All Chapters of 冷酷社長の逆襲:財閥の前妻は高嶺の花: Chapter 1071 - Chapter 1080

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第1071話

「お母さん、そんなに焦らないで。いい方法があるの」白露は秦の耳元でそっと囁いた。「お母さん、その時、紙おむつを履いておけばいいのよ。そうすれば絶対にバレないわ」「か、紙おむつですって?」秦は顔を真っ赤にして叫んだ。「大丈夫よ。私以外、誰も知らないから。お母さんは堂々としてればいいの。せっかくお父さんと仲直りできそうなんだし、この潮見の邸のレースには絶対に出席して、みんなの注目を集めて――お父さんの心を取り戻すのよ!」そうね、この子の言う通りだわ。こんなチャンス、滅多にない。絶対に成功させなきゃ。「......仕方ないわね。そうするしかないみたい」紙おむつなんてどうでもいい。大人だって使う人はいる。白露が口をつぐんでいれば、誰にもバレないはず。「お母さん、ひとつお願いがあるの」白露がすかさず話題を変えた。「また何よ、あなた。どうせ条件付きでしょ?」秦は険しい顔で睨む。最近この娘は本当に手に負えない。「お母さん、聞いてってば!」白露は少し涙をにじませながら続けた。前に使用人たちが自分の悪口を言っていたので注意したら、光景に見つかって、レースへの出場資格を取り消された――その出来事を、彼女はわざと大げさに話した。「お母さん、私もレースに行ければ、お母さんを手伝えるし......あの場にはたくさんの名家の若様が来るのよ。お母さんだって、私がいい人と結婚して力になれたら嬉しいでしょ?」秦は沈黙し、やがて小さく頷いた。「わかったわ。お父さんを説得してみる」「お母さん大好き!」白露は勢いよく抱きついた。その瞳の奥で、冷たい光がチラリと閃いた。......桜子は結局、家に帰ることにした。隼人としばしの別れだ。それに、もう準備は整っている。あとは自分の舞台を仕掛けるだけ。夜、二人で熱い湯に浸かり、風呂上がりに桜子はバスローブ姿で鏡の前に座る。隼人は背後でドライヤーを持ち、桜子の黒髪を丁寧に乾かしていた。指を髪の中に通しながら、優しく頭皮を揉みほぐす。「ふぅ......気持ちいい......」桜子はうっとりと目を細め、足の指先まで緩んでしまう。「隼人、社長なんて辞めて、マッサージ師になったら?私、
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第1072話

あのボロボロになったスーツ。隼人は今でも大切にしまっていて、誰にも触らせようとしなかった。けれど、彼は新しいスーツを桜子に頼みたかった。それは単なる衣服ではなく――新しい始まりの象徴だった。彼女との、やり直しの願いを込めて。「本当に、私の作った服が好きなの?」桜子は大きな瞳を瞬かせながら、細い指で隼人の顎をくすぐった。「作ってあげてもいいけど......もし気に入らなかったら無理して着ないでね?私のために我慢してほしくないの。たとえ服一着でも」隼人の喉がつまる。胸の奥が、熱く痛んだ。しばらく黙ったあと、感情を抑えきれずに低く言う。「本当は、ずっと好きだった。でも、あの頃の俺はバカで、素直になれなかった。言葉にするのも下手だった。......桜子、欲を言えばきりがないけど......もう一度だけ、やり直すチャンスが欲しい」「大げさよ。服一着の話でしょ」桜子は軽やかに笑った。過去の痛みなんて、もうこだわる気はなかった。「今の仕事が一段落したら、作ってあげるわ」隼人の目が熱を帯びる。言葉が出ない。代わりに、彼はそっと桜子を押し倒し、柔らかな唇を奪った。指先が絡み合い、熱が溶け合う。その夜、言葉はもう必要なかった。......翌朝。樹が車を手配し、桜子を海門へ送り届けた。隼人は自分で送ると言い張ったが、桜子は首を横に振り、「ちゃんと休んでて」と微笑んだ。彼は玄関先に立ち、ロールスロイスが見えなくなるまで見送っていた。たった数分離れただけなのに、胸が締めつけられる。すでに、彼は『恋の病』の真っ最中だった。「いやぁ~びっくりしたわ。ゴミ出しに行ったら、門の前に大きな石が立ってるんだもの」白倉が手のほこりを払いつつ、からかうように笑った。隼人は我に返って眉をひそめる。「石?どこに?」「遠くにあるようで、すぐそばにある――『妻を想う石』よ」「......っ!」隼人の頬が一瞬で真っ赤になった。......桜子が閲堂園に戻ると、万霆は外出中で、夜にならないと帰らないという。三人の奥方も留守だった。仕方なく、桜子は部屋に戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。深い眠りから目覚めたのは午後。ちょうどその
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第1073話

