All Chapters of 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた: Chapter 901 - Chapter 910

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第901話

橘家が血眼になって捜索を続ける頃、もう一方では。京田市内の、とある路上。ごくありふれた服装の女が、時折、何かに怯えるように左右を窺いながら道を歩いている。サングラスとマスクで顔を隠し、髪もばっさりと短く切っていた。人混みに紛れてしまえば、誰も気にも留めないような出で立ち。彼女こそ、朝比奈美月本人だった。雅人も警察も、まさか彼女がまだ京田市内に潜伏し、他の県や国外へ逃亡していないとは、夢にも思わないだろう。まさに、灯台下暗し、だ。美月はあの夜、タクシーで県境近くの路上で降りた後、すぐさま引き返してきたのだ。橘家が総力を挙げて自分を探していることも、警察が指名手配していることも分かっている。その上で、彼女は一世一代の賭けに出た。納得できない。どうしても、許せない。なぜ、富も名誉も、すべてがあの女のものになるというの?同じ施設で育ったのに。透子は愚かで、頭も悪い。自分の方が、ずっと賢くて、ずっと優れているのに。それなのに、なぜ自分は、何一つ、あの女に敵わないの!そう思うと、美月の胸のうちで、嫉妬の炎が狂ったように燃え上がった。自分の未来は、もう完全に潰えた。待っているのは、冷たい鉄格子の中での暮らしだけ。だが、追いつめられた獣が最後に牙を剥くように、失うものが何もない人間ほど、怖いものはない。地獄に落ちるなら、道連れにしてやる。自分だけが苦しみ、透子が幸せに暮らすのを、指をくわえて見ているなんて、絶対に許さない。サングラスの奥で、その瞳は蛇のように冷たい憎悪の光を宿していた。彼女は固く拳を握りしめ、通りの向かいにある貴金属店を見据えると、そちらへ向かって歩き出した。逃亡した夜、彼女は先手を打って、高級ブランド品をすべて中古買取店で売り払っていた。しかし、金のアクセサリーだけは手元に残してある。ブランド品、特に限定品には、一つ一つに厄介なシリアルナンバーが刻まれている。市場に出回れば、橘家の奴らがすぐに嗅ぎつけてくるだろう。だが、金は違う。金はどこにでもあり、デザインに特許があるわけでもない。溶かしてしまえば、ただの塊だ。貴金属店に入ると、店員が近づいてきた。美月は用件を告げ、バッグから透かし彫りのブレスレットを一つ取り出した。そのブレスレットは非常に精巧な作りで、ルビーまで嵌め込ま
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第902話

「あの……橘、さん……ですか?」その声に、美月の動きが凍りついた。サングラスは外していたが、まだマスクはつけている。相手は確信が持てない様子で、もう一度問いかけた。「橘さんではございませんか?あの、橘家が最近見つけ出されたという、お嬢様の……」美月の呼吸が止まる。マスクの下で、その顔色が一瞬にして変わった。彼女は反射的にブレスレットをひったくると、脱兎のごとくその場を走り去ろうとした。まずい……!金を売りに来ただけで、ここまで変装しているのに、なぜ正体が……!一刻も早くここを離れなければ。橘家に情報が伝われば、もう逃げ場はない。美月が踵を返そうとしたのを見て、若い女が咄嗟にその腕を掴んだ。美月は声を低くし、歯の根をきしませながら言った。「人違いです。私は、あなたが言うような者ではありません」その声を聞き、女はわずかに眉をひそめた。声は、とてもよく似ているように聞こえる。そばにいた友人が言った。「ちょっと桔梗、本気で言ってるの?見てよあの格好。橘のお嬢様が、あんなみすぼらしい恰好するわけないじゃない」桔梗と呼ばれた女は、相手の服装を見て、訝しげに眉をひそめている。その隙に、美月はすでに店の出口まで早足で向かっていた。しかし、まさに店の外へ一歩踏み出そうとした、その瞬間、彼女の足が止まった。ふと、気づいたのだ。彼女たちは、自分を「橘さん」と呼んだ、と。つまり、彼女たちはまだ何も知らない。自分を、本物の橘家の令嬢だと信じている。このまま逃げるか、それとも――この絶体絶命の状況で、起死回生の一手を打つか。美月は数秒の逡巡の末に腹を決めると、ゆっくりと振り返った。もはや失うものなど何もない逃亡者の身だ。これまでだって、すべてを賭けてここまで来た。今更、何を恐れることがある。てっきり人違いだと思っていた桔梗は、相手がまた自分の方へ戻ってくるのを見て、目を丸くした。しかも、彼女はこう尋ねてきたのだ。「どちら様でしたかしら?以前、どこかでお会いしました?」その女性が慌てて口を開く。「申し訳ありません!突然、存じ上げているかのような馴れ馴れしい口ぶりで……」美月はそれを遮り、困ったように微笑んでみせた。「いえ……実は今、少し込み入った事情がありまして。兄と喧嘩して、家出してきたばかりなんです……兄に見つか
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第903話

その言葉に、桔梗は有頂天になった。橘家の令嬢と友達になれるなど、自分には分不相応だと感じていたからだ。相手は正真正銘の名家の令嬢で、上流社会の頂点に立つ雲の上の存在。それに比べて自分は、ただのホテル経営者の娘に過ぎない。桔梗は、少し恥ずかしそうに、そして恐縮したようにうつむいて言った。「あの時は、あなた様が大勢の方々に囲まれていらっしゃいましたから……私なんかが、お声がけできるような雰囲気ではとても……」あのような場に行けたのも、父が会場の主催者だったからだ。でなければ、そもそも足を踏み入れることすらできず、ましてや橘家の令嬢に話しかける勇気など、あるはずもなかった。美月は優しく微笑んで言った。「まあ、勇気を出してくれればよかったのに。実を言うと、あの子たちとは、私もただのお付き合いなのよ」桔梗は弾かれたように顔を上げ、その言葉に心を鷲掴みにされた。まさか、あの橘家の令嬢がこれほど親しみやすい方だったとは。しかも、こんな巡り合わせで、またお話ができるなんて。二人はまた少し言葉を交わし、美月は彼女に秘密を守ってほしいと頼んだ。まだ、家に連れ戻されたくないのだ、と。美月は悲しげにため息をついた。「うちの家柄、知ってるでしょ?兄が本気で探したら、私を見つけるなんて簡単なの。だから、こんな格好をして、髪も短く切るしかなかったのよ」桔梗は諭すように言った。「ご家族と喧嘩しても、長くは続きませんわ。お帰りになった方がよろしいかと。ご両親様も、お兄様も、きっとひどく心配なさっています」美月はふんと鼻を鳴らして言った。「ええ、もちろん帰るわ。でも、今じゃない。まだ腹の虫が収まらないから、もう少し心配させてやるの」桔梗はその言葉を聞き、それ以上は何も言わなかった。ちょうどその時、店員が呼びに行ったマネージャーが出てきた。美月がマネージャーと話しに行くと、桔梗はその傍らに立った。すると、桔梗の友人が小声で尋ねてきた。「ねえ桔梗、本当にあの人が橘さんなわけ?人違いじゃないの?」桔梗も小声で返した。「間違いないわよ。家族と喧嘩して、見つからないようにわざとあんな格好をしてるの。この前パーティで会ったんだから、絶対に間違いないわ」友人はそれを聞きながらも、安物の服を着た女を見て、その目にはまだ疑念の色が浮かんでいた。しか
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第904話

これはまたとない好機。桔梗は、この機会を逃さず、相手との関係を確かなものにしようと心に決めていた。マネージャーは銀行から現金を引き出すよう部下に指示すると、変装したままの美月を見て、探るように微笑みながら尋ねた。「お嬢様、この宝飾品を贈られた方はさぞかしお嬢様を大切に思っておられたのでしょうに、本当に手放してしまわれるのですか?」美月はふんと鼻を鳴らした。「私が持ち出したのは、当然、一番価値のないものよ。本当に良いものは、こんな所には持ってこないわ。それに、たかが宝石のついた金のブレスレットの一つや二つ、両親にねだればいくらでも買ってもらえるんだから」マネージャーは、彼女がもっともらしく嘘を並べ立てるのを聞いていた。店のVIP会員である桔梗が、心酔するような眼差しで相手を見つめているのを見て、彼は結局、何も言わなかった。本当にどこかの令嬢が、お忍びで庶民の生活を体験しているのかもしれない。自分はただ買い取るだけで、余計な詮索はよそう、と。やがて、現金が用意され、美月はスーツケースを手に店を出た。桔梗も一緒に出て、二人は言葉を交わしながら歩く。美月は、わざと自分の住まいについての話題を切り出した。「振り込みにしなかったのは、携帯の電源を切ってるから。口座に動きがあれば、兄たちにすぐ見つかっちゃうでしょ?はあ、便利すぎるのも考えものよね。ホテルに泊まるのも人に頼まないと、とっくに連れ戻されてるわ」それを聞いた桔梗は尋ねた。「では、今夜もそのホテルへ?」美月は首を振った。「ううん、別の場所に移ろうと思って。兄がもう、協力してくれた子を疑い始めてるみたいだから、その子に迷惑はかけられないの」桔梗は、これを天が与えた好機だと感じ、すかさず口を挟んだ。「もしよろしければ、ホテル・グランパシフィックへいらしてくださいませんか。私の権限で、ご家族に知られることなく、お部屋をご用意させますわ」美月は彼女を見つめた。桔梗は慌てて付け加える。「あ、どうか、誤解なさらないで!ただ、ずっとあなた様とお友達になりたいと思っておりましたので、ささやかながら、お力になりたいと……」美月はそれを聞き、心底から感動したように言った。「まあ、神様は私を見捨てなかったんだわ。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね、桔梗。本当にあ
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第905話

その打ち解けた態度と言葉遣いに、桔梗は目の前の人物が本物の橘家の令嬢だと確信し、彼女と友達になれたのだという喜びに打ち震えた。同時に、父のために十数億円の投資を取り付け、橘家という絶大な後ろ盾を得られるかもしれないという期待に、胸を躍らせていた。美月は続ける。「そうだ、今度、あなたを兄に紹介してあげる。彼氏、いないんでしょ?」その言葉に、桔梗は途端に恥じらいと興奮で顔を真っ赤に染め、ぶんぶんと首を横に振った。美月は悪戯っぽく微笑んだ。「兄にも相手がいなくて、両親が焦ってるの。あなたは綺麗で心も優しいから、きっと兄と話が合うと思うわ」桔梗は、自信なさげに小声で言った。「そ、そんな……私などが、橘社長にお相手していただけるはずもございませんわ」美月は、彼女の肩を軽く叩いて諭すように言った。「そんなに自分を卑下しちゃだめよ。幸せは、自分から掴みに行かなきゃ。私がチャンスを作ってあげるんだから、大切にしないと。他の名家の令嬢だって、あなたより優れているとは限らないわ。家柄がいいだけで、それは生まれが良かっただけのことよ。身分を取り払ったら、あなたには到底敵わない。だから、私はあなたの方がお似合いだと思うな」その言葉に、桔梗は完全に舞い上がり、これから訪れるであろう橘社長との出会いと交際という、夢のような未来に心を奪われていた。美月は彼女のうっとりとした表情を見て、片方の口角を静かに吊り上げた。これで彼女を完全に手懐けた。もう裏切られる心配はない。それどころか、忠実なしもべとして、自分のために走り回ってくれるだろう。実に、扱いやすい駒を手に入れたものだ。美月はまた言った。「そうだ、もし兄の動向が分かったら、こっそり教えてくれる?すぐに場所を移る準備をするから。そう簡単に見つかってたまるもんか」桔梗は力強く頷いた。「お任せくださいませ。注意しておきますわ。それに、ホテル・グランパシフィックは全国チェーンですから、いつでもお好きな場所へお移りいただけます」美月はその言葉に満足し、休みたいからと口実をつけて、目の前の愚かな駒を部屋から追い出した。相手はなおも甲斐甲斐しく世話を焼こうとし、何かあれば内線電話をと、言い残していく。すっかり「未来の義姉」気取りだ。ドアが閉まる。美月は侮蔑に満ちた表情を浮かべ、ふんと冷
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第906話

捕まることなど、もはやどうでもいい。透子だけが幸せになるなんて、絶対に許せない。透子を道連れに、地獄の底まで落ちてやる!そう心に決めると、美月は部屋の内線電話で桔梗を呼び出し、SIMカード入りの携帯電話を一台、用意するように命じた。ほどなくして、桔梗が自ら携帯電話を届けてきた。美月はそれを受け取ると電源を入れ、海外の闇サイトにアクセスする。前回は雅人にいとも簡単に裏口を破られ、チャット履歴まで盗まれた。だからこそ、今回はさらに慎重に行動した。依頼内容は直接書かず、暗号を用いる。連絡もサイトを介さず、サイトは送金のためだけに使用する。しばらくすると、二、三人の人間が彼女に接触してきた。しかし、彼女はすぐには承諾しなかった。あの斎藤剛のような、金の無駄になるだけの役立たずではないかと、警戒したのだ。彼女は応募者たちの過去の「実績」を執拗に問い質し、証拠となる写真の提出を求めた。そして、銃器を所持していることも条件とし、持たない者は即座に候補から外した。何しろ、今の透子は橘家の鉄壁の護衛に守られている。接近する機会は皆無に等しく、遠距離からの狙撃に頼るほかなかった。これが最後の賭けだ。万に一つも失敗は許されない。透子の息の根を、今度こそ完全に止めてやる。その頃、病院の病室では。橘家の両親は行動が早く、すでに人を遣わして、透子の子供の頃の品々を海外から空輸させていた。「透子、このうさぎのぬいぐるみを覚えている?お兄ちゃんがあなたに贈ってくれたものよ。とても気に入って、これを抱かないと眠れなかったじゃない」美佐子はベッドから二歩ほど離れた場所に立ち、身を乗り出すようにして語りかけた。「これは、私たちの家族写真。それから、あなたの小さい頃の写真もたくさん、全部取ってあるの。あなたに会いたくなったら、いつもこれを取り出して見ていたのよ。あなたの服も、使っていたお茶碗も、捨てられなくてね。あの時、海外へ行く時も、わざわざ箱に詰めて、一緒に持っていったの……」美佐子は切々と語り、また声を詰まらせて涙ぐんだ。「私たちは、一度だってあなたを探すのを諦めなかった。あなたを忘れたことなんて、一瞬もなかったのよ。海外へ行ったのは、あなたが見つからなくて、私が悲しみのあまり重度のうつ病を患ってしまったからなの。お父さんが
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第907話

しかし、その動きが傷口に鋭い痛みを走らせ、彼女はくぐもったうめき声と共に、再びベッドに沈み込んだ。「透子!」理恵は物音に気づいて慌てて振り返り、彼女を支えて寝かせた。祥平もその時、顔を向け、透子に言った。「母さんは医者に診せてくる。心配せず、君は休んでいるんだ」祥平が美佐子を連れて去っていく。透子は、その背中がドアの向こうに消えるまで、じっと見つめていた。理恵は振り返り、ベッドの上の親友に言った。「きっと大丈夫よ。おば様の様子は、分かり次第すぐに知らせてあげるから」透子はゆっくりと視線を戻し、ベッドサイドテーブルの上で、その目は一点に釘付けになった。そこには、ピンク色のヘアピンをつけた、白いうさぎのぬいぐるみが置かれていた。子供の頃の断片的な記憶が脳裏に浮かび、目の前のそれと重なる。透子の表情がわずかに緩み、その視線はまた、家族写真のフォトフレームへと移った。理恵はその動きに気づくと、透子が見やすいように、自らフォトフレームを手に取って彼女に向けた。彼女はもう、親友の心の内を理解していた。透子は、少しずつ家族を受け入れ始めている。でなければ、先ほどあれほど美佐子を心配するはずがない。「あなた、子供の頃とそっくりね。特に、この目と唇が」理恵も写真を見ながら言った。「それに、若い頃のおば様と輪郭が同じだわ。どうりで橘さんが、一目見ただけであなただって気づいたわけね」透子は写真に写る一家四人の顔を一人一人丁寧になぞり、最後に、四歳の少女の姿に視線を止めた。それは、幼い頃の自分。胸につけているネックレスは、まさしく美月に騙し取られた、あのネックレスだった。彼らが言った通り、自分はずっと愛されていた。彼らは、一度も自分を見捨てたりしなかったのだ……透子の目じりから、音もなく涙が伝う。彼女はただ、呆然と写真を見つめていた。理恵はその様子に、今はそっとしておくべきだと判断し、静かに、声をかけずにいた。彼女は手を伸ばし、そばにあった他のフォトフレームを手に取って見つめ、それから必死に唇を引き結んで、噴き出しそうになる笑いをこらえた。なぜなら、そこに写っていたのは雅人の子供の頃の姿だったからだ。十歳くらいだろうか、透子と一緒に写っており、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。へえ、あの仏頂面、昔からじゃ
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第908話

理恵はそう言いながら、怒りとも呆れともつかぬため息を漏らした。透子はそれを聞きながら、もはや美月という存在に対して、冷めた感情しか抱いていなかった。正義は必ず果たされる。彼女が一生逃げ切れるはずがないのだから。それよりも、透子は、理恵が先ほど口にした、美佐子の「持病」のことが気にかかっていた。……特に、自分が失踪した後、彼女が患ったという、重度のうつ病のことが。美佐子はまだ五十五歳のはずなのに、同い年である柚木の母と比べると、ずっと老けて見える。目じりには、消すことのできない細かな皺が、深く刻まれていた。透子は何かを尋ねたかったが、理恵も詳しいことは知らないだろうと思った。それに、今はまだ、どうしてもその話題を切り出すことができなかった。開きかけた唇を、彼女はまた固く結んだ。その時、病室のドアがノックされた。透子がそちらへ顔を向けると、そこにいたのは雅人だった。相手は、おそるおそる一歩だけ中へ入ると、その場で足を止め、静かに言った。「父さんが、さっき君が寝返りを打ったのを見て、傷に響いたんじゃないかと心配していた。医者を連れてきたから、診てもらってくれ」透子は微かに動きを止めた。美佐子が失神したというのに、祥平はまだ自分のことを気にかけていたのか、と。その心は、少しだけ揺さぶられた。理恵は傍らへ退き、医師が透子の全身を診察する。彼女は雅人のそばへ行き、小声で尋ねた。「朝比奈は見つかったの?」雅人は首を横に振り、低い声で答えた。「公共交通機関も、電子決済も、カード類も一切使っていない。ローラー作戦で探すしかない」理恵は眉をひそめて尋ねた。「じゃあ、どうやって生活してるわけ?一体どこへ逃げたっていうのよ」まさか、何も食べずに橋の下で寝ているとでもいうのか。逃げるためとはいえ、執念が過ぎる。雅人は言った。「あいつは、父さんと母さん、それから僕が買い与えた宝飾品を、すべて盗んでいった。それを換金して、現金で支払っているんだろう」理恵は尋ねた。「どれくらい盗んでいったの?」「二十点ほどだ。ほとんどが金製品で、他のオートクチュール品は、あの夜のうちに転売済みだ」理恵は言った。「それで足がつかなかったのね……」雅人は彼女が言わんとしていることを察し、遮るように答えた。「宝飾品のシリアルナンバー
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第909話

