっちに|してしまった《・・・・・・》ことが間違いだったと|訴《うった》える。何度も小柄な子供に向かって、ごめんと謝り続けた。 その男らしい大きな背中と優しくて暖かな腕が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|困惑《こんわく》へと誘う。 子供はどうしたものかと、眉根に弱った感情を乗せていた。 |閉口《へいこう》などと思ってはいないのだろう。むしろ心配してくれて嬉しいのだと|囁《ささや》き、彼の背中に両手を伸ばした。「君は、本当に優しいね」 子供に抱きつく両腕の力が、より強まる。 門番の前で見せた、強気で、誰も寄せつけない気高さ。|飄々《ひょうひょう》としていて掴みどころのない男。それらが嘘のように|全 思風《チュアン スーファン》の全身は弱々しく、|震《ふる》えた。「……えっと、入り口にある|彼岸花《ひがんばな》は番犬みたいなものなんだ」 あぐね続けるわけにもいかないからと、唇が動いた。少しだけ戸惑い、話題を切り替える。 彼は腕を離した。子供の話に耳を傾け、興味深く、|彼岸花《ひがんばな》を凝視する。「番犬? 確かに毒があるけど。ああ……そうか。毒がある花を置いておけば、誰も寄りつかなくなるからね」「うん。僕は自由な時間が欲しかったから、|彼岸花《ひがんばな》を盾にしておいたんだ」 苦笑いしながら彼岸花について伝えた。 |彼岸花《ひがんばな》は美しい。けれど|球根《きゅうこん》部分に毒を持っていた。|彼岸花《ひがんばな》に詳しくない者は、花そのものに毒があると思うのだろう。 その心理を利用して、部屋の入り口へと置いているのだと語った。
|全 思風《チュアン スーファン》の笑みは崩れることを知らない。いつまでも見つめては、ふふっと口元を|綻《ほころ》ばせた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の長く美しい髪を|一房《ひとふさ》指に絡め、くるくると巻いていく。けれど引っ張るわけでもなく、ただ、|眺《なが》めた。するりとほどけていく細い髪を視線だけで追いかける。 「ねえ|小猫《シャオマオ》、|龍脈《りゅうみゃく》などの目に見えぬもというのは、どうやって感じ取れるのか。それを知っているかい?」 |妖《あや》しく|煌《きら》めく銀の髪から手を離し、幼い眼差しに問うた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は迷うことなく首を横にふり、知らないと口にする。「正直な話、私もそれは知らないんだ。空気と同じで見えやしないからね。だけど、これだけは言える」 彼の声が、一気に駆け上がった。隣にいる美しい銀髪の少年を、黒く深い瞳で|注視《ちゅうし》する。「あの村に出た|殭屍《キョンシー》は、確かに君たちが倒した。直後に|龍脈《りゅうみゃく》や|地脈《ちみゃく》も確認してみたけど、正常だった。それは間違いないよ」 まるで見ていたような言い草だ。そして嘘、|偽《いつわ》りといったものはないと言わんばかりに|撃実《げきじつ》な言葉を放つ。 驚きを瞳に乗せる|華 閻李《ホゥア イェンリー》を凝視し、ふふっと子供っぽく笑ってみせた。 これには|華 閻李《ホゥア イェンリー》も|警戒心《けいかいしん》を解くしかなかったようで、肩から苦笑いをする。けれどすぐに笑顔を消し、何もない|空虚《くうきょ》な天井を見上げた。「……そうなると、どうしてまた|殭屍《キョンシー》が現れたのかな? 村人が、なぜ|殭屍《キョンシー》になってしまったのか。それの謎が残るんだよね。僕にはわからない事だらけだよ」
陽が昇りきらぬ早朝、ふたりは|黄家《こうけ》の屋敷を出た。そして陸路にて夔山《きざん》へと向かって歩き出す。 目的地である|夔山《きざん》への道は、陸路と河の二つがあった。けれど河は今日に限って水位が足らず、船を出せないのだと断られてしまう。結果として陸路を選ぶしかなかった。 華やかな町を出てすぐに見えたのは河である。この河は町中に流れているものと同じで、遠くに|聳《そび》える山まで続いていた。 地は草原とはいかないでも、雑草がたくさん生えている。道はかろうじて整備されているようで、砂がひっそりと散らばっていた。道中にはポツポツと家が建っており、畑などもある。「──今日は、とってもいい風が吹いているね」 日中の風をその身に受けながら、|全 思風《チュアン スーファン》は微笑む。長い髪を三つ編みにした姿は、高い身長も相まって人目を惹いた。 行き交う人々が彼の美しい見目に見惚れていく。なかには、頬を赤らめながら彼を凝望する女性もいた。 視線に気づいた彼は女性に微笑みを向ける。けれど隣を歩く|華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を抱き「安心して。君以上に可愛い子はいないから」と、女性に見せつけるように囁いた。 これには女性だけでなく、近くの一軒家に住む者たちまでほうけてしまう。「……僕、男なんだけど?」 近いから離れてと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼を押し退けた。 されど彼は、体格のよい男である。どれだけ力をこめてもびくともしなかった。それどころか、彼に抱きよせられてしまう。「私の事が嫌いかい? 私は|小猫《シャオマオ》の事、大好きなんだけどね」「……いや、好きとか嫌いとかの問題ではないよ?」
