離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた のすべてのチャプター: チャプター 931 - チャプター 940

1115 チャプター

第931話

アシスタントが再び口を開く。「左の頬、少し痛むのではございませんか」言われて、雅人は舌先で左頬の内側を探る。確かに、わずかな痛みがある。「柚木社長が手を出されたのですが、それも理恵様をお救いするためでした」アシスタントの言葉に、雅人は最後の確認をするように問いかける。「……つまり僕は、理恵さんを……?」アシスタントは、重々しく頷いた。美月の思惑通りにはならず、同時に理恵を完全に傷つけることもなかった。その事実を飲み込み、雅人は内心で安堵のため息を漏らす。彼が着替えを続けていると、アシスタントが報告を続けた。「それに、理恵様がご自分から両家にご事情を説明してくださいました。例の動画は奥様方がご覧になり、会長と奥様は、理恵様の損害はすべて補償するとおっしゃっています」雅人はそれを黙って聞く。脳裏に、記憶が飛ぶ直前、理恵が自室へ入ってきた時の光景が蘇った。隣の部屋に泊まっていた彼女は、異変に気づいて様子を見に来てくれたのだ。そして、「他意はない」と、あれほど何度も繰り返していた。もし理恵がいなければ、自分はとっくに美月の罠に落ちていただろう。その結末を想像すると、吐き気にも似た強烈な嫌悪感がこみ上げてくる。「幸いでした。社長のお相手が理恵様で」アシスタントは静かに締めくくった。「もし、あの朝比奈美月という毒婦が相手でしたら……おそらくもう二度と、女性と口づけなどしたくなくなるでしょうから」その言葉が終わるや否や、背後から突き刺さるような殺気を感じ、アシスタントは慌てて口を噤んだ。──事実を述べたまでなのだが。アシスタントは心の中で思う。理恵は美しく心根も優しい。おまけに、透子の親友だ。正義感が強く、竹を割ったような性格で、家柄も申し分ない。自分の社長には、彼女こそがふさわしい。彼は本気でそう考えていた。雅人は身支度を終えると病院へ急ぎ、病室でまだ眠っている透子を見て、そっと足音を忍ばせた。ベッドのそばに寄り、しばらくその寝顔を見つめる。やがてモニターの数値が安定しているのを確認し、ようやく安心して踵を返した。だが雅人は知らない。彼が背を向けた直後、病床の透子が静かに目を開け、去っていく彼の背中をじっと見つめていたことを。その背筋がまっすぐに伸び、足取りがしっかりしているのを見て、透子は
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第932話

理恵は少し呆れたように言った。「本当に、あなたのせいじゃないってば。何でもかんでも自分のせいにする癖、やめなさいよ。それより、あなたの方こそ。昨夜の銃声、すごく怖かったでしょ?知り合いも誰もそばにいなかったのに」透子は答えた。「私は大丈夫。ボディガードとスティーブがすぐに駆けつけてくれたから」「でも、いきなり銃声なんて聞こえたら誰だって肝が冷えるわよ。私だって、怖いもの知らずな方だけど、さすがにあんな物騒なものを向けられたら足がすくむわ」ここは銃が身近な社会じゃない。一発で命が消し飛ぶ恐怖を、普通の人が感じないわけがないのだ。透子は理恵の手を握り返し、安心させるように微笑んだ。「本当に平気。昨夜は、悪夢も見なかったし」彼女は言葉を続ける。「たぶん、色々ありすぎたのね。何度も拉致されかけたし、事故で死にそうにもなった。銃声は初めてだったけど、特に何も……どうせ、行き着く先は一つだから」同じ死だ。これだけ何度も死線を彷徨えば、さすがに覚悟も据わる。美月は毎回、本気で自分の命を奪いにきたのだ。死線をくぐり抜けて生還することなど、もはや日常の延長線上に過ぎなかった。理恵が言った。「そんな結末にはならないわ。朝比奈は今度こそ完全に捕まったんだから、絶対に逃げられない」二人が中でそう話している頃、病室のドアの前では、雅人がドアノブから手を下ろしていた。彼は唇を固く引き結ぶ。妹が淡々と口にした言葉の数々が、彼の胸を罪悪感で鋭く抉っていた。美月が透子に加えた命懸けの危害。そのすべては、橘家を利用し、自分を隠れ蓑にして行われたことだった。自分は騙されていたとはいえ、その片棒を担いでいた事実に変わりはない。雅人が苦痛に満ちた罪悪感に沈んでいると、さほど遠くない廊下の先から、コツ、コツ、という杖の音と複数の足音が近づいてきた。顔を上げると、そこにいたのは新井のお爺さんだった。雅人は数歩進み出て一行を迎えると、挨拶を交わす。それから病室のドアをノックし、中へ入った。透子と理恵が振り返ると、新井のお爺さんが優しい声で言った。「透子、昨夜は大変だったと聞いてな。見舞いに来たんじゃよ」透子が微笑んで言った。「お爺様。ありがとうございます、もう大丈夫です」理恵はさっと立ち上がって席を譲り、そばへ寄って立とうとした時
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第933話

