Share

第136話

Author: 花辞樹(かじじゅ)
景凪は車を運転して家に帰ると、桃子はすでに休んでいる。

彼女は着替えもせず、そのまま書斎へ直行し、パソコンを立ち上げて、贈与契約の草案を打ち始めた。

六十六億円のバラなんて、景凪にはどうでもいい。ただ、深雲が約束した六十億円の研究機材だけは、絶対に手放したくない!

もっとも、法律のことは景凪の専門外だ。あまり詳しくない。ふと、千代が以前、「信頼できる弁護士がいる」と話していたのを思い出す。

そこで景凪は千代に電話をかけたが、たぶん忙しいのだろう、繋がらなかった。

なので、景凪は作成した契約書の草案を千代のサブアカウントのLINEに送った。最近は、千代ともサブアカでやり取りすることが多い。

【千代、都合がいいときでいいから、千代の弁護士さんにこの契約書をチェックしてもらえないかな?】

さっきまで電話にも出なかった千代から、即レスが来た。

【10分待って】

本当に10分も経たないうちに、弁護士がチェックして修正した正式な契約書が返ってきた。しかも、きちんと事務所の電子印までついている。

東方(とうほう)法律事務所。

景凪もこの事務所の名は聞いたことがある。ここの弁護士たちは皆、超一流で予約も難しいらしい。まさか千代の人脈がここまで広いとは思わなかった。

さすがトップの人は違う。魅力が桁違いだ。

景凪は愛のこもったスタンプを送る。

すると、向こうが入力中の表示を出している。

景凪は待ちながら、契約書をプリントアウトする。

三分後、やっと返事が来た。

【お休み】

添えられているのは、微妙なスマイル絵文字。

「……」

景凪は、千代のサブアカにはまだスタンプがほとんど入っていないんだろうな、とぼんやり思う。そして、夜中にまだ働いている彼女の気配を感じた。

だから、もうこれ以上は邪魔しなかった。

外で車の音がして、景凪が階段を下りると、ちょうど深雲が玄関から入ってきた。清音と辰希、二人の子どもたちは少し眠そうで、そのまま自分たちの部屋へ上がっていく。

清音は景凪のことを一瞥もしない。小さなスマホをぎゅっと握りしめたまま、景凪の横を通り過ぎるとき、画面がほんの少しだけ光った。新しいメッセージが届いたようだ。

景凪はつい目をやる。清音の指から少しだけ画面が見えてしまう。

そこには「ママ」と書かれた連絡先があった。

誰のことか、聞かな
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第139話

    箱の中には、女性用の腕時計が一つ入っている。見た目はなかなか精巧だ。景凪はそれを手に取って、じっくり観察する。ブレスレットの部分にはまだタグが付いていて、箱の中には証明書も入っている。高級ブランドには疎い方だけど、これは一目でハイブランドだと分かる。文慧も同じブランドのエメラルドのネックレスとお揃いのピアスを持っていて、それはいつも金庫の奥にしまわれていて、特別な場でしか身に着けない。噂によれば、市場価格は億を超えるとか。この時計はシンプルなデザインで、いわゆるエントリーモデルっぽいけど、このブランドのエントリーモデルでも、たぶん百万円は下らないはず。でも、そのくらいの値段で、千代があんなに驚くものだろうか?「はぁ!?深雲のあのクソ男!またこんな手を使ってきたか!」千代が怒りにまかせて毒づく。深呼吸して、少し気まずそうに景凪に尋ねる。「景凪、今夜は深雲と一緒にどこか行ったの?あの姿月もいた?」景凪は意外そうに目を見開く。「なんで分かるの?」千代はため息をついて、スマホをいじり始めると、すぐに二枚のスクリーンショットを景凪に送ってきた。「前にパーティーで、マネージャーに連れられて研時のLINEを交換したことがあるんだ。普段は全然連絡しないし、消すのも忘れてたけど、さっきタイムラインを見てて、これに気付いたんだよ」千代が送ってきたスクショは、研時が三十分前に投稿したタイムラインだった。キャプションには、【今夜、俺の心の中の唯一のバラの女王】とある。写真が三枚。両端は男女入り混じったグループショット、真ん中は姿月のワンショット。彼女はバラを抱え、月明かりの下で振り返っている。その姿はまるで女神の降臨のようだ。千代はそのワンショットも個別に保存して、景凪に送ってきた。その写真で一番目立っているのは、姿月の手首に光るダイヤモンドブレスレット、まるで星のように煌めいている。「……」景凪ははっきり覚えている。会場の入口で姿月に会ったときも、後からステージに上がったときも、彼女の手首にそのブレスレットはなかった。つまり、それを身につけたのは、景凪が会場を去った後ということ。さらに、千代がスクショした投稿のコメント欄には、姿月本人の返信がある。【研時先輩、ありがとう。写真すごく素敵。ブレスレットも綺麗に写

