All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

来依があんなに真剣な顔を見せるのは、本当に珍しいことだった。その瞬間、胸の奥に、なんとも言えない不安がせり上がってくる。まるで、なにかが音を立てて壊れてしまう前触れのように。私は彼女の目をじっと見つめ、そっと唇を噛んだ。「覚悟はできてる。話して」「実は……」来依は言いにくそうに口をつぐみ、歯を食いしばってから、ようやく意を決したように続けた。「大学のときに、保健室に連れて行ってくれたり、お弁当を届けてくれたりしてた人……あれ、江川じゃなかったんだよ」……え?頭の中が、ぶわっと真っ白になる。一瞬、思考が全部止まった。どれくらい経っただろう。ようやく意識が戻ってきたとき、胸の奥に大きな石が落ちたみたいに苦しくて、声が震えた。「本当……なの?」わかってた。来依がここまで言うってことは、もうそれが事実なんだって、心のどこかで理解してた。彼女は、このことが私にとってどれほど大きな意味を持つかを一番よく知っている。確信がなければ、こんなふうに口に出すはずがない。でも……じゃあ、私がこの何年も抱えてきた気持ちは、一体何だったの?来依は黙って頷いた。「じゃあ……本当に助けてくれたのは……」私は深く息を吸って、なんとか冷静さを装いながら問いかけた。「山田先輩……だったんだね?」「えっ、なんでわかったの!?」来依は驚きで目を見開く。「そうか……やっぱり……」私はその問いに答えず、ただ心の中に浮かぶ思いを飲み込んだ。――そうだったんだ。だから宏は、私が山田先輩を好きなんだと思って、何度も疑ってきたんだ。だから、あの出来事がきっかけで好きになったって私が言ったとき、あんなふうに動揺してたんだ。彼、言ってたよね。「もし助けたのが俺じゃなかったら、それでも南は俺を好きになってたのか?」って。もっと早く気づくべきだった。思い込みだったんだ。ずっと、自分が見たいものしか見てなかった。私が必死に追いかけてきた「光」は、最初から一度も、私を照らしてなんかいなかった。彼の優しさは、ただの幻想だった。一瞬たりとも、私のために向けられたことなんてなかった。彼は私を愛していなかった。それなのに、私が勘違いして、勝手に傷ついているのを、ただ傍観していた。
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第262話

来依は裸足のまま玄関まで駆けていき、勢いよくドアを開けた。でも、次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。「山田先輩……南に会いに来たの?」「うん」穏やかな笑みを浮かべたまま、彼は玄関に入ってきて靴を脱ぎながら私に目を向ける。「今日の体調は?まだ痛む?」たった一晩しか経っていないのに、こうしてまた彼の顔を見ると、どうしようもなく気まずい気持ちになる。助けてくれたのは、彼だったのだ。私がぼんやりしているのに気づいたのか、山田先輩は笑ってこちらへ歩み寄った。「何考えてた?」「……何でもない」私は慌てて首を振り、頭の中を振り払うようにして言った。「もうだいぶ良くなったわ。昨日ほどじゃない」「それなら良かった」そう言って、彼は持っていた袋をテーブルに置いた。「病院で、傷跡を目立たなくする薬をもらってきた。体の傷、けっこう深いから。顔じゃないにしても、ちゃんとケアしないと、あとが残るかもしれない」その言葉に、胸の奥で何かがじわっと広がる。あのことを知ったのかもしれない――私は、申し訳なさと感謝が入り混じった気持ちで、思わず素直に頷いた。「うん、夜、薬を替えるときに使うね」「焦らなくていいよ」室内は暖房が効いていて、彼は白いダウンジャケットを脱ぎながら、柔らかく笑った。「傷跡の薬はね、ある程度傷がふさがってからじゃないと使えないんだ」「……わかった」私はこくりと頷いて、心に刻んだ。