病室の外の廊下。理恵はわざと数歩先まで進んでから立ち止まり、掴んでいた雅人の袖をパッと放した。「さっきも言ったでしょ、これは事故よ。誰にも予想できなかったことよ。朝比奈はもう捕まったんだから、この話はこれでおしまい!」理恵は雅人に向き直る。けれど、その目をまっすぐに見ることはできない。努めて落ち着き払った口調の下で、隠しきれない気まずさが滲んでいた。「両家の親にも話は通してあるし、私は賠償なんて要らない。元はと言えば、悪いのは全部あの朝比奈なんだから」彼女は続ける。「それに、もう昔の時代じゃないんだから。キスされたくらいで、いちいち気にしないで。どうせ、本当に何かされたわけじゃないんだし」雅人は目の前の理恵を見つめる。彼女は持ち前の竹を割ったような性格で、自らすべてを解きほぐし、彼に一切の責任を感じさせまいとしている。雅人は、深く頭を下げた。「それでも、君には謝罪しなければならない。本当に、すまなかった」理恵は居心地悪そうに言った。「昨夜は、私が勝手にあなたの部屋に入ったのよ。あなたが出てきて私を探したわけじゃない。あの時、変だと思ったらすぐあなたに知らせるべきだった。私一人で乗り込もうとしたのが間違いだったの」それに、と理恵は思う。自分が「被害」に遭った元凶は、自分の母親なのだから。もし母が自分の部屋を雅人の隣に手配しなければ、ドアの閉まる音など聞こえなかったはずだ。聞こえなければ、雅人の部屋へ行くこともなく、その後のすべてが起こることもなかった。理恵は、目の前の長身の男を見上げて言った。「もういいの。この話は、これで終わり。これからは、誰もこのことを蒸し返さないこと」雅人が静かに頷くと、理恵は病室へ戻ろうとした。だが、数歩進んで、ぴたりと足を止める。何度かためらった末、彼女はやはり口を開いた。これを言っておかなければ、どうにも収まりがつかない。「昨夜の部屋割り、私があなたの隣だったのは、私の意志じゃない。母が勝手に決めたの。……兄と部屋を替えてもらおうと思ってた矢先に、朝比奈があなたの部屋に入る物音が聞こえちゃって。母は……たぶん、ずっと私とあなたをくっつけようとしてる。でも、私にその気はないし、あなたに誤解されたくないの。後で母にははっきり言うつもり。もう勝手な真似はしないでって。だか
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第934話