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第138話

    景凪は、深雲の前ではいつだって一番素直で、誰よりもおとなしい存在だ。どんな時でも、彼が必要とすれば、必ず現れてくれて、どんな犠牲を払ってでも助けてくれるって、そんなふうに思っていた。深雲は、一度たりとも考えたことがなかった。いつか景凪が、こんなにも冷たくなるなんて……まるで、別人に乗っ取られたような変わりようだ。深雲の眉間には、深い刻み跡が残る。彼にはわからない。いつから、二人の間にこんな亀裂が生まれたのだろう?……景凪は書斎のドアを静かに閉める。ソファに腰を下ろし、手首をそっと動かしてみると、やっぱりまだ痛い。手首の赤い跡は、きっと明日には紫色に変わるだろう。深雲の力が強すぎたせいもあるけれど、彼女自身、肌が白くて痕が残りやすい体質なのだ。今夜は、もう深雲の顔を見たくない。景凪は書斎で眠るつもりでいる。仕事が忙しかった時は、一日中書斎にこもることも多かったので、この小さなソファは折りたたみ式のベッドになっている。クッションも広げれば掛け布団代わりになる。それに小さなシャワールームも付いていて、ほとんどミニワンルームのようなものだ。景凪はシャワーを浴びようと立ち上がったその時、スマホに千代からのビデオ通話のリクエストが届いた。しかも今回は、いつものサブ垢ではなく、本垢からの発信だ。ちょうどパソコンにもLINEがログインしていたので、景凪はパソコンで通話を受ける。両手は机の下に隠したまま。「どうしたの、千代?」「会いたくてたまらなかったからだよ、景凪!最近全然会ってないけど、私のこと恋しくなってない?」千代はたぶん、今夜これから夜の撮影があるのだろう。キャンピングカーの中にいるみたいだけど、まだウィッグも外していない。二十分前にサブ垢でやりとりしたばかりなのに。でも、親友って、そういうものだ。景凪はちょっと呆れながらも、優しい笑みを浮かべる。「恋しいに決まってるじゃん。十分会わないだけで三年も待った気分だよ。撮影終わったら、いつ帰ってこれるの?」今日は千代が二つも大きなことを手伝ってくれた。車を出してくれたし、弁護士も探してくれた。今度帰ってきたら、絶対にごちそうするつもりだ。「まだ先だけど、来週A市で映画祭があって、二日だけ休みもらえるんだ」「じゃあ、予定が決まったら、早めに教え

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第137話

    「景凪、俺は今、お前に話してるんだぞ」深雲の声は冷たく響く。彼は片手を離して、景凪の顎をぐっと掴み、無理やり自分を見上げさせる。景凪はあまりにも細い。両手首を重ねて掴まれれば、深雲の大きな手だけで簡単に締め付けられる。逃げようとしても、逃げられない。だが、そのとき、深雲の胸をかすめるのは、妙な焦りだ。彼の視線の先で、景凪の瞳から少しずつ温度が消えていく。怒りさえも静まり返り、かつて愛情で溢れていたその瞳――水面のようにやさしく揺れていた瞳は、今やまるで死んだ水たまりのように、何の感情も映さない。違う、こんなのはおかしい!景凪なら、いつもみたいに慌てて必死に言い訳をして、誤解されるのを怖がるはずだった。もしも姿月のことが原因で怒っているなら、泣いても、叫んでも、怒って暴れてもいい。けれど、こんな沈黙と冷たさだけは、絶対に違う。「景凪……」深雲は初めて、どうしようもない不安にかられる。手を放した瞬間、景凪の顎には自分の指の跡が赤く残っているのに気づく。「悪かった」深雲は珍しく戸惑いを見せ、不器用に言い訳する。「俺、今夜は飲みすぎた。それに、こんなこと急に起きて、感情を抑えられなかったんだ」景凪はまるで聞いていないようだ。ただ黙って起き上がり、乱された服を無表情に直す。腕を上げたとき、手首に鋭い痛みが走る。景凪は眉を寄せる。もう少しで、手首の骨を外されるところだった。「景凪!」何も言わずに立ち去ろうとする景凪を見て、深雲は完全に動揺し、思わず彼女の腕を掴みそうになる。景凪は振り返ることなく、もう片方の手を振り上げて、深雲の頬を打つ。パシン。手首が痛くて、力なんて全然入らなかった。だからその平手は、ぜんぜん痛くもない。もしも景凪の表情がこんなに冷たくなければ、夫婦のちょっとした戯れにしか見えなかっただろう。だが、深雲はその瞬間、二人の間にあった何かが音を立てて崩れた気がした。「機器の件、明日朝一で購買部に頼むから。至急で、サインは忘れないで」「……」深雲は唇を噛みしめる。言いたいことは山ほどあるのに、どうしても飲み込んでしまい、かすれた声でただ「わかった」とだけ返す。景凪は階段の前で立ち止まる。だが、振り返らない。「深雲」彼女は冷え切った声で、名前をはっきりと呼ぶ。「私は黒瀬家の次男

