All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

私の心臓は、何かにきゅっと掴まれたように痛んだ。鷹が言っていたように、それは無意識の奥から湧き上がるもので、理由なんて自分でもわからなかった。鷹の顔に浮かぶかすかな悲しみを見ていたら、気づけば私はつま先を伸ばし、手を上げてその頭に触れようとしていた。けれど、指先が半分ほど近づいたところで我に返る。空中で止まった手のまま、褐色の瞳を見つめて、そっと声を落とした。「鷹、彼女はあなたを責めたりしないよ」一瞬だけ、彼の目が明るくなった。しかし、私の手が止まったのを見て、その光はすぐ元の静けさに戻る。「お前は奈子じゃない。どうしてわかるんだよ、彼女の気持ちが」「……私、彼女に少し似たところがあるから」視線を落とし、胸の奥に沈んでいた苦さを静かに言葉にする。「昔は何不自由なく暮らしてたのに、突然両親を亡くして……ひとりで必死に生きてきた。そんなところが、ちょっと似てる」もう一度顔を上げ、微笑んだ。「もし私が彼女だったら、絶対にあなたを責めないよ。彼女だって……きっと同じだと思う」苦しい思いを経験した人間ほど、他人の痛みに共鳴できる。そして、何より――鷹はこんなにも長く待ち続けた。それだけで十分すぎる。鷹は少しだけ、表情を和らげた。いつもの鋭さのない声で尋ねる。「……お前は?この数年、辛かったことはあるのか?」「子供の頃はね」深く息を吸い、目に映る部屋のどこか懐かしい空気を確かめながら、小さく笑った。「でもそのうち慣れちゃった。この数年は江川家で大事にしてもらってたし、辛いなんて言えないよ」鷹はじっと私を見る。「それで……毎日、楽しいのか?」私は思わず吹き出して、庭に向かって歩き出した。「若様、大半の人はただ生きるだけで精一杯だよ。毎日が楽しいなんて、あり得ないでしょ?」「……そうかよ」「じゃあ、鷹は?楽しい?」鷹も外に出てきて、ドアを閉めながら横目で私を見る。「お前、わかってるくせに」――楽しくなんかない。その一言が、彼の声に滲んでいた。きっと奈子を失って以来、彼はずっとそうなのだ。私は肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。鷹は私を藤原のおばあさんの居る庭まで連れて行く。「おばあさん、お前に藤原家に泊まってほしいって言ってる。でもホテルがい
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第322話

「バカな子だね」藤原のおばあさんは、まるで可笑しいものを見つけたように微笑んだ。「南さんのことを何も知らなかったら、家になんて連れて来たりしないよ。それに、前の夫が江川宏くんだってことも、とっくに知ってるさ」「それなら……」ふと思い当たることがあって、私はつい口を開いた。「この前、星華さんが宏を連れて来た時……もう分かってたんですか?」「わざと困らせたんだよ、宏くんを」藤原のおばあさんは眉をぴんと上げて言った。「だって、自分の嫁も守れないなんて、あんなの自業自得だよ」「……本当に、自業自得です」「ひとつ言っておくれ。宏くんは悪い子じゃないけどね、考えが重すぎる。ああいうタイプと暮らしたら、心が休まらないよ。しんどくなる」「おばあさん、私たちもう離婚しましたから」私は笑ってみせた。藤原のおばあさんはじっと私の顔を見つめ、深く探るように聞いた。「本当に、見切りをつけたのかい?」「……はい。もう終わりです」視線が自然と、自分のお腹へ落ちた。胸の奥がきゅっと痛む。「私たち……もう少しで子どもができるところだったんです。でも、宏は別の人を助けるために私を置いて行って……結局、子どももダメになりました」あのとき、私は完全に終わったのだ。その後に起きたあれこれは、ただ「こんな結末になるなら、最初からあんな風にしなければよかったのに」と思うばかりだった。