All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

ドアまで歩き、一葉はふと振り返った。そして、言吾に向かって、ふわりと微笑みかける。「深水さん、さようなら」二人の始まりは、あんなに素敵だったのだから。最後も、美しく終わりたかった。自分たちの間に何があったとしても、どれほど深く傷ついたとしても、ただもう彼を愛したくないだけで……彼を愛したこと自体を後悔したことは、一度もない。彼と出会い、彼を愛したことは、これからもずっと、自分の人生で一番素敵な出来事だから。言吾もまた、一葉に微笑みかけた。彼女の記憶の中に、一番格好良くて、彼女が一番好きだった頃の自分の姿を焼き付けたいとでも言うように。「さようなら、一葉」「……元気でな」一葉は笑顔で彼に手を振った。「ええ、きっと」そう言うと、もう彼の言葉を待たずに、くるりと背を向け、部屋を出ていく。その足取りに、迷いや震えは微塵もなかった。もう、以前のように言吾を愛してはいないのだと、彼女ははっきりと自覚していた。心に残ったわずかな未練も、時の流れがいつか、完全に消し去ってくれるだろう。離婚を切り出された時も、彼女は「さようなら」と言った。あの頃の言吾は、胸が張り裂けそうになりながらも、まだ心のどこかに確信があった。いずれまた一緒になれる、と。あの「さようなら」は、ただの一時的な別れなのだと。彼女は必ず、自分の腕の中に戻ってくると。一時的に手放すのは、より強くその手で抱きしめるためなのだと信じていた。だが、今は。今回は違う。いかなる信念も確信も失った今、彼は悟っていた。今回の「さようなら」は、もう二度と会えないという意味なのだと。彼女は、もう二度と、自分のものにはならない。彼はただ、一葉を見ていた。彼女がゆっくりと、一歩、また一歩と、自分の人生から去っていくのを。やがてその姿が視界から、そして自分の世界から完全に消え去るまで。ようやく、彼は堪えきれずに、ごふっと鮮血を吐き出した。テーブルに手をついても、崩れ落ちそうになる体を支えきれない。全ては、自分のせいだ。当然の報いだ!あれほど幸せになれたはずの二人を、ここまで追い詰めたのは、他の誰でもない、この俺なのだ。込み上げる後悔が、痛みが、どうしようもなく彼を苛み、再び、びしゃりと音を立てて大量の血を吐き出した。……茶室
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第432話

諦めようとしても諦めきれない痛み。愛し続けようにも、もう愛せない苦しみ。その狭間で、心はずっと苛まれていた。今、ようやく、その苦しみから完全に抜け出せたのだ。この感覚は……まさに、身も心も解き放たれたような、心地よさそのものだった。一葉の苦悩をずっと隣で見てきた千陽だからこそ、その声が本物だとわかったのだろう。心からの安堵が伝わってくる。「ああ、本当によかった……!」「あなたの新しい人生が、やっと始まるのね!すぐ休暇取って、お祝いに駆けつけるから待ってて!」その弾んだ声に、一葉は微笑んだ。「うん、待ってる。戻ってきたら、もう一ついい知らせがあるの」そう言いながら、一葉はまだ平坦な自身の腹をそっと撫でた。もう、言吾と一緒になることはないだろう。それでも、このお腹の子たちは産むと決めていた。下手に再婚相手を探す気にはなれなかった一葉は、もともと精子バンクを利用して試験管ベビーを授かることさえ考えていた。それが今、自然に授かったのだ。その方が、きっと子供たちにとっても健やかなはずだ。あとは、言吾にだけ、この子たちが別の誰かの子だと思い込ませることができればいい。そうすれば、この子たちは完全に自分だけの子供になる。自分には十分な経済力も、申し分のない環境もある。最高の人生を与えてあげられる。自身の生い立ちや、世の中の多くの家庭を見てきて、一葉は痛感していた。不仲な両親や、我が子を愛せない親の元で育つくらいなら、片親であっても、溢れるほどの愛を注がれる方がずっといい。