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7話 秘密の湖と宵闇の洗髪

last update publish date: 2026-08-10 17:05:34

​静寂に包まれた夜の森は、昼間の冷たい空気とは異なり、どこか二人を優しく包み込むような静けさに満ちていた。

​頭上に輝く満天の星々と、蒼白く輝く三日月。湖面にはそれらが鏡のように鮮明に映り込み、まるで空と地の境界線が消え去ってしまったかのような幻想的な景色が広がる。

​「マルタ……見て! 水の中に、お星さまがいっぱい泳いでるの!」

​ルシエラは小さな靴を脱ぎ捨て、裸足で浅瀬の水辺へと一歩を踏み出した。

水面がかすかに揺れるたび、映り込んでいた星々の光が波紋に沿ってキラキラと揺らめく。ルシエラはその小さな手でそっと水面を掬い上げ、ぽたぽたとこぼれ落ちる光の粒を嬉しそうに見つめた。

​「ルシエラ様、転ばないように気を付けてくださいね。水は……冷たくありませんか?」

​「ぜんぜん冷たくないよ! なんだか、とっても気持ちいいの」

​マルタはほっと胸を撫でおろした。この湖は地下深くの温かな水源と繋がっているのか、夜間でも水温が適度に保たれていた。敷地の裏手にあるこの隠れた湖を見つけ出せたのは、まさに天の引き合わせかもしれない。

​本邸の浴室に行けば、他の使用人たちからの蔑むような視線に晒される。何より、昼間に見せたあの「背中の異変」――真っ白な肌に残った痛々しい赤い擦り傷や、いつ不意に溢れ出すか分からない黒い羽毛を誰かに見られるわけにはいかないのだ。

​「さあ、ルシエラ様。綺麗に綺麗にしましょうね」

​マルタは持参した布と、控えめな良い香りのする石鹸を取り出すと、水際に膝をついた。ルシエラもまた、素直にマルタの前で小さな背中を向け、浅瀬にちょこんと腰を下ろした。

​そっと服を脱がせると、月光の下で幼い背中が露わになる。

昼間に溢れ出た凄まじい黒い魔力と、そこから展開された大きな漆黒の翼。その衝撃の名残である擦り傷のような赤い跡が、白い肌の上に痛々しく浮かび上がっていた。

​(本当に……この小さな体の中に、どれほど恐ろしい力が眠っているというのだろう……)

​マルタの手が一瞬、不安で固まる。

しかし、触れたルシエラの背中は驚くほど温かく、そして柔らかかった。魔力の暴走を自らの意思で抑え込んだ3歳の幼子は、今や何事もなかったかのように、足元の水面をパチャパチャと叩いて遊んでいる。

​「ルシエラ様……背中、ししみませんか? 痛くはないですか?」

​「うん、もう痛くないよ! マルタが撫でてくれたから、ぜんぜん平気」

​振り向いたルシエラが、無邪気で誇らしげな笑顔を向けてくる。

その言葉に、マルタの心に広がっていた不安の雲が、スーッと晴れていくようだった。

​「良かったです……。では、お湯(水)をかけますね」

​マルタは手で優しく水を掬い、ルシエラの小さな肩や背中にそっとかけていく。肌にまとわりついていた汗と微量な魔力の残渣が、美しい水で洗われて消えていく。丁寧に泡立てた石鹸で、赤ちゃんの肌を傷つけないよう慎重に背中を拭っていった。

​「ルシエラ様の髪は……本当に、夜空よりも綺麗なお色ですね」

​濡れた漆黒の髪に指を通しながら、マルタは心から呟いた。

本邸の公爵夫妻や使用人たちは、この黒髪を「不吉な悪魔の証」と呼び、忌み嫌った。しかし、月光と星明かりを反射して濡れたように輝くこの髪は、マルタにとっては世界で一番美しく、愛おしい色だった。

​「ほんとう……? あのね、大きなおじさんとおばさんは、この髪を『いやな色』って言ってたの」

​ルシエラはふっと、どこか大人びた寂しげな声を漏らした。3歳という幼さであっても、周りの大人が自分に向ける悪意や嫌悪の感情を、聡明な彼女は敏感に察取していたのだ。