いったん割れた鏡は、どれだけ丁寧に貼り合わせても、亀裂がずっとそこに残る。「傷ついた事実は消えないんだよ」と突きつけ続ける。もう一度戻れるのは、諦めたふりをして、本当はまだ諦めていない人だけ。藤原のおばあさんは身を乗り出した。「だからこそ、鷹を見なさいって言ってるんだよ!あの子は本当にいい子だよ。何でも気にしてないような顔をするけど、いったん心に入れたものは、一生忘れない子なんだ」「おばあさん……」私は困ったように笑った。「今は、そういうことを考える気力がなくて……」裏切られ、見捨てられ、置いて行かれる――そんな経験は、一度で十分だ。それに……藤原のおばあさんは図星を突くように言った。「自分が離婚歴のある女だからって、鷹に釣り合わないと思ってるんだろ?」「……はい」昔から、『再婚の女は価値が低い』なんて
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第323話

花の言葉に、私は一瞬きょとんとした。「……え?」「信じていいよ、南さん」花はソファの上であぐらをかき、妙に確信めいた顔で言った。「今、兄は自分の気持ちと戦ってるの。南さんが好き。でも、その『好き』が怖いんだよ」思わず笑ってしまった。「考えすぎだよ。鷹が好きなのは奈子さんで、私はたまたま少し似てるだけ……」「違うってば!」花は食い気味に否定した。「兄はそんな人じゃないよ。南さんより奈子さんに似てる人なんて、今まで何人もいたのに、一度も相手にしたことなんてなかった。正直に言うけど、兄って損得勘定がはっきりしてるタイプでさ。好きでもない相手のために、あんなに何度も動くわけないよ」「それは……」反論しようとした。でも口を開いたところで、言葉が続かなかった。金沢の件も、藤原夫人に雪の中で跪かされたあの時も――あれは、決して「ついで」で済ませられる行動じゃなかった。しかも、そのあとも鷹は見返りを求めたことが一度もない。帰り道、私はずっと落ち着かなかった。昨日は藤原のおばあさんが妙に推してきて、今日は花がこんな話をして。平静でいようとしても、多少は揺れる。そんなことを考えたまま服部家を出た瞬間、門の外に止まっていたのは、見覚えのある黒いカリナンだった。嫌な予感がして、私は足早に藤原のおばあさんが手配してくれたロールスロイスへ向かった。乗り込もうとした、その時だった。手首が突然掴まれ、力任せに逆方向へ引かれた。「宏!?何してるの!」「連れて帰る。家で一緒に年越しだ」宏の声は低く、疲れが滲んでいた。でも、手の力は容赦がなかった。私は呆れ笑いすらこみ上げた。「どこの家よ?私たちもう何の関係もないでしょ」結婚記念日すら他の女と過ごした人間が、今さら「帰る」なんて。「関係がないなら……また作ればいい」その執着は、正直、怖いほどだった。「私は……嫌だって言ってるの!」必死に振りほどこうとした瞬間、宏がくるりと振り返り、私の身体を車体に押し付けた。真っ赤な目。何日も眠れていないような顔。額の血管が浮き、声は怒りとも痛みともつかない震えに満ちていた。「じゃあ、誰と関係を持つんだ。服部か?わざわざ大阪に来て……あいつと年越ししたいのか?」「あなたが口出しす
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第324話

「あるよ」私は口元を緩めて、少しだけ勇気を振り絞るように言った。「もし後者なら……ちょっと怖くなったの。もしかして、あなたが私のこと、好きになったんじゃないかって」鷹はふっと鼻で笑った。「怖いって?俺がお前を好きだと、夜も眠れなくなるとか?」「まあ、そんな感じ」私はまっすぐ彼を見て、正直に口にした。「あなたは性格もいいし、家柄も申し分ない。一途で、そんな人に好かれたら心が揺れるのは当然。でも、だからこそ、私たちは無理だよ」「無理?」「うん、無理」深く息を吸って、視線を外さずに言った。「私はもう子どもじゃない。わかってて無理な恋には踏み込めない。