三人の奥方は、実は朝から縁日に出かけていた。しっかり参拝して、買い物で散財して、最後は話題のアフタヌーンティーで。満足しきって、ようやく閲堂園へ戻ってきた。世間の目から見れば、三人の立場は気まずい――そう思われている。誰もがきっと、ドロドロの後宮劇を想像するだろう。ところが実際は正反対。三人は仲良しで、まるで幼なじみのようだ。その絆は、時に桜子でさえ羨ましくなるほどだ。万さんは前世で、きっと宇宙を救ったのだろう。だから今世で、こんなにも三人から一途に想われる。「ちょっと!私を置いて遊びに行ったの?怒った、ぷんぷん」桜子は庭のブランコに座り、つま先で地面を蹴って揺れる。その姿は、少女のように軽やかだ。「やだもう、わざと置いていったわけじゃないのよ!」鈴子が背後から首に腕を回して、甘えるように抱きつく。「だって急に帰ってくるんだもの。言ってくれたら、たとえお父さんが半身まひで心筋梗塞で足も折れてても――どんな大事なことがあっても、家であなたを待ってたわよ!」桜子の口元が引きつる。「......」敏之と愛子が顔をひきつらせる。「鈴子、そこまで言わないの。万霆に失礼よ」「やだやだ。万霆に何かあったら、私、どこでこんなに頼れる長期の財布を見つければいいの~?ははは!」鈴子は腰に手を当て、豪快に笑う。三人そろって、額に縦線。「............」幸い、万霆は近くにいない。いたら本当に、心筋梗塞を起こしかねない。「愛子は仏さまを信じてるからね。今日は縁日、気分転換にもなるし、二人で付き添って出かけたの」敏之が桜子の手をとり、やわらかく説明する。「私が悪かったわ。今夜は腕によりをかけてごちそうを作る。桜子に謝らなきゃ」愛子は自分の娘よりも桜子を甘やかす。機嫌が悪いと知るや、ぱっと台所へ向かおうとした。「愛子さん、待って。冗談だよ~」桜子はあわてて立ち上がり、愛子の腕を抱え込む。ぷくりと唇を尖らせて甘えるように言う。「もう、からかわれるとすぐ本気にしちゃうんだから」遠慮がちで、ちょっと卑屈に見える愛子の様子に、胸がきゅっと痛む。そんなふうに気をつかって生きるのは、きっとすごく疲れる。「愛子さん
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第1074話