動く死体である|殭屍《キョンシー》は、彼らの行く手を阻んだ。それは一体や二体だけではない。次々と現れては群がっていった。 まるで、先へは通さないと言わんばかりに道を塞いでいく。「……ど、どうして|殭屍《キョンシー》がここに!? ここから|夔山《きざん》へは、※五|公里《こうり》はあるはずなのに!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の瞳は不安で押し潰されていった。定まらぬ視線が|殭屍《キョンシー》たちを見張る。|全 思風《チュアン スーファン》に抱かれた体は震え、美しく輝く髪が汗で濡れていった。 そんな子供を抱きしめている彼は、静かに|殭屍《キョンシー》たちを黙視する。「|殭屍《キョンシー》はどこにでも現れる。そんなに珍しくはないんだ。それなのに……|小猫《シャオマオ》、本当にどうしたの?」 子供は震え続けていた。瞳を揺らしながら「どうして、どうして」と、嘆いている。 「|小猫《シャオマオ》、いったいどうし……っ!?」 |全 思風《チュアン スーファン》が声をかけた最中、子供の様子が豹変した。 音もなく立ち上がり、裸足のまま荷台から降りてしまう。彼が静止しようとしても、その声すら耳に入らぬようだった。ふらふらとしたおぼつかぬ足取りで、|殭屍《キョンシー》の群れの前に立つ。「|小猫《シャオマオ》! 何をしているんだ!?」 彼はいつになく慌てふためいた。視点が定まらぬ|華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を掴み、急いで己の背中に隠す。軽率な行動を取る少年を叱ることはなかったものの、舌打ちで苛立ちを表していた。 そのとき、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が顔を上げる。眉根は下がり、瞳は|憂《うれ》いている。かさついている小さな唇はピリッと、僅かな音をたてて開いた。
奥へと進むほどに霧がかかり、視界が悪くなっていく。 それでも|全 思風《チュアン スーファン》は平然とした姿勢で歩いた。|華 閻李《ホゥア イェンリー》を横抱きにし、楽しそうに鼻歌を口ずさむ。 そんな彼らの後ろには|殭屍《キョンシー》と化した人々がいた。ふたりを襲うでもなく、ただ彼らを先頭にして飛びはねながら進んでいる。 ──これ、かなり異常な光景だよね。と言うか、この人って本当に何者なんだろう? 抵抗するだけ無駄ということを、子供はここ数日で学んだ。 横抱きにされて男としての何かがガリガリと削られてく。それでも涙半分、諦め半分で、|全 思風《チュアン スーファン》にされるがままを受け入れた。 体格のよい彼を見る。意外に長いまつ毛のようで、瞬きをする度に影が降りていた。スッとした鼻や、形のよい唇。宵闇をつけたような髪と瞳など、どれをとっても端麗さが際立っている。 大きな肩幅を彩るのは太くて逞しい指だ。それが|華 閻李《ホゥア イェンリー》の両膝の裏、背中へと回っている。「ふふ、どうしたんだい?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からの熱い視線に気づいたようで、彼は無邪気な笑みを向けた。その場に立ち止まり、そっと子供の額へ唇を当てる。 子供は少しばかりの照れを隠しながら、えっとと言葉を生んだ。「な、何で|殭屍《キョンシー》があなたに従っているの!?」 |殭屍《キョンシー》は五感はおろか、脳すら破壊されている存在である。どうやって生きた人間の場所を嗅ぎ分けているのかは不明だが、それでも誰かに従うということはまずなかった。 あるとすれば|血晶石《けっしょうせき》という、謎の力のみ。それでも、その力を使ったとしても、数十体を同時に支配するということができるのだろうか。 力を行使し続ければ倒れるだけ。できたとしても、|殭屍《キョンシー》側が暴走を始めてしまう可能性の方が大きい。 けれどこの男、|全 思風《チュアン スーファン》が命を下した|殭屍《キョンシー》たちは、それらを真っ向から破っていた。 ──まさかと思うけど、この人が村の皆を|殭屍《キョンシー》に変えたの!? もしそうだとするならば、許せるはずがなかった。|雨桐《ユートン》という幼い子供まで犠牲にするやり方に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は嫌悪感を覚えていく。「降ろしてよ!
