All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

最初は美月の誕生日パーティーの時から、彼は気づいていた。紗雪の姉は、一筋縄ではいかない相手だと。そして今日、大勢の人の前であんなふうに話すのを見て、彼の予想は確信へと変わった。だが、紗雪はまったく気にした様子もなく、ふわりと微笑んだ。「それほどのものでもないわ」「追いかけてきたなんて、そんな大げさなことじゃないよ。さっき彼が姉さんにまとわりついていたのを見たよ。あの人は元々女たらしなんだから」緒莉の表情が一変し、落ち着いていた瞳に狼狽の色が走った。「その人は紗雪の元カレよ。私とは何の関係もないわ」「見間違いじゃないの?私、彼のことなんて全然知らないし」「まあ、そんなことにしてあげるよ」紗雪はゆっくりと緒莉に近づき、彼女の耳元で低く囁いた。「自分がやったこと、私が知らないとでも思ってるの?」「あなたがどれだけ汚いことをしてきたか、私は全部把握してるよ。母さんにバラされたくなかったら、おとなしくしてなさい」そしてまた、にっこり笑いながら、少し距離を取った。「姉さん、私たち家族じゃない。争っても何も出ないわよ。それにここ、客の前だよ。笑いものになっちゃうじゃない」遠くから様子を見ていた美月は、最初は緒莉が紗雪に向かって行ったことで少し不安を覚えていた。ここは紗雪の主催する場だ。もし取引先が緒莉のせいで機嫌を損ねて、次回の契約が飛んだらどうする?だから最初は助け舟を出そうかとも思ったのだが、予想に反して、紗雪は一人で事をうまく収めていた。余計な心配だったようだ。緒莉は内心、紗雪が自分のやったことを知らないと信じていた。だが、彼女の目を見た瞬間、その確信が揺らぎ始めた。本当に、知らない?試すように問いかけてみる。「......一体どこまで知ってる?」紗雪は意味深な笑みを浮かべながら、上体を起こし、緒莉を見据えた。「それは姉さんの関知することではないわ。おとなしくしてた方がいいよ。弱みを握られないようにね」「じゃないと、次からはもっと厄介なことになるよ」緒莉は紗雪のその笑みを含んだ視線を見て、彼女の言いたいことを悟った。今さらとぼけたって、もう遅い。けれど、簡単に引き下がるつもりもなかった。ちょうどその時、二人の視線がぶつかる中で、緒莉は例の給仕係から合図を受
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第142話

紗雪はほんの少し目を見開いた。緒莉がしつこく酒を渡そうとしていた理由、これでようやく分かった。あれは和解のためなんかじゃない。ただの「第一段階」に過ぎなかったのだ。京弥の胸元は、まるごと酒でびしょ濡れになった。「ガシャン」という音とともに、トレイが床に落ちる。「すみません、旦那様!わざとじゃないんです、本当に申し訳ございません」突然の騒ぎに、会場中の視線が一斉にこちらへと集まった。紗雪が何か言う前に、緒莉が先に一歩出て、給仕係を叱責した。「何やってるの?酒くらいまともに持てないの?」「今月のボーナスはなしよ!あなた、誰の下で働いてるのかしら?」紗雪は眉をひそめ、その様子を見て得体の知れない違和感を覚えた。「もういいよ、姉さん」「叱ったって仕方ないでしょ。もう起きちゃったことなんだから」緒莉は、あっと言うように頭を軽く叩き、まるで今思い出したかのような顔をした。「そうね、紗雪の言う通りだわ。じゃあ私が妹婿さんを着替えに連れて行くわ。ちょうど辰琉が替えの服を持ってきてるの。気にしなければ、着てくれていいのよ?」「ま、でも......」緒莉は上から下まで京弥を眺めた。ブランド名の見えないスーツ、どう見てもどこかで適当に買ったような安物。「妹婿さんなら、気にしないでしょうけど。辰琉の服は全部オーダーメイドだし、妹婿さんの着てる服よりは、絶対に質がいいわ」言外には、「小物のくせにそんな服を着られるだけありがたいと思いなさい」という皮肉が込められていた。