しばらく沈黙ののち、三人の奥方はそろってうなずいた。「なるほどね。万霆が宮沢家を爆破しなかったのは奇跡よ。隼人を人間ミンチにしなかっただけでも、まだ優しい方だわ」三人がさらに質問を重ねようとしたその時、執事の高木が慌ててやってきた。「桜子様、ご主人様がお戻りです。書斎までお越しください」「わかったわ」桜子は深呼吸し、立ち上がる。その背に、三人の奥方が顔を見合わせ、声をそろえた。「私たちも行くわ。万霆が怒ったら大変だもの」......書斎の中。万霆はソファに腰を下ろし、無言で湯気の立つ茶をすすっていた。普段なら父娘で冗談を言い合い、笑いが絶えない。だが、今日は違った。部屋の空気が、張りつめている。「俺と桜子が話すだけだ。なんで全員ついてくる?」万霆は不機嫌そうに三人を一瞥し、湯呑みをテーブルに『カンッ』と強く置いた。「もういい年なんだ。顔も立場もある。俺が昔みたいに尻を叩くとでも?もし手を出すとしても――先に宮沢家のあの小僧の頭を吹き飛ばしてやる!」その言葉を聞いた瞬間、桜子の表情がすっと冷たくなった。「万霆」敏之が慌てて前に出た。桜子をかばうように、焦った声で言う。「昔、宮沢家の次男がいろいろやらかしたのは確かよ。でも彼、もう心を入れ替えている。桜子のために、何度も命をかけて守った。彼は――本気で彼女を愛しているよ」「命をかけた?どういう意味だ?桜子に危険があったのか!」万霆の声が低く唸り、身を乗り出した。「桜子は――」「私は大丈夫。敏之さんが大げさなんだ」桜子がすぐに遮った。本当は、隼人がどれだけ自分を守ってくれたかを伝えたかった。けれど、父がその事実を知れば、怒りと動揺で倒れてしまうかもしれない。彼女はもう母を失っている。父まで失うわけにはいかない。万霆はゆっくりと背もたれに身を預け、鷹のように鋭い視線を娘に向けた。「隼人がどんな甘い言葉を囁いたか知らん。どんな卑怯な手でお前を絡め取ったかもな。だが、俺の言葉をよく聞け。たとえあの小僧が宮沢グループを丸ごとお前にくれてやって、国を嫁入り道具に差し出しても――俺は絶対に許さん!あいつの命一つじゃ、お前が流した涙も、失った三年の
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第1075話

あとで聞いた話だ。その少女は三日後に退学したという。家業は倒産。父親は収監。母親は高城家の娘を怒らせたと知って、毎日おびえ続け、最後は大病に倒れて帰らぬ人となった。――そう考えると、万霆が今まで隼人に手を出さなかったのは、ほとんど奇跡だ。その奇跡を作ったのは、娘の桜子だった。もし桜子が何度も「隼人に手を出さないで」と止めなければ、万霆は部下に暗殺させていたかもしれない。いや、万霆が動くまでもない。樹や椿たちが、とっくに奴をバラしていたはずだ。「お父さん。私と隼人の結婚がうまくいかなかったのは、私にも大きな責任があるの」桜子はまっすぐに父を見た。いつもの「万さん」とは呼ばない。この恋に、どれほど本気かが伝わる。「当時の私は、どうしても彼と一緒にいたかった。どうしても彼を手に入れたかった。だから、彼が私を好きじゃないとわかっていたのに、無理やり結婚した。もしお父さんが同じ立場なら、好きでもない相手を受け入れられる?しかも、その頃、彼の心には別の人がいた」「桜子!正気なのか!精神的な支配でもされたのか?世の中には良い男が星の数ほどいるんだぞ。なんで一本の曲がった木に首を吊る!」万霆は湯呑みを机に叩きつけ、目を血走らせて怒鳴る。「誰を想っていようが関係ない!好きじゃないなら最初から結婚するな!結婚した以上、夫の責任を果たすのが筋だろうが!で、隼人は何をした?私生児として家で冷遇され、宮沢家のじいさんの圧に耐えられなかった?だから昔の恋を捨てて、愛してもいない女と結婚した?そんな臆病で情けない男、俺は心底軽蔑する!あいつはお前の男にふさわしくないし、俺の婿にも絶対になれん!」桜子の膝の上で、指がゆっくりと握りしめられる。胸の上に重しが乗ったようで、息が苦しい。「お父さん、違うの。そういう話じゃ――」「もういい、聞きたくない!今すぐ別れろ。きれいさっぱりだ。俺に手を汚させるな!」万霆の声音は冷たく、決然としていた。「お前たちの極秘結婚と離婚は、もう世間に知れ渡ってる。本来、高城家と宮沢家は、これ以上一切関わるべきじゃない!それなのに隼人との関係を曖昧に続ける?世間はどう見る?誰も『両想いかどう
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第1076話