たくさんの愛情さえあれば、片親家庭で育った子だって、健やかで、素晴らしい人生を歩めるはずだ。そう考えれば考えるほど、一葉の胸には、未来への希望が明るく灯っていくのだった。千陽は昔から行動派だ。こちらに戻ってくると連絡があったかと思えば、本当にあっという間にやって来た。例の博士彼氏も一緒に連れて。いや、今はもう、「旦那さん」と呼ぶべきだろうか。千陽にとって今の彼が一番の存在なのはわかるが、一葉がその「旦那さん」と顔を合わせたのはまだ数えるほど。さすがに初対面に等しい彼の前で、妊娠という大事な話を切り出す気にはなれなかった。だから、ひとまずはそのことを胸に秘め、久しぶりに会えたことを祝して三人で食事に出かけることにした。食事の
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第433話

一葉が口を挟む間もなく、千陽が堰を切ったように話し始める。「そうなのよ!うちの一葉ちゃんがその人を助けた時なんて、まだ体調が万全じゃなかったのに、本当に命懸けだったんだから!」「必死にその人を砂浜まで引きずり上げて……それなのに、人を呼びに戻ってる間に、もういなくなっちゃってたのよ」千陽は恋愛小説が大好きだ。だから、慎也のような大物が、命の恩人だという優花を特別扱いするという、まるで物語のような展開を耳にした時から、一葉が助けた相手のことが気になって仕方がなかった。どうして一葉が助けた相手は、恩返しに来てくれる素敵な人ではなかったのか、と。そんなロマンチックな展開にならなかったことを、今でも残念に思っているのだ。そんな彼女の考えていることが手に取るようにわかって、一葉は思わず苦笑した。「もう過ぎたことよ。そんなに残念がらないで」千陽は唇を尖らせた。「だって、神様って不公平だわ」一葉の一番の親友である千陽は、誰よりも一葉の味方だった。かつて紫苑が一葉にしてきた仕打ちを知っているだけに、彼女への嫌悪感はことさら強い。「桐生さん、本当にあなたを助けたのって、あの女なんですか?どう見ても、親切心で海に飛び込むような人には思えないんだけどなあ」自分で言っておいてなんだが、それは偏見だし、人を外見で判断しているだけだと千陽自身もわかっている。だが、どうしても、あの紫苑という女が、善意で海に飛び込む人間だとは思えなかった。千陽の言葉に慎也は答えず、ただ、一葉を見つめるその眼差しに、一層の熱を帯びた。あの時、彼は意識を失ってはいたが、誰かが自分を抱え、砂浜の上の方へと運んでくれているのを、微かに感じ取っていた。もとより、自分を救ったのは一葉ではないかと疑っていたのだ。今の話で点と点が繋がり、その確信は一層強まった。その思いが、彼をいてもたってもいられなくさせたのだろう。慎也は逸る心を抑えきれないように尋ねた。「一葉、お前が人を助けたのはいつだ?相手は男か、女か?」一葉は、慎也がなぜそんなことに興味を示すのか分からなかったが、本能的に答えていた。「かなり大柄な男性でした。ただ、あまりに暗くて……顔まではよく見えなかったんです」一葉の口から語られた時間と場所に、慎也はもはや何の調査も必要としなかった。あれは間違いなく、
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第434話

一葉は言葉を失った。「小説だと、絶対そういう展開になるのに!」千陽は悪びれもせずに、そう言い切った。そのあまりに堂々とした物言いに、一葉も、隣にいた千陽の夫も、思わず笑ってしまった。二人とも、彼女が小説を読みすぎて、すっかり物語の世界に浸っているのだと思ったのだ。まさか、その突拍子もない空想が、寸分の狂いもない真実そのものであったとは、夢にも思わずに。物語という芸術は、時として現実から生まれるものなのだから。食事を終えると、お祝いだからと、千陽は二人をカラオケにまで引っ張り出した。一日中一緒に過ごすうちに、一葉は千陽の夫である真鍋和史(まなべ かずふみ)について、多くのことを知った。