あんたの一途さは、私にとっては……欠点に見えるんだ。さっきは助けてくれてありがとう。だから、私もあなたの両親の前では彼女としてちゃんと振る舞うよ。でもそれ以外は、お互い冷静でいよう」夜。藤原のおばあさんが用意してくれた客間でシャワーを済ませ、布団に入ったけど、目は冴えたままだった。昼間のことを思い返す。鷹は、あのときこう言った。「清水。怖いのはお前だけじゃない」その意味を考える暇もなく、私は彼に車へ押し込まれて、運転手に送られた。枕を直して、電気を消そうとしたとき、ナイトテーブルのスマホが小刻みに震えた。――鷹からだった。私は少し眉をひそめながら出た。「もしもし?」スピーカー越しの彼の声は、どこか気だるげで――『外、来て』『……早く、寒いんだよ』「……わかった」私は起きてロング丈のダウンを羽織り、外に出た。チャックを引き上げながら足早に歩いていたとき、不意に硬い胸板にぶつかって、思わず二歩ほどよろける。顔を上げると、街灯の下。鷹が車に寄りかかっていた。私にぶつかった瞬間、彼は肩を揺らして小さく息を呑んだ。「呼び出されたのがそんなにイヤだった?車にでも突っ込むつもり?」ほのかに酒の匂いがした。「前見てなかっただけ。……で?何の用?」「清水」彼の視線が真正面からぶつかってくる。その奥には、さざ波のように細かく揺れる何かがあった。「大晦日を期限にする。もし元日までに、彼女から何の連絡もなかったら……俺はもう待たない」身体がびくっと反応した。その「待たない」が、どういう意味かなんて
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第325話

鷹がこんな顔をするのは、きっと初めてだった。緊張なのか、動揺なのか、はたまた戸惑いか。どれとも言い切れないが、とにかく、いつもの不遜で余裕たっぷりな姿とはまるで別人だった。……まるで、その一瞬だけ、かつての宏を見ているような気がした。そのせいか、私は逆に冷静になった。いや、それどころか少し冷たくさえなって、芽生えかけた感情の芽を無理やり踏み潰すように押し殺し、くるりと背を向けた。「……うん、続けて」鷹はまだ電話を切っておらず、ひと足でぐっと距離を詰めると、私を片腕で抱き寄せた。どれだけ抵抗しても、その腕はびくともしない。電話の向こうから誰かの声が聞こえた。鷹は抑えた声で、静かに言った。「気をつけろ。誰に流されるか分からねえからな。……今こっちで宥めてる。終わったらそっち行く」そう言い終えると、あっさりと通話を切って、スマホをズボンのポケットへ放り込んだ。そして、大きな手で私の頬をむぎゅっと掴んで、顔が変形するほど力を入れてきた。「何で逃げんの。俺、さっき何言ったか聞こえてた?」「……離して」「……ぷっ」どうやら、頬を押し潰されたまま話す私の様子が可笑しかったらしい。鷹は肩を揺らしながら笑って、けれど手は放さず、もう一度むにっと指に力を込めた。「先に答えてよ。俺が納得できる答えなら、離すからさ」私は彼の手をぺしんと叩いて振り払った。唇を引き結び、湧き上がる何かを押し込めるように言った。「鷹……私、あなたとは違う。遊ぶ気なんてないし、そんな余裕もない」「……遊び?」鷹の顔色がさっと変わった。舌先で苛立たしげに歯を押しながら言った。「俺が遊んでるように見える?」「違うの?」空から雪がしんしんと降ってきて、私は首をすくめた。「さっき自分で言ってたでしょ?あと二日、奈子さんの情報がなければ、もう待たないって。……でも、さっき連絡来たじゃん?それでもまだ私に気持ちを確かめてくるなんて、私が都合のいい『代わり』に見えてるの?それとも、彼女のほうが?」代わり――当然、それは私のことだった。この数日、藤原のおばあさんも、花も、いろんなことを言ってくれた。私も……ちょっとだけ本気で信じそうになった。でも今、目の前のこの、選ばれることに慣れた男を見て、やっと分か
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第326話