桜子はテーブルの上の薬瓶を手に取り、ラベルを凝視した。そして次の瞬間、息を呑み、口を覆った。涙がこぼれ落ちる。「......脳梗塞の薬......」「ええ。脳梗塞の治療薬よ。柳川家の製薬会社で開発されたもの。一年の生産量が限られていて、どれだけお金を積んでも手に入らない人が多いの」敏之が、まだ痛みに顔を歪めている万霆を見つめながら、悲しげに言った。「でもね、今年に入ってからは、もう薬でも症状を抑えきれなくなってきた。実は去年の初めにも二度、発作を起こしてるの。薬で何とか持ちこたえてただけ」「みんな......知ってたの?私だけ、知らなかったの?」桜子の頬を涙が伝う。心が張り裂けそうだった。「違うわ。樹も栩も知らないの。お父さんが止めたの。子どもたちを心配させたくなかったのよ」敏之はそっとしゃがみ、ハンカチで万霆の額の汗を拭った。「桜子、怒らないで。あなたのお父さんはね......ただ、あなたが人に軽んじられるのを心配してるの。愛しすぎて、不安になって、どうしても強く出てしまうの」「......軽んじられる?誰が?」鈴子の声が掠れて低く響いた。その目は赤く、怒りに満ちていた。「桜子は高城家の娘よ。誰が見下すっていうの?そんな奴、私がその目をえぐり出して、舌を抜いてやる!」桜子は父の冷たい手を両手で包み、深く頭を垂れた。――自分は、なんて親不孝なんだろう。勝手に家を飛び出して、隼人のことで頭がいっぱいで。家族のことなんて何一つ見ていなかった。お父さんの病気のことすら、知らなかった。どうして......どうしてこんな娘になってしまったの。そのとき、ドアがノックされた。敏之はすぐに涙を拭い、立ち上がって扉の方へ向かった。「どうしたの?」「敏之夫人、お客様がお見えです。外でお待ちになっています」高木の声が落ち着いて響く。「客?こんな時に誰が来たの?」「白石家の若様、隆一様です」桜子の瞳が一瞬で冷たく光り、ゆっくりと立ち上がった。まるで、氷の刃が静かに空気を裂くようだった。「敏之さん、お父さんのことお願いします。私が行くわ」......桜子は重い足取りで閲堂園の門を出た。煌びやかな門灯の下、隆一は一人立っていた。背筋
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第1077話

桜子の伏せたまつげが、頬に二つの影を落とす。昔なら、隆一が本当に父を心配しているのだと信じただろう。けれど今は違う。彼の胸の底に潜む黒さしか見えない。姉と義兄にまで手をかける男だ。父のことなど、彼にとって何の価値がある。隆一は、もともと残酷だ。ただ、彼の中の欲望が満ちるまで――彼女を手に入れるまでは、壊すのを惜しんでいただけ。「父は元気よ。家でぴんぴんしてる」桜子は氷のような笑みを口元に描いた。「口が悪いし、胃腸も弱いからすぐお腹を壊すの。たぶん、食べちゃいけないものをつまんで、お腹をこわしただけ。――用は済んだ?もう帰って」「そう......でも高城叔父さん、あの時は顔色が真っ青で、ひどい頭痛もあったみたいだった。かなり悪く見えた。脳梗塞とか――」「隆一様」桜子は低く遮った。瞳に鋭い光が走る。「うちの父を呪ってるの?それとも――高城家の内情を探ってる?」「ち、違う!誤解だ、桜子!」隆一は慌てて手を伸ばし、細い腕をつかんだ。「僕はただ、高城叔父さんが心配で......それに、君に会いたかった」蝮に刺されたみたいに、桜子はその手を振り払った。すっと二歩下がり、距離を取る。「でも私は、あなたに会いたくない」「桜子......君、どうしたんだ?」隆一の唇がかすかに震える。不安が内臓を引き裂く。一歩踏み出そうとするたび、彼女の警戒と拒絶の視線が足を止めさせる。「何があった?話してくれ。お願いだ......そんな目で見ないでくれ」――無垢を装うのが、うまい。隆一。その澄んだ無実の目は、まるで本物みたいね。「聞きたいのね。じゃあ、こっちから訊く」桜子は深く息を吸い、奥歯を噛む。言葉のひとつひとつが冷たく凍る。「片岡を知ってるでしょ。彼は、あなたの手の者よね?」「......片岡?誰のことだ?」隆一は戸惑いの表情を作る。けれど、仕立ての良いスーツの肩が、弓の弦みたいに強張った。自分はうまく隠しているつもりだった。桜子が神経質で、森国での動きや、T国の軍需筋との往来に気づいているとしても――核心までは辿り着けないはずだった。片岡を押さえられなければ、証拠は出ない。断じられるはずがない。なのに――彼
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第1078話