|全 思風《チュアン スーファン》の手に握られているのは剣だ。鞘は|黄金《おうごん》ではあるが、蒼白い|焔《ほのお》に包まれている。 「私は容赦というものを知らないのでね」 |黄金《こんじき》に煌めく瞳を細め、鞘から剣を抜き出した。剣の中心には|焔《ほおの》の模様が刻まれている。焔はたった一つだけれど、強い存在感を放っていた。 鞘を腰にかけ、剣を握る。切っ先を村へと向け、一緒に屋根の上へと登っている|華 閻李《ホゥア イェンリー》を直視した。「君はここで待っていて」 空いた左手で、宙に紋を描いていく。やがてそれは小さな|蝙蝠《コウモリ》に変わっていった。 蝙蝠は円らで愛らしい瞳を瞬きさせながら、銀髪の頭上を陣取る。ふんすという鼻息が聞こえてきてしまいそうなほどに胸を張る蝙蝠を、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は軽くつついた。「わあ! この子、可愛い」 人懐っこさが目立つ蝙蝠を、ギュッと抱きしめる。蝙蝠と頬を合わせては、かわいいを連呼していた。 ──んんっ! |小猫《シャオマオ》の方が可愛い。蝙蝠、私と場所を変われ! 悶えたい気持ちを隠し、表情筋を強張らせる。どうしたのかと顔をのぞいてくる|華 閻李《ホゥア イェンリー》に悟られまいと、笑顔で誤魔化した。「……遊びはこのぐらいにしよう。この村を解放してあげないと、ね?」「解放?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》と蝙蝠は、息が合ったかのように小首を傾げる。 |全 思風《チュアン スーファン》は微笑し、顎をくいっとした。 視線の先には村がある。連れてきた|殭屍《キョンシー》たちまでもがおり、彼らは悲鳴にもならぬ雄叫びを静かに響かせていた。 |全 思風《チュアン スーファン》は不敵に牙をのぞかせる。そして剣を持って地上へと足をつけた。 右足の軸に体重を乗せ、剣を持つ右肘を少しだけ下がらせる。ふっと、一瞬の息遣いを空気に溶けこませた。 直後、目にも止まらぬ速さで地を蹴る。柄の部分で|殭屍《キョンシー》たちの
|全 思風《チュアン スーファン》が迅速を用いて剣を振るう姿は勇ましかった。それでいて、恐ろしいまでの*|絶佳《ぜっか》、虚ろうほどの舞いである。「私を殺せるのは愛しい|小猫《シャオマオ》だけ! お前たちのでは無理なのさ!」 |殭屍《キョンシー》の胴体へ剣を突き刺し、足蹴を食らわせた。爪をたてながら直走してくる者には鞘で腹を叩く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向かっていく|殭屍《キョンシー》には、倒した者を片手で持って投げつけていった。 数分後に残ったのは無傷の|全 思風《チュアン スーファン》と、五体のどこかしらがなくなっている|殭屍《キョンシー》だけである。「……すごい」 近くで傍観していた|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼の強さに脱帽した。かわいらしく両目を瞬かせる|蝙蝠《こうもり》を頭上に乗せ、|全 思風《チュアン スーファン》という男の振る舞いを凝望する。 ──まるで、|殭屍《キョンシー》を玩具にして遊んでいるかのようだ。 強いという次元を超えていた。それが|全 思風《チュアン スーファン》という人物を物語っているのだろう。誰にも負けぬ強さ、そして意思を持っていた。結果として今の状態が起こり、どちらが悪なのかすらわからなくなる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は足元に転がる|殭屍《キョンシー》を見下ろし、肩でため息をついた。 |全 思風《チュアン スーファン》の元まで寄り、不安を乗せた瞳で彼を見上げる。「掃除、終わったよ|小猫《シャオマオ》」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬に優しく触れた彼の手は、少しばかりの返り血で汚れていた。 「強いのはわかったけど、無茶しないでほし
