LOGIN何しろ、相手はただの競争相手であって、上司でもなんでもない。だから、殊更に敬意を払う必要なんてない。ましてや、あんな人間に尊重される資格はない。人が病んでいる隙に命を取りに来るような真似を思いつくなんて。せっかく多くの案件がまとまりかけていたのに、西山グループは一体何を考えているのか。紗雪はゆっくりと化粧を直し、それから車を走らせて「酔仙」へ向かった。その店、商談やプロジェクトの話をする際に選ばれることが多い。静かで邪魔が入らないからだ。約束していた個室に着くと、加津也はすでに中で待っていた。部屋の壁は彫刻風の仕切りになっており、内側の様子がうっすらと見える。紗雪は迷いなど一切見せず、堂々と扉を押し開けた。加津也はちょうどスマホを見ていて、初芽からの返信を待っていたところだった。だが扉の音に顔を上げる。女は身体のラインを際立たせる和服を身にまとい、その曲線美は隠しようもなく、輪郭は見事に整っている。髪はすべて後ろでまとめられ、一本の簪で留めている。歩みに合わせて簪の飾りが揺れ、その姿はまるで古画から抜け出してきたようだった。人ならざる美しさ。一方の紗雪は、自分の装いが男にどれほどの破壊力を持つかなど意に介していない様子で、そのまま加津也の正面に腰を下ろした。唇に笑みを浮かべ、軽く顎を引いて会釈する。加津也はなおもその美貌に囚われ、なかなか現実に戻れない。視線は紗雪に貼り付き、離れる気配がない。あまりに生き生きとしたその姿に、思わず生唾を飲み込む。喉仏が上下に揺れた。その様子を見て、紗雪は堪えきれず笑い声を漏らす。「もう戻っていいわよ。今日来たのは、ビジネスの話をするためだから」その一言に、加津也の首元が一気に赤く染まる。慌てて視線を逸らし、これ以上じっと見つめることはしなかった。紗雪は、自分の強みを十分に理解している。相手がかつてケチくさい元彼なのだから、情けをかける理由などない。惹き込むだけ惹き込めばいい。女というものは、誰かに遠慮して自分の美しさを隠すべきではない。心地よくあるのが一番だ。加津也は咳払いをひとつし、視線を彷徨わせながら、まともに彼女の顔を見ることすらできない。曖昧な目線のまま、向かいの紗雪に言った。「そ、それは当
吉岡はうなずき、了承の意を示した。紗雪がこれだけ闘志を見せているのだから、自分も遅れを取るわけにはいかない。彼は必ず紗雪の最も頼りになる補佐になり、足を引っ張るような存在にはならないと決めていた。吉岡の目標は、始めからはっきりしている。あの時、紗雪から多くを学んで以来、彼は決めていた。紗雪が会社を辞めない限り、自分はずっと彼女に付き従う、と。その後、吉岡は手際よく西山グループの最近のプロジェクト資料をすべて届けてきた。紗雪は手を振って、吉岡に下がっていいと合図する。だが実のところ、吉岡には納得できない点があった。紗雪があまりに真剣な顔をしているので、つい問いを口にする。今聞かなければ、もう機会はないかもしれない。こういうことはその場で確認すべきだ。「これらの資料は何に使うんですか?」食事に行く約束なのに、なぜ相手のプロジェクト資料を全部確認する必要があるのか――そこが吉岡にはどうしても理解できなかった。それに、夜の席には彼は同行できない。何せ両社のトップ同士の会食だからだ。紗雪は小さく笑った。「相手は元カレとはいえ、今は私の会社に手を出してきた人間よ。警戒するのは当然でしょ?彼の今の状況は把握しておかないと。でなきゃ、こちらも応戦できない」吉岡は聞いて納得した。確かにその通りで、先ほどまでは自分が甘く考えすぎていたのだと気づく。二人は十分知り合っているから、資料なんて不要だろう――そう思っていたのがそもそもの間違いだった。「そういうことでしたか。わかりました。夜の食事、本当に私が同行しなくて大丈夫ですか?」紗雪はまた軽く笑った。「大丈夫よ。吉岡も忙しいでしょうし。あっちの席は、私なら対処できるわ。一人でも十分」そう言うと、彼女は何かを思い出したように、瞳の奥に鋭い光を宿した。「それに、私はあの男をもう二度も刑務所送りにしてる。今さら怖がる理由なんてないわ」吉岡は、紗雪のその笑みを見て、内心ぞっとする。――やはり、女は恐ろしい。「そうですか。それでは失礼します」今度は、吉岡も迷わず部屋を後にした。自分がもう必要とされていないとわかったのなら、この場に残る意味はない。吉岡が出て行くのを見届けてから、紗雪は資料に目を通し始めた。こ