来依がちょうどドアを閉めようとしたとき、チャイムが鳴った。デリバリーだったようで、彼女は袋を受け取りながらキッチンに向かう。「今日の晩ごはんは任せて。ふたりは座って待ってて」火鍋なら、料理の腕を試されることもない。私も彼も、異論はなかった。キッチンからは、食器の触れ合う小さな音が聞こえてくる。ふと彼が横目で私を見て、少しだけ眉をひそめた。「……さっき、泣いてた?」「……うん」私は否定しなかった。丸八年、恩を勘違いして、ずっと好きでい続けた。泣いたって、おかしくない。もし最初から間違っていなければ、私はあそこまで深く宏を好きになることはなかっただろう。確かに彼は、涼やかで品のある人だった。でも、あくまで他の人たちと同じように、ただ少し憧れて、やがて卒業とともに忘れ
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第263話

空気が、ふと止まってしまったかのようだった。山田先輩はそっと手を伸ばし、私の頭を撫でる。その声は静かで、ゆっくりと、けれど一言一言に確かな力を宿していた。「……あのとき、ライブに誘いたかったのは、南だったんだ」「ずっと離婚を待っていた相手も、南だった」「二十年も好きでい続けた人も――南、君だけだよ」穏やかで揺るがない声。決して否定を許さない強さと覚悟が滲んでいて、琥珀色の瞳がまっすぐに私を射抜く。「南。最初からずっと、君だけなんだ。他には誰もいない」――心が、ぐっと引っ張られた気がした。その瞬間、胸の奥がざわつき、手も足もどうしていいかわからなくなる。本当に、大切にされ、愛されるということが目の前に訪れたとき、私の最初の反応は、「そんな資格、私にはない」だった。胸の奥がぐちゃぐちゃにかき乱されて、思わず口をついて出る。「……どうして私なの?二人は長い付き合いがあるじゃない。私なんて、まだ――」「覚えてるか?俺が8歳のときに山田家に戻ったって話」山田先輩はゆっくりと言いながら、自分の手首を差し出した。そこには一本の赤い紐が、今も大切そうに巻かれている。「家に迎えられる前、ずっと山口にいた。この紐、覚えてる?」「……覚えてない」私は戸惑いながら首を振った。おばさんの家に引き取られる前の記憶なんて、ほとんどなかった。思い出せるのは、両親の断片的な姿と、借金取りに追われていた記憶くらい。おばさんは、私に食事を与えるだけでもおじさんに顔色をうかがっていた。病院なんて、行けるはずがなかった。大人になってから医者に相談したとき、「大きなトラウマによる記憶障害だろう」と言われた。そして時間が経ちすぎているため、記憶が戻る可能性はほとんどないと。「これは、あの頃、南が俺にくれた誕生日プレゼントなんだよ」彼はそんな事情など知らないまま、まるで隣に住むお兄さんのような口調で言う。「いいんだ。これから先は長いんだから、昔のことは俺が覚えてれば十分だろ」「……あなたは」少し言葉に詰まりながら、私は問いかけた。「いつ……私のこと、気づいたの?」「南が低血糖で倒れたときだよ」優しいまなざしで、彼は静かに続ける。「周りの人が南って呼ぶのが聞こえてさ。最初は同じ名前
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第264話

その話に触れたとたん、山田先輩の表情にもかすかな陰が差した。「だからさ。大学で南と再会したとき、何年も南の人生にいなかった自分を、すごく恨んだよ。そんなに辛い思いをさせてたなんて、って」「……先輩、それは違うよ」あの頃、彼だってまだ子どもだった。人生には、自分の足で歩かなきゃいけない道がある。誰かに代わってもらうことなんて、できない。でも――それでも、あの時。ほんの一瞬でも手を差し伸べてくれたこと、それだけでもう、十分すぎるくらい救われていた。そんな空気を切り裂くように、キッチンから来依がにこにこと現れた。鍋を両手に抱えながら。「ふたりとも、話はまとまった?そろそろ火つけるよ」「ぜひ」山田先輩はすぐに応じた。