「はい」私は素直に席へ向かい、お雑煮をひと口ふた口いただいてから、藤原のおばあさんに笑みを向けた。胸の奥に、言葉にできない名残惜しさがこみ上げる。「おばあさん。この二日間、本当にお世話になりました。このあと鹿児島に戻るので……ひと足早いですが、どうか良いお年を」「もう帰るの?鷹のこと、まだ手伝うって──」「彼は……」私はそっと目を伏せた。「たぶん、もう私の手を借りる必要はありません」……彼の本当の初恋が、そろそろ戻ってくるのだから。「どういうことだい?あの子の手助けはもういらないからって、私のことまで置いていくのかい?」おばあさんはわざとらしく肩をすくめ、ぷいと視線をそらした。「せっかく、気の利く子がそばにいてくれると思ったのに。大晦日に帰るなんて、水臭いよ。いいから、ここにいなさい。私と一緒に年を越そうじゃないか」「……おばあさん」その言い方が、胸に沁みた。けれど、これ以上ここにいることが、もう自分にふさわしくないことも分かっていた。おばあさんは私の手をぎゅっと握った。「どうせ帰っても一人だろう?なら、私の言うことを聞いて──」「おばあさん!」突然、玄関のほうから甲高い声が響き、星華が両親を引き連れて入ってきた。彼女はショートブーツを鳴らしながらバタバタとおばあさんのもとへ駆け寄り、「おばあちゃん、南が帰るって言うなら帰らせてあげてよ。どうせすぐ、こっちもそれどころじゃなくなるんだから」おばあさんは露骨に眉をひそめ、星華の両親に鋭い視線を向けた。「あなたたち、自分の娘がどう育ったか、ちゃんと見なさい。礼儀ってものがまるでない!」藤原夫人の顔がさっと強張り、星華の父が慌てて間に入った。「母さん、大晦日くらい穏やかに……」「何が穏やかに、だい?」おばあさんはきっぱりと言い放った。「前から言ってるでしょう。年越しも祝事も、私は私、あなたたちはあなたたちで過ごす。私は邪魔しない。その代わり、私の静けさも乱さない。それだけだよ」「おばあちゃん!」星華は叱られた悔しさに顔を赤くしながら叫ぶ。「私を嫌うのはいいけど、おばあちゃんの本当の孫のことまで嫌うの?」おばあさんの表情が一瞬で変わった。「……どういう意味?」「だから言ってるのよ」星華はわざとら
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第327話

まだ言葉を発する間もなく、藤原のおばあさんは目を剥いて怒鳴った。「誰の許しを得て、この庭で客を追い出そうとしてるの?」「おばあさん、大丈夫です」鷹が以前、おばあさんは喜怒哀楽の波が激しいと体に障ると話していたのを思い出し、私は急いでなだめた。「もともと帰るつもりでしたし、きっとすぐに鷹が奈子さんを連れて、おばあさんにご挨拶に来るはずです」家族が再会する場に、部外者の私はいるべきじゃない。おばあさんは何か言いたげだったが、私の決意を察したのか、それ以上は何も言わなかった。朝のうちにまとめておいた荷物を引きずりながら階段を下りると、藤原夫人が門の外までついてきた。おばあさんの耳には届かない距離まで来たところで、彼女はあからさまに嫌悪を滲ませながら口を開いた。「今後、余計な用がなければ、もう来ないで。藤原家は、誰でも上がれる家じゃないのよ」「藤原夫人」私は足を止めることもなく、彼女を見ることもなく、静かに応じた。「あなたが私を嫌うのは分かります。あなたの大事な娘の夫の元妻として、私の存在が目障りなんでしょう。でもね、私はただ偶然、おばあさんの目に留まっただけ。藤原家にしがみつく気なんてありません」「あなたの本心なんて、誰が信じるの?」彼女はまったく信用せず、私が荷物を押す手元に目を落とした。「そのブレスレット、お義母さんからもらったのよね?」「ええ」「はっ」あからさまな侮蔑の笑みを浮かべて言い放つ。「そのへんの物乞いと変わらないわね」私はさすがに堪えきれず、冷たく言い返した。「それなら、あなたはどうなんです?