「──|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》、あんたには|黄《き》族の長を|退《しりぞ》いてもらう。それが内戦を引き起こした者の……」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はいつになく、ハッキリとした口調で宣言した。 |爸爸《パパ》と呼び、|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》を親として|尊敬《そんけい》していた。けれどそんな、大好きだった者はもういない。いるのは|私利私欲《しりしよく》のために仙人を戦争へと介入させ、人間たちを|混乱《こんらん》と|恐怖《きょうふ》に|陥《おとしい》れた男だ。 彼は、それをよしとはしない。 元々、|仙道《せんどう》が人間の争いに参加しないということを|律儀《りちぎ》に守っていた。 大切な|母親《オモニ》に手をかけられても、自身の|偽物《にせもの》が現れて|窮地《きゅうち》に立たされたとしても、内戦への参加など許さない。 普段は|無鉄砲《むてっぽう》でわがままな彼だが、|筋《すじ》を通すところは通す。そんな性格も持ち合わせていた。「家族に手をかけた者を|裁《さば》く。それが今、俺にできる、唯一の事だ!」 視線を決して|逸《そ》らすことはない。『……ははは。本気で言ってるのか? お前、|爸爸《パパ》を当主の座から降ろして、その後どうするつもりだ? ああ、そう。お前自身が、新しい当主になるってわけか?』 |自意識過剰《じいしきかじょう》なやつの考えそうなことだ。お腹を抱えながら笑った。そして|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を見、プッと吹き出す。『本当に新当主になれるとでも? お前、自分が嫌われてるって知らないのか? 皆、お前のわがままさに嫌気がさ……』「知ってるさ」 |飾《かざ》らぬ自然な声がこぼれ
|全 思風《チュアン スーファン》の手の中にあったはずの|彼岸花《ひがんばな》が、光の|粒子《りゅうし》となって|消滅《しょうめつ》していった。 彼は|悔《くや》しさを|壁《かべ》にぶつけ、何度もたたく。そのとき、壁がガコンッという鈍い音をたてて前へと倒れてしまった。「うわっ! ……っ!? これは……隠し通路か!?」 奥へ続く道が現れたが、明かりひとつもない場所となっている。しかし彼は元々|夜目《よめ》が利く。明かりなど必要ないと|云《い》わんばかりに、暗黒しかない空間へと足を|踏《ふ》み入れていった── □ □ □ ■ ■ ■ 部屋の|隅《すみ》に、大きな台座がひとつある。台座のいたるところには札が貼ってあり、常に光っていた。 部屋の中を見渡せば、食器棚や勉強机も置かれいる。 そして何体もの|殭屍《キョンシー》が、部屋を囲うように|等間隔《とうかんかく》に立っていた。この者たちには一枚ずつ、札が|額《ひたい》に貼られている。それが、やつらの動きを封じているようであった。 |殭屍《キョンシー》らに囲まれるようにして部屋の中央では、男がふたり。互いに剣をぶつけ合っていた。 ひとりは扉側に、もうひとりは台座を背にしている。『……安心しろよ。|黄《こう》家の|跡取《あとと》りは、俺がしっかりとやってやるからさ』 上は|黄《き》、下にいくにつれて白くなる|漢服《かんふく》を着るのは|黄 沐阳《コウ ムーヤン》と、もうひとり。彼とまったく同じ顔をした男が語りを入れてきた。 難しい顔など一度もせす。人を|小馬鹿《こばか》にするような笑みを浮かべ続けていた。勝ち|誇《ほこ》ったようにケタケタと笑い、|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を力任せに剣ごと|薙《な》ぎ払う。 そんな男の後ろ
|全 思風《チュアン スーファン》の心は不安で押し|潰《つぶ》されていった。大切な存在である子供が危険に|曝《さら》されているからだ。 そう思うだけで、死んでしまいたい。精神がバラバラになりそうだと、|唇《くちびる》を強く|噛《か》みしめる。「──|小猫《シャオマオ》、無事でいて!」 屋根の上を飛び続け、目的地の屋敷へと到着した。危険を|省《かえり》みず、扉を|豪快《ごうかい》に壊す。 中に入ればそこは玄関口だった。 一階は入り口近くに左右の扉、奧にもふたつある。部屋の中央には|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》を|敷《し》いた階段があり、天井には異国からの輸入品だろうか。大きな|枝形吊灯《シャンデリア》がぶらさがっていた。「……最初に|侵入《しんにゅう》したときは地下からだったからわからなかったけど、もしかしてここは、元|妓楼《ぎろう》なのか?」 心を落ち着かせようと、両目を閉じる。 ──ああ、聞こえる。|視《み》える。ここで何が起きたのか…… |全 思風《チュアン スーファン》が目を開けた瞬間、彼の瞳は|朱《あか》く染まっていた。そして映し出されるのは、今ではなく過去の映像である。 建物の|構造《こうぞう》、中の物の配置などは同じだ。違いを見つけるとすれば、人の姿があるかないかである。 そして過去の映像には、きらびやかで美しい衣装を|纏《まと》う女たちが行き交いする姿が視えていた。 数えきれぬほどの美女、そんな彼女たちと金と引き|換《か》えに遊ぶ男たち。仲良く腕組みしている男女もいれば、女性に言いよっては出禁を食らう者。年配の|妓女《ぎじょ》の言いつけで|掃除《そうじ》をする若い女など。 当時、この|妓楼《ぎろう》で暮らしていた女性たちの姿が、ありありと映っていた。