「今日、昼抜きだったんだ。もうお腹ペコペコでさ」鍋を囲む時間は、まるで冬の寒さを忘れるくらいに賑やかだった。来依がいることで、笑い声が絶えなかった。私も、少しずつ。あのニュースのことを、頭の隅へ追いやることができていた。……そうだよ。全部、きっと、過ぎていく。翌朝になっても、雪は止まなかった。風は強く、地面は白く染まり、凛とした冷たさが窓の外を支配していた。来依は昨夜、うちに泊まっていた。電話を一本受けたかと思えば、跳ねるように立ち上がった。「南!怪我の具合はどう?今日、外出できる?」私はちょうど水を飲んでいた。「……どうかした?」「RFとの契約、通ったって!今からサインしに行けば、お昼には資金が振り込まれるって!」「えっ、そんなに早く?」興奮していたのは来依だけじゃない。私も、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。RFクラスの外資企業なら、契約から資金の実行まで相応に時間がかかるはずだ。それが、たった数日で?私たちが鹿児島にあるRFグループのオフィスに着いたとき、山名はすでに応接室で待っていた。「ごめんね、支社がまだ立ち上がってなくて。ちょっと簡素な場所だけど」そう言って、彼はにこやかに契約書を差し出してくれた。「山名さんたち、鹿児島に支社を設立する予定なんですか?」来依がすかさず食いつく。「うん、ちょうど準備中。でも、本当はもう少し時間を置くつもりだった。でもね、今ちょっと厄介なことがあって、前倒しせざる
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第265話

市役所の前に立った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。今まで感じたことのないほどの、解放感だった。本当は来依が付き添うと言ってくれたけれど、私は首を振った。最初に一人で始めたのだから、終わりも一人で迎えるべきだと思ったから。通りを走る車の音が、やけに遠くに聞こえる。出入りする人たちの顔を眺めていると、誰が結婚で誰が離婚なのかなんて、一目でわかる。笑っているのは、結婚する人たち。無表情か、互いに顔を背けているのは、離婚する人たち。感情が壊れた関係ほど、綺麗な終わり方はできないものだ。けれど、宏と私の間には、そんな面倒すら存在しなかった。彼は最初から私に愛情なんて持っていなかったし、私が彼を愛してしまったのも、ただの偶然のようなもの。――それでも八年も、間違えていた。ただ、一つだけ予想外だったのは、宏が一人で来なかったということ。黒光りするマイバッハのドアが開き、宏が降りてきた。そのすぐ後ろに、星華の姿があった。宏の顔には、いつものように感情の色がまるでない。片手をポケットに突っ込み、まるで何事もないような口調で言った。「行こうか」あまりにも普通すぎる声。離婚手続きをしに来た人間のそれとは思えない。まるで、ただ昼食を食べに来ただけみたいだった。「……うん」私は視線を落とし、静かに頷いた。星華も中に入ろうとしたが、宏は薄く笑みを浮かべた。けれどその笑みは目に届かず、声は少しだけ冷たさを帯びていた。「どうした?俺が偽の離婚証明書でも取ってお前を騙すとでも思ったのか?」「そんなわけないじゃない!だって、私……あなたと結婚したいの!」星華はふくれた声でそう言い、結局車へ戻っていった。「じゃあ、ここで待ってるから」と。手続きは驚くほどあっさりと進んだ。離婚証明書を手にしたとき、私は心の底から息を吐いた。――やっと、終わった。胸の奥がすうっと軽くなるのを感じながら、私は余計な言葉は挟まずに手を差し出した。「……私の分をください」宏は一冊を開き、親指で私の写真をなぞるように撫でた。その瞳が一瞬だけ揺れた気がした。「南……元気にしてるか?」「ええ、元気よ」離婚した今さら、そんな芝居がかった言葉はいらない。私は宏の手から書類を奪うように受