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第136話

    景凪は車を運転して家に帰ると、桃子はすでに休んでいる。彼女は着替えもせず、そのまま書斎へ直行し、パソコンを立ち上げて、贈与契約の草案を打ち始めた。六十六億円のバラなんて、景凪にはどうでもいい。ただ、深雲が約束した六十億円の研究機材だけは、絶対に手放したくない!もっとも、法律のことは景凪の専門外だ。あまり詳しくない。ふと、千代が以前、「信頼できる弁護士がいる」と話していたのを思い出す。そこで景凪は千代に電話をかけたが、たぶん忙しいのだろう、繋がらなかった。なので、景凪は作成した契約書の草案を千代のサブアカウントのLINEに送った。最近は、千代ともサブアカでやり取りすることが多い。【千代、都合がいいときでいいから、千代の弁護士さんにこの契約書をチェックしてもらえないかな?】さっきまで電話にも出なかった千代から、即レスが来た。【10分待って】本当に10分も経たないうちに、弁護士がチェックして修正した正式な契約書が返ってきた。しかも、きちんと事務所の電子印までついている。東方(とうほう)法律事務所。景凪もこの事務所の名は聞いたことがある。ここの弁護士たちは皆、超一流で予約も難しいらしい。まさか千代の人脈がここまで広いとは思わなかった。さすがトップの人は違う。魅力が桁違いだ。景凪は愛のこもったスタンプを送る。すると、向こうが入力中の表示を出している。景凪は待ちながら、契約書をプリントアウトする。三分後、やっと返事が来た。【お休み】添えられているのは、微妙なスマイル絵文字。「……」景凪は、千代のサブアカにはまだスタンプがほとんど入っていないんだろうな、とぼんやり思う。そして、夜中にまだ働いている彼女の気配を感じた。だから、もうこれ以上は邪魔しなかった。外で車の音がして、景凪が階段を下りると、ちょうど深雲が玄関から入ってきた。清音と辰希、二人の子どもたちは少し眠そうで、そのまま自分たちの部屋へ上がっていく。清音は景凪のことを一瞥もしない。小さなスマホをぎゅっと握りしめたまま、景凪の横を通り過ぎるとき、画面がほんの少しだけ光った。新しいメッセージが届いたようだ。景凪はつい目をやる。清音の指から少しだけ画面が見えてしまう。そこには「ママ」と書かれた連絡先があった。誰のことか、聞かな