紗雪は奥歯を噛みしめながら、笑ってしまったような表情を見せた。やっぱり、言葉のナイフは姉に勝てないな。京弥は無表情で緒莉を見つめ、作り笑いの演技に冷ややかな目を向けた。濡れてしまったスーツはもう着られない。彼は眉を少し上げた後、その場でジャケットを脱ぎ、手に持った。「結構です。俺、適当な服なんて無理なんで」「ぷっ......」と、紗雪は本当に笑ってしまった。今じゃないって分かっていても、あれは本当に我慢できなかった。後からついてきた辰琉は、その一言を聞いて顔をしかめた。「どういう意味だ、お前?あんな上等な服を見たこともないくせに」「その安物の服で、よくパーティーなんか来れたもんだな」辰琉は口元に嘲笑を浮かべながら、
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第143話

「大衆の前なのにこんなことを......最後にもう一度言うけど、私にも限界があるのよ。たとえば最初、私のあのドレス、どうして糸がほつれてたのでしょうね?」「姉さんなら、ちゃんとわかってるはずよね?」紗雪は余裕たっぷりに緒莉を見つめ、その返答を待った。「わ、私は......」緒莉は視線を彷徨わせ、返答に困っていた。彼女は紗雪が自分の細工に気づいていないと思い込んでいたから、あれほどまでに大胆な行動が取れたのだ。まさか、裏で手を打たれていたとは。一方、辰琉もその問題を起こした給仕を見て気づいた。さっき緒莉と話してたやつじゃないか。彼の目が微かに揺れる。この婚約者、噂とは少し違うようだ。あの「温厚」という評判、まったくあてにならないな。面白い。緒莉の逃げるような視線は、周囲の誰の目にも明らかだった。まさに後ろめたい人間の顔そのもの。みんな察しがついたようで、円が隣の同僚にひそひそと囁いた。「うらやましいと思ってたけど、紗雪の家って、実は獣の巣窟だったんだね......」「ほんとそれ。あんな姉がいるなんて、ひどいわ。妹を貶めることしか考えてないじゃん」「ドレスの糸だって、あれがほつれてたら......女の子としての名誉が地に落ちるじゃんない」別の人も思わず口を開いた。「実の姉妹なのに、なんでこんなにこじれるのかなぁ......」みんな緒莉を非難し始めた。自分の妹のドレスにまで手を加えるような人間が、この先どんなことをするかなんて、想像するだけで恐ろしい。京弥は紗雪の強い眼差しを見つめながら、最初に出会ったときのことを思い出していた。あの時、彼女のドレスに赤ワインがかかっていた。もうあの時点で何かに気づいていたのかもしれない。「違うの......違う、そうじゃないの......」緒莉は首を振りながら、力なくつぶやいた。「そんなこと、私がするわけない......全部紗雪の作り話、わざと私を......!」だが、その言い訳はあまりにも弱々しく、誰の心にも届かなかった。もはや、仮面の半分が剥がれていた。「いい加減にしなさい!」群衆の中から美月が出てきた。錯乱する緒莉を見て、その目に冷たい光が宿る。どうやらこの娘の人間性、見直さなければならないようだ
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第144話

この言葉を聞いた瞬間、緒莉は雷に打たれたかのように呆然とした。母の言いたいことが分からないはずがない。明らかに、美月の心の中にはすでに疑念が芽生えていた。さっき皆が話していた内容。あれを、母は多少なりとも信じたのだ。そうでなければ、こんな冷たい対応をするはずがない。「いや......いやよ、お母さん、休みたくない......私は、私はただ、お母さんのそばにいたいだけなの......」美月はそんな緒莉の涙に濡れた顔を一瞥することもなく、背を向けた。紗雪はこの茶番劇を冷笑しながら見ていた。母が緒莉に処分を下したように見えるけど、実のところ、あれもまた庇いだ。本気で公平な処理をするなら、徹底的に調査されていたはずだ。こんな中途半端な形で終わらせるなんて、結局はうやむやにしたいだけじゃないか。