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第266話

車窓の外をぼんやり眺めながら、ふと、涙が溢れたような気がした。でも、頬は乾いたまま。鏡で見ても、何も変わっていなかった。視界はむしろ驚くほどに澄んでいて、目の前の世界が、妙にくっきりと見えた。家に戻った直後、不動産仲介から電話がかかってきた。「海絵マンションの物件、買い手が決まりました。しかもお値引きなしで、すぐにお会いして契約に進みたいと」あまりに急で、少し呆気に取られた。そのまま海絵マンションへ向かう道すがら、私はずっと考えていた。もしこの家がもう少し早く売れていたら、南希はRFグループの出資に頼る必要はなかったのかもしれない。でも、そんな「もし」は、現実には存在しない。それに、大きな木の下なら風も防げる。良し悪しなんて、どこにでも転がっているものだ。到着して、仲介の隣に立つ買い手を見て、私は思わず足を止めた。「……山名さん?あなたがこの家を?」「ええ」山名はまったく驚いた様子も見せず、いつもの穏やかな表情のまま頷いた。「清水さん、お久しぶり。また会えたね」「すごい偶然ですね。昼に私の会社に投資して、午後には家まで買ってくださるなんて……私の金運、上げてくれてるんですか?」「そうだといいね。南希はQ4でいちばん期待している投資先なんだから」冗談めかして言うその口ぶりに、私はつられて笑った。「……それで、この家、本当に買うつもりなんですね?」「もちろん」山名はゆっくりと室内を見渡しながら、少し残念そうに言った。「ほとんど新築同然だし、内装もとても丁寧で綺麗だ。かなり手をかけたのがわかる。……手放すのは惜しくないかい?」「元夫が買ってくれた家なんです」私はあっけらかんと答えた。「手元に置いておいても意味がないし、だったら現金にした方がましだと思って」――愛していたときは、たとえ髪の毛一本だって、特別な意味を持っていたのに。別れた今では、その髪の毛一本ですら、目に入るだけで胸がざわつく。ましてや、家そのものが彼の痕跡なんて、気が狂いそうだった。山名が眉をひそめた。「元夫……浮気とか?」「まあ、そんなところです」私は軽く言った。宏との関係は、そんな単純な話ではなかった。でも山名とはあくまでビジネスのパートナー。それ以上話す理由もない。
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第267話

私と来依はあれこれ考えてみたけれど、いったい誰がそんな良い人なのか、結局見当もつかなかった。「まあ、いっか。深く考えなくてもいいじゃん。お店開いたんだし、注文入ったってだけでラッキーだよ」来依はそう言って、大きく伸びをひとつ。「もうすぐ面接の子が来るから、準備して。一緒に面接出てくれる?」「うん、行く」新しい会社がスタートしたばかりで、やることは山積み。今のところ動いているのは私と来依の二人だけ。二十四時間働いても終わらないほどだった。だからこそ、人を雇うのは急務だった。面接では、質問は来依が担当。私は横で様子を見るだけ。あとで二人で決めればいい。最初に来た数人は、悪くなかった。でも「この人!」とまでは思えなかった。そんな中、一人の女の子がドアを開けて入ってきた。軽くお辞儀をして、素直そうに席に座り、自己紹介を始める。「はじめまして。服部花と申します……」その名前と、どこか見覚えのある顔。視線が合うたびに、あのうるんだ瞳がキラキラ光っていて――どこかで会ったことがある気がしてならなかった。来依は笑いを堪えきれないように、横から茶化す。「うちの南を知ってるの?それとも、あまりに綺麗だから見惚れてる?」「清水社長……」花は照れくさそうに笑って、遠慮がちに聞いてきた。「マサキのライブ……行かれたこと、ありますか?」――その瞬間、思い出した。私は思わず笑みを浮かべて頷いた。「……あぁ、あのときの子!」ライブ会場の前で、私と一緒に宏を待ってくれた、あの女の子。