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第135話

    今夜この場に集まっているのは、ほとんどが億を超える資産家ばかりだ。だって、A市でちょっとした豪邸を構えようと思ったら、すぐに十億単位が飛ぶ街なのだ。しかし、不動産や帳簿の数字と、実際に現金として出せる額とは、まるで別物だ。深雲が先ほど四億円をさらりと出した時点で、今夜の会はほぼ天井に達した雰囲気だった。けれど、誰も想像していなかった。二階のあのお方が動いた瞬間、その額は深雲の十数倍に跳ね上がる。研時は悔しさに思わず取り乱す。「こんなの、ありえないだろ?絶対、二階の客が名前を書き間違えたんだ!このバラは、絶対に姿月に贈るはずだった!」理性が吹き飛び、研時は二階へと駆け上がろうとする。だが、階段口に差し掛かった瞬間、黒服のガードマンが二列に並んで現れる。まるで影のようだ。暮翔が素早く研時を押さえ込み、低い声で囁く。「やめとけ、研時。あれ、全員銃持ってるの見えないのか?児玉次官ですら、あんな大層な護衛つけてないぞ。ここで撃たれでもしたら、お前の親父さんにもどうにもならんぞ?」「……」深雲は静かに二階を見上げる。そこには逆光の中に立つ男の影。高い身長と、ただならぬ威圧感をその場に放っている。男は挑発的にグラスを掲げてみせると、次の瞬間、グラスを逆さにし、中の酒をすべて床へとこぼしてしまう。あからさまな侮蔑だ。深雲は手にしたグラスを強く握りしめる。指の関節が白く浮き出るほど力が入る。それでも、ただ見送るしかない自分が悔しい。ステージ上では、司会者がさっきまで景凪に対して見せていたぞんざいな態度を一変させ、両手でバラと宝石で飾られた冠を捧げ持ち、満面の愛想笑いで彼女の前にやってきた。「穂坂さん、いやぁ、本当にお見逸れしました!最初から、穂坂さんなら勝てると信じていましたよ!」マイクを手で覆い、媚びるように囁く。「……」こういう手のひら返しや、後出しジャンケンには慣れっこだ。もう、相手する気にもならない。「もう、帰っていいですか?」「もちろんです、これは穂坂さんの冠です。それに、二階に上がる権利も……」司会者が差し出してきたバラと宝石の冠を景凪は冷たく押し返し、言葉を遮る。「こんな冠、いらない。欲しい人にあげてください。二階も興味ありません。それと、あの三千本のバラ、悪いけどあの黒瀬さんに返しておいて」

  • 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました   第134話

    「やっぱり姿月は底知れない魅力を持ってるな。二階の人間まで、姿月にひれ伏したんだ」研時は当然のように、二階のVIPが姿月目当てで来てると思い込んでる。他の人たちもその様子を見て、次々と姿月を持ち上げ始める。「小林さんのように、才能と美貌を兼ね備えた女性なんて、本当に珍しいですよ」「今夜は鷹野社長に感謝しないと。こんな素敵な方と知り合えるなんて」「小林さん、弊社も今後ご一緒できる機会があれば嬉しいです!」最初、彼らは姿月をただの飾りだと思ってた。研時が主催で呼んだ美女くらいにしか見てなかった。でも、現地で彼女が国際デザインコンテストの優勝者だと知った瞬間、見る目が明らかに変わる。軽々しい視線が消え、対等な敬意が混じってくる。色で人をもてなす……そんなの、彼らにとっては、どんなに美人でも結局は食卓の一品に過ぎない。でも、姿月には才能がある。しかも今夜は二階の人まで惹きつけてる。まさに最強の人脈リソースだ。分かる人には分かる。姿月は研時の紹介でここに来たけど、今夜のエスコート役は深雲だ。つまり、姿月が深雲の人間なら、彼らが繋がりたい相手もはっきりしてくる。「鷹野社長、こんなに素敵な女性が身近にいるなんて、羨ましい限りです」深雲が今夜一番繋がりたかったのは、防衛省の次官――児玉彰(こだま あきら)の息子である児玉潤一(こだま じゅんいち)。その潤一が、いま自ら彼の前に歩み寄ってきている。深雲が到着したとき、研時が紹介してくれて、挨拶に行ったのだが、そのとき潤一は椅子から一歩も動かず、軽く頷いただけだった。だが今、潤一が自らグラスを持って来た。深雲は丁寧な笑みを浮かべ、グラスを相手より低く掲げる。「児玉さん、お気遣いありがとうございます。昔からお父上のご活躍に憧れてました。ぜひ一度ご挨拶に伺いたいです」彰は防衛産業の次期最大案件を握っている。防衛省の中枢にいる彼へ直接接触するのは難しい。だが、この潤一との縁さえ繋げば、道は開けるかもしれない……「こちらこそ」潤一は深雲から名刺を受け取り、自分の名刺を差し出す。彼は深雲の狙いなんてとっくに見抜いている。普段、こういう無駄な社交には興味がない彼が、今夜は二階席に上がるために来ている。潤一は二年連続で夜響の会員申請をしているが、あと一人、会員の推薦が足りない

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status