この母の態度に、紗雪の心はじんわりと冷えていく。ここまで来てもなお、緒莉を庇おうとするその姿に、ふと疑問が浮かんだ。彼女だって、美月の娘じゃない。緒莉の泣き声がロビーから完全に聞こえなくなった頃、美月はようやく振り返った。彼女は紗雪の冷ややかな視線と真正面からぶつかり、一瞬だけ、珍しく気まずそうな顔を見せた。美月はその目が訴える意味を理解していた。だが、家の体裁と二川家の面子を保つためには、こうするしかなかった。まさか皆の前で、二川家の恥を晒すわけにはいかないのだ。美月は視線を逸らし、辰琉の方を向いて冷たく言い放った。「あなたも緒莉のそばについていてあげて。あの子、身体が弱いのよ」「はい、すぐに行きます」辰琉は何の疑問も抱かず、素直に従った。つい先ほどのやり取り、彼には全て見えていた。結局、勝ったのは自分の緒莉だ。そうでなければ、美月が自分をあの子のもとに行かせるはずがない。去り際、辰琉は挑発するように紗雪を一瞥した。その一瞥には、明確な意味が込められていた。大した女だと思ってたけど、母親に全然可愛がられてないんだな。紗雪は彼の意図を察し、黙って拳を握り締めた。やっぱりこの男、ただの偽善者だ。その時、紗雪の拳を、京弥がそっと包み込んだ。優しく撫でるように、彼は耳元で囁く。「大丈夫。俺がいるから」その一言に、紗雪の胸に渦巻いていた鬱屈が、少しだけ晴れ
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第145話

京弥がグラスの酒を飲み干した瞬間、紗雪の熱い視線に気づいた。その視線の意味を、彼は一瞬で理解してしまった。男はそっと手を伸ばし、紗雪の腰を抱き寄せた。二人の身体が密着し、互いの呼吸がすぐ傍で絡み合う。紗雪は彼の端正な顔を見つめながら、思わずごくりと唾を飲み込んだ。酔ってしまったせいか、どうにもこの男への欲望が抑えきれない。「さっちゃんは......」男が何かを言いかけた瞬間、紗雪は慌てて視線を逸らした。「なんでもない。ちょっと酔っちゃって......頭がぼーっとしてるだけ」今がどこか、彼女はまだ忘れていなかった。ここは外、まだパーティーの最中だ。京弥は紗雪の羞恥を見抜いていた。その赤く染まった耳の根っこ、酒のせいじゃない。本人は気づいていないかもしれないが、彼女が恥ずかしいと感じる時、いつも耳の裏がほんのり染まる。その癖を、京弥は付き合い始めてすぐに気づいていた。「じゃあ......帰ろっか?」紗雪は反射的に美月のほうへ目を向けた。母はまだ客人たちと愛想笑いを交わしている。彼女は目を伏せ、心の中に言いようのない感情が湧き上がる。母はまた緒莉を選んだ。同じ娘なのに、どうしてこんなにも差があるんだろう......紗雪は深く息を吸い込み、我慢できずに酒をもう一杯あおった。そして顔を上げて京弥を見つめる。「......帰ろう」ここにいても、もう意味なんてない。どうせ母の処罰なんて、ただの見せかけだ。京弥は紗雪の視線を辿り、美月が経営者たちと笑顔で話す姿を見た。そして目の前で強がっているさっちゃんを見つめて、胸が締め付けられるような思いがした。彼はそのまま紗雪の腰に手を回し、彼女を抱き上げた。美月の前を通り過ぎる時、彼は一言、礼を言った。「お義母さん、さっちゃんが酔ってしまったので、先に帰ります」美月は京弥の腕に寄りかかる紗雪を見て、複雑な表情を浮かべた。口をつぐみかけて、結局ひと言だけ絞り出した。「......道中、気をつけてね」それ以上、何も言葉はなかった。京弥の腕に抱かれた紗雪の瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいた。自分は、一体何を期待していたのだろう......美月は二人の背中を見送りながら、しばらくその場で動けなかっ
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第146話