なのに紗雪が想像していなかったのは、母親の行動が本当に早かったことだ。そう長くも経たないうちに、緒莉を家に連れて帰ってきたのだから。緒莉のことを、紗雪は絶対に許さない。紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、そのまま迷いもなく手にしていたアクセサリーの箱をゴミ箱へと放り投げた。だが、数歩進んだところで、胸の奥がふっとざわついた。結局、目を閉じ、数歩だけ後ろに戻る。――まあいい、捨てるのも惜しい。取っておけばいい。もし将来、母親の誕生日でも来たら、そのとき渡せばいいだけだ。けれど今は、彼女に渡したいなんてこれっぽっちも思わない。母親のそばには緒莉がいれば十分。自分がそこに出向くのは、本当に余計な存在になるだけだ。その自覚くらいは、紗雪にもある。彼女は手のひらに残ったアクセサリーの箱を見つめながら、ぼんやりと考え込む。やはり、人は情に流されてはいけない。一度でも甘さを見せれば、それが弱点になる。最初のあの強さには、もう戻れなくなるのだ。だが紗雪は、ふと母親が以前自分に言っていた言葉を思い出す。そしてかつて母親が、自分に対して実際にとても気を配ってくれていたことも。そう考えると、母親に優しくしても悪いことではないのかもしれない――そう思えてくる。これからは、もう少し母親と話をするべきだろう。何にせよ、相手は自分を産み育ててくれた母親だ。そうである以上、自分には母親を気遣う義務もある。そのあたりのことは、紗雪の中でははっきりしていた。彼女が会社に戻り、ちょうどオフィスに着いたころ、吉岡がドアをノックした。紗雪が「どうぞ」と声をかけると、扉が開いて彼が入ってくる。顔を上げると、やはり吉岡だった。彼は紗雪のデスクの前に来て言った。「紗雪様、西山加津也との夕食、もう段取りは整いました。お店も予約済みです」紗雪はその場で固まってしまう。まさかこんなに早く、あの男と顔を合わせることになるとは思ってもいなかった。彼女は、この先彼と関わることはもう一生ないと考えていたのだ。なにしろ、彼女はその男を二度も刑務所送りにしている。彼が自分を恨んでいなかったとしても、心の奥では自分を仇敵とみなしているはずだ。案の定、今は会社を報復の標的にしてきている。けれど、紗雪は
でも、それがどうしたというのだろう。今、美月が可愛がっているのは自分だ。この家で上に立ちたいなら、あるいはもっと注目を集めたいなら、その決定権は結局のところ美月の手の中にある。緒莉はその点を誰よりも理解していた。紗雪よりも早く動き、遠くまで見てきたのもそのためだ。それに、今の美月は健康そのもの。ただ仕事の成果を積み上げるだけでは、大した評価にも繋がらない。彼女の心を得ることこそ、最優先事項。そのほかのことを、緒莉はこれ以上口にしなかった。度というものを弁えているからだ。そう思いながら、緒莉はふわりと笑った。「お母さんの料理、本当に美味しいよ。海外にいた時も、この味が恋しくてたまらなかったの」娘にそんなふうに褒められ、美月の胸の内は一気に温かくなる。さらにおかずを取り分けながら、目を細めて笑う。「美味しいならもっと食べなさい。今度また作ってあげるから」「うん、ありがとう、お母さん」二人は和気あいあいと談笑し、さっきひとりで出て行った紗雪のことなど、頭の片隅にもなかった。その様子を横で見ていた伊藤は、どうにも胸の奥がざわついて仕方がなかった。この母娘、少し度が過ぎてはいないか。とくに美月。実の娘に対して、あれでよく平然としていられる。紗雪はあんなに嬉しそうに帰ってきたのに、返ってきたのは皮肉と突き放しだけ。伊藤は大きく息をのみ込み、どうにも気持ちが治らない。何か言いたくても、自分の立場では簡単に口を出せることではない。余計なことを言えば、この家に居場所を失いかねない。長く仕えてこられたのには理由がある。空気を読む力――何を言うべきで、何を黙るべきか、誰より心得ている。薄い唇をきゅっと結び、そのまま一歩退いて俯く。この、あまりに仲睦まじい母娘の食卓を、これ以上直視したくなかった。一方その頃の紗雪は、家を出た瞬間、自嘲にも似た虚しさに襲われていた。ひと月以上も病床で苦しみ、しかも被害に遭ったのは自分なのに、加害者だったはずの人間が、母と並んで笑いながら食事をしている。――母は本当に自分を愛したことがあったのか?夢で見た光景と、これも同じなのだろうか。自分は駒の一つに過ぎなかったのか。母はまるで、父への憎しみをすべて自分に投影している