|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は重たい口を開いていく。 |友中関《ゆうちゅうかん》は|黒《くろ》と|黄《き》、互いの領土の中間にある。そこで働く兵たちはふたつの勢力から選ばれた者たちだった。どちらか一方が多くならぬよう、均等に両族から|派遣《はけん》させる。それが、この國が始まりし頃からの決まりごとであった。 しかし、互いの勢力がそれで手を取り合うというわけではない。度々いざこざが起き、そのたびに|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》や|爛 春犂《ばく しゅんれい》などが出向いて|仲裁《ちゅうさい》していた。「……うん? 何であんたや、あの|爛 春犂《ばく しゅんれい》なんだ? |黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》とか、親玉が出向く方が早くない?」 腰かけられそうなところへ適当に座り、|全 思風《チュアン スーファン》は三つ編みを後ろへとはたく。穴が開くほどに|眼前《がんぜん》にいる男を|注視《ちゅうし》した。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|瓦礫《がれき》の上に座りながら、空を見上げる。いつの間にか灰を被った色になった雲と、遠くから聞こえてくる雷の音。それらにため息をつき、首を左右にふった。「いや、あの場所は互いの族で二番目に|偉《えら》い者が|視察《しさつ》しに行くという決まりになっていた。兄上はおろか、|黄《き》族の|長《おさ》である|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》ですら|関与《かんよ》してはならないとされているんだ」 |皮肉《ひにく》にも、昔作られた決まりごとが今回の事件を引き起こす切っかけにもなってしまう。そして|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男を暴走させる原因にもなってしまった。 男は両手を|太股《ふともも》の上に置き、これでもかというほどに彼を睨む。「……私を睨んだって、しょうがないじゃないか」 今にも殺しにかかる。そんな
|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|鞘《さや》に収め、ふっと美しく|笑《え》む。 |眼前《がんぜん》にいるのは先ほどまで場を独占していた男、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを|顕《あらわ》にしている。「……な、んだ。何だこれはーー!?」 その場を支配していた直後、|焔《ほのお》が消化されていったからだ。 何の|前触《まえぶ》れもなく現れた|全 思風《チュアン スーファン》だけでも手に|負《お》えないというのに、上空から降る|蓮《はす》の花。その花から雨のように水滴が降り|注《そそ》いでいるからである。 花は|仄《ほの》かに甘い香りをさせながら|焔《ほのお》を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に|焦《こ》げた匂いだけが充満し、|蓮《はす》の花は泡となって天へと昇っていく。「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」 まるで、腹から声をだしているかのような|怒号《どごう》だ。 大剣を強く握り、勢いをつけて地を|蹴《け》る。風のように|疾走《しっそう》し、剣で空を斬った。「|朱雀《すざく》の|焔《ほのお》を消せる者など、この世にありはしないはず!」 |全 思風《チュアン スーファン》を斬りつけようと、|空《くう》に|豪快《ごうかい》な一|閃《せん》を放つ。重みのある大剣が|瓦礫《がれき》を|削《けず》り、|蹴散《けち》らしていった。 しかし、それでも、|全 思風《チュアン スーファン》は何の|痛手《いたで》も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。 互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」&nbs