京弥は、目の前の小さく繊細な耳たぶを見つめながら、とうとう内に秘めた欲望を抑えきれなくなった。男はそのまま身を屈め、耳たぶを口に含み、何度も舌を這わせては弄ぶ......彼の大きな手が紗雪の背中を優しくなぞり、背の高い身体が彼女に覆いかぶさっていく。紗雪の口から、壊れそうなほどの喘ぎ声がこぼれ落ちたが、それも京弥の唇で塞がれ、やがて深く、絡み合っていった。男と女の営みは、やはり一度踏み込めば簡単には抜け出せないほど中毒性がある。こうして二人は、自然の流れのまま結ばれた。翌朝。紗雪の体には痛みが残っていた。特に腰の両脇がひどく張っていて、じんじんと鈍く痛む。隣を見ても、そこに京弥の姿はなかった。紗雪は思わずぼそりと呟いた。「......獣みたい」終わったら服を着てさっさと出ていくなんて、ひとことくらい声かけて行けっての。何か急用でもあったのか。ベッドを下りて着替えようとしたが、足元がふらついて、立つのがやっとだった。膝の青紫色の痕を見て、目の前が一瞬真っ暗になる。やっぱり男って、そういう時は全然容赦ないのね。歯を食いしばりながら、クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替える。洗面所で身支度していると、朝方ぼんやりした意識の中で、京弥が「空港に人を迎えに行く」と言っていた気がする。誰を迎えに行ったんだっけ......全然覚えてないや。まあいいや。紗雪が朝食を食べていると、美月からメッセージが届いた。【紗雪、空港まで客を迎えに行ってくれる?塩ヶ城から戻ってきたばかりの方なの。とても重要なお客様だから、丁寧にもてなしてちょうだい。詳しい資料は送っておいたわ。】メッセージを読み終えたとき、ちょうど最後の一口のパンを食べ終えたところだった。紗雪は小さくため息をつく。まったく、まだ出勤もしてないのに、もう仕事開始ってわけね。感慨に浸る暇もなく、時間を確認すると、出発まであと一時間しかなかった。慌てて軽くメイクを済ませ、車を飛ばして空港へ向かう。母親から送られてきた資料に目を通しながら、口の中で呟く。「神垣日向(かみがきひなた)......いい名前じゃない」スマホの画面には、淡い金髪のショートカットの男。自由奔放で、どこか無邪気そうな笑顔が画面いっぱいに広がっ
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第147話

日向は紗雪の異変に気づき、彼女の視線をたどってそちらを見やった。すると、蝶のように軽やかな少女が、背の高い男の胸元に飛び込んでいくのが見えた。「京弥兄!やっぱり来てくれたのね!」少女はそう叫びながら、嬉しさを隠すことなく京弥の胸に飛び込む。人混みの中、二人はまるで周囲など存在しないかのようにしっかりと抱き合っていた。まるで映画のワンシーンのような、美しく感動的な光景だった。紗雪の腕がゆっくりと身体の横で握られる。無意識のうちに唇を噛み締めていた。あの二人。抱き合っているのは、自分の夫と見知らぬ女性だった。何とも言えない気持ちだった。あれが、京弥の「初恋」なのか?確かに、初恋の名に相応しい。透き通るように純粋で美しく、まるで世間知らずなお姫様のようだった。そして何よりも、京弥の眼差しに宿る優しさ。あれほど柔らかく笑う彼を、紗雪はあまり見たことがなかった。いつも冷静で、近寄りがたい雰囲気をまとっている彼が、あの少女に向ける笑顔は、どこか違っていた。紗雪は深く息を吸い込む。ただの契約結婚だって、自分に何度も言い聞かせてきた。いつかこういう日が来ると、わかっていたはずなのに......それでも、心の奥底に妙な空虚感が広がっていた。「二川さん、大丈夫ですか?」日向の心配そうな声が耳元に響く。彼は、紗雪があの二人を見て感動しているのだと勘違いし、続けて言った。「素敵ですね、あんな恋愛。空港で再会して抱き合うなんて、美男美女でお似合いですよ」紗雪の胸に湧いた妙な感情は、ますます大きくなるばかりだった。なんとなく相槌を打つ。