なのに自分のもう一人の娘は......そこまで考えて、美月はゆっくり視線を向けた。目に映ったのは、信じられないという表情を浮かべた紗雪の顔だけだった。立場を変えて考える?そんなの、絶対に無理。美月の顔に、愛情というものの片鱗すら見つけられなかった。紗雪は鼻で笑い、美月を見た。ちょうど「母さんも同じ考えなの?」と問いかけようとした瞬間、彼女の視界には、美月が緒莉を見つめる賞賛の色がはっきり映った。そこまで見せつけられて、もうわからないはずがない。これ以上問い詰めたところで、互いに何の得にもならないし、むしろ無意味だ。そう。何もかも白黒はっきりさせようとするほど、自分の立場の虚しさが際立つだけ。紗雪は小さく笑い声を漏らした。「もう分かったよ」軽く頷き、美月に向かって静かに言う。「母さん、子どもみたいなこと言ってごめんなさい。自分の立場を分かりました。まだ用事があるので、お邪魔しました」そう告げると、紗雪は踵を返して出て行こうとする。美月と緒莉は顔を見合わせ、彼女の意図が掴めず戸惑った。今日はどうしてこんなに大人しいのか。いつもなら怒鳴り返しているはずなのに、一言も噛みつかずに帰るなんて――どうにも様子がおかしい。とはいえ、美月の立場では深追いもしづらい。年長者として、子どもが反論しないのにわざわざ引き止めるのも妙だ。だが緒莉は納得できなかった。黙って引き下がる性格でもない。「お母さんに用があって来たんでしょ?何も聞かないまま帰るの?」紗雪は振り向かず、背中越しに淡々と言い捨てた。「もう大丈夫。母さんがもうやり終えてるみたいだから。わざわざ話す必要もなくなった」そう言うなり、迷いもなくその場を去った。残されたのは、状況が呑み込めない緒莉と美月の二人だけ。緒莉は首を傾げながら訊ねる。「お母さん、何かしたの?紗雪は何を言っているの?」本気で分からず、紗雪が神経質になっているだけだと感じていた。美月も記憶を辿ってみたが、特に思い当たることはない。あるとすれば安東家の件くらいだが......安東家の態度なんて、紗雪も普段から気付いているはず。胸の奥に言葉にしにくいざわめきが生まれたが、形にならない。美月は首を振ると、緒莉の好物であ
「そうよ、紗雪も少し食べなさい」美月は気まずそうに笑いを浮かべながら、姉妹の関係を修復したいと思っていた。こうして一緒に過ごせる時間があるのは悪いことではない。急ではあるけれど、少しずつ歩み寄れば、きっと間違いではないはずだ。美月は存在しない汗をぬぐう仕草をした。伊藤は横で様子を見ながら、紗雪の機嫌が明らかに良くないことに気付いていた。今の空気は、まるで修羅場そのものだ。紗雪は緒莉の声を聞き、心の底から可笑しくなった。思わず皮肉を口にする。「お姉さん、その声はどうしたの?私を陥れようとしたお義兄さんにやられた?」口元には笑みが浮かんでいたが、その笑みは目にはまったく届いていない。彼女が緒莉を見る視線は、踊るピエロでも眺めているかのようだった。緒莉は怒りで言葉を失った。まさか紗雪がここまで大胆になるなんて思いもしなかった。母親が目の前にいるのに、はっきり口に出すなんて。以前の紗雪なら、美月の顔色を気にしていたはずだ。今の彼女は一体どうしてしまったのか。美月はテーブルを叩き、鋭く叱りつけた。「紗雪、姉に向かって何て言い方をするの!」美月にとって、緒莉はつい先日まで警察にいたばかりで、まだ気持ちの整理もついていない。そんな娘を思うと胸が痛む。それなのに紗雪は来るなり皮肉ばかり。この態度に、美月は到底見過ごせなかった。「どういう経緯があったとしても、彼女は紗雪のお姉さんなのよ」美月は心底から嘆くように言葉を続けた。「そんな言い方をして、あなたの良心はどうなっているの?」紗雪は目を大きく見開いた。まさか母親がここまでの言葉を向けてくるとは思わなかった。自分こそ被害者のはずなのに、彼女たちの口ぶりでは、まるで自分が極悪人だ。こんな親が本当に存在するのだろうか。紗雪は鼻で笑うようにして言った。「母さん、私には理解できないよ。あなたの言う『被害者』って、悪事がバレた人間のことなの?彼女は自業自得よ。誰のせいでもないわ」紗雪の声は冷え切っていた。本当は、今日ここに来たのは美月と緒莉の件について話すつもりだった。だが、この様子では話す価値すらないと悟る。目の前の食卓を見た瞬間、胸の奥にさらに冷たいものが広がった。「私はこの二人に嵌められて、一ヶ