彼女もぱっと立ち上がり、目を細めて何度もうなずく。「はいっ、私です!」「なにそれ……」来依が思わず吹き出す。「どこから拾ってきたの」私が口を開く前に、花の方が先に話し出す。「この前のマサキのライブで、チケットがなかったんですけど……清水さんとお友達が、余ってたチケットを私にくれて……!」「うん、そういうことするよね、南は」来依は笑いながらそう返し、彼女の話をやんわり遮ってから本題へと戻した。「履歴書には、デザインディレクターのアシスタント希望って書いてあるけど?」今の私は、主にデザインを担当している。だから、ただのアシスタントではなく、ある程度デザインがわかる人材が必要だった
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第268話

午後、私は春の新作デザインに没頭していた。そこへ、外から何やら言い争う声が聞こえてきた。一つは、聞き慣れた――というより、聞き飽きた声。もう一つも、どこか記憶にある響きだった。私は扉に手をかけ、開けたその瞬間に来依の怒声が飛び込んできた。「聞こえないの?アンタの注文なんか受けないって言ってんの。あんたに服作るなんて、うちの南の手が汚れるだけ!」「ふん」鼻を鳴らしたその女の声は、相変わらずの傲慢さだった。「じゃあはっきり言っておくわ。あんたたち、やってもらうしかないの。断る選択肢なんてないのよ」これだけ人を見下せる人間なんて、他にいない。星華しかいなかった。「やらないって言ってんでしょ?どうするつもりよ?」来依は眉ひとつ動かさず肩をすくめた。「警察にでも通報する?あっ、でもね、犬捕まえるなら警察より動物管理センターのほうが適任かも?」――口では絶対に負けない女。それが来依だ。星華は顔を歪めて歯を食いしばり、声を震わせながら言い放つ。「……いいわ。じゃあ今日オープンしたこの会社、今日中に潰してあげる」「やります」私は一歩前に出てそう言った。彼女が私にこの婚約ドレスを無理に押し付けようとしているのは、ただ私に宏への想いを完全に断たせるため。それと同時に、できる限り私を侮辱するため――それだけだ。でも私は、もうとっくに、すべてを置いてきた。数えきれないほどの絶望と崩壊のなかでもがいていたのは、彼が暗闇に射す光だと信じていたから。けれど今では、もうわかっている。彼は光なんかじゃなかった。お金を払ってくれるなら、相手が誰だろうと関係ない。それに、彼女が本気で南希を潰しにかかるなら、まだ始まったばかりのこの会社はひとたまりもない。RFグループだって、私たちのような小さな存在のために、国内の巨大な名家と敵対することはないだろう。星華は限定品の最新コレクションに身を包み、勝ち誇ったように唇を吊り上げて見下ろしてきた。「やっぱりね、あんたは空気読める子。こっちの子はダメね。そういう柔軟性がないと世渡りできないのよ?」私は穏やかに笑った。「彼女は、犬の言葉を習ってないだけ。だからあなたと話すのは難しいのよ」一瞬、星華はきょとんとした。でもすぐに、私が来依の「動物管理
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第269話

藤原夫人がオフィスに姿を現したとき、胸元がわずかに上下していた。その様子からも、彼女がどれほど急いで駆けつけたかが分かる。誰の目にも明らかだった。彼女が星華という娘を、まるで宝石のように大切に思っていることが。星華は後ろ盾の登場に安心したのか、唇を尖らせ、今にも泣き出しそうな顔で母親に訴えた。「お母さん、私、彼女が離婚したばかりで可哀想だと思って、商売を助けてあげたのよ?それなのに、彼女ったら友達と一緒に私のこと犬って罵ったの!」藤原夫人は眉間にしわを寄せ、怒りを宿した目で私を睨みつけた。「あんた、いい加減にしなさい!娘に謝りなさい!」「まったく、親が親なら子も子ね」来依は堪えきれず、皮肉たっぷりに口を開いた。「いい加減って何?