「そうですね」「行きましょうか。もう時間も遅いですし。移動で疲れたでしょうから、食事にご案内します」紗雪は日向と共に空港を後にした。彼女が先を歩き、彼がその後をついていく。一方。京弥は八木沢伊澄(やぎさわいずみ)を抱きしめたまま、ふと紗雪の方を見やった。彼女の後ろ姿が目に入ると、反射的に一歩踏み出しそうになる。だが、腕の中の伊澄がそれを許さなかった。唇をすぼめ、不満げに言う。「京弥兄、どこに行くの?私、飛行機ずっと乗っててお腹ぺこぺこだよ。まだ何も食べてないの」「ねえねえ、国内の美味しいもの食べたいな。海外の食事は全然美
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第148話

右手で時折スマホを開き、紗雪からのメッセージが届いていないか確認していた。後ろから、伊澄が不満げに言った。「京弥兄、そんなに早く歩かないでよ、追いつけないよ!」その声を聞いても、京弥は未読のメッセージを見つめて、少し苛立ちを覚えていた。だが振り返って伊澄と目が合うと、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべて応えた。「ごめん」二人が車に乗り込むまで、紗雪からの返信はついに来なかった。京弥は運転席に座りながらも、どうにも心が落ち着かなかった。もしかして紗雪はさっきの光景を見て、誤解したのではないか?そんな思いが頭から離れなかった。一方の紗雪も、日向と食事をしながら、まるで上の空だった。頭の中はずっと、さっき見た京弥とあの「初恋」のことばかり。ちょうど食事時だったので、二人は簡単に食事を済ませた。そんな中、日向が何かを思い出したように、何気なく尋ねてきた。「二川さん、さっき空港にいたあの人、知り合いですか?」「カラン」という音がして、紗雪の手からスプーンが器の中に落ちた。目を見開き、少し慌てた様子で紙ナプキンを探そうとしたところ、日向がすぐに一枚差し出してくれた。「どうして急にそんなことを?」紙ナプキンを受け取り「ありがとう」と言ってから、紗雪は思わず問い返した。日向はくすっと笑いながら言った。「二川さん、今日の道中ずっと心ここにあらずって感じでしたよ」「僕もバカじゃないから、さすがに気付きます」紗雪は頭の中で振り返ってみて、確かにそうだったと気づき、少し気まずそうに笑った。「すみません、失礼しちゃいましたね」日向はただにこやかに言った。「気にしないでください、二川さん。何事も人次第ですしね。それに、この店のスープ、本当に美味しいですね。二川さんが選んでくれたお店、気に入りました」「次は妹を連れて来たいです」その言葉を聞いて、紗雪は会話を広げた。「妹さんがいらっしゃるんですか」「はい、神垣千桜(かみがきちはる)って言います」「妹」という言葉を口にしたときの日向の瞳には、紗雪には理解できない哀しみが宿っていた。だが紗雪は空気を読んで、それ以上は聞かなかった。誰にでも秘密や、人に言いたくないことの一つや二つあるものだ。わざわざ掘り返す必要なんてない。
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第149話

紗雪は実は京弥からのメッセージを見ていた。ただ、どう返信すればいいのか分からなかった。彼と初恋のことなんて、自分には関係ない。よくよく考えてみれば、京弥がわざわざ自分にあのメッセージを送ってくる必要なんて、最初からなかったのだ。所詮表向きの夫婦にすぎないのに、何をそんなに真剣になっているのか。京弥が帰ってきたのは、ちょうど紗雪がキッチンで水を飲んでいたときだった。水を注ぎ終えた瞬間、玄関の方から物音が聞こえてきた。紗雪のまなざしがわずかに揺れる。それが京弥であることは、すぐに察しがついた。彼女はコップの水を一気に飲み干すと、そのまま洗面所に向かおうとした。だが、振り返った瞬間、彼女はキッチンの出口を塞がれてしまう。大柄な男の身体がそこに立っているだけで、通路を完全に塞いでいた。