どうして、あれほど結婚に興味を示さず、恋愛だけでいいと言っていた千陽が、彼との結婚を強く望んだのか、その理由がわかった気がした。この損得勘定が当たり前の世の中で、彼ほど純粋で誠実な人間に出会うことは滅多にない。考古学の研究に没頭する彼は、まるで俗世に染まらない象牙の塔の住人のように、あまりにも純真だった。経済的な心配さえなければ、彼は最高の結婚相手と言えるだろう。そして、同じ研究所で働く二人は、どちらも高給取りで、金銭的な不安はない。誰もが羨むような、理想的な夫婦の形がそこにはあった。千陽は、夫の前では話しにくいことがあるだろうと察してくれたのだろう。夜、自宅に戻ると、彼女は和史を部屋に残し、一葉のベッドにもぐり込んできた。ベッドに横になると、千陽はふと思い出したように言った。先日、電話で一葉が「戻ってきたら、いい知らせがある」と言っていたことだ。「ねえ、あのいい知らせって、何?」一葉から妊娠したこと、それも双子だと告げられると、千陽は驚きのあまりベッドから飛び起きた。「いつの間に試験管ベビーを?」一葉が以前、精子バンクの利用を考えていると話していたため、千陽はてっきりそうだと思い込んだのだ。「試験管じゃないの。あれは……」一葉は、例の懇親会の夜、言吾との間に起こったアクシデントのことを、千陽に打ち明けた。お腹の子の父親が言吾だと知り、千陽は言葉を失い、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。長い、長い沈黙の後……「一葉ちゃん……言吾は、あの紫苑との間に子供ができたんでしょ!」「わかってる。彼とは
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第435話

千陽の考えはわかる。けれど、今の自分にとって、恋愛や男性という存在は、もう本当に重要ではなかった。今はただ、無事にこの子たちを産み、学業を深め、研究の世界に身を投じることだけを考えていた。「子供たちのことと研究で、私は手一杯になるわ。哀れでもないし、寂しさを感じる時間なんてない」千陽が何かを言う前に、一葉は言葉を続けた。「それに、見てよ。最近はネットでも、選択的シングルマザーの話はよくあるじゃない。結婚している女性だって、『お金と時間があって、夫は家にいないのが最高』なんて言ってる時代なのよ」「小説だって、最近はヒロインが誰にも頼らず一人で輝くのが流行りなんだから!」千陽は、「……」と言葉に詰まった。確かに、その通りだった。「そんなに思い詰めないで。これは、いいことなのよ。だって考えてもみて?私が本当に試験管ベビーを選んでいたら、精子を提供した人がどんな人かなんて、わかりっこないでしょ?言吾は優花を溺愛してて、そのせいで周りが見えなくなるような人だけど、それでも総合的に見れば、容姿だって、ビジネスの才能だって……それに、自然に授かった方が、体への負担も少ないし。だから、言吾のことは、ただの精子ドナーだったって思えば、それだけのことよ!」千陽は一葉の言葉を頭の中で反芻してみた。確かに、そうだ。そう言われれば、試験管ベビーよりずっといい。一度で成功するかもわからないし、採卵だってすごく痛いと聞く。でも……千陽の胸に、新たな不安がよぎった。「万が一、言吾があなたの妊娠を知ったら……子供を奪おうとするんじゃないの?」千陽の懸念は、一葉もまた抱いているものだった。「だから、言吾にだけは、この子たちが彼の子だって知られちゃいけないの」「言吾と似た雰囲気の人を探して、その人と付き合ってるフリをしばらくするの。で、別れた後なら、妊娠して子供を産んでも不自然じゃないでしょ」そこまで考えている一葉を前に、千陽は何かを言いかけたが、かけるべき言葉が見つからなかった。確かに試験管ベビーよりはいいかもしれない。でも……千陽はいくら考えても、この子を産むことが、一葉のこれからの幸せの足枷になるのではないか、という思いを拭いきれなかった。だが、だからといって堕ろすのがいいわけでもない。一番の親友として、一葉に恋に
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第436話

傍らに控える小瀬木に、淡々と命じる。「お前は……」その命令を聞き終えた小瀬木は、驚愕に目を見開いた。「し、慎也様……これは……」紫苑は、慎也様の命の恩人ではなかったのか?この提携案件は、彼女に利益を与え、谷川家での地位を盤石にするための、慎也様からの温情だったはずだ。それが今、この命令は……この提携案件そのものを、紫苑を破滅させるための巨大な罠へと変貌させろということに他ならない。小瀬木は、なぜ主人が紫苑を助ける気でいたはずが、一転して彼女を破滅させようとしているのか、その理由を知りたくてたまらなかったが、結局、その問いを口にすることはなかった。彼が長年この男の傍にいられるのは、能力が高いからだけではない。最も重要なのは、聞くべきではないことは、決して口にしてはならないと知っているからだ。そしてこれは、明らかに自分が踏み込んではならない領域の問題だった。小瀬木が退出した後、慎也はデスクの引き出しから一つのファイルを取り出した。その一番上には、一葉の鮮明な写真が貼られている。彼は、写真の中の彼女をじっと見つめた。海の中で助けられた時の、人生で唯一与えられた、あの温かい記憶を思い出す。その眼差しは、ますます深く、昏い色を帯びていく。胸の奥で、何かが激しく渦を巻き、今にも抑えきれなくなりそうだった。獅子堂家……言吾はますます重厚感を増し、仕事ぶりはめきめきと頭角を現していた。市場の動向、グループの未来予測、そのいずれにおいても、時に父親である宗厳の先見の明すら凌駕するほどだった。その姿に、宗厳は息子への満足感を日に日に深めていた。やはり、恋愛にうつつを抜かす悪癖を断ち切らせ、あの女への執着を捨てさせ、仕事に全身全霊を捧げさせたのは正解だった。これこそが、彼を飛躍的に成長させる何よりの良薬なのだ!オフィスでの執務を終えると、宗厳は歩み寄り、言吾の肩をぽん、と叩いた。「行くぞ、食事だ。お前の母さんも紫苑も待ちくたびれているだろう」言吾の返事を待たず、宗厳は立て続けに言葉を重ねる。「……紫苑との始まりがどうであったにせよ、今や彼女はお前の正真正銘の妻であり、お前の子らの母親なのだ。身重の体で、それも双子だ。さぞ骨が折れるだろう。お前も少しは労ってやらんとな。分かっているか?」言吾
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第437話

言吾の不意の笑みに、文江の心臓がどきりと跳ねた。まさか、こちらの企みに気づいたのではあるまいか。悪事を働く人間とは、得てしてこうも臆病になるものだ。「烈、何を笑っているの?」その問いに、言吾は先ほどよりもさらに心を溶かすような、完璧な笑みを文江に向けた。「嬉しいんですよ。母さんが、こんなにも俺の体を心配してくれて」言吾のその屈託のない笑顔と、心からの喜びを目の当たりにして、文江は胸に言い知れぬ感情が渦巻くのを感じた。あの忌まわしい出産の記憶が蘇る。次男が生まれるのが遅れたせいで、耐え難い陣痛のさなか、さらなる激痛の波に襲われた。双子のどちらか一人を選ぶという極限状況で、彼女は迷うことなく次男を切り捨てたのだ。それからというもの、彼女は世間体を恐れ続けた。縁起が良いとされる男女の双子ではなく、同じ男の双子を産んだと知られることを。産まれてから一度たりとも、次男の顔を見ようとはしなかった。胸に巣食う罪悪感を打ち消すため、彼女は来る日も来る日も自分に言い聞かせ続けた。あの子は、自分を苦しめるためだけに生まれてきたのだと。捨てて当然。罪悪感など抱く必要はない。憎むべきなのだ、と!そうして、彼女の次男への嫌悪は、日に日に増大していった。特に、あの子が原因で最愛の長男が死んでからは、その憎しみは殺意へと変わった。夢の中で幾度、この疫病神をその手で刺し殺したことか。自分はあの子をこれほどまでに疎み、憎んでいるというのに、だのに……なのに、ただ魚を取り分けてやっただけで、体の心配をするふりをしただけで、こんなにも嬉しそうに笑うなんて。