理恵が内心で毒づいている頃、向かいのベッドでは透子が心配そうに彼女を見つめていた。親友は部屋に入ってきてからずっと、心ここにあらずといった様子で一点を見つめている。しかも、何を考えているのか、その顔はほんのりと赤く染まり、まるで初恋に悩む少女のようだ。「理恵」透子が呼びかけると、理恵ははっとして我に返り、親友の方を向いた。ちょうどその時、病室のドアが静かに開き、雅人が入ってくる。理恵は視界の端にその長身を捉え、動揺を悟られまいと必死で早口に尋ねた。「お爺様、お茶でも淹れましょうか!?透子は、お水飲む?」返事を待たず、理恵はそそくさとウォーターサーバーへ向かい、カップを手に取る。そのあからさまに不自然な様子に、透子は思わず目を細めた。──理恵の様子が、明らかにおかしい。平然を装ってはいるが、普段の彼女とはまるで違う。しかし、そう思いながらも、透子はその理由にまでは思い至らない。病室は、表面上の穏やかさを保っていた。理恵が差し出した水を受け取り、透子は二口ほど喉を潤すと、意を決して雅人の方を向いた。けれど、言いたい言葉が喉の奥でつかえて出てこない。どう呼べばいいのだろう。「お兄さん」と呼ぶには、まだ慣れなくて抵抗がある。かといって「橘社長」では、あまりに他人行儀だ。以前ならそれが当たり前だったけれど、今はもう、関係が違うのだから。傍らで、雅人は妹が自分を見て何かを言いかけ、ためらった末に口を閉ざすのを見ていた。再び伏せられた彼女の視線を受け、雅人の方から静かに口を開く。「何か、僕に言いたいことがあるのか」透子は再び彼と視線を合わせ、わずかに唇を引き結んで躊躇った後、ようやく声を絞り出した。「美月は……」彼女がどんな罪に問われ、どんな罰を受けたのか。それを知りたかった。だが、透子がその名前を口にしただけで、雅人はすべてを察して答える。「朝比奈は、間接殺人、詐欺、殺人未遂など複数の罪状で起訴された。一生、刑務所から出ることはないだろう」その言葉に、透子はゆっくりと頷いた。一生を、塀の中で。美月も、相応の報いを受けたのだ。「……ありがとうございます」少しの間の後、透子はそう呟いた。その一言には、彼女を捕らえてくれたこと、自分を救ってくれたこと、そして今、自分が受けて
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第935話

理由の一つは、妹を傷つけたくないから。もう一つは、彼女をこれ以上怖がらせたくないからだ。雅人は静かに二歩下がり、ただ彼女を見つめる。その眼差しは、慈しむような優しさと温もりに満ちていた。「許してくれて、ありがとう……もう二度と、君を悲しませるようなことはしないと誓う」感動を押し殺した、絞り出すような声だった。透子は彼を見つめ返し、唇にかすかな笑みを浮かべる。雅人が、直接自分を傷つけたわけではない。殺し屋を雇ったのは美月だ。彼が美月を庇ったのは事実だが、それは彼女を実の妹だと信じ込まされていたから。それに、彼は当時、破格の賠償金と契約書を用意してくれた。彼の言う通り、彼自身に自分を害する意図はなかったのだと、透子は信じている。……病室で穏やかな時間が過ぎ、やがて新井のお爺さんが立ち上がって帰る支度を始めると、雅人が見送りに出た。人気のない廊下で、新井のお爺さんが吐き捨てるように言った。「本当に、あの朝比奈の小娘を刑務所で飼っておくだけか?あれほどの罪を犯したのだ、ただの死では生ぬるいというのに」雅人は静かに首を振る。「いえ。あれは妹に聞かせるための、いわば『建前』です」本当の結末は、あまりにも血腥い。己の凍てつくような非情さを、あの優しい妹に知られたくはなかった。その一言で、新井のお爺さんはすべてを察し、そして満足げに頷いた。橘家が始末するというのなら、自分が出る幕はない。あの悪女が決して穏やかな死に方などできないことは、必然的なことだ。その頃、とある廃墟の一室。もはや肉塊と成り果てた美月が、黒い袋に詰められてゴミのように運び込まれる。そこには、同じく半殺しの目に遭わされた勝民と、あの傭兵が転がされていた。二人の心はとうに恐怖と後悔で壊れていたが、楽に死ぬことさえ許されてはいない。ドアが開く音に、彼らは新たな苦痛の始まりを予感して反射的に身を震わせる。だが、次に目に映ったのは、床に投げ出された女の姿だった。それが誰かを認識した瞬間、二人の目は怒りと狂気に燃え上がり、獣のような雄叫びを上げてその体に殺到した。「このアマァッ!」「お前のせいで……お前のせいで俺はッ!」ドアが閉められ、中から女の絶叫と肉を打つ鈍い音が響き渡る。飢えた獣どもの共食い。これほど愉快な見世物はない。……第三京田
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第936話

たかが元妻一人のために、命を張るとはな。父も取締役会の連中も、これで奴の評価も地に落ちたことだろう。悠斗にとっては、これ以上ない好機だ。博明は、言い聞かせるように息子を見た。「このチャンス、絶対にものにしろ。取締役会の老いぼれどもと、お爺様を黙らせるだけの実績を上げてみせろ」悠斗は静かに頷く。「分かっております、父上」もちろん、この機会を最大限に利用するつもりだ。兄の蓮司には、すでに『妻を命がけで愛する夫』というレッテルを貼ってやった。その評判をさらに煽り、メディアに流す記事も手配済みだ。悠斗がむしろ気にしていたのは、別のことだった。人を遣って橘家の動向を隅々まで洗わせていたが、この一週間、雅人はほとんど第三京田病院に詰めており、オフィスにさえ顔を出していない。橘家の両親も同様だ。一体、誰が入院しているというのか。病棟は鉄壁の警備が敷かれ、情報を得ようとすればこちらの正体が露見するだけだ。一度、雅人を尾行させたが、相手のボディガードに察知され、命からがら逃げ帰ってきた。下手に動けば、こちらが疑われかねない。しかし、こうして遠巻きに眺めているだけでは、核心にはたどり着けない。分かっているのは、橘家の両親と雅人は健康そのもので、毎日病院に通っているという事実。そして同時に、橘家が最近、後継者候補として披露したはずの美月が、ぱったりと姿を消したこと。──状況から考えれば、答えは一つ。美月に何かがあった。そう結論付けるのは容易い。だが、どうしても腑に落ちない点が一つだけあった。柚木家の、特に理恵までもが、ほとんど毎日病院に通っていることだ。理恵と美月の仲が、それほど良かったとは到底思えない。彼女は蓮司の元妻である透子と親しい。ならば、美月は不倶戴天の敵のはずだ。まさか、家族の利益を前に、個人的な遺恨など水に流して親友にでもなったとでもいうのか?悠斗は考え込み、もう一度、病院の外に見張りを立てて様子を探ることを決めた。……プライベートホスピタル、病室にて。大輔が分厚い書類を届け、同時に他の案件について報告を始める。「社長、社長が如月さんを庇って入院された件が社内に広まり、二つの影響が出ております。一つは、社員たちが社長を情に厚い方だと好意的に受け止めている点。もう一つは、取
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第937話

これほど間が空いて、よりにもよってこのタイミングで。誰の仕業かなど、考えるまでもない。大輔は報告を続ける。「当時、関わった者は全員に口止めさせたはずなのですが、まさかバックアップが……現在、広報部を通じて旭日テクノロジー側へ、顧問弁護士からの警告書を送付済みです」蓮司は黙ってそれを聞きながら、その瞳を昏く沈ませ、ゴツリと音を立てそうなほど拳を握りしめた。──悠斗め。ようやく、猫の皮を剝がしおったか。自分の退院が近いと見て、追い詰められた駄犬のように見境がなくなったか。待ちきれずに、こんな下劣な噂を。くだらん。所詮は、ピエロの悪あがきに過ぎない。……夜の退勤時間は、ネットのアクセス数が爆発的に増えるゴールデンタイムだ。瞬く間に、上流階級の頂点に君臨する新井グループ社長のゴシップが、津波のようにネットを席巻した。大手ゴシップサイトもこぞってそれを転載し、トレンドワードは関連キーワードで埋め尽くされる。誰もがこの華麗なる名家のスキャンダルに夢中で、コメント欄は二つの派閥に分かれていた。【こんなイケメンで金持ちの御曹司が、一途で奥さんのために命まで張るとか……少女漫画から出てきたの?】【新井社長こそ京田市一の男!そこらの隠し子だらけのボンボンとは格が違う。人間の鑑!】【新井社長ほどの立場の人間が、女一人のために命を捨てるとかマジ。国を傾けた暗君と何が違うの?】【新井グループの先行きが不安になる。男が恋愛脳になるとロクなことないって典型じゃん】ネットユーザーたちがそんなレスバを繰り広げている最中、追い打ちをかけるように、新たな爆弾が投下された。とある芸能ゴシップアカウントが、『新井社長と妻はすでに離婚済み』という情報をリークしたのだ。ご丁寧に『業界関係者から裏取り済み、100%真実』という一文まで添えた。さらには、過去に新井社長が三流モデルと公然と不倫していたという話まで掘り起こされ、証拠とされる当時のスクリーンショットが次々と貼り付けられていく。手のひら返しとは、このことだ。わずか三十分で、状況は一変した。ネット上で築き上げられた新井社長の『一途な夫』という虚像は完全に崩壊し、彼は一転して衆人からの非難の的となった。その頃、新井グループ本社の広報部フロアは、煌々と明かりが灯っていた。社員
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第938話

何よりも、これは新井のお爺さんの意向なのだ。先代当主であるお爺さんは、息子を飛び越えて孫の蓮司に直接地位を譲り、自ら旧世代の重鎮たちを抑えつけて、彼の地盤を盤石なものにしてきた。そのお爺さんが今、私生児である悠斗を呼び戻し、本社の中枢に据えたのだ。誰もが、後継者交代の兆しをそこに見ていた。無理もない話だった。そもそも、蓮司がその地位にふさわしい働きをしていれば、悠斗ごときに付け入る隙などなかったはずなのだから。しかし、当の本人はスキャンダルに塗れ、今や『恋愛脳の愚かな経営者』という不名誉なレッテルが全国に知れ渡り、会社の株価にまで悪影響を及ぼしている。業界の誰もが固唾を飲んで、この兄弟戦争の行方を見守っていた。蓮司がまだ入院中で、一週間も出社していないことも周知の事実だ。その様子見と賭けは、即座に結果となって現れた。悠斗が主導する新プロジェクトには、即日、複数の企業から投資の申し出が殺到し、夜を徹して契約を結ぶ者まで現れる始末。誰もが、未来の『新井社長』にいち早く恩を売り、関係を確固たるものにしようと必死だった。取締役会のメンバーも、十分すぎる情報を得て、もはや心証は固まっていた。あとは、明日の会議でとどめを刺すだけだ。その頃、新井家の本邸では。執事が、静かに目を閉じているお爺さんへ、お伺いを立てた。「旦那様。今夜は、随分とお静かでいらっしゃいますが……今回は、お力添えはなさらないのですか?」会社が一夜にしてこれほどの嵐に見舞われたのだ。先代当主として、何もご存じないはずがない。新井のお爺さんは、目を閉じたまま静かに言った。「蓮司が陥っているこの苦境は、すべてあやつが自ら招いたことだ。この程度の火消しもできぬようでは、そもそもトップの器ではない」──そもそも、蓮司に失望したから、悠斗を呼び戻したのだ。新井家が必要としているのは、家を継ぎ、グループをさらなる高みへと導く後継者。ただそれだけだ。お爺さんは続けた。「今回の黒幕は割れたか?博明か、それとも悠斗本人か」執事が答える。「直接の証拠はございませんが、各部署の責任者に聞き込みましたところ、皆、口を揃えて『悠斗様は常に物腰柔らかく、温厚な方だ』と申しておりました」つまり、悠斗本人の画策ではない。その父、博明が、自分の息子を玉座に就けるために裏で糸
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第939話

アシスタントのスティーブが報告を続ける。「社長、以上が現在までの新井グループを巡る情勢です。新井のお爺様は静観を貫き、何の指示も出していない模様です。内部では明日、取締役会が開かれるとのこと。また、先ほど新井蓮司氏の父である博明氏より直接ご連絡がございました。社長との面会と、瑞相グループからの投資を取り付けたいとのご意向でしたが、一旦保留といたしました」雅人はそれを聞き、「ああ」とだけ短く応え、他には何も言わなかった。公私を分けるまでもなく、新井グループの内輪揉めなど、雅人にとってはどうでも良いことだ。蓮司が腹違いの弟と潰し合おうと、彼の知ったことではない。ビジネスとして見れば、瑞相グループはすでに新井グループとプロジェクト提携を結んでいる。新たな提携は、手続きに則って進めるのが筋であり、相手が誰かによって契約を結ぶわけではない。あの腹違いの弟に蓮司を失脚させるだけの実力があるのなら、その時に改めて検討すればいい。まだ玉座にも就いていない男に、自分と話をする資格はない。スティーブは続けた。「また、ネット上で透子様の身元を探ろうとする投稿や憶測は、すべて削除させ、情報を封鎖いたしました」雅人は冷ややかに言った。「よくやった。新井グループがどうなろうと知ったことではない。だが、僕の妹はまだ傷の癒えぬ身だ。ゴシップに塗れた俗世の目に晒してたまるか」橘家はまだ、正式な発表をしていない。両親と相談し、透子の体調が完全に回復してから、彼女の帰還を祝う盛大な宴を開くつもりだ。以前、美月が成りすましていた時も、実は宴の準備は水面下で進められていた。幸い、告知は外部には出しておらず、せいぜい美月をいくつかの晩餐会に顔見せで連れて行った程度。広く認知されてはいないため、わざわざ訂正する必要もなかった。透子と蓮司はすでに離婚している。今回の騒動は、橘家にとっても透子にとっても、完全に対岸の火事のはずだった。しかし、二十分後。スティーブからの緊急報告が、その空気を一変させる。「社長、新井グループの広報が世論の矛先を変えました。社長が透子様を救った件を意図的に矮小化し、焦点を過去の自身の不倫スキャンダルへと、完全に誘導しています。新井社長自らがタイムラインを更新し、『透子との離婚原因は、自身の朝比奈との不貞行為にある』と
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第940話

たとえ証拠が見つかったところで、蓮司が素直に認めるとは思えない。アシスタントが尋ねる。「社長。こちらから声明を発表なさいますか?」蓮司に、橘家の威光を利用させてなるものか。雅人は無表情のまましばし沈黙し、アシスタントが収集したネットの情報を映す画面に目を走らせる。数秒後、彼は冷ややかに口を開いた。「あれだけ巧妙に隠した上で匂わせているのだ。今、こちらが声明を出せば、それこそ『何かある』と世間に公言するようなものだろう」なかなか、狡猾な手口だ。直接は何も語らず、ただ写真という事実だけを突きつける。それだけで、すべてを物語るには十分だった。蓮司の狙いは、観測気球を上げること。決して明言はせず、たとえ問い詰めても糠に釘。──美月が橘家とは無関係であると、今、公に発表できないわけではない。だが、このタイミングでそれをやれば、新井グループと完全に事を構えることになる。確かに、蓮司のことは心底気に食わない。透子を傷つけたあの男を、憎んですらいる。しかし、両家の提携関係と、新井のお爺さんの面子も立てねばならない。唯一の嫡孫がどれほど期待外れであろうと、あの私生児と天秤にかければ、お爺さんが最終的にどちらの肩を持つかは火を見るより明らかだ。雅人は温度のない声で命じた。「世論の動向を常に監視しろ。新井が橘家の名を直接口にしない限り、こちらも気づかぬふりを続けろ。だが万が一、奴が橘の名を騙ったり、ましてや妹を矢面に立たせたりするようなことがあれば……その時は、僕への報告は不要だ。即刻、処理しろ」アシスタントは頷いて承知した。……今夜の新井グループは、硝煙なき戦場だった。二つの勢力がぶつかり合い、どちらが最後まで立っていられるかを、誰もが固唾を飲んで見守っている。当初、圧倒的に劣勢だった蓮司側だが、状況は二転三転した。まず、自ら不倫を認め、元妻との離婚を公表。同時に、不倫相手とされる女の写真をリークする。もしその相手が、どこの馬の骨とも知れない三流モデルであれば、大した火種にはならなかっただろう。しかし、写真が出回るや否や、業界関係者は息を呑んだ。──あれは、橘家の令嬢ではないか。まだ正式な披露はされていないが、彼らは皆、先日の晩餐会で橘会長の隣にいた、あの女の顔を覚えていた。時を同じくして、蓮司
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