彼がどかない限り、紗雪はキッチンから出られない。仕方なく立ち止まり、紗雪は諦めたように口を開いた。「どいて。歯を磨きたい」京弥はそんな彼女を見つめながら、内心でははっきりと確信していた。今日、空港で見たのは、間違いなく紗雪だった。「なんで、返信しなかった?」彼は話題を変えて、静かにそう問いかける。午後から今まで、スマホを見なかったなんてあり得ない。唯一の理由は、紗雪が返信する気がなかったということだ。紗雪は彼の視線を避け、答える気もない様子だった。「電池切れてただけよ」彼女は視線を落とし、平然とした口調で言った。「もう遅いし、どいて。休みたいの」京弥は彼女の表情をじっと見つめ、その顔から少しでも嫉妬や怒りの気配を探ろうとした。だが、なかった。逆に、彼女はあまりにも冷静だった。その事実が、京弥の心に妙な不安を生じさせる。彼は奥歯を強く噛みしめる。「今日、空港にいたのか?」紗雪の目が一瞬揺れたが、すぐにふっと笑った。「どういう意味?」「何を見た」彼女はしっかりと彼を見据えた。「私はただ客の出迎えに行っただけよ。むしろあなたが何をしたかじゃない?」この言葉を口にした瞬間、紗雪は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。まるで嫉妬深い妻みたいじゃないか。でも実際のところ、京弥がそんなことを言い出すなんて、滑稽としか思えなかった。京弥は一歩ずつ彼女に近づきながら、ま
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第150話

京弥が寝室に入るとき、ベッドに紗雪の姿がないことに気づいた。家中を一通り探し、最終的に客間で紗雪を見つけた。今日の紗雪は完全に腹をくくっていて、もう京弥と同じベッドで寝るつもりはなかった。初恋の存在がある以上、この結婚関係だってもっと線引きをすべきだと感じていた。昼間のあの光景を思い出すだけで、紗雪は京弥を見るたびに心がざわつく。とくに、あの手が他の女に触れていたことを思うと、なおさら。京弥は客間にいる紗雪を見つめた。何か言おうと唇を動かしかけたが、結局、何も言えずに終わった。拳を握りしめる。どうしようもない無力感が、心の奥からじわじわと湧き上がってくる。つい昨日まで同じベッドで体を重ねていたはずなのに、今日は別々の部屋で眠る。ただ一枚の壁を隔てているだけなのに、お互いの心はまったく違う場所にあるようだった。翌朝。紗雪は早くに目を覚ました。身支度を済ませると、京弥に声をかけることもなく会社へ向かった。普段なら京弥の用意した朝食を食べるところだが、今日はその気になれなかった。会社に到着すると、社員たちの態度が一変していた。誰もが敬意を込めて彼女を「会長」と呼ぶ。この瞬間、紗雪の立場は完全に変わったのだ。彼女は皆に軽く会釈しながら挨拶した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今まで通りでお願い」「私は皆さんと同じで、会社のことを第一に考えているから」拍手があちこちから起こる。そのとき、紗雪は隅の方にいる円を見つけた。何か言いたげな顔をしながらも、遠慮して口を開けない様子だった。紗雪は眉を少し上げて、円に手招きする。「どうしたの?なんか言いたいことがあるような顔してるけど」円は少し恥ずかしそうに言った。「もう私たちの立場が違う気がして......」「それに、今は会長であり次女様でもあるし、きちんと礼儀をわきまえないとって」その言葉に、紗雪は胸の奥に小さな痛みを感じた。彼女は真剣な表情で円に向き直った。「円、そんなふうに自分を卑下しないで」「私の中の円は、いつも笑顔で明るくて前向きな女の子だった。ずっとあなたのことを友達だと思ってたよ。円は、私のことを友達だと思ってくれないの?」「そんなことないよ!」円は慌てて否定した。「私もずっと
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