いつもそんな風に、他人を見下して生きているんですか?」「清水南!!」まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。彼女の顔がみるみるうちに険しくなり、声を荒げる。「お義母さんがいるからって、私があなたに何もできないとでも思ってるの!?」「何をするつもりなんです?」私はふと昨夜積もった雪に目をやり、皮肉っぽく笑った。「また雪の中でひざまずかせる?藤原夫人、あなたの大事な娘さんの過去、まだまだ掘ればいくらでも出てきそうですけど」彼女の濃いアイラインの目が怒りに燃え、歯を食いしばって睨んでくる。「やっぱり、あの件はあなたの仕業だったのね!」「さあ、どうでしょう
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第328話

目頭が熱くなって、泣き笑いしながら来依に位置情報を送る。「で、あんたの沖縄はどうしたの?素敵な出会いを探しに行くんじゃなかったの?」「出会いより大事なのは南に決まってるでしょ。ひとりぼっちで年越しなんて、絶対させない」来依は気にも留めず、ケロッと笑って話題を変える。「それにさ、大阪も意外と出会いに向いてるって聞いたよ?」「恩に着るよ……まじで」思わず笑ってしまう。「せめてものお礼に、食って遊んで飲んで全部私持ちでよろしく」実際、私たちの間でお金なんて、あってないようなもんだ。誰も気にしない。でも、来依はすぐノッてきた。「南さま〜!もう一生ついて行きます〜!なんでもします〜!」来依が駆けつけてくれて、それだけで心が軽くなった。彼女は窓辺に立って、雪景色をぼんやり眺めながら言った。「でさ、服部のニュース、南はどう思ってるの?」私はきょとんとして聞き返す。「え、なにが?私がなんか思うことある?」「またシラ切って」来依が指で私の頭をつつく。「鷹って、あんたのこと好きでしょ。で、あんたもさ、完全に心閉ざしてるってわけじゃないんでしょ?」「ちょっとだけね」私はソファに座ったまま、膝を抱えながら、指で「ほんの少し」の幅を示してみせる。ぱちぱちと瞬きをしながら、冗談めかして笑った。「いてもいいし、いなくても困らない。その程度」愛に身を任せていたあの頃は、もうとうに終わった。一度痛い思いをすると、もう簡単には心を預けられなくなる。「ならいいのよ」来依はうんうんと頷き、私の隣に腰を下ろす。「服部は、あの藤原家の令嬢のこと、何年も待ってたんでしょ?今さら南が入り込んだって、どうせ最後には捨てられるだけだよ」「うん、ちゃんとわかってる」私と鷹は、きっとそういう縁じゃない。来依はじっとしていられなくなって、私を連れて大阪の古い街並みを散歩した。観光業が盛り上がってるからか、年末でもすごい人出で、街はお祭り騒ぎのような賑わいだった。鷹から電話がかかってきたけど、気づかなかった。かけ直しても、今度は彼が出なかった。夜になり、ホテルに戻って服を着替え、来依とふたりでそのまま一階のバーに降りた。私もいろいろ思うところはあったけど、来依のほうがきっとずっと複雑
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第329話

廊下にはふかふかの絨毯が敷かれていたけれど、尾てい骨から落ちた衝撃の痛みは、ぐらついていた意識をほんの少しだけ正気に戻した。……連れてきたのは、宏だった。まさか、人違いしていたなんて。私の拒絶に気づいたのか、宏は少し呆然としたあと、逆光の中でふっと笑った。「君、本気でこいつと付き合う気か?そのうち藤原家の娘を迎えるだろうに、そのときは花嫁の付き添いでもするつもり?」そこへ、鷹の皮肉な声が飛んできた。「……自分がそうだったから、そう言うんじゃないのか?」彼は長い脚で数歩にして私の前まで来て、あっさり私を引き起こしたあと、宏を見ながら穏やかに微笑んだ。「江川社長、お帰りの道中、お気をつけて」宏の両手は拳に力がこもり、こめかみの筋がぴくついていた。