町のあちこちは火の海になっていた。|避難《ひなん》民がいる河|沿《ぞ》いも、町の入り口や広場すら、|焔《ほのお》に|埋《う》もれてしまっている。 必死に火を消す兵たち、逃げ遅れて|瓦礫《がれき》の|下敷《したじ》きになっている市民など。町のいたるところでは|紅《くれない》色の|焔《ほのお》とともに、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交っていた。 そんな事態を引き起こしたのは、黒い|漢服《かんふく》を着た男である。 彼は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》、|獅夕趙《シシーチャオ》というふたつ名を持つ男だ。 右手に大剣を、左手には|鳥籠《とりかご》を持っている。「俺は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》。|黒《こく》族の|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》の弟だ。このたび|黄《き》族の連中が条約を破り、我が|黒族《こくぞく》の|領民《りょうみん》を、|友中関《ゆうちゅうかん》にて|虐殺《ぎゃくさつ》した!」 大柄な体格どおり、とても声が大きい。 |焔《ほのお》が火の|粉《こ》を飛ばす音すら、かき消えるほどだ。 怒りを|携《たずさ》えた瞳で、町の入り口を陣取っている。後ろに控えている兵たちを見ることなく、ただ、言いたいことだけを叫んだ。「──|友中関《ゆうちゅうかん》には俺の心の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》がいた。しかし彼は|黄《き》族の罠にかかり、命を落としたのだ!」 大剣の先端を地面に刺し、|豪快《ごうかい》な|仁王立《におうだ》ちをする。片手で持つ|鳥籠《とりかご》を顔の前まで上げ、瞳を細めた。「|卑怯《ひきょう》者の|黄《き》族が町を支配するなど、|笑止千万《しょうしせんばん》! 俺の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》の|怨《うら》みを受け取るがいい!」 彼の|声音《こわね》が合図となり、後ろ
狭い廊下に|襲《おそ》い来る灰色の|渦《うず》を目の前に、三人はそれぞれのやり方で|蹴散《けち》らしていった。 |全 思風《チュアン スーファン》は指先から黒い砂のようなものを出し、それを器用に動かす。|迫《せま》る灰の|渦《うず》を弾き、床へと|叩《たた》きつけていた。 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はそんな彼の腰にある剣を抜く。腰を大きく曲げ、|全 思風《チュアン スーファン》の腕下から剣を突き刺し、切り刻んでいった。 |前衛《ぜんえい》で戦うふたりの後ろでは、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が花を意のままに|操《あやつ》る。ふたりが|捌《さば》き|損《そこ》ねた灰の|渦《うず》。これが彼ら目がけて|突貫《とっかん》する。それをふたりに近づけさせまいと、花で|防御壁《ぼうぎょへき》を張った。 それぞれの持ち場を理解している彼らは、互いに|死角《しかく》を|補《おぎな》っている──「|小猫《シャオマオ》、あまり私から離れないでね?」 子供の細腰を抱き、楽しそうに話しかけた。戦闘中であることを忘れてしまいそうな笑顔を浮かべながら、余裕然と灰の|渦《うず》を|消滅《しょうめつ》させていく。 その強さたるや。すぐそばには、剣を使って灰の|渦《うず》を|薙《な》ぎ払っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいた。そんな彼の攻撃が赤子と思えてしまうほど、|全 思風《チュアン スーファン》の動きや強さは別格と|謂《い》える。「……うーん、単純でつまらないね」 切っても切っても|沸《わ》いてくる灰の|渦《うず》を見て、飽きたと呟いた。 瞬間、彼の周囲を|漆黒《しっこく》の|砂塵《さじん》が包む。かと思えば『|潰《つぶ》せ』と、低く口にした。 すると彼の命令に従うように、漆黒のそれは廊下全体を押し|潰《つぶ》していく。この場にいる彼らをのぞき、灰の|渦《うず》だけが|犠牲《ぎせい》となっていった。 しばらくすると灰の|渦《うず》は|塵《ちり》と化し、砂粒のようになって消えていく。「終わったよ|小猫《シャオマオ》、怪我はないかい?」 何ごともなかったかのように、腕の中にいる少年の頬を撫でる。子供は慣れた様子で|頷《うなず》き、お疲れ様と、彼を|労《ねぎら》った。 彼はふふっと優しい笑みとともに、子供の|額《ひたい》に|軽《かろ》やかな口づけを落とす。「
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス