All Chapters of 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた: Chapter 1121 - Chapter 1130

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第1121話

スティーブは彼女を見て、改めて言った。「理恵様がその気になられましたら、このポストは、いつでも理恵様のために空けておきますので」理恵は視線を逸らし、さして気にも留めないといった風情で、そっけなく言った。「さあ、どうかしらね。透子に会いたくなったら、連絡するわ」スティーブは頷いた。理恵がこちら側に来るのは、もはや時間の問題だろう。透子を柚木グループに引き抜かれるくらいなら、いっそ理恵をこちらに取り込んでしまえばいい。そうすれば、未来の社長夫人というのも、あながち夢物語ではないかもしれない。スティーブが辞去しようと、踵を返したその時。一歩も踏み出さないうちに、理恵に呼び止められた。スティーブは振り返り、その口元に笑みを浮かべた。「理恵様、もうお考えが変わりましたか?」早いな。やはり、自分の読み通り……理恵は立ち上がって言った。「ううん、違うわ。あなたに、橘さんへこれを渡してもらいたいの」彼女は持参した二つの紙袋のうち、片方をスティーブに差し出して言った。「透子に持ってきたんだけど、ついでだから、あの人にも一つあげるわ。迷惑じゃなきゃいいけど」スティーブはうやうやしく受け取ると、慌てて否定した。「社長が迷惑がるはずがございません。きっと、感激なさいますよ」理恵は、それが単なる社交辞令だと分かっていたが、何も言わなかった。スティーブが去り、オフィスのドアが閉ざされた。透子と理恵は並んで座り、理恵が手元のもう一つの袋を開封した。理恵は言った。「食べてみて。うちの家政婦さんが焼いたんだけど、結構いけるのよ」透子はクッキーを一枚つまんで口に運んだ。確かに美味だ。理恵は、さらに言った。「二皿分焼かせたの。もう一皿は、橘さんに」透子は尋ねた。「諦めるんじゃなかったの?」理恵はふんと鼻を鳴らして言った。「だから、焦げた方をくれてやったのよ」「わざと家政婦さんに、二皿目は焼き時間を長くして、温度も上げさせたんだから」透子は言葉を失った……それは、一体どういう理屈なのだろう?プレゼントはするけれど、あえて焦げた失敗作を贈るなんて……透子も彼女の真意が測りかね、先日の件について尋ねてみた。理恵はまだ、親友に対し、彼女の兄から正式に、しかも適当な理由をつけて断られたことを打ち明ける心の準備ができてい
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第1122話

スティーブが去った後、オフィスの中では。雅人は、理恵が来たことを知っていたが、わざわざ隣へ挨拶には行かなかった。仕事を続けながら、彼はクッキーを一枚、取り出した。一口かじると、色の濃い部分は、確かに焦げていた。食感は少し苦いが、食べられないほどではない。理恵のようなお嬢様が、自らキッチンに立つなど、百年に一度あるかないかの珍事だろう。それで、初めてでこの出来栄えなら、彼女もなかなかの才能があると言える。隣のオフィスでは。理恵は、すでに三十分ほど長居していた。二人はよもやま話に花を咲かせたが、当然、蓮司の話題も避けられなかった。もちろん、数日前のような、蓮司がまだネットで派手に暴れ回っていた時なら、彼女もその話はしなかっただろう。彼のために、良いことなど言うはずがないからだ。だが、今、彼が鳴りを潜めているからこそ、理恵はとどめを刺しに来たのだ。理恵は、冷ややかに言った。「ふん、新井も所詮はその程度の男ね。あなたのためにもっと死に物狂いでやるかと思ってたのに。お爺様に脅されたら、もう借りてきた猫みたいにおとなしくなっちゃうなんて。あなたと結婚した時もそうだったけど、結局、見かけ倒しの腰抜けなのよ。あんな男、責任感のかけらもないわ。透子、あなたが泥沼から抜け出せて、本当によかった。でなければ、一生苦しむことになってたもの」理恵は内情を知っていた。大輔に探りを入れて、蓮司のカードがすべて凍結されていることを知っていたからだ。要するに、もう「騒ぎ」を起こす資金がないのだ。だが、それをバカ正直に言うわけにはいかない。だから、彼女は巧みに「脅し」という言葉に置き換えたのだ。とにかく、この人生で、蓮司が自分の親友のそばに近づくことなど、絶対に許さない。透子は、その言葉を聞きながら、何も言わなかった。新井のお爺さんが蓮司の幼稚な行動を止めたのは、もちろん、ビジネス上の判断からだろう。一族の後継者であり、グループの現CEOが、ネットでこれほど大騒ぎするのは、新井グループの名声に傷がつくだけでしかない。蓮司がおとなしくなったのは、いいことだ。これで、もう社員たちの噂話を聞かずに済む。理恵は、そろそろ帰る時間だと腰を上げた。透子は彼女を下まで見送った。彼女が戻ってくると、スティーブが書類を一部、手渡して言った。
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第1123話

新井社長との「恋愛ゴシップ」から、小耳に挟んだ噂話に至るまで。透子が家族と再会して以来、彼女は上流階級のパーティーに顔を出すこともなく、どんなお茶会にも参加せず、他の令嬢たちと交流しようともしなかった。よほど重要なビジネスの場でなければ、一般的な集まりに彼女を招待することなど、到底叶わなかったのだ。だが、誰も透子を「お高くとまっている」などと陰口を叩いたりはしない。何しろ、彼女と繋がりを持ちたいと願う者の方が、遥かに多いのだから。彼女の一挙手一投足が、社交界の注目の的となっていた。どんな宴会にも出席せず、ただ、ビジネススーツに身を包み、橘社長の影のように付き従っている。人々は当初、透子が橘社長のアシスタントを務めているのだと推測した。だが、チーフアシスタントは依然としてスティーブであり、透子はただ、そばに控えているだけだと判明した。これらは、橘社長と提携の話をした、とある大企業の社長たちから漏れ聞こえた、真偽のほどは定かではない裏情報だ。アシスタントではないのなら、透子は何をするつもりなのか?まさか、橘社長は彼女を育て、ビジネスの世界に引き入れようとしているのではないか?その可能性は、大いにある。何しろ、透子の以前の身分を知る業界の人間は、とっくに彼女の経歴を洗い出していたのだから。成績優秀で、向上心があり、名門大学を卒業している。まさに、ビジネスの世界で活躍するにふさわしい人材だ。だが、確かな証拠が得られるまでは、それもただの憶測に過ぎなかった。……月曜日。午前九時、会議室。プロジェクト定例会議が定刻通りに始まり、各提携先の担当者はすでに到着していた。もともと、この会議はさして重要ではなく、提携先の人間は、橘社長が出席するはずがないと思った。だが、全員が揃った後、彼が会議室の入り口に姿を現したのだ。途端に、各社のマネージャーや部長たちが一斉に立ち上がり、居住まいを正して、満面の笑みで挨拶した。「橘社長、おはようございます」雅人は、ただ軽く頷くだけで、彼らに視線を送ることはなかった。人々も、それで気を悪くしたりはしない。何しろ、彼らのような立場の人間が、これほどの大物と直接会う機会など、滅多にないのだから。それに、さほど重要ではない会議だから、彼らの社長は出席していない。
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第1124話

会議が正式に始まり、透子は席を立って、スクリーンの前へと歩み出た。向かいの席の者たちは彼女を見つめ、それから、席に座ったまま動かない橘側のマネージャーに視線を移し、一瞬、動きを止めた。今回、会議を進行するのは、担当マネージャーではないのか?まさか、橘家の令嬢が?プロジェクトの責任者に抜擢されたのか、それとも、単なる会議の進行役を務めるだけなのか。おそらく、ただの進行役だろう。最近、透子が橘社長に付き従って出社しているという噂は耳にしていたが、まだ日も浅い。プロジェクトを任されるには、あまりに荷が重すぎる。透子の凛とした声が響くと、彼らは一斉に手元の資料を開き、真剣に耳を傾け始めた。誰が話そうと、会議の内容こそが最も重要だからだ。壇下。雅人は上座に座り、透子が落ち着き払ってスクリーンの横に立ち、プレゼンを行う姿を見守っていた。その佇まいは穏やかで、冷静沈着、思考も明晰そのものだ。思わず、その瞳に称賛と感嘆の色が浮かぶ。妹は、本当にビジネスの世界に向いている。特に、人の上に立つ者に相応しい資質を持っている。こんなリーダーなら、仕事は真面目で責任感があり、性格も良い。間違いなく、部下からの人望も厚いだろう。そう思うと、雅人は、もっと早く妹を見つけ出せなかった自分を呪った。でなければ、彼女はとっくにビジネス界で頭角を現し、辣腕を振るう女性経営者として名を馳せていただろうに。たとえ、二年早く、彼女が大学を卒業した時だったとしてもだ。新井蓮司のようなクズに嫁がせ、二年もの間、まるで家政婦同然に扱われ、彼女の青春と才能を飼い殺しにさせるようなことなど、断じてさせなかったはずだ。透子が壇上で一心不乱に話すのを、雅人は食い入るように見つめている。その向かい側では。会議を聞きながらも、提携先の担当者たちは、こっそりと雅人の様子を窺っていた。その冷徹な瞳に、妹を慈しむような温かい色が、隠しきれずに滲んでいることに気づく。それで、皆、雅人が今日、なぜこの会議にわざわざ出席したのかを悟った。彼は、会議を聞きに来たのではない。彼ほどの立場の人間が、このような定例会議に出る必要などないのだ。彼はただ──透子が壇上に立ち、会議を仕切るその晴れ姿を見守るためだけに来たのだ。こんな兄がいて、世界中の妹という妹が、透
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第1125話

スティーブはその流暢な回答を聞き、驚愕に目を丸くして壇上の透子を見つめた。彼はただ、透子には最初から最後まで原稿を読んで貰えればそれでいい、と伝えていたはずだ。具体的な質疑応答は、担当の専門マネージャーが引き受ける手はずになっていたのだから。だが、まさか透子が、事前にプロジェクトの全容を把握していただけでなく、これほど淀みなく答え、対等に議論を交わすことまでやってのけるとは。スティーブは胸中で舌を巻いた。さすがは社長の実の妹、この兄にしてこの妹あり、だ。彼女の成長ぶりは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いと言える。上座では。雅人は終始、静かに妹の発言に耳を傾けていたが、その眼差しには、隠しきれない称賛の色が深まっていた。今日のこの会議は、本来なら彼女に度胸をつけさせるための「予行演習」のはずだった。だが、まさか──妹は、自分にうれしい誤算を与えてくれたのだ。もしかしたら、育成のペースをもっと早めてもいいのかもしれない。型にはまったやり方は不要だ。何しろ、彼女自身がこれほど優秀で、向上心に溢れているのだから。会議が続く間、橘グループ側のプロジェクト責任者であるマネージャーは、一度も口を開く幕がなかった。彼は透子の回答を聞き、確かに的確で、寸分の狂いもないと舌を巻いていた。どうやら、以前彼らが密かに交わしていた憶測は正しかったようだ。透子は、橘社長の元で、本格的にビジネスの世界へ足を踏み入れようとしているのだ。彼は、自分の仕事が奪われるなどとは微塵も心配していなかった。なぜなら、透子の目指す場所は、こんな小さなプロジェクトではないと直感したからだ。彼女は将来、雅人に次ぐ人物、瑞相グループのナンバーツーになる器だ。そうなれば、自分にとっても好機だ。雅人は若くして名を成し、その基盤は海外にあるため、普通の人間が彼の側近チームに入り込むことなど、到底叶わない。しかし、透子は違う。彼女はゼロから少しずつ階段を上っていく。自身の手足となる腹心や、信頼できる人材をこれから築いていく必要があるのだ。それこそが、彼らにとっての千載一遇のチャンスとなる。それに、本当に透子に付いていくことができれば、そのプレッシャーは雅人の下で働くよりもずっと小さいだろう。何しろ、透子の方が雅人よりも遥かに親しみやすいのだから。そう理解
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第1126話

何しろ、透子の隣にはまだ雅人が鎮座しており、席を立つ気配すら見せないのだから。だから、提携先の担当者たちは先に失礼するしかなかった。彼らが去ると、会議室には雅人たち三人だけが残された。雅人は妹の方を向き、称賛の眼差しで微笑んで言った。「今日は本当によくやった。ここまで熱心に準備してくるとは思わなかったし、短時間でこれほど細部まで深く理解しているとはな」透子は答えた。「お兄さんがこの機会をくれたんですから、もちろん、大切にして、ちゃんとやり遂げたいと思いました。プロジェクト責任者の専門レベルには及ばないとしても、少なくとも、私が知るべきことは、全部、徹底的に理解しておきたかったですから」雅人は頷いた。「今回のは、機会というほど大層なものではない。ただ、君に度胸をつけさせるための、小さな舞台に過ぎない。だが、次のプロジェクトは、君も主導メンバーに入って、全体の流れを学んでみるといい。そうすれば、その次のプロジェクトでは、一人で担当できるようになる。僕はもう、現場のプロジェクトを直接担当することは少なくて、最終的な決定を下すだけなんだ。でなければ、僕が手取り足取り指導してやるんだが」透子はそれを聞き、思わず言った。「私、まだビジネスのイロハに触れ始めたばかりで……一人でチームを率いるなんて、そんな実力は、まだ……」雅人は言った。「心配するな。今すぐプロジェクトを丸投げすると言っているわけじゃない。だが、来月には、小さな案件から君に任せ始めるかもしれない」透子はそれを聞き、目をぱちくりとさせた。来月……それほど猶予があるわけではない。兄は、自分を買いかぶりすぎているのではないだろうか。妹の躊躇を見て取り、雅人はまた言った。「君は、ただ大胆にやればいい。余計な心配は無用だ。僕が、君を補佐する人間をつける」彼はまた励ました。「時々君は自分の可能性を過小評価しすぎていると思う。僕自身も、そうだったのかもしれない。だから、試してみたいんだ。君の未来は、無限に広がっていると」その言葉に、透子は頷いた。兄は自分に絶大な信頼を寄せているが、彼女自身にはそれほどの自信はない。それでも、彼女は頷いて、その期待を受け入れた。一つ一つ、乗り越えていくしかない。頑張って、挑戦してみよう。彼女が不安を抱えながらも、勇気と気概を見せるのを
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第1127話

透子はスティーブの言葉を聞いていたが、その点については特に意識していなかった。だから、彼らがわけもなく拍手喝采したのも、そういう意味だったのかと得心がいった。雅人は言った。「気にするな。今の立ち位置なら、君と繋がりを持ちたいと願う人間は星の数ほどいる。君には、相手をふるいにかける権利があるんだ。彼らは皆、君から何らかの利益を得ようとしている。だが、それは安売りするようなものじゃない。時には冷徹に振る舞うことも、自分を守る境界線を引くことになる」透子はそれを聞き、考え込んだ。兄が言いたいのは、自分が人が良すぎて、断りきれない性格だということだろうか。だが、あの人たちは自分の本質を知らないはずだ。それとも、見ただけで舐められてしまうのだろうか。透子は言った。「そういう人付き合いの駆け引きについては、これから深く学んでいくつもりです」彼女が学ばなければならないことは山積みだ。ビジネスの世界は複雑怪奇で、人間関係にも様々な思惑が絡み合っている。もし今、本当に老獪で腹黒い人間に罠を仕掛けられたら、自分は気づかずに嵌ってしまうかもしれない。「焦る必要はない。ゆっくりでいいさ。僕と父さんたちが、君のために道を切り拓いてやる。良からぬ下心を抱いたり、君を利用しようとしたりするような有象無象は、僕たちがすべて排除するから」雅人は、横を向いてそう言った。その声はあくまで優しく、透子は兄を見つめ、こくりと頷いた。胸の奥に、じわりと温かいものが広がる。これが、家族からの庇護と愛なのだ。自分のために荊棘の道を切り開き、ただ、平坦で輝かしい道を歩ませてくれようとしている。……今日、雅人と透子が揃ってプロジェクト会議に出席したという情報は、会議が始まるやいなや、各提携先の社長たちの耳にも入っていた。彼らは、自らが出席しなかったことを、臍を噛む思いで後悔した。雅人と透子本人に繋がりをもつことができる千載一遇の好機を、みすみす逃してしまったのだから。雲の上の存在である彼らと会えること自体が、金銭には代えがたい貴重なチャンスなのだ。何しろ、企業のトップであっても、それなりの格がなければ、普段、雅人にアポイントメントを取ることすら叶わないのだから。そして、各社のマネージャーが帰社するや否や、社長自らがオフィスに飛んできて、雅人と会話
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第1128話

透子は一介の平社員からスタートし、わずか一ヶ月でチームリーダーに昇進した。掲示板では、これに対して「コネ」だという声が少なくなかった。だが、それに異を唱える者もいた。透子自身の実力は本物であり、頭角を現すのは時間の問題だったのだ、と。その証拠として、彼女の大学時代の優秀な成績や、数々の受賞歴が次々と掘り起こされた。さらには、かつての競合相手だったCG社の社員までもが掲示板に降臨し、彼女の実力を証言したのだ。CG社と旭日テクノロジーのプロジェクト提携は紛れもない事実であり、しかも、それまで旭日テクノロジーが提携権を獲得したことは一度もなく、これが初の快挙だった。同時に、コンペのプレゼンに登壇した旭日テクノロジーの社員が、まさか新井社長の夫人だったとは誰も知らなかったという。そのため、「出来レース」の疑いは完全に晴れた。とにかく、透子に対する世間の注目度は凄まじく、半月もの間、トレンドワードのトップ3から落ちることはなかった。橘社長と共に会議の場に頻繁に姿を現し、共同でプロジェクトを担当するようになると、その熱狂にはさらに拍車がかかった。人々が彼女のビジネスの手腕へ寄せる関心は、すでに元夫である新井社長とのゴシップを上回っていたのだ。新井社長が鳴りを潜めてしばらく経ち、人々が彼の一方的な求愛劇を忘れかけ、二人はもう何の関係もないのだと思い始めた、その時。新たな衝撃的な展開が、突如として訪れた。橘家が、順和建設(じゅんわけんせつ)と提携を結んだのだ。投資側として、雅人が透子を伴い、都市開発プロジェクトのキックオフ会議に出席した。そして、透子が彼の名代として、順和建設側と深く意見交換を行うと発表された。特別会議室。順和建設の社員は、とっくに会場の準備を整えていた。今回の提携を最重要視しており、社長と役員たちが自らエントランスまで、橘グループの一行を迎えに出ていたほどだ。黒のトールワゴンが横付けされると、順和建設の社長が満面の笑みで進み出て、深々と頷きながら握手を求めた。雅人と透子は順に彼と握手を交わし、会議室へと案内された。雅人は左側の上座に座り、透子はその隣で、書類をテーブルの上に広げた。橘家は出資に徹し、順和建設がプロジェクト全体の施工を請け負う。順和側はすでに協力会社を選定しており、今日の会議には
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第1129話

順和建設の社長は、本来なら新井グループの責任者として高山副社長が座るはずだった席に、新井社長が鎮座しているのを見ていた。新井社長自らのお出ましとあっては、彼もこの上なく丁重にもてなすのが常であり、普段なら諸手を挙げて歓迎するところだ。しかし、今日に限っては、彼は焦燥に駆られ、冷や汗を流し、震え上がるしかなかった。理由は、周知の通りだ。この会議に、ただ橘社長と新井社長が同席しただけなら、まだここまでの波風は立たなかっただろう。だが、よりによって、透子、いや橘家の令嬢までいらっしゃるのだ。新井社長と彼女の間の「浅からぬ因縁」は、社交界ではとっくに知れ渡っており、つい先日まで、新井社長が彼女を派手に追いかけ回していたばかりなのだから。今、橘社長の怒気を孕んだ表情を見ると、次の瞬間には、橘社長がその場で提携契約書を破り捨てかねない勢いだとさえ感じられた。順和建設の社長である石橋大樹(いしばし だいき)は、心臓の激しい動悸と手の震えを抑え込み、顔には必死に満面の笑みを張り付けた。何しろ、彼がこのプロジェクトの主幹事なのだ。同時に、他の提携先の人間たちも、この凍りついたような緊張感と、不穏な空気に気づいていた。一時、会議室は水を打ったように静まり返った。誰一人として口火を切ろうとせず、ただ黙って、橘社長と新井社長の間に散る火花を、固唾を飲んで見守っていた。大樹は意を決して蓮司のそばへ歩み寄り、手を差し伸べて笑顔で挨拶した。「新井社長、わざわざご足労いただきながら、お出迎えもせず、大変失礼いたしました」蓮司は立ち上がり、無表情のまま彼と握手を交わし、軽く頷いた。大樹は、そこですかさず弁解を重ねた。「先日の会議では、今回のプロジェクトは高山副社長がご担当されると伺っておりましたので、社長様に対しては、ついご挨拶が疎かになってしまいまして。何卒、ご容赦ください」彼は表向き、蓮司の来訪を出迎えなかった非礼を詫びているが、実際には、橘社長側に対して必死に身の潔白を訴えていたのだ。もともと、新井グループの責任者は新井社長ではなく、高山副社長の予定だったのです、と。でなければ、彼がいかに命知らずの馬鹿だったとしても、この状況で新井グループとの提携を推し進める勇気などあるはずがない。何しろ、今や橘家と新井家は犬猿の仲であり、新井社
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第1130話

大樹は、不測の事態を避けるべく、早急に本題へと入った。社長である大樹が、自ら先陣を切ってプロジェクトの現況報告を行う。平時なら彼が前に出るまでもなく、副社長に任せておけば事足りる。だが、今回は瑞相グループからの投資案件であり、橘社長その人が臨席しているのだ。手抜かりは許されない。彼は、最大限に恭しく、かつ専門的で詳細な報告を行い、橘社長に好印象を与えて次回の提携に繋げようと必死だった。壇上で誠心誠意、力の限りを尽くして報告を終えると、大樹は左側の上座に座る橘社長の方を向き、満面の笑みで尋ねた。「橘社長、今回のプロジェクトのキックオフにあたり、何か建設的なご意見やご提案はございますでしょうか。私どもといたしましても、全力を尽くして、完璧な施工を目指す所存でございます」雅人は、短く答えた。「本プロジェクトにおける橘家の名代は、橘栞だ。彼女に全権を委ねているゆえ、発言および進捗管理は全て彼女が行う」大樹はそれを聞くや否や、即座に意図を察し、「承知いたしました」と応じた。そして、彼は橘社長の隣に座る透子へと視線を移し、柔和な笑みで尋ねた。「橘さん、今回の会議について、何かご質問やご意見はございますか」透子は彼の方を向いた。会議が始まる前にすでに資料には目を通していたため、該当ページを開き、自身の改善提案について淡々と述べ始めた。透子が話し始めると、会議室にいる全員の視線が、一斉に彼女に注がれた。その出で立ちはプロフェッショナルで、洗練されている。若いからといって、気後れするような様子は微塵もない。むしろ、その態度は堂々としており、話し方は明瞭で、落ち着きと気品に満ちている。人々は感嘆する中で、彼女の姿に、すでに大器の片鱗を見ていた。どうやら、業界の噂は少しも誇張ではなかったようだ。透子は、橘家の事業を継承する、瑞相グループの正当な後継者の一人なのだ。皆が様々な思惑を巡らせる中、その視線の中に一つ、ひときわ強く、焦がれるような、燃え盛る炎のごとき眼差しが、ただひたすらに透子を捉えて離さなかった。透子は、横を向かなかった。その視線の主が誰であるか、透子には痛いほど分かっていた。会議が始まる前から、肌を焼くような視線がずっと自分に向けられていたのだから。彼女は、蓮司がなぜここにいるのかなど、気にも留めなか
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