隆一の瞳には涙が滲み、噛みしめた唇は真っ白になっていた。――まるで、愛する人に誤解され、傷つけられた哀れな男の様だ。その演技は完璧だった。いや、もはや演技ではない。彼自身がその『悲劇の恋人』という役に完全に溶け込んでいた。忘れているのだ。桜子に数々の災厄をもたらした張本人が、自分だということを。桜子はそんな彼をじっと見つめた。その瞳は静まり返った湖のようで、けれど底には複雑な感情が渦を巻いていた。「何があったんだ、桜子。教えてくれ。僕が何をした?何を誤解している?たとえ死んでもいい、せめて理由を知って死なせてくれ!」隆一の額には冷たい汗がにじんでいた。いつもは余裕の笑みを崩さない男が、今は見る影もない。桜子はもう答えを期待していなかった。これは尋問ではなく――警告。彼を追い詰めるための心理的な罠。そして何よりも、はっきりと伝えるための残酷な方法だった。「もう、あなたに幻想を抱くことはない」と。二人の間には、もう友情すら存在しない。「いいわ。片岡の件は、あなたが認めないならそれでいい。でも――私の姉と義兄のことは?」桜子の声は震えていた。怒りのあまり、肩が小刻みに揺れている。「あなたは森国で、自分の利益のために彼らをどんな目に遭わせたか......それも知らぬ存ぜぬで通すつもり?」「桜子!確かに、僕のグループの一部が彼に不当なことをした。でも、彼の妻が君の姉だと知った瞬間、僕はすぐに計画を止めるよう命じたんだ!けど......君も知ってるだろ?グループは僕一人のものじゃない。株主たちが何人もいて、それぞれが発言権を持ってる。僕が止めても、裏で勝手に動く奴らがいた!」隆一の声は掠れていた。「信じてくれ、桜子。僕は君を十五年も愛してきたんだ!そんな僕が、どうして君の家族を傷つけられる!」桜子は何も言わなかった。ただ静かに彼を見つめ続けた。息が詰まるような沈黙が流れる。やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。「......帰って。あなたが帰らないなら、私が帰る」背を向けた瞬間――隆一は彼女を後ろから抱きしめた。その声は掠れ、哀願のように震えていた。「桜子......行かないで」「離して!触らないで!」桜子
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第1079話