誰があんたの娘に頼んで商売を助けてくれって言った?こっちははっきり断ったのに、しつこく絡んできたのはそっちでしょ!」「あなたみたいな人間が、私に口を利く資格があると思ってるの?」藤原夫人は鼻で笑い、蔑むような目を向けたあと、今度は私に視線を移し、低く脅すように言った。「清水さん、この前はあんたの顔を立てて彼女のことを大目に見てあげた。でも今日、またその口が利けなくなるようなことを言うなら……この街から彼女を消すわよ」来依は優しくされると弱いが、強く出られると逆に反発するタイプだ。案の定、相手の態度にさらに苛立っていた。「やれるもんなら――」「来依!」私は慌ててその言葉を遮り、必死で押しとどめた。「もういいから、中に戻って待ってて!」自分の身ならどうなっても構わない。でも、来依を巻き込みたくはなかった。この母娘は手口こそ稚拙でも、やり方は容赦がない。さっきの言葉を聞いただけでも、彼女たちの本気が分かる。来依は唇を噛みしめ、不満そうに言った。「私、ここで一緒にいるから……」「中に入って!」星華は最初から私に喧嘩を売るつもりでここに来た。今度は藤原夫人まで加勢してきて、二人そろって力で押しつぶそうとしている。来依がこの場に残れば、きっと数言で我慢の限界を超えてしまうだろう。私は彼女の背中を押し、半ば強引にオフィスの中へと追いやった。それでも彼女は扉の向こうから不安そうな声をかけてくる。「南、あいつら、絶対にあんたをいじめるよ!」「言葉で好
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第270話

わざわざ人を侮辱しに来たくせに、それを「愛ゆえ」みたいな言葉で飾り立てるなんて。一途な想いを貫いているかのような顔をしているけれど、病室で宏とあけすけに話していたあの言葉を、私は今でも鮮明に覚えている。藤原夫人はそんな娘の芝居をすっかり信じ込み、呆れたように彼女の頭を軽く叩いた。「星華、あんたって本当に、宏さんのことしか頭にないのね」星華はおとなしく微笑んで、「あんなに素敵な人を大切にしない人もいるけど、私はちゃんと大切にしたいの」と言ってみせた。……腹の底が真っ黒な人間だな、と内心で鼻で笑う。もうくだらないやりとりに付き合っている暇もない。私はさっさと話を終わらせたくて、再び尋ねた。「それで、具体的な要望は?」「高貴さよ!」彼女はふんぞり返って言い放ち、さらに続ける。「ダイヤモンドはたくさんつけて、キラキラ光る感じにして。襟ぐりにはオーストラリア産の白真珠をぐるっと一周、誰が見ても高いってわかるようにね。あと、ルビーも絶対入れて。私、赤が大好きなの」……最後まで聞いて、思わず笑いそうになった。ダイヤモンド、白真珠、ルビー。ドレスというより、もう宝石箱だ。それが本当に彼女の好みなのか、それともただの嫌がらせなのか、私にはわからない。「星華さん、さすがに要素が多すぎて、全体のバランスが崩れるかもしれませんが……」できるだけプロらしく提案すると、彼女は鼻で笑った。「あんた、嫉妬してるんでしょ?」「???」思わず、顔が引きつった。彼女は甘やかされて育った典型のような表情で、顎を少し上げながら言った。「私が一着のドレスに七桁、八桁の予算を出せることに、羨ましいでしょ?でも残念ね、あなたにはそんな運ないもの。親にも恵まれず、挙げ句の果てにバツイチの女なんてね」「……」頭おかしい。その言葉を飲み込み、私は淡々と確認した。「すべての要素を、入れるということで間違いないですね?」「もちろんよ!」星華は得意げに顎をしゃくった。「婚約パーティー当日は、私が主役じゃなきゃダメ。他の誰にも負けるわけにはいかないの」そして母親の腕に寄りかかり、甘ったるい声で言う。「ねえ、お母さん?だって私はあなたとお父さんの娘なんだもの。恥をかかせるわけにはいかないわ」藤原夫人は満足げ
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