雅人の脳裏に、調査で明らかになった高校時代のあの事件が蘇る。あの時も、美月は透子を呼び出し、自らドアに鍵をかけて、透子を危うく……美月は、間違いなく故意にやったのだ。透子を陥れるためだけに。あんな女、子供の頃から性根が腐りきっている。大人になって、さらに悪辣になった。まさに、恩を仇で返すような人間だ。それなのに、透子は子供の頃から、あの子を親友だと信じていたなどと。雅人は怒りに身を震わせ、歯を食いしばって吐き捨てた。「……あいつを捕らえたら、八つ裂きにしてやる」理恵もそれに賛同した。美月をただ刑務所に入れるだけなんて、生ぬるすぎる。彼女が、ふと思いついたように言った。「ねえ、私、今さらだけど気づいちゃったことがあるの。これまでのことを全部つなげて考えてみたら、分かったんだけど。朝比奈は、子供の頃から透子に寄生して、その生き血を吸ってきたのよ」透子が手に入れたものすべて、友達も、身分も、養子縁組の機会も、何もかも……根こそぎ奪っていったんだ。そして、その後も、いい人のふりを続けていた。理恵はため息をついた。「はあ、透子も本当に可哀想。あまりに人が良くて、無害そうに見えるから、朝比奈みたいな悪魔に目をつけられちゃったのね」透子が少しはマシになったのは、大学に入ってからだろう。美月と、少し距離を置けるようになったからだ。それでも、あの女はわざわざ自分のところまでやって来て、「主権宣言」をし、透子から離れろと警告してきたのだ。理恵は今思い出しても、ため息が出る。もしあの時、自分の道徳心が高く、透子と美月の「友情」に「割り込む」のをためらっていたら。そうなれば、透子はまた孤立し、自分もかけがえのない親友を失うところだった。雅人は、病床の方を見つめながら言った。「妹はもともと、心優しくて、小動物が好きな、愛情深い子だったんだ」だが、誘拐されて施設に送られ、自分は捨てられたと思い込み、その上、あの毒婦に子供の頃からいじめられ、巧みに心を操られて……そのせいで、妹の性格は内向的で自信がなくなり、臆病になり、朝比奈にいいように利用されるようになったんだ。雅人は両手を固く握りしめ、その心は自責と罪悪感、そして耐え難い痛みで満ちていた。医師がすべての検査を終え、透子の傷口に薬を塗り直して包帯を巻き、それからようや
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第910話

雅人はそう言うと、その背中にどこか寂しさを漂わせながら、部屋を後にした。病室のドアが閉まると、透子はそこでようやく、強張っていた指をわずかに動かし、ゆっくりと手を持ち上げた。彼女は、美月に二十年間も騙し取られていた、かつて家族が遺してくれた唯一の思い出の品を、指の腹でそっと撫でた。今、ネックレスは再び自分の手に戻ってきた。失ったはずのそれが手元にあるという事実に、彼女はまだ夢現の心地で、胸に様々な思いが込み上げてくる。「透子、あの時は朝比奈が狡猾すぎたのよ。あなたは純粋で、信じやすかっただけ。あなたのせいじゃないわ、あいつが一方的に悪いんだから」理恵は、親友が上の空になっているのを見て、過去を思い出して悲しんでいるのだと思い、慰めるように言った。理恵はため息をついた。「あの時、あなたはまだ四歳だったのよ?悪巧みなんてできるわけないじゃない。あの朝比奈にまんまと手のひらの上で転がされて、信頼もお金も騙し取られて、その上ずっと寄生されて生き血を吸われてたなんて。誰だって、あんな状況じゃあいつには敵わないし、企みを見抜くことなんてできっこないわよ」美月のように、子供の頃から腹の底が真っ黒な子にとって、同い年の子を出し抜くなんて朝飯前だ。それに、透子はもともと家族に大切に守られて育ったのだから、人の性根が悪であるなどと、知る由もなかっただろう。美月に出会ったのが、彼女の不幸の始まりだった。寄生虫が影のように付きまとい、二十年間もずっと彼女に寄生していたのだ。透子は現実に引き戻され、理恵を見ると、力なく微笑んで言った。「慰めてくれてありがとう。でも、もう過ぎたこと。過去は……もう、受け入れたから」今の、精神的に成熟した視点から、過去の幼い自分を責めることはできない。なぜなら、当時の自分には美月の腹黒い企みを見抜くことなどできず、そうするしかなかったのだから。透子は言った。「ただ……巡り巡って二十年、これがまた自分の手元に戻ってくるとは、思わなかっただけ」理恵は言った。「もともとあなたの物なんだから、手元に戻ってくるのは運命よ。これで、あの陰湿な吸血鬼、朝比奈から完全に解放されたの。もう二度と、あいつに生き血を吸われることはないわ」透子はその言葉を聞き、少しだけ、意識が遠のくのを感じた。二十年。美月との
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