「おまえは藤原奈子にでも構ってろ。南は、俺のもんだ」「彼女は誰のものでもないよ」鷹は静かに返す。「彼女は、彼女自身だ」宏の目がすっと細くなる。何かを決めたように、私に手を差し伸べた。それは、きっと彼なりに精一杯の譲歩だったのだろう。「なあ、もういいだろ。騒ぐな。こいつとはうまくいかないって、分かってるだろ?……一緒に帰ろう」「私が誰と一緒になるか、誰とどうなるかは、あなたには関係ない」頭は割れそうに痛かったけど、言葉はしっかり口をついて出た。「私たちはもう他人。だから、誤解されるようなことは、言わないで」その一言に、宏は体中から破裂しそうな怒気を滲ませて、低く問うた。「……誰に誤解されるのが嫌なんだ?」視線が鷹に流れ、鼻先で笑う。「まさか、こいつ?南、ほんとにこいつに気があるのか?ふざけるなよ、こいつを使って俺を嫉妬させようとしてるだけだろ」私は思わず吹き出しそうになった。「私が鷹に心を動かされたら、何かまずい?」言い終えた瞬間、酔いのせいか、それともただの反発か――私は鷹の胸ぐらをつかみ、つま先立ちになって、その頬にそっと口づけた。……その瞬間、どこかでドクンと音がした気がした。それが鷹の心臓か、自分のものかはわからなかった。宏を見据える。「……これで信じた?」彼の顔は見るからに怒りでこわばっていた。けれど動きかけたその瞬間、鷹がぐっと私の肩を抱き寄せ、遮るように前に出た。「うちの南、酒が弱くて。
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第330話

胸の奥が、ふいにきゅっと締めつけられた。何かに不意打ちで刺されたような、そんな痛みだった。私はドアのほうを指差して、冷たく言い放った。「出てって」「清水、そのワガママ、誰に甘やかされて覚えたんだよ?ちゃんと話せないのか?」「あなたがちゃんと話したことある?」睨み返しながら言う。「私を責める権利なんて、あなたにはないでしょ。婚約者はどうしたの?そっちに付き添わなくていいの?私に会ってる暇あるの?」「酔ってるくせに、棘は減らないんだな」鷹は舌で頬を押しながら、ふっと笑って、観念したように私の前で膝をついた。声のトーンを落として、柔らかく言う。「わかった。俺が焦ってちゃんと話せなかったのは悪かった。罰は受けるよ」「……罰って?」思わず問い返すと、彼は片眉を上げて、わざとらしくニヤリとした。「もう一回キスされる、とか?」「……っ」そのときになってようやく気づいた。彼の耳がずっと真っ赤だったことに。私は頭を振って、アルコールの影響を断ち切るように必死で彼を見つめた。「……なんで来たの?」「お前に、ちゃんと話をしに」「昨日、話は済んだんじゃなかった?」「そう思ってるのはお前だけだ」そう言いながら、鷹は私のためにぬるめの水を注いでくれ、スマホで何かを打ち込んだ後、再びこちらを向いた。「もう彼女は藤原家に送ったよ。清水、昨日『待たない』って言ったときには、実はもう答えは出てた。俺が心変わりしたとか、クズだとか言われても構わない。……でも、俺は本気でお前が好きになった。俺ってさ、同時に二人を好きになるような器用な人間じゃない。お前に気持ちを伝えた以上、他の誰とも曖昧な関係にはならない」私はぎゅっと手のひらを握った。「……じゃあ、奈子さんは?」「まず、本当に奈子なのかをはっきりさせる」鷹の眉間に、かすかな陰が落ちる。「状況的には彼女が本人らしい。でも、俺もばあちゃんもそう思えなくて、すでに親子鑑定に出してる」「……もし彼女が本物だったら?」「お前に会いに来る前に、ばあちゃんと婚約解消について話してきた」彼は私の乱れた前髪をそっと耳にかけて、まっすぐに私を見た。「彼女が奈子本人だろうと違っていようと、俺は婚約を解消する。清水、一度だけ、俺を信じてみてくれないか?
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