彼女は……どうしたって、この子は自分が産んだ息子なのだ。そして、何より愛した息子の顔と、瓜二つ……目の前で無邪気に喜ぶ言吾の姿に、ほんの一瞬、母親としての情が湧き上がってくるのを止められなかった。これまで必死に心の奥底に押し殺してきた感情のすべてが、今、一斉に彼女に逆襲してくるかのようだ。魚を挟んだ箸を持つ手が、カタカタと震えを抑えきれない。いっそ、このまま箸を引いてしまいたい。だが、無残に命を落とした愛しい息子の顔が脳裏をよぎると、彼女の心は再び鋼のように硬くなった。……それでも、震える指先で持ち上げた魚の身を、言吾の皿へと運んだ。私の可愛い子は、あんなに
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第438話

宗厳が言吾を認め、庇えば庇うほど、文江の言吾への憎しみは燃え上がった。いとも容易く、最愛の息子の座を奪ったあいつが憎い!あの子が不憫でならない……幼い頃からあれほど血の滲むような努力を重ねてきたというのに、父親である宗厳から褒められたことなど数えるほどしかなかった。それなのに、あの言吾が、なぜ?なぜなの!「宗厳!烈だってあなたの実の息子でしょう!」文江のヒステリックな声に、宗厳は苛立ちを隠そうともしない。「烈が実の息子なのは分かっている。だが、あいつは死んだ!死んだんだ!死んだ人間に、これ以上どう良くしてやれと言うんだ!」「あいつの後を追って、死ねとでも言うのか?ならば、なぜお前が後を追ってやらんのだ?」その言葉に、文江は思わず息を呑んだ。「あなたに死んでほしいなんて思ってないわ!ただ、公平にしてほしいだけ!あの子は幼い頃から、あんなに、あんなに苦労して、やっとあなたの認めるところまで来たのよ。それを、どうしてあなたはそんなに簡単に忘れて、あの男を認めるの?」「あいつにやすやすと、烈のすべてをくれてやるなんて!あなたに忘れられたら、あの子はどれほど悲しむか……あなたの実の息子なのよ!こんなにあっさり忘れていいはずがないわ!」もともと妻に対して深い愛情など持ち合わせていなかった宗厳は、ここにきて、彼女が精神的に病んでいるとしか思えなくなっていた。「烈はもう死んだんだ!聞こえんのか、死んだんだよ!あいつが死んだからといって、その席を空けたままにしておけと?そして、みすみす獅子堂家を他人にくれてやれと、そう言うのか?お前は、烈が幼い頃から苦労したと言うが、言吾のことは考えたことがあるのか?あいつもお前の息子だろうが!烈は、幼い頃から両親の愛を一身に受け、獅子堂家の潤沢な資産を享受してきた。それを苦労だ、可哀想だと言うのなら、生まれてすぐにお前に捨てられた、あの言吾はどうなんだ?父親には疎まれ、母親には憎まれ、十九で家を追い出され、すべてを失った。あいつの人生は苦労ではなかったとでも?あいつの人生は、楽なものだったとでも言うのか?あの子が一体何をした!実の母親であるお前に、そこまでされなければならんのだ!……お前の頭の中は一体どうなっているんだ!実の息子をためらいもなく捨てたくせに、罪悪感のかけらもなく、あまつ
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第439話

「忘れたわけではあるまいな。彼女の前の子供にも、問題があったことを。ましてや、今回は体外受精で授かった子だぞ!」言吾は獅子堂グループにおいて日に日にその存在感を増してはいたが、絶対的な権力者である宗厳にはまだ及ばない。宗厳は、言吾よりも遥かに多くの情報を握っていた。そして、彼が紫苑たちの嘘に加担し、事実を隠蔽しているからこそ、言吾は未だ真実を知らずにいるのだ。「……これが、最後の警告だ。せいぜい、肝に銘じておくことだな!」宗厳は冷たい顔でそう言い放つと、書斎へと向かった。文江は、体の両脇に下ろされた手を、強く、強く握りしめた。長い爪が掌に深く食い込み、血が滲んでも、痛みさえ感じなかった。……言吾に面差しが似た、若い男性。