桜子は背を向けたまま、何も言わなかった。胸の中で思いが渦を巻く。扉へ一歩踏み出した、その時――扉が内側から開いた。「敏之さん?」出てきたのは敏之だった。桜子は思わず目を見張る。敏之は桜子に柔らかく微笑み、それから隆一へと静かな表情を向ける。「隆一様、主人があなたをお呼びです。どうぞ中へ」「え?お父さんが彼に会うの?」桜子は目を丸くし、声を抑えて抗議した。「まだ体調が悪いのに......何を考えてるの!」敏之は困ったように目を伏せた。「主人のご意向よ。私は、その通りに」「わざわざお出迎え、ありがとうございます、敏之夫人」隆一は金縁の眼鏡をそっと押し上げた。その瞳にかすかな陰が差し、口元が見えないほど僅かに動く。......隆一は敏之に先導され、閲堂園の廊下を進む。向かった先は――書斎。高城家では、客はふつう茶室か応接間に通される。男にとって、書斎は寝室と同じくらい私的な空間だ。この数年、万霆の書斎に入れた『外の人間』はほとんどいない。親友の達也を除けば、隆一が二人目。――万霆が、この若い男をどれほど重要視しているかがわかる。一方その頃。桜子はリビングのソファに腰を下ろし、曇天のような目で沈み込んでいた。「桜子、あなたのお父さん、最近は白石家の隆一様ととても近しいの。私の知る限り、謝会長とも何度も内々に会っているわ」敏之は桜子の冷えた手を握りしめる。「......本気かもしれない」「何が、本気?」桜子は視線を上げる。「あなたを、白石家に嫁がせるつもり」「ふっ......都合のいい夢ね」桜子は拳を固く握り、胸の内に冷たい波が打ち寄せる。「生きてるうちは無理。冥婚なら、検討してもらえば?」「桜子!縁起でもないこと言わないの!」敏之は眉根を寄せ、真剣な声で続けた。「あなたが望まない結婚は、私も愛子さんも鈴子さんも、全力で止めるわ。愛のない婚姻で苦しませたりしない」「お父さんが本当にしたいのは『政略』じゃない。私と隼人を引き離すこと」桜子は目を閉じ、深く息を吐く。「私たちを邪魔できるなら、どんな手でも使う。一直線で、目的のためには手段を選ばない――その執念深さは、よく知ってる。だって私も、そっくりだから」
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第1080話

「桜子、まだ起きてるの?」隼人の声が電話の向こうから低く甘く響いた。まるで耳の奥を撫でるようで、聞くだけで心が蕩けそうになる。――それだけで、桜子の胸に温かさが広がった。「眠くないの」桜子は立ち上がり、バルコニーへ出た。夜風が頬を撫で、柔らかな月の光が髪に降りる。「俺がいないと、眠れないんだろ?」くすっと笑う声。「ち、違うし!男なんか、私の人生のすべてじゃない!」桜子は頬を赤くして、慌てて強がった。「でも、桜子。俺にとっては君がすべてだ」不意の一言に、桜子の心臓が跳ねた。血の温度がじわじわと上がり、全身が熱くなる。――会いたい。電話で声を聞くたびに、恋しさが溢れて止まらない。「今日は何してたの?」話題を変えようと、彼女は努めて平静を装った。「呼吸してた。あと、君を想ってた」「......隼人。ロマンチックなのはいいけど、言いすぎるとクドいの。まるで脂っこいモツを三斤食べた気分よ」桜子は肩をすくめ、鳥肌を立てた。隼人は笑いながら、真面目な声に戻る。「実は今日、R市に派遣していた部下から報告があったんだ」「R市......まさか、あの秦に命じられて、あなたのお母さんの薬をすり替えた使用人を探してるって言ってた件?」桜子の反応は鋭かった。「そう。その女をずっと追ってた。だが用心深く、名前を変えて、R市の郊外に潜んでた。前にやってたレストランも、半年ほど前に潰れてる。夫がギャンブルで借金を作って、店を差し押さえられたらしい。今は貧乏暮らしで、夫から暴力を受けている。息子はまだ若いのに犯罪に手を染めて、二年前から服役中......人生、完全に転落してた」「ざまぁみろ。天罰ってやつね」桜子は唇を噛み、怒りを抑えきれなかった。「どんな悲惨な生活を送っても、あの人の罪は消えない。欲に目が眩んで、一つの命を奪った。死んで償うべきよ」「だが、その前に捕まえる。俺の手で」隼人の声は静かで冷たかった。「そして、この件は絶対に内密に進める。秦や白露に知られたら、口封じに動くかもしれない」桜子は小さく頷いた。「それがいい」「桜子、君の方は?叔父さんは大丈夫?」「うん、大丈夫。みんな元気よ」桜子は笑ってみせたが、そ
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