​マルタは優しくルシエラの頭を撫で、髪についた泡を水で丁寧に流しながら、はっきりと答えた。

​「違いますよ、ルシエラ様。あの人たちが何も知らないだけです。この色はね、どんな色にも染まらない、世界で一番強くて誇り高い色なんです。そして……私にとっては、大好きなルシエラ様の大切な色です」

​「マルタの……だいすきな色?」

​「ええ、そうですとも。だから、誰が何を言おうと、ご自分の髪と姿を誇ってくださいね」

​ルシエラは嬉しそうに深紅の瞳を細め、「うん!」と力強く頷いた。

​洗髪を終え、全身を綺麗に洗い流すと、マルタは持ってきた大きめのバスタオルでルシエラを優しく包み込んだ。水気を拭き取り、乾いた清潔な服を着せると、ルシエラは心底さっぱりした様子で「ふわぁ」と小さなあくびを漏らした。

​「ふふ、眠くなってしまいましたか?」

​「ううん……まだ、マルタとお話したいの」

​ルシエラはタオルの上からマルタの首元にギュッと抱きついてきた。小さな体温と、甘い石鹸の香りが心地よく伝わってくる。

​マルタはルシエラを膝の上に抱き上げ、二人で湖畔の苔むした岩の上に腰掛けた。

夜風が木々を揺らし、心地よい葉擦れの音が響く。水面から立ち上る幻想的な光の粒子が、二人の周りをゆったりと舞っていた。

​「ねえ、マルタ」

​「はい、何でしょう?」

​「さっきね、お背中から羽が出たとき……私、ちょっと怖かったの」

​ルシエラは小さな手を自分の胸に当て、静かな声で打ち明けた。普段は賢く冷静な態度を見せる彼女が、初めて見せた幼子らしい「弱ね」だった。

​「お背中がすごくあつくなって……自分のからだじゃなくなっちゃいそうだったの。でもね、マルタの『ルシエラ様!』っていう声が聞こえて……絶対に暴れちゃだめだって、ギュって我慢したの」

​マルタは胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。

あの瞬間、部屋を吹き荒れた暴風を止めたのは、ルシエラの強靭な自制心だけではなかったのだ。マルタを守りたい、驚かせたくないという、幼い彼女の純粋な愛が、荒れ狂う魔力を抑え込んだのだ。

​「……ルシエラ様。我慢してくださって、ありがとうございます。でもね、無理をしすぎてお体が壊れてしまっては大変です。苦しいときは、いつでも私に教えてくださいね」

​「うん。でも、私……マルタを守れるくらい、もっと強くなるよ。あのおとぎ話の、かっこいい大天使様みたいに!」

​夜空を見上げるルシエラの深紅の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。そこにあったのは、気高い意志と、育ての親であるマルタへの深い愛だった。

​(ああ……この子は、本当にあのお話に出てくる大天使様そのものだ……)

​伝承の中の大天使ルシエラもまた、世界と大切な人々を守るために自ら堕天し、黒翼と赤瞳を受け入れたという。腕の中にいるこの小さな少女もまた、自分を愛してくれるマルタのために、その強大な力を必死にコントロールしようとしている。

​「ルシエラ様は、もう十分強くて、世界で一番かっこいいですよ」

​マルタはルシエラの頭を抱きかかえ、そのおでこに優しく誓いのキスを落とした。

​「私が、絶対にあなたを守ります。公爵様たちが何を言おうと、世界中があなたを拒もうと……私はずっと、ルシエラ様の一番の味方です」

​「……マルタ、だいすき」

​ルシエラは満足そうに微笑むと、マルタの胸の中で小さく息を整え始め、やがてすやすやと心地よい寝息を立て始めた。

​マルタは愛おしそうに彼女を抱き直し、そっと立ち上がった。

水面に映る満天の星々と、腕の中の愛しい宝物。

どれほど理不尽で冷酷な運命が待ち受けていようとも、この秘密の湖と二人の絆がある限り、決して負けはしない――。

​月光に照らされながら、マルタは眠るルシエラを大切に抱きかかえ、静かな夜の森を通って、自分たちの「離れ」へと戻っていくのだった。

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