そんな都合のいい相手が、そう簡単に見つかるはずもなかった。ましてや、残された時間はあまりにも少ない。時間ばかりが過ぎていく焦りの中、一葉がこの計画そのものを諦め、いっそ海外へ渡り、誰にも知られずに出産しようかと考え始めていた、まさにその時だった。旭が、帰ってきたのである。彼もまた、言吾と紫苑の間に子供ができたというニュースを目にしたのだろう。そして、その記事は、一葉と言吾の関係が完全に終わったこと、彼女がもう吹っ切れたことを、旭に確信させたに違いなかった。これまでの控えめな態度とは打って変わり、この日の彼は、レストランを丸ごと貸し切り、夢のようにロマンチックな空間を用意してくれていた。ただの食事に誘われただけだと思っていた一葉は、店内に足を踏み入れた途端、呆然と立ち尽くした。その時だった。旭が燃えるような真紅の薔薇の花束を抱え、彼女の前にすっと跪いた。「一葉姉さん……結婚を前提に、俺と付き合ってください」我に返った一葉は、彼の整った美しい顔を見つめた。その真摯な瞳を前に、これから告げなければならない拒絶の言葉を思うと、堪らなく胸が痛んだ。男女の間に純粋な友情は成立しないとよく言うけれど、一葉にとって、旭はどこまでいっても恋愛の対象ではなかった。そこにあるのは家族への情であり、弟を思うような愛しさだけ。以前ですら考えられなかったことが、子供まで宿した今になって、可能になるはずもない。こんなにも若く、輝かしい未来を持つ彼には、自分ではない、もっと相応しい幸せが待っているはずだ
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第440話

彼があれほどまでに自分を一途に想ってくれる姿に、一葉もかつて、慎也の言葉通り、彼と一緒になることを考えたことがあった。一度手に入れてしまえば、この執着も薄れるのではないかと。しかし、弟同然の彼と男女の関係になることなど、想像することすらできなかった。ましてや、実際に何かがあるなど、あり得ないことだった。「ごめんね、旭くん……本当に、ごめん」そう告げ、一葉が身を翻して立ち去ろうとした、その時だった。旭が一葉の腕を、ぐっと掴んだ。「一葉姉さん……もう一度だけ、試させてくれないかな?もう一度だけ、チャンスをくれない?」「他の男の子供がいたって構わない。それでも、もう一度チャンスをくれないかな?俺は……ただ、姉さんと一緒にいたいだけなんだ」「もし、一葉姉さんと一緒になれないなら……俺の人生に、どんな意味があるのか分からないよ」幼い頃に拉致された経験がもたらした心の傷と深い影は、旭の心をどこか不健全なものにしていた。たとえ今はもう立派な一人の男として成長していても、そのトラウマから完全に抜け出すことはできずにいたのだ。彼の想いは偏執的で、一途すぎた。一葉に縋り付く姿は、まるで溺れる者が藁にもすがるようで、決して放そうとはしなかった。そんな彼を見ていると、一葉は本当に胸が痛んだ。できることなら、彼を愛し、彼と共にありたいと、心からそう思った。だが、以前の自分にすらできなかったことが、今の自分にできるはずもない。だから、彼がどんなに藁にもすがる思いで腕を掴んでこようと、一葉はその手を振り払い、決然と背を向けた。旭は追ってこなかった。追いかけても無駄だと分かっていたのだろう。ただ、その場から、悲痛な、それでいて揺るぎない声で叫んだ。「一葉姉さん、待ってる……!俺、ずっと待ってるから……!」たとえ、そのために一生を費やすことになったとしても――彼のその揺るぎない、いや、もはや執念ともいえる想いに、一葉は思わずこめかみを押さえた。あんなにも素晴らしい人なのだ。彼は、この世の最高の幸せを手にする資格がある。自分のような人間に、これ以上時間を浪費すべきではない。そんな頭痛に促されるまま、一葉はレストランを出た後も車には向かわず、川辺へと足を向けた。岸辺に続く桜並木の下を、あてもなく